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「覚醒する心体―こころの自然/からだの自然」濱野清志 (著)(新曜社 2008年11月)

→目次など

■気功を実践する臨床心理士が語る「覚醒」を通じて「どうにもならない」自分を主体的に生きる意味を探る。■

著者は京都文教大学教授で、臨床心理士であり、気功も実践されています。共著はありますが単独での本は2008年に出ているこの一冊だけのようです。本書の特徴は何よりも「気」にあります。著者にとって非常に実感をともなった体験として存在していながら、錯覚とおなじように<私>を超えては存在しない「気」について考えていくうちに「主観的身体」という表現が生まれたというのです。

しかし、内容を一言でまとめるのは大変むずかしく、いまだに全体像をつかめていません。「まえがき」から、ポイントをひろってみます。

「心理として扱っている心の領分の多くの部分は、自我の意識的な努力ではどうすることもできない、生まれもった身体の顔つきや体つきと同じように、もって生まれた自然としかいいようのない部分だ」

心理療法のもくろみは、その変わらない基盤としての心と体をはっきりと知ること、そして、そうすることで、現実を"自分のかけがえのない人生"として生きようとする<主体>を生み出すことにある。

第五章「主体の生成」の「崖から落ちる」には、私たちの人生はそのほとんどのできごとは、みずから企画したものではなく、偶然のできごとによって彩られているとあります。なのに、問題が生じるとようやく「人生のままならなさ」を自覚して、後悔したり、人のせいにしたりしがちだというのです。ところが、<私>という存在のもっとも本質の部分に横たわっているもの(本質そのもの)は「<私>のコントロールできないもの」であるといいます。こうして、自然として存在する人生を「わたしの人生」として受け入れる主体が生まれるというのです。

我が家には、猫がいます。見ていると、人と同じように手を使いたいのに使えなくてイライラしている様子がうかがえます。しかし、その前足は、猫として生きるために、人の手以上に便利な前足でもあります。私たち自身も、肉体の能力に限界を持つ点で猫たちと変わりません。おそらく肉体だけでなく心も含めてこのような内容を指しているのだろうと思われます。

話は続きます。"気"を通じた身体の諸感覚の活性化や、心と体の流動化の体験、さらに「自分」と周囲の「環境」との融合体験からすべてのものがつながりあって影響し合っている自分という体験を通じて、環境と融合する主体としての自分があるといいます。しかも、その自分は、「站?功(たんとうこう)」という型によって、大地にしっかり根を生やした樹木が立っているかのような感覚を得ることのできる自分です。

この話を読んで私が感じるのは、実は、野生の世界で生きるとき、人も動物もこのような感覚を持ちながら暮らしているのではないかということです。自分の思い通りにならない環境の中で、たくさんの生と死に囲まれて生きているが、そこに同じ厳しい環境を生きる者どおしの連帯感のようなものも感じている。それは『山暮らし始末記』に描かれた連帯感です。

著者は、このような体験を通じて、大宇宙や世界全体で起きていることから目をそらさずに見つめ、限界をもったうえでできることを大切にしていくことが、「自分が自分の人生に向き合う」ことであるといい、その第一歩は<私>の「主観的身体」の経験を真に信頼し、同時に、それと同一化しないということであるのだと記します。

親や兄弟を選ぶことはできず、生まれてくる国や時代も選ぶことはできないが、主体性を持って生きることはできる。しかもその根底にあるのは、身体の経験なのだと考えると、私たちは時代に流されることのない視点を持てそうです。

「はじめに」の終わりの部分に次のようにあります。

現代社会の最重要問題のひとつである「環境問題」は、私たちの暮らしをより広い地球環境のなかで眺め、いま目の前にある暮らしやすさよりも、地球の自然とバランスをとる暮らしを私たちが選択できるかどうかにかかっている。自然とのバランスをとる暮らしは、自然の逆らいがたい要求としっかりと向かい合うことになるので、あまり心地よいものばかりではない。しかし考えてみれば、もっと身近なところに「環境問題」はずっとあった。自分自身のこころの自然やからだの自然に私たちはどれほど気づかず、いかに気遣いもせずに生きてきたことか。

内容は、これだけにとどまらず、まとまりに欠けていたり、理解しにくいと感じる部分が多くあります。しかし、生物としての宿命を持って生まれてきた人類が、医療や電力の利用といった工夫によって宿命を覆そうとする無駄な努力に向かうのではなく、宿命を受け入れることで活路を見いだすために、重要な視点を提供してくれる本なのではないかと私は受け止めました。

内容の紹介


日本の伝統文化のなかでアイデンティティは「図」として浮かびあがる個体的なアイデンティティよりも、その個体の存在する背景としての「地」とのつながりにおいてみるアイデンティティのほうが、私たちにとって馴染み深いものである〔濱野・一九八五年〕。 柳田國男〔一九四五年〕が『先祖の話』で述べている、ご先祖になることを楽しみとしている老人のように、「死んでご先祖の魂と融合すること」というイメージが、いま生きている<私>の「<私>らしさ」を支えるものとなる。 「死んで先祖の魂とひとつになる」ということを真剣に受けとめる人は、今日、そう多くはいないだろう。 だが、柳田が述べる老人のばあい、それは単なる比喩表現ではなく、自分が住む土地や人びととの関わりのなかで、そこに濃密な空気として流れているリアリティとして経験されている。 - 34-35ページ

人間が好き―アマゾン先住民からの伝言』で森だけを子孫に残し、流れる川や、飛び立つ鳥のように死ぬだけでよいという死生観を知りました。 そのような暮らしでは、日々の生活が祖先たちの眠る大地の上で、祖先たちの残した森に包まれ、この森から食料などをいただいて日々の生活が営まれることになります。 そうであれば、死ぬことの意味は、この老人の感覚に近いのではないかと思われます。


触れることについて
  身体に触れることについての議論は重要なので、あらためてここに少し敷衍しておきたい。 カリフォルニアの総合大学院で身体をベースにした心理的援助のありかたを検討しているドン・ジョンソン Johnson, D.H.(1983, 1995) は、アレクサンダー・テクニックの創始者アレクサンダー Alexander, F.M.、センサリー・アウェアネスのギンドラー Gindler,E.、フェルデンクライス法のフェルデンクライス Feldenkrais, M. ら優れたボディワーカーたちの生き方を検討し、彼らがいかに外的な権威にとらわれることなく「それぞれの身体」という内的権威に従うことを選んできたかを描いている。
  ジョンソンらによると、彼らはみなそれぞれに抱えていた身体的な問題を、近代医学に頼らずに自分たちの手で自己治療していった人たちである。 その後、それぞれの体験をもとに、同じように悩む人々に治療教育的にかかわっていくのだが、そのとき、三者に共通して、手の使いかたを非常に重視しているところが印象的だ。 彼らが使う手は、けっして一定の方向性を与える手ではない。 身体に触れるには手で直接触れるしかないが、それは身体に外から力を加えて変えようとするものではなく、触れることによってその触れられた場所を基点として、クライエント自身の身体のうちから変化が生じる。 そういった触れかたを重視しているのである。
  また、フェルデンクライスは、自己治療の経験から他者の治療を始め、そのうち、他者の治療をするのではなく、それぞれが自分の自己治療ができるようになる指導に力点を置くようになる。 わが国でも、野口整体で知られる野口晴哉〔一九七七年〕もフェルデンクライスと同じように、自分が治療しているのでは人々がみずから自立的に生きないことを感じ、自分で自分を整える方法を考えていくようになる。 外的権威が治療するのではなく、それぞれの身体に備わる内的権威が自己治癒を展開するのである。
  さらに、世界的に指圧を広め、オリジナルな理論を展開した経路指圧の創始者・増永静人〔一九八三年〕も、判別性の感覚と原始感覚の区別を設けて、このあたりを説明しようとしている。 判別性の感覚は、私たちが手でものを触り区別する、それが何であって何でないかを明らかにする、感覚のはたらきである。 一般に指圧は、身体を外から触れ、判別性の感覚を頼りにその偏りを探り、コリをほぐすことと考えられよう。 それにたいし増永は、切診を重視し、触れて探るのではなく、接しつづけることで響き合う力を見つけようとした。 指圧によって生まれる自己治癒力は、外からそれと特定して引き出すようなものではなく、圧を加えてしばらく接しつづけるなかで、判別性の感覚が消えていき、そして同時に、生体に本来そなわった原始感覚が響き合いはじめ、生体の内側から生きようとする実感が生まれてくる、というのである。 この原始感覚への注目は、身体のもつ内的権威に着目した優れた実践と理論である。
  彼らにとって、クライエントとのコミュニケーションの一番の道具が手である。 手は、触れる相手がそこから自分の身体と上手に付き合うようになっていく、心理臨床家とクライエントの接点である。 そしてその接点から、触れられた本人のなかで何かが動きだし、その人なりのものが生まれてくるためには、触れかたに非常に繊細な感受性が求められる。 そこに、クライエント自身の内的権威を育てる可能性も存しているのだ。 - 101-103ページ

宇宙無限力の活用』、『自己暗示』、『催眠法の実際』、『脳の神話が崩れるとき 』など、人には暗示によって治癒力を高める能力があるようです。 これを、外からの働きかけで引き出せば、実際に「奇跡」のような治癒が生じると思われます。 私は、もしかすると、動物たちはそのような能力を元々身に付けているのではないかと考えるようになりました。



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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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