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「ジャングルの子―幻のファユ族と育った日々」ザビーネ キューグラー(著), 松永 美穂 (翻訳), 河野 桃子 (翻訳)(早川書房 2006年5月)

→目次など

■美しい著者が、復讐の応酬で絶滅寸前になっていた幻の民族をキリスト教者の愛が救うというストーリーを基調にしながら、ファユ族と育った日々こそ本物だったと語る変な本■

ドイツ人の両親の元、ネパールで生まれ、7歳のときにインドネシア西パプアのファユ族の土地で暮らすことになった真ん中っ子の著者。出だしはなかなか期待させる記述から始まります。ファユ族はサゴヤシのデンプンを主食にしながら、数か月単位で移動する狩猟生活を送る先住民です。

著者は、この時点でもう15年間も現代社会に暮らしながら完全にはなじむことができず、きちんと「生きている」という実感が持てないでただここに「いる」だけだと感じていました。次のように記されてもいます。

問題を整理してみると、わたしにとって二つの世界の違いはこの点にある。つまり、ジャングルでの生活は肉体的には辛いけれど、精神的にははるかに楽だということ。そして反対に西側世界での生活は、体にとっては楽だけれど、心にとってはずっと、ずっと難しいものだということ。(61ページ)

ところが、このような違いがどこから生まれているのかを考えることなく、キリスト教徒である両親から植えこまれた価値観を疑わないでいることが本書をつまらなくしていると私は感じました。

著者の父親と同じく、言語学者兼キリスト教の布教を任務として先住民の元に滞在しながら、先住民の世界に惚れこんで無神論者になった『ピダハン』の著者エベレットと違い、本書では戦いに明け暮れて絶滅寸前になった先住民に、許す心を教えるのが著者らの父親だというストーリーが展開されています。最後の戦争として記述された場面の主役になっているのは救世主然とした著者の父親です。文字の有用性や、医療やヘリのありがたみも強調されています。

そんなわけで、せっかく先住民と暮らしながら記述の中心は、ファユ族の暮らしやファユ族から学ぶべき価値観ではなく、あくまでも著者の生活や、著者たちから見て許せないファユ族のあり方(支族間で繰り返される報復戦争、夫に遠方から弓で射られる妊娠中の妻、食べてはいけない部分を食べたとして森に放置され死にかけていた足の悪い子ども、男がまだ12歳くらいにしかならない娘をさらう誘拐婚など)になっています。

多くの写真が収録されていますが、家族用のスナップショットから選んだようなものも多く、内容とは無関係な2004年時点の著者のカラー顔写真に1ページを費やしています。こうした、記述の内容と写真の選択から、キリスト教がいかにして野蛮な民族に平和を教え、救済するのかを宣伝する目的で著された本なのかなと考えてしまいました。内容的にも著者自身の体験ではなく、父親の体験に基づく記述かなと思われる部分が多く、単独で著した本ではないようです。

オーストラリアのアボリジニや、ファユ族と同じニューギニア島に住むパプアニューギニアの先住民たちが、戦いを繰り返しながらも、数百にものぼる数の別々の民族として固有の言語を持っていたという事実は、戦いが民族を絶滅させることの少なさを証明していると私は考えます。キリスト教を布教したい土地に、絶滅寸前の民族がおあつらえむきに住んでいるというのはできすぎでしょう。

ファユ族の子どもたちは同年齢の著者らよりもずっと敏捷に走りまわるとあり、いつも襲撃を恐れているせいで木にもたれているか、両親のそばにくっついていて遊びを知らない子どもがそんな敏捷な足腰を手にいれられるのかなと疑問を持ちました。妻を射た男の場面ではファユ族の弓の名手ぶりが強調されていますが、戦争の場面では、ほとんど弓が命中おらず、ここにも矛盾を感じました。こうした点から、記述をうのみにはできないと思いました。

しかし、貴重な情報も少なからずありました。初めはお互い弓を引きながら接近している状態から、長時間の示威行動を経て、十分距離をとってからようやく矢を射る戦争のあり方は、これが大量殺戮を目的とする戦争ではないことを示しています。野生のイノシシを野生のママ手なずける方法や、死者の遺体を骨になるまで家に安置していた伝統的な服喪の方法、3種類の矢じり(小動物用、大型獣用、戦争用)なども記憶しておきたい情報でした。

ただ、全体的にはミスリードの多い、あまりお勧めできない本でした。

内容の紹介


(ファユ族が届けたキングピジョンの卵を調理しようとフライパンに割り入れたところ小さなヒナになっていて気分が悪くなった後で)
その日を境に、ママはどの卵はまずは一度、気をつけて外で割ってみて、もう中にヒナがいるときは、ファユの人たちにあげることにした。ファユの人たちは喜んで食べてくれ、どうしてわたしたちがそれを人に渡してしまうのか理解できないようだった。けれどもふたたびキングピジョンの卵を「味わって」食べることができるようになるまでに、わたいたちはずいぶん長い時間を要した。 - 51ページ

卵も若鳥も食べることができるのに、孵化前のヒナ入りの卵は駄目というのは、考えてみれば不思議なことで、慣れれば平気なのかもしれませんね。


ちょっと前のこと、ご両親は小さな子どもだたあなたたちをジャングルの危険にさらして無責任だったのではないですか、と問われたことがある。わたしは唖然としてしまって、最初なんと答えていいのかまったくわからなかった。 - 60ページ

ジャングルよりも、文明社会のほうが、交通事故、誘拐、失業などの危険が多いのでないかと記されています。実際には、おぼれたり、落ちたりという危険のあるジャングルのほうが危ないのですが、神経をすり減らすのは文明社会のほうだと私は常々感じます。


わたしのママ・ドリスの運命は、十二歳のときにもう決まってしまった。当時ママは、かの有名な医者で宣教師のアルベルト・シュバイツァーの友人がおこなった講演会に出かけてゆき、彼のアフリカでの仕事について話を聞いた。そしてその講演のあいだに、いっぺんに悟ってしまったのだ。宣教活動と発展途上国の開発援助、これこそが、自分にとっての人生の目的でもあるということを。 - 63ページ

そうして世界システムに組み込むための悪行に善意が加担していくわけです。


ファユ族の人たちは現在もほとんど、何千年も昔と同じように暮らしている。鉄も、ほかの金属も知らないし、今でも弓と矢を持って狩りに出かけ、ヘビや鳥、ワニ、それにカエルを食べて栄養をとる。彼らの主要なたんぱく源はカプリコーン・リュッセル甲虫の幼虫、主食はサゴで、最近ではサツマイモも見られるようになってきた。一方で、豚はほとんど家族の一員とみなされている。豚がつぶされるのは、結婚式や女の子の初潮など、祝いごとのあるときだけだ。 - 73ページ

概ね狩猟採集ですが、豚とサツマイモを取りこんだ形の暮らしのようです。


(ファユ族が死ぬと)
「おれたちは死んだ者を自分たちの小屋で大切にする。死者の隣で眠り、飯を食い、共に生活するんだ。腐りはじめたら、中に残っている液体を死体から絞り出して、自分たちの体に塗りつける。それで腐敗が終わって骨だけになったら、頭がい骨を小屋の中につるす。小屋を移るときには、そいつも一緒に持っていくんだ」 - 86ページ

いろいろと考えさせられます。


学校がこれ以上教えるべきことなんて、いったい何があっただろう。その時わたしはすでに、ほかの子たちよりずっと上手によじ登ったり、矢を射たりすることができた。もちろん、ファユの友達は別にしての話だが。わたしはジャングルで生き延びる業を身につけていたし、どの生き物や植物が食べられて、どれが毒を持っているのかも知っていた。 - 104ページ

歴史も算数も勉強する必要はないし、ファユ族は二十を超える数は必要としていないだろうということが記されています。しかし、後のほうで著者の母親がファユ族のための学校を作るのです。大きなお世話です。


(著者らの住む家の前で他の支族との戦争が始まり、向かい合って立った男たちが独特の高音を上げ始めて)
ふたたび男たちの方に目を向けると、何人かが両足で大きく足踏みを始めたところだった。彼らはその場でぐるぐると回転し、ずっと同じ、一つの言葉を繰り返し叫んでいた。「ウファ、ウファ、ウファ……」戦争の叫びだ!やがてほかの男たちもその叫びの輪に加わった。彼らは向かい合った状態で矢を踏みつづけ、すでに矢を引いていた。だが、まだ射ることはなかった。それから彼らは、しっかりと決められた振り付けにしたがうようにして走りはじめた。両グループとも、お互いからだいたい百メートルほど離れたところまで行くと向きを変え、地面を踏み、そしてまた数メートルほどの距離のところまで走って戻ってくる。そこでも地面を踏むとまた向きを変え、ふたたび反対方向へと走っていく。彼らは疲れる様子もなく、これを何時間もくり返していた。 - 123ページ

この一種のトランス状態のあと、叫び声がして戦争が始まったとありますが、この部分の詳しい記述はありません。ケガ人は出たものの死者はでなかったとのことです。おそらくまだ向き合って立つ前と、接近して弓を引いているところ、そして行列ダンスの写真が掲載されています。


まだわたしたちが着いたばかりの頃、パパは一人のファユの女の人が、自分の胸から小さなディンゴに乳を与えているところを目撃した。パパは自分の目を疑った。 - 133ページ

『猫になった山猫』の表紙は、親を失った子豚に乳を与えるブラジル、グアジャ族です。


ファユ族の人々にとって弓と矢は、最も価値のあるものだった。狩りにも、自己防衛にも、復讐をするときにも必要なものだからだ。弓は体の大きさに合わせて作られる。男たちは、自分の身長よりも五十センチくらい長い弓を使うのだ。ある決まった木から作り、仕上げには竹から作った紐で弦を張る。矢の先端には三つのバリエーションがある。木でできたもの、竹でできたもの、それに骨から作られたものだ。木製のものは「ツェハイ」とよばれ、小動物や鳥をしとめるのに使われる。竹から作られたは幅広ものは「バガイ」といい、イノシシとダチョウ専用だ。幅を広く作ることで出血量を多くするこおができる。最後に「ファイ」とよばれる先端部は、人間を殺すための矢につけられている。これはカンガルーの骨から作られたものである。 - 140ページ

このダチョウはヒクイドリを指します。矢じりの写真が収録されています。


(ファユ族によるイノシシの飼いならし方法)
ファユ族の人たちはまだ生まれて日の浅いイノシシの子を連れてきて、三日間、一度も放すことなく抱いたままでいる。お腹のところをなでてやり、エサを与え、同じベッドで眠って、そして三日が経つとふたたび森の中へ返してやるのだ。するとそれ以降、このイノシシからボスとして認知されるようになる。 - 174ページ

このイノシシは、主人として記憶した以外の人間はかえって攻撃し、ひどくすると人が殺されることがあるそうです。


ちょうど家族で食事をしていたときのこと、突然川の向こう岸から叫び声とうめき声が聞こえてきた。パパが様子を見るために表に出てみると、ビヤが水の中に立って苦しそうにしているのが見えた。
  ナキレに理由を尋ねてみると、彼は、まるでそんなことは世界の常識だと言わんばかりの表情で答えた。「ビヤは赤ん坊を産むんだよ!」 - 174ページ

ファユ族の男にとって出産はタブーでこれ以上詳しいことは話せないと記されています。川の中での1人での出産はピダハンと共通です。


計算したところによると、ファユ族の女性は平均して六人の子どもを生きた状態で産むのだが、そのうち三人は六か月になる前に死んでしまい、もう一人は十歳までに死ぬ。たいていの場合、六人中二人にしか成人するチャンスが与えられていないのだ。 - 175ページ

結局、ファユ族のような状態が正常で、乳幼児死亡率が低い状態は異常なんですよね。子どもを親の悲しみを減らしたいという願いがかないそうになったとき、実現するのは、救いのない社会でした。


ファユ族の人たちは、ケーブルも、装置も、お金も必要としない。すぐれた「遠隔通信システム」を持っていた。ただ、大声で叫べばいいのだ。このシステムによって何キロにもわたってメッセージを送ることができた。ただ唯一の欠点はプライバシーが守られないところだった。このジャングル電話で何かを伝えれば、その内容はジャングル中にしれわたってしまう。 - 182ページ

吠えるような特別な声を使うそうです。ファユ族が川沿いに住んでいることが影響しているのでしょうか。プライバシーがないことは小さい社会では当然であり、基本的には良い影響を与えているように思います。


わたしの兄・オーリ
彼は当時八歳くらいだった。体が不自由で、移動するときには腕の力で全身を引きずるように動いていた。初めて彼を見たとき、わたしの心は揺り動かされた。とてもやせて弱々しく、足は曲がっていて骨と皮だけのようだった。両親は戦争の最中に目の前で殺され、この時には別の家族のもとでどうにか飢えをしのいでいたのだ。 - 198ページ

障害者を助けようとすれば、定住や大規模な社会が必要になる。果たしてそれは、動物でしかないヒトという種を幸せにするのか、それとも、悪意の影響力を強めさせるだけなのか。


ファユ族の言語の語彙はとても少なく、すべてジャングルの植物、動物、仕事などと関わるものばかりだ。たとえばごめんなさいやありがとう、こんにちはにあたる言葉は彼らの言語には見当たらない。その代わりこの全部の意味を持ち、さらにそのほかのことにも使われる言葉がある。それが「アサヘーゴ」だ。この一言でおはようからこんばんは、おやすみ、それにさようならまで著すことができるのだ。 - 217ページ

何でもかんでも名前を付けてしまい、愛だ、倫理だ、権利だと言い出すよりも、できるだけ少ない言葉で足りる世界のほうが幸せなのではないでしょうか。


(ドイツ人が怒ったときに大声を上げることに対して)
ジャングルで叫び声をあげるのは生命が危険にさらされる状況のなかだけで、誰かを殺そうとしているときか、殺される恐怖を感じたときだけだ。 - 219ページ

わしも気をつけねば。


(汚れた包帯を足にまいたまま走りまわっている衛生観念の低い著者に対して)
けれどもある日ママが真剣な表情で、これ以上同じことを続けていたら足の指が全部なくなってしまって、そうしたら残りの人生ずっと不自由なままなのよ、と言った。でも、それが何だというのだろう?ジャングルでわたしの姿を見るのは、自分たち自身も体のあちこちをなくしているファユ族以外にいないのに?むしろ反対に、いくつか傷を持っていたり、何本か足の指がなくなっているのは格好いいことだと思った。そうすれば少なくとも、手に汗握る物語が話せるようになる。たとえば、どうたってワニに指を食いちぎられたか、などと。 - 238ページ

ハゲやシラガも隠さなければいけない文明社会は住みにくいですね。


わたしたちがだいたい十歳くらいの頃、ファイサの思春期が始まって、胸がふくらみはじめた。ファユ族の女の子たちがこれくらいの年齢になると、妻として迎えられるものだということは知っていたが、ファイサに関しては想像もできなかった。 - 256ページ

以前の日本の初潮年齢が16歳ですから、ファユ族は早熟なのでしょうか。いずれにせよ、生物の本来の状態に近い生き方をすると、女性は大人になるのを待ちかねられていたという状況だったようです。


ファユ族の人たちは結婚に関して何の儀式もお祝いも行わなかった。娘が誰と結婚すべきかを父親が決め、選んだ男に娘を渡し、それで男が自分の家に娘を連れていく、というやり方が一つ。もう一つは、男がある女の子が思春期に入ったのを認め、「結婚」できるまでに成熟したと判断する場合だ。もし女の子が気に入れば、男はそのまま彼女を連れて帰る――あるいは、ファユ族自身の言い方に従えば、彼女を「盗む」。ファイサのときのように女の子が拒否すれば、男は暴力で妻にしてしまう。 - 259ページ

娘の父親が反対していると、父親は見張りを付けますが、男は隙を見計らって娘を連れ去り、しばらくジャングルに隠れるのだそうです。二人がジャングルから村に戻ったときには夫婦として扱われるようになります。


(ファユ族の友達とたまたま霊の話になったときのファユ族側発言の抜粋)
「絶対に、トーレがあの男の子を殺したんだ」
「トーレっていうのは悪い霊だ。トーレは夜になるとジャングルから出てきて、人間を食べるんだぞ」
「あいつが食べるのは体じゃないよ。そうじゃなくて、もっとひどい。あいつは体の中にある命を食べるんだ」
「善い霊って、なんだよ?善い霊なんていないよ!」 - 268ページ

この「霊」という言葉自体が、「悪霊」を意味するだけで、善い霊を指す言葉は別にあったのかもしれません。何しろ、ここではファユ族と違って私たちは善いものも信じているから打ち勝ってきたんだという話になっており、素直には信じられません。


(まだ歯の生えない、したがって名付けられていない赤ん坊が著者の手当てによっていったん回復したものの翌日亡くなったとき)
振り返ってみるに、この時のわたしはすでに西洋の「なんとかできる」という信条に影響されていたのだと思う。運命を変えるために何もできなかったことが、腹立たしかった。 - 303ページ

文明人は、できることが増えるたびに、変えてはいけない運命を変えているのではないでしょうか。


(亡くなった赤ちゃんの喪に服す期間の短さについてファユ族の証言)
「おれたちはこの子と一緒に狩りをしたことも、食べ物を分け合ったことも、話をしたこともない。この赤ん坊にはまだ歯もはえてなかったんだからな」 - 303ページ

幼くして亡くなる子どもが多い世界で、悲しみすぎない知恵なのかもしれません。


わたしはこれまでに何度も、この「幸せな未開人たち」を彼らの楽園にそっとしておいて、悪影響にさらされないようにした方がよかったのではないかと、問われてきた。
  そういうとき、わたしは逆にこう問い返す。人々が自己破壊的な伝統にとらわれているせいでお互いに殺し合っているような、子どもたちが毎日不安と恐怖の中で暮らしているような、そんな場所のいったいどこが楽園なんですか?あなたがおっしゃるこの楽園は、今にも地獄に変わろうとしている場所ではないでしょうか? - 322ページ

著者が言うような伝統で滅びることはないでしょうし、著者が言うような不安な子どもたちもいなかったでしょう。何よりいけないのは、こうして善意を信じ込んだ人々のせいで、地球全体が一つの世界になってどこにも救いがなくなっていることです。動物たちは、言葉を持たないおかげで、それぞれの場所でそれぞれに生きることができます。ヒトもそうしなければ、こういう善意に殺されてしまいます。


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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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