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「本物の自然療法―自然に生きる人間本来の病気観」大滝百合子(著)(フレグランスジャーナル社 2005年5月)

→目次など

■多くの代替療法もまた偽りであるという視点■

不自然な暮らし方の中で生活習慣病と呼ばれる疾患が増え、ただ苦痛を長引かせるだけのようにしか思えない医療が施される。そして、治らなかったという敗北が訪れる。代替療法と呼ばれるものも、その根本を辿れば権威主義である点や原因を分析する点で現代医学と変わるところがない。ならばどうすればよいのでしょうか。

著者は、交通事故の手術、網膜はく離やパニック障害、娘の重度のアトピー、海外でのさまざまな代替療法や健康食事法、自然食材やハーブとの出会いを通じて得た経験を本にしようとしました。なかなか筆が進まない中で、「読ませるために書くんじゃない。書きたいから書くんだ」という家人の言葉をきっかけに、当初の予定とはまったく違った内容の本ができ上がりました。

「はじめに」を読むと、人の本来の生き方である自然の中で暮らしていた大昔の人々ならどうするのかを想像することから「自然な生活」を取り戻すことで、病や死と向き合おうとしていることがわかります。たとえば、自然界は混とんとしており、そこで起こることはみな独特で、予期できないものであるから、自然人ははっきりとした原因結果を思い描いて行動することはないといいます。そして自然な暮らしをすることは、政治も経済も教育も含む生き方の中で、あらゆる病気が「治る」、人類史上もっとも古い病気に対する「治療法」であるというのです。

現代医学が病気や死を敵とし、代替医学が毒物の結果であるとするのに対し、自然人は病気や死は転換のための友達であると見ます。治療者は、病人を救うのではなく、花園で一緒に戯れるように病人と過ごします。植物から得るものは有効成分や薬効ではなく、大地の養分そのものです。また、本書でハーブと呼ばれている植物たちは、タンポポやオオバコなども含む幅広い概念であり、体に塗ったり、貼ったりするものも含みますが、食べることを本来の利用法とするすべての野生の植物なのです。

著者は、死んだらどうなるのと問う娘に、土に返って草花の栄養になるのだと答えたといいます。また、自然の中で暮らすうちに死が怖くなくなってきたともいいます(『山暮らし始末記』を思い出します)。このような著者の生命観に私は大いに共感します。著者の自然人の思想は、私にとっては「妖怪の住めない世界には私たちも住めない」という水木しげるさんや京極夏彦さんの精霊信仰と同根であると感じ、私も同感するところです。著者の主張には理想化のしすぎを感じる部分もありますが、病気との本来の向き合い方を思い出させてもらえた気がしています。

本書の120ページにスーザン・ウィード著『ヒーリングワイズ―女性のための賢い癒し術 』から抜粋された「医療の三つの伝統」と題する表が収録されています。科学的伝統、代替療法的伝統、自然人の伝統です。それぞれの違いがよくわかり参考になります。

内容の紹介


代替療法は自然のお面をかぶった人為的企て
  ガンや心臓病など深刻な病気に直面し、本気で治療を考えようとする人が増えるにつれて、現代医学に代わる「唯一の」医療としての代替療法の人気はさらに高まっていくでしょう。
  けれども、少数の例外を除いて、多くの代替療法は、自然の恵みを活用した医療ではあっても、結局は自然自体ではなく、人間が人為的に作りあげた病気の理論を持ち、専門家の知識に患者がすがることを基本として一般化された権力的医療体系であるという点で、現代医学と変わりません。 その医学団体は、本来の自然に私たちが近づくことによってその権力がないがしろにされないよう巧妙にカモフラージュされた理論と薬を作り上げている団体です。つまり、悪く言えば、代替療法は自然のお面をかぶった人為的企てなのです。 権力に操られた医療は決して人々を幸せにすることはありません。 現代医学の度重なる悪事のために復活してきた代替療法ですが、だからといって、代替療法が本当に人間を幸せにしてくれる最も自然な病気とのつきあい方ではないことに早く気づかなくてはなりません。 - 42ページ


自然人にとって病気はそもそも治るもの
  自然人は病気と闘うつもりはありませんでしたし、病気を治そうともしませんでした。そして、もちろん、病気の予防もしませんでした。(中略)
  つまり、結果的には、自然人は病気に対して何もしなかったのですが、実際彼らにはその必要性も感じられませんでした。 自然のなかで起こったことは自然が解決してくれる。 自分は自然に対して手は加えないし、それが自然のなかで生きる者にとって最善のこと。 何が起こっても、ひらすら大地のなすがままに――。 自然の心のおもむくままに、体のおもむくままに――それが大地の声を聞くということです。
  (一段落省略)
  もちろん、自然界には偶然がつきものですから、同じ病気にかかっても、治った人もいれば、治らずに死んでしまった人もいたことでしょう。 病気のために身体に障害が残った人もいたことでしょう。 いつどんな病気になるのかということがわからないように、その病気にかかった一人一人の人が最終的にどうなるのかは未知のことです。 自然人にとって病気とは客観的な事実ではなく、人間の数と同じくらい多様な主観的な現象であり、絶え間なく変化する自然と同様、予測不可能なものだったのですから。 けれども、森に入れば湧き水がみつかるように、川をたどれば海にたどりつくように、病気は、なっても快方に向かうものであったことに変わりはありません。 - 55-56ページ

森に目覚めてもらえてさえいれば万事うまくいくのだと考えるピグミーを思い出します。


自然の心からかけ離れている現代人
(前略)自然に暮らす人間本来の考え方(これから「自然の心」と呼びます)なくしては、つまり、本来の人間らしさの復活なくしては、どんな改革や改善をしても問題の根は深まるだけだろうと、私は新聞や雑誌を見ながら常々思っています。 思想の変化を伴わない政策的な改善は問題を一時的に解決するようにみえても、しばらくすると以前よりも悪化した形で傷口が大きくなっていることに私たちは気付くべきです。 - 75-76ページ

私は、この思想は、アニミズムだけが本来の宗教であるというときの水木しげるさんの思想と同じだと感じます。 そして、ここでは、「本来の人間らしさ」とされていますが、本来の命のあり方、つまり動物としてのあり方こそが、そのまま「人間らしさ」なのだと私は考えています。


食物と人間のあるべき関係
(1段落省略)
結局、人間が作るものは自然のものが持つ生命力と愛情には、かなわないのです。 そして、私たちには感じられなくても、自然人は肌でそれを敏感に感じとるのです。 自然人は体が最も喜ぶものをとり入れます。 つまり、頭で考えた理屈でなく、体から沸きあがる感情によって判断するのです。 それが人間としての食物との自然な接し方です。 - 89ページ

顔の本』によれば、縄文時代までは上下の歯がしっかり噛み合っていましたが、穀物や芋を主食として食べるようになって私たちの歯は上下の先端がずれるようになってしまいました。 『自然に聴く』には、胃を患い余命宣告された男性が野草を食べているうちに治癒した例が記載されています。 『偏食のすすめ』によれば人間は果菜食動物ですが、現在手に入る果物の多くは、糖分やカリウムを多く含みすぎていて健康を害してしまいます。 『自然食の効力』を読むと、ここに記されていることと共通する内容が多く含まれています。 こうして、食と健康に関する多くの本を読んでいくと見えてくるのは、人間が作る食べ物に本当に健康によい食べ物などないということなのです。


ハーブは生きるために必要な野生の植物
ここでは、ハーブとは、その葉や花、茎、根、木、実、木の皮などを食べたり、体に塗ったり、貼ったりできるすべての野生の植物のことをいいます。 野生の植物を指す言葉にはほかに野草、雑草、山菜がありますが、どれも特定の狭い意味合いしか持たないので、私が意図している自然界の植物全体を示すには適当ではありません。 ですから、私は、あえて、ここで「ハーブ」という言葉を使うことにしました。
(中略)
船や飛行機を持たない太古の人々は、当然外国のハーブなどを手に入れることはできませんでした。 そして、このことは、人間にとっては、いつの時代もハーブは身近な野生のものであるべきことを意味しています。 身近な野生の植物は気候や風土が合わない日本で栽培された海外原生の植物よりもはるかに大きな生命力と愛情を持ち合わせていますし、同じ日本の大地で生まれ育った植物のほうが、外国で育った植物よりもあなたに合っていて親しみ深く、大きな力を与えてくれます。 - 95-97ページ


ハーブは薬ではなく第一に食べ物
(最後の段落)繰り返しますが、ハーブは、健康であっても病気であっても第一に食物です。薬ではありません。 それでもどうしても薬効という言葉を使いたいなら、ハーブの薬効は養分です。 体を傷つけることなく、常に体にプラスに働いて病気からの快復を助ける養分です。 そして、その養分の源は大地からの生命力と愛情であり、結局それはハーブの食べ物としての力なのです。 病気にハーブが必要だとしたら、やはり食べ物として必要なのです。 それ以上のものをハーブにもとめること、それが不幸のはじまりです。 - 101ページ


食べて愛を感じる
(一段落省略)
実際、原始のころには物は豊富で、現代のような人的理由による飢饉と比べると、天災などによる飢えははるかに少なく、自然界の食物は、現代のスーパーマーケットに並ぶものよりもはるかに種類が豊富であったといわれています。 - 107ページ

『パンドラの種』や『日本人の食性』を読むと、これは事実であったことがわかります。 何より、私が生きた半世紀の間にも食は随分貧弱になってしまいました。 この先、今の価値観を持ち続けていれば、口に入る食べ物はわずかな数の原料をさまざまに加工したものだけになり、栄養価は低く、毒性の強いものばかりになっていくことは目に見えています。 思想の変化が必要とされているのです。


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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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