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「★赤紙と徴兵: 105歳最後の兵事係の証言から」吉田敏浩 (著)(彩流社 2011年8月)

→目次など

■村役場で兵事係を務め、敗戦後命令に背いて資料を保管していた105歳老人の体験を中心に、国が戦争を行うとは国民にとってどのような体験なのかを伝える■

書評を書くために著者について調べていたところ、既に同氏による著書(『ダイドー・ブガ、北ビルマ・カチン州の天地人原景』)を読んだことがあったと知りました。著者は、大学在学中探検部に所属し、1980年代にビルマ北部を長期取材したとあり、戦争や紛争と暮らしの現場を中心に活躍されている方のようです。

この本では、滋賀県東北部にあった旧東浅井郡大郷村役場で1930年(昭和5年)から1945年(昭和20年)まで兵事係をしていた西邑仁平さんが家族にも教えずに隠し持っていた兵事書類を中心に、いったいどのような仕組みで日本の男たちが戦場に送り込まれたのかが調べられており、戦場での体験や、銃後の様子なども加えられています。

徴兵検査から現役兵または徴兵となり、すでに始まっていた中国大陸での中国軍との戦闘のために出征、多くの戦死者が出るまでの経緯を、日記や資料を通じて追う事で、いままで小説やドラマを通じて知った戦争とは異なり、日常生活を突然打ち切られて余りにもあわただしく戦地に送られ、命を落としていった事実が現実のものとして感じられるようになりました。

また、この本を読むまで私が知らなかったことの一つに現役兵と徴兵があるということがありました。私は、兵士として戦場に送られるのは、赤紙(召集令状)によって徴集された人々だけだと思い込んでいました。そうではなく、まず徴兵検査によって適格とされるとほどなく現役兵となり、戦時であれば、戦地に送られる日はあっという間に訪れるのです。

本書に記載された一人の方が戦場に送られるまでの推移を時間を追ってみてみましょう。

動員令の下令から赤紙交付まで
1937年8月24日「動第四号」(全国で約10万人を召集)が天皇に上奏され勅裁を受ける。
・同日午後6時30分動員令が下令される。
・ただちに金沢の第九師団司令部、敦賀連隊区司令部、虎姫警察署へと電報で伝達される。
・警察署に用意されていた赤紙が村役場に届けられ、兵事係等の担当者から本人または家族に交付する。このときは8月25日午前九時頃、動員令の下令から14時間程で交付されている。

出征から戦場へ
8月26日 午前中に亡き母親の実家に出征挨拶。夜送別会。
8月27日 出征準備。
8月28日 午前二時起床、午前5時38分虎姫駅発、10時敦賀入隊。
9月13日 家族と会える最後の面会日。
9月16日 敦賀発大阪着。米原駅にて家族と面会。
9月20日 午後五時輸送船で出港。
9月22日 釜山港到着。
9月29日夜 北京郊外 豊台に到着。
・河北省での攻撃作戦の増援部隊として参戦。

手際のよさ、有無を言わせぬあわただしさを感じます。軍隊、警察、市町村が一体となって活動していたこともわかります。戦地では、衛生兵や通信兵も必要とされることから、人数を合わせるだけでなく適性も含めて人員の選別が行われていました。このあわただしさのために、赤紙の交付は夜を徹して行わなければならないこともありました。

別に昭和17年に徴兵検査を受けて現役兵として出征することになった方のケースも記載されています。
6月24日 徴兵検査を受け甲種合格。
11月6日 現役兵証書交付。
12月9日 大郷村を出発。

12月10日 敦賀連隊本部に入営
10日間の基礎訓練を受け第120連隊に配属。
12月20日 出陣式。
12月28日頃 南京到着。
昭和18年1月から3月まで本格的な訓練を受ける。

この頃になると、現役兵はほとんど訓練らしく訓練もなく戦地に送られ、戦地で訓練を受けています。

こうして人々を日常生活から戦場という非日常へと送った召集システムですが、招集猶予制度も極秘のうちに定められていました。軍需生産のために余人を以て代え難い重要な役割を果たす者の召集を猶予するという名目でした。ただし、対象者となる条件を見ていくと、コネさえあれば対象者になることができそうな内容になっています。これを含め、召集の仕組みは秘密にされており、国民からすれば知るよしもありませんでした。

大本営発表に関する兵士の証言もあります。戦地で内地から届いた新聞を見て、びっくりしたといいながら、国民の士気を保つにはこうするしかないのだという結論に落ち着いたとあります。福島原発事故の報道でも同じですが、「本当のことを言えない」という状況が確実にあるのだという前提で考える必要があると感じます。

本書には、1932年3月28日に自決した空閑少佐の死を美化することが、捕虜となるくらいなら死ねという戦陣訓につながり、おびただしい死のかたちをうみ、民間人の集団自決を引き起こす土壌になったという経緯も記されています。

戦争に多数の国民を送り出すには、こういった強圧的で統制のとれた国家や、反論を許さない空気を作り出すマスメディアを必要とするのだということを思い知ります。小説やドラマを通じて戦争を知ることよりも、このような実際の資料や証言を通じて戦争中の人々の様子を知ることでこそ、現実のものとしての戦争を認識しやすくなるのではないでしょうか。

3人の息子を戦争で奪われた父親の姿、琵琶湖畔と同じ水郷の地で中国の農民が丹精込めて作って作物を奪う経験をした兵士、南京市で市民の命を奪った兵士の話を記す著者の意図は別のところにあったかもしれません。しかし、私にとってはこれまでにない現実味を帯びて戦争の事実を知ることのできる本でした。

今の日本でも、オリンピックの開催、観光客誘致の強化、原発の維持など、国家による多くの決定はこのときの戦争と同じく、国民の預かり知らぬところで決められ、マスコミによって歓迎ムードや、これが必要なのだという物語が作りあげられています。こうした時代に生きることの怖さを再認識させられます。

内容の紹介


「南京大虐殺はありました」より
  河瀬さんの記録からは、河瀬さんらの部隊は十二月十六日に、南京城外の揚子江河畔の埠頭がある下関に上陸したことがわかる。「同夜、クリーク畔にて捕虜の銃殺凡そ五千。宛ら生地獄」とあるのは、南京を占領した日本軍が大勢の中国軍捕虜を虐殺したことを指している。河瀬さんが記したケースだけでも、およそ五〇〇〇人の捕虜が殺されたと推測される。
  「南京大虐殺はありました。昭和一二年の。南京大虐殺というのは、日本の兵隊が……私はようしなかったんですが……、中国人を、年寄りも、若い人も、子どもも、女の人も、日本の兵隊が殺したんです。……私はそういうことはしなかった。私は……、兵隊どうしは、これはもう殺すか殺されるかですから、殺さなかったら殺されるんですから。中国兵を何人殺したかははっきり覚えていませんが、戦闘中に銃剣で刺したこともありましたけれど、一般の中国人には私は絶対に手をつけなんだ」と、河瀬さんは重い口ぶりで語った。 - 100ページ

東アジアの国々を対立させておくことで利益を得ている人々が、南京大虐殺を利用しているのではないかと私は見ています。


「戦地からの手紙」より
「兄が出征してから、家では兄のために陰膳を据えていました。ご飯のときに、膳に写真を置いて、その日その日のおつゆ、大根など野菜の煮物、つけものなどのおかずを同じように乗せて。いつも家族が一緒に食べているという気持ちでいました。厳しい戦地に行っているので、ひもじい目にあわんように、元気でいるように、無事に帰ってきますようにという願いをこめていたんです。続けるうちに、写真がだんだん湯気でふやけて変色してゆきました。 - 290ページ

久しぶりに「陰膳」という言葉に接しました。普段から家族別々に食事することも多い、現在の生活との違いもまた感じます。



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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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