This is a Japanese translation of "The Nightshade" by Anna Kingsford.

以下は "The Nightshade" by Anna Kingsford の全訳です。


VII. 犬酸漿

著: アンナ・キングスフォード
訳: The Creative CAT

「されど、畢竟沈黙より貴きものなし。」――カリュドンのアタランタ(*1)

第一章

先日さる方から戴いた贈り物に、深紅のバラと紫のイヌホオズキを一つの花束として結んであった。

バラとイヌホオズキ!

この組み合わせは一編の詩の種たりうる!

誰が見てもバラは愛の表象であり、イヌホオズキは静寂を象徴するからだ。

私は小さな花瓶に水を張り花束を生けた。夜、床に入ると、頭の中一杯にそこはかとない韻文や、巣立ち前の着想が満ちあふれた。それらのテーマはやはり、風変わりな花束の香りにあった。しかしながら、詩の女神に眠りが打ち勝ち、柔和な闇の神が優しい呪文で私を捕え、丹念に織り上げたソネットは夢の中に溶解していった。

恐らくは眠りの幻想なのだろう、私は深く穏やかな紫の光の中に立っていた。その光は暗く、荘重で、陰鬱で――低い短調の和音を思わせた。何かオルガン即興曲の最後の音が名演奏家の指先で死にゆく時、誰もいない大聖堂の翳った通路を転げ落ち、憂鬱な夜の空気の中にまろび出、星の世界へと浮かび上がっていくような。

目の前に精霊が浮かんでいた――濃い紫色の厚手のローブを纏った亡霊だ。しかし双眸は生き生きと火のように燃え、私はそれらに目をやることができなかった。奇妙に反発するような恐怖と困惑とを覚えて、私の心臓は胸の内で縮みあがった。その時、私は精霊の恐ろしい視線が私の上に留まっているのを感じ、オルガンにも負けない朗々たる低声が、激しく哀切に、この上なく厳粛に、私の耳を圧したのだ――

汝、地上の娘よ、吾は紫の犬酸漿イヌホオズキ、即ち南国のアトロパ・ベラドンナの精なり――そが暗き杯は嗅ぐ者に辛苦を、そが黒き実は味わう者に死を与う。また、マリアの社あるいは婚礼に飾る花輪を作らんと森に遊ぶ乙女子らも我が毒性の果実を忌むが故、医師と薬師が我が内に肉体の苦悶を和らげる精妙なる香油を見いだすが故、病める者に安らぎを、眠られぬ者に忘却を与え、哀れなる者に永久の憩いを与うるが故、我が色の陰気で香りの甘からず、鎮め宥め殺し得るが故、数々の地上の息子たちは吾を静寂の徴とせり。汝の眉根には陰がある。我が言葉は汝にとりて奇矯にして苦かろう。だが我が言葉を聞くがよい。なんとなれば、かつて私は地上に住み、沈黙の裡に考究し苦悩したる者と共に在りしがため。その男の名は日めくりに記された地上の英雄の内には見いだせぬ。その名を記録するのは天のみである!

昔、ピエモンテ州のとある大きな町から遠からぬ所に、見窄らしい小屋があった。私が物心ついた時、借り主は貧しい病弱な女性と一人息子だった。九歳か十歳くらいだったろうか。この母子は大変貧しく、乏しい活計は母親が町人のために針仕事をし、あるいは乾燥させた薬草類を商って得るのがほとんどだった。小屋自体について言うと、傾き、倒れそうな襤褸家で、半ば廃屋といってよく、外壁一面に蔓草や雑草が蔓延っていた。私はその一員だったのだ。私が生えていたのは、貧しい女性が寝る小部屋にある一つきりの窓のすぐ下だった――その陋屋には僅か二部屋しかなかった――私は這い登り芽を出し周囲の灌木をかいくぐり、ボロボロの石壁にかじりついて、窓枠を越え室内が見えるようになるまで弛まず背を伸ばし続けた。これを完遂したのは夏のことで、今でも覚えているが、なんという焼けんばかりの猛暑だったことか! 容赦のないイタリアの太陽の下、あらゆるものが渇き、焙焼されるかのようだった。大空全体がまさに燃え盛るトパーズだった――黄色く、目に痛い程の。細い川の流れは干上がり、空の果てから果てまで見渡しても、そよとの風も吹かなかった。

それ故、初めて窓枠に顔を覗かせてから程ないある日、その貧しい女性がひどくふらつきながら、青白い顔に常ならぬ病弱な様子を浮かべ部屋に入ってくるのを見たからといって殊更驚きはしなかった。彼女は隅のベッドにくたくたと倒れ込み、荒い息をしていた。町に行って最後の針仕事を仕上げて来たところなのだ。ベッド脇の木のテーブルの上には町の人が手間賃としてくれたお金があった。つらい思いをして稼いだ硬貨、その数のなんと僅かな! 倒れ込んだ彼女は細く萎びた両手を頭に載せ、私には彼女が何かをぶつぶつ呟いているのが聞こえた。何を言っているのか判らなかったが、切れ切れの言葉の間にはこらえきれない啜り泣きが聞こえた。だが、やがて――彼女が幾分静まると――勢い良くドアを叩く音がし、男の子が入ってきた。小さな書物を手に、目を喜びに輝かせて。

「見て、母さん!」大はしゃぎで本を掲げて彼は叫んだ「ドイツの大教授が書いた『化学論考集』だよ! リッテル先生ヘル・リッテルが買ってくれたんだ! いい先生だよね? いまそこに来ていて、中に入って母さんの顔を見てもいいかって訊いてるよ!」

彼女は微笑み――なんという哀れな幽霊じみた微笑だったことか!――弱々しい声で答えた「入っていただいて、ティスタ。」 だが、こんな切れ切れの声でも先生ヘルは聞き取れたらしく、この言葉とともにドアがわずかに広く開いて、一人の老人が現れた。禿頭で、白い顎髭を伸ばし、杖を突いていた。高齢のため腰が曲がり、額にも頬にも深い皺が縦横に刻まれていた――思索と悲嘆という名の馬鍬が刻み込んだのだ。老人は頻繁にこの小屋に足を運んでいたので、これ迄も屢々彼の姿を見てきたが、これ程近くから見たことはなく、傷んだ古外套がかくも見窄らしいことにも気づいていなかった。部屋に入りながら、老人はイタリア語とドイツ語が混ざった言葉で慇懃な挨拶を述べ、バッティスタ少年に向かって頷いた。席を外せという合図だ。すぐに少年は大人しく従い、ご褒美を抱いて背中でドアを静かに閉めた。

「リッテル先生、」枕の上に起き上がり、両手で老人の手を握りながら女性が言った。「うちのティスタにも、私にも、本当に良くしていただいて。良くしていただき過ぎですよ、どうしてこんなにしてくださるのですか?」

彼は微笑んだ、何も言わなくていい、とばかりに。だが彼女は続けた――

「ねえ、先生は本当に良い方過ぎて。毎日何かを持ってきて下さる――葡萄酒や果物や美味しいお料理や。ティスタなんて貴方におんぶにだっこで! あの子が知ってることは全部貴方が教えてくださったのですもの。お礼のしようもありません。」

「ああ、フラウ・ローラ、誰がこういうことに二の足を踏むというのです。ちっ! とにかく貴女は今夜具合が悪そうだし疲れ過ぎとお見受けする。また町に行ってきたのですな?」

「はい。」

「そうだと思いましたぞ。今はここでゆっくり休まねばならんのです。じきに涼しくなりましょう。ほら、少しばかり葡萄と桃を持ってきました。身体に良いからお上がりなさい。」

「おぉ、リッテル先生!」

「これこれ、『おぉ、リッテル先生!』などと咎めるような声を上げるものではありませんぞ。実際、この果物は只で手に入ったのですからな。今日アンデレア・ブルーノちゃんに貰ったのですよ。」

「果物売りの所の子供ですか? はい、はい、多分。ですが、私にくれたのではないじゃありませんか! ご自身の善行を隠そうとなさっても駄目ですよ、リッテル先生! うちのティスタが教えてくれましたよ、先月アンドレアの妹が足を捻挫した時に貴方がどれ程親切だったか、どう包帯をしてあげたか、毎日父親とアンドレアが果物を売りに出かけている間、本を読み聞かせてあげているかを。そうでないとあの女の子はひとりぼっちですものね。可哀想な不具のアントーニアとカッテリーナ・ピックのことだって皆知って――逃げないで、その話はもう止しますから! でも、私が知っていることを伝えないではいられなくて。貴方は本当に良い方ですね、リッテル先生!」

彼は上げかけていた腰を再び降ろして、彼女の床の側に椅子を寄せた。そうする内に二人は目と目が合い、しばし彼は真面目な様子で彼女の目を見つめた。

「ローラ、泣いていたのか。何があったのかね?」

彼女は固い枕の上でそわそわと身じろぎし、目を落とした。窪んだ頬から額にかけて、じわりと微かな朱が射した。くすんだ皮膚の下に儚い赤みが走ると、美人と呼べるほど綺麗になった。彼女は若かった。確かにどう見ても三十路にはなっていない。だが彼女はとても貧しく惨めであって、貧困と惨めさほど急速に女の血を啜り、美を奪っていくものはないのだ。間違いなく。

「リッテル先生、」少し間を置いてこう言った。「それを申し上げます。ご助言をいただけるかもしれませんし。どうしたらいいのか全然わからなくて。貴方は、うちのティスタがどんなにか、どんなにか薬剤師になりたがっているかをご存知ですから、その事は何も言わなくていいでしょう。ええ、あの子は手に職をつけないといけないんです。お判りですよね、私がいなくても生きていけるように、何かを勉強しないと。リッテル先生、その日は――もうそんなに――そんなに先のことではないと思っています。」

老人がそれを否定しようとしなかったことに、私は再度気づかされた。じっと彼女のうなだれた顔を見つめ、耳を傾けるだけだった。

「朝から晩まで働きづめで、」低い声で早口に続けた。「うちの子がなんとか町の薬種商のところに弟子入りできるだけのお金を貯めようとしているんです。あの子も働いています、可哀想に。ですがお金なんてちっとも――一銭も――貯まりやしません。生活するだけでもかつかつで。ねえ、そうでしょう、家賃だってあるし。これで私自身の身の上を話す段になりましたね。若い娘だった時、十歳上の姉が一人いました。私達は孤児で、老伯母に面倒を見てもらっていました。私は結婚しました――伯母の願いに逆らい、姉の戒めをものともせず――貧しい即興詩人と。もちろん、それまでも私達は、ああ、姉と私のことですね、十分貧乏だったのですが、物乞いとまではいきませんでした。ところが私の夫ときたらそれ以下で。ええ、姉は凄く怒りましたよ、怖くなるほど怒りました。でも私は若くて、元気で、恋に落ちていましたから、そんなの大して気にならなかったんです。夫は旅から旅へと各地を巡って自作の物語を語り、詩を歌いました。私は夫と旅路を共にし、じきに姉を見かけなくなりました。そして遂にローマにやって来たのです。そこでティスタが生まれるとすぐに、行商人から故郷の知らせを聞きました。私が住んでいた村を通ったんですね。伯母は亡くなり、姉は結婚したといいます――相手はお金持ちの宿屋の主人で、私の階級が落ちた分、姉の階級が上がったわけです。それで、夫はある晩、広場で起きたいざこざで大けがをしました。夫が物語を語っていると、誰かが聴衆の面前で夫を侮辱したんです。夫は頭に血が上ってその男を殴り、喧嘩になって、その夜うちに運び込まれたときは半死半生でした。長くは生きませんでしたよ。激しく倒されたんだと思います、頭の後ろが割れていましたから、そこから脳炎を起こしたんです。できるだけのことはしたんですが、なにしろお金がなくて、子供も病人と二人で置いとけない程小さかったし、家でできるような仕事もないし。それである日、日中に、あの人は死んで。可哀想なバッティスタ! 私にはどうしようもなかった! あの人を助けられなかった! ああイエス様! 貧乏ってなんて恐ろしいのですか! 生きるってなんて悲しいのですか!」

彼女は両手で顔を覆ったが、泣こうとしたわけではなかった。少し押し黙った後、大きな黒い目を上げて、再び思いやり深い老ドイツ人と視線を交わしたのだが、その瞳は落ち着いて、涙もなかったからだ。

「その後は隣の女性にティスタを預けて、よく外でモデルの仕事をしていたものです。その頃は見られる容姿なりをしていましてね、絵描きさん達が言っていたところでは、髪の毛と顔の表情にアトリエ向きの何かがあるんだそうです。でもそれも長くは続きませんでした。顔色衰え髪は細り、です。亡きあの人のことで夜も日も泣き暮していましたから。その内、二スクードも貰えなくなったのでティスタを連れてローマを出て、あてもなくふらついたのです。葡萄の収穫に雇われたり、果物売りをしたり、市場で卵を売ったり魚を売ったり。ようやく大きな町でお手伝いとして雇ってもらえ、ティスタを学校にやることもできるようになりました。ところが、七ヶ月前に女主人が亡くなると、娘に引導を渡されたんです。身体が弱くなって昔みたいに家事をすることができなくなっていましたから。そうなると誰からも雇ってもらえなくて。仕事を貰おうと行く先行く先、あなたは棺桶に片足を突っ込んでるみたいね、お手伝いなんて無理でしょ、と言われて。それで私は諦めて、ここに来てこの小屋を借りました。家賃なんてほとんど掛からないのだけれど、それでも私にとっては大金です。町に行ってもこんなに少ししか戴けないんですから。さて、リッテル先生、多分、この女の話はなんて長いんだ、とお思いでしょう? もうすぐ終わりますから。今日、編み物を買ってもらおうと町の店に行き、立ったまま店員と話していると、一人のレディが入ってきました。すると買値のことで私と話していた女店員は、私を放ると、そのレディの方に行って接客し始めました。私は立ちん坊で待っていたのですが、そのレディが買おうとしている商品をよく見ようとヴェールを上げた時に、顔が見えたのです。おぉ、リッテル先生! 姉でした、姉のカルロッタ! 間違いなく! 絶対に! ところが、レディが立ち去った後で店員にその人のことを聞いても、詮索好きな女だとでも思ったのでしょう、あまり教えてくれなくて。それでも最後には必要なことを全部聞き出しましたよ。あのお客様は、と店員は言いました、とてもご裕福な宿泊業者の奥様で、カルロッタ・ネロ様と仰ります。お住まいは、と店員は続けました、カーザ・ドーロ黄金屋敷ですよ。もちろん会いに行ったりしませんでした、まだ家に帰っていなかったでしょうから。でも明日行きたいと思ってます。あそこまで歩けるくらい身体が動けば、ですが。また私に会いたいと思っているでしょうし、私だって会えたらうれしいのですもの。そのことで私が何を考えているか、お判りですよね、リッテル先生? それは、あの、姉の夫は凄くお金持ちだから、多分――多分、ティスタが身を立てるのを助けてくれるか、私に仕事を探すかしてくれて、そうすればじきに、うちの子が年季奉公できるだけのお金が貯まるんじゃないかって。どう思います? リッテル先生? 姉は、そう、私にとって、先生、貴方以外の唯一人の友達なんです! それで、私がそんなことを頼んでも嫌がらないだろうって。どうでしょう? 喧嘩別れはしたんですが、もう十年も前ですから。」

彼女は再び間を取った。リッテル氏は優しい目で哀れな細面を見つめた。瞼は紫色、開いた唇は震え、そこから苦しそうにはぁはぁぜぃぜぃと息が漏れ、その度に痛そうな身震いが起きた。まるですすり泣いているかのように。働かなければならないと言っても、こんなに弱り切った、ぼろぼろの人物にどうしろと、それも死にそうなくらい息も絶え絶えな時に。思うに彼は哀れみつつこう考えていたのだ。

「先生! リッテル先生!」ティスタが小部屋のドアを勢いよく開けて叫んだ。大喜びで「見て! いまクリストフェロに貰ったんだ! こんな綺麗なバラ! 先生持っていかない?」

「ティスタ、ありがとう。儂はいいから。楽しい色や甘い香りは儂には合わんのでな。このコップに生けてお母さんの隣に置きなさい。フラウ・ローラ、異存はないでしょうな!」

「一本くらい取ってくれないの、リッテル先生?」諦めきれずに少年が聞いた、見事な深紅の蕾を一つ老人に差し出しながら。

老人は避ける振りをしながら急いで答えた。

「いや、いや、ティスタ! 儂はバラには触らんのだ! ほら、見なさい、これを一房取ろう。ずっと儂向きじゃよ。」話しながら振り返って、窓格子の方に向いた。どちらかというと、バラを見て何か心が動き、それが顔に出るのを隠すためなのではないかと私は思った。彼は私の上に手を乗せた。

「え、それはイヌホオズキだよ!」少年は驚いて声を上げた。

「構わんよ、」老いたドイツ人は答え、私の天辺の花を折り取り、茎をよれよれの外套のボタン穴に通した。「儂はこれが好きでな。お似合いなのだ。何もベラドンナは忌避さるべき物ではないのだよ。君はそれを知らねばならんぞ、大化学者君!」そこで声を和らげ、「フラウ・ローラ、明日の朝、貴女が出かける前にまた来ますよ。おやすみなさい。」

老人は部屋を去ると背中で静かにドアを閉め、私も彼と共に外に出た。老人の足は決して速くはなかった。町から一キロ弱(*2)のところに三、四軒の古めかしい家があった。突き出した切り妻、緑の低い屋根のある広いベランダ。その一番手前の家にリッテル氏は住んでいた。

彼が間借りしているのは小さく暗い一部屋だけだった。いかにも学究風で、ほとんど家具がなく、窓はベランダに開くのが一つだけ、隅のひどく奥まった所にベッドを置いていた。窓の反対側に書棚が何本かあり、その上には色褪せたカバーをつけた大部の古書がいくたりか、人間の頭蓋骨が一つ、化石が数個。本当にこれだけだったのだ。他には、小さな絵が一枚、寝椅子の頭の所の壁に掛けてあるだけだったが、はじめの内この絵は私の目に入らなかった。

後に、老人が外套から私を取り、水を張った小さなガラスの鉢に挿した時、漸く私は自らの黄色の大きな眼をじっくりとその絵に向けることができるようになった。それは美しい少女のミニアチュールで、とても古風な装いをしており、可憐な胸元に深紅のバラが結わえてあった。「ああ、」私は一人ごちた。「老ドイツ人の人生にはかつて一つのロマンスがあり、いまあるものは――沈黙である。」

第二章

翌朝早く、バッティスタがリッテル氏に会いに来た。少年は丹念に植え付けられた大きな鉢植えを手にしていた。湿った土を敷き、枝を支えるための長い棒切れを打っ違いに立ててあった。それに巻き付き垂れ下がっていたのは、自分自身の枝と巻きひげであることを私は認めた。まさにそうだ、昨日、小屋の窓外に残された部分だ。バッティスタは植木鉢を持ったまま大威張りで部屋を横切り、ベランダの緑の屋根の下に据えた。

ほらエッコ! リッテル先生!」喜び勇んで叫んだ。「ね、先生の言うことは忘れないんだ! ベラドンナが好きだって言ってたから、先生が帰った後で根っこごと掘り出してこの鉢に植えたんだ。これ、先生のだよ、こうすればベランダにずっと置いておけるし、いつでも房を取って外套に着けられるし。どうして先生がこんな草を好きになれるのかちっともわからないけど。酷い臭いがするし! でも先生は変わり者のおじいちゃんだもんね、リッテル先生?」

鉢を下ろし終えたバッティスタは、キラキラした目で老ドイツ人を見た。

「はは、」先生ヘルは重々しくも優しい微笑を返し、それはどこかしらソクラテスやプラトンの微笑みを思わせた。「君からの贈り物は大歓迎だ。儂のことを思ってくれているのだね、それがとても嬉しい。この暗くて小さな部屋に生けた最初の花になる。臭いについては、ティスタ、趣味の問題に過ぎん。違うかね? 色の好みと変わらんよ。」

「はい、」ティスタは語気強く応じた。「僕はバラが好きです!」

しかしリッテル氏は急いて割り込んだ。

「ティスタ、今日、お母さんの具合はどうかね?」

「そのことも話しに来たんです。母は病気で、凄く悪くて今朝起きられなかったんです、先生に会いたがってます。一緒に来てくれませんか、何か特別な用事があるみたいなんです。」

「ああ、ティスタ、行こう。」

老人はドアの裏の釘に掛かっていた古いビロードの帽子を下し、昨日私の花房を挿したガラスの小鉢の上に身を屈めて、私を慎重に水から取り出し、茎の滴を拭うと、再び外套に着けた。少年の心遣いに喜んでいるところを見せたかったのだろう。

程なく、リッテル氏は古い木製の椅子に座って、寡婦の寝椅子の脇にいた。払暁、彼女は姉に渡す長い手紙を書き上げた。今それを老ドイツ人の両手に持たせ、自分の代わりにカーザ・ドーロに持って行き、カルロッタ・ネロがどんな返事をするか、メッセージでもメモでも、何でもいいから持ち帰って欲しいと懇願したのだ。「だって、」哀れな女は言った。不安そうな目、青ざめた唇、それを震わせながらやっとのことでこう言った。「私は姉がこれから先どれだけそこに居るつもりかわかりませんし、多分もう会えないでしょうから。今日はとてもじゃありませんが町に行くなんて無理です。それで姉とそれきりになるのが嫌で。先生は親切だからきっとこれを持って行ってくださるんじゃないかって、それで多分、もし姉が、私と――その――ティスタのことをご存知でしょうとか言って詮索しても気になさらないんじゃないかって。」

老人は暫時言葉に詰まった彼女の手を取った。我々が小さい子供にするような優しく同情した仕草で。

「気を楽にしなさい、ローラさん。」彼は囁いた。「きっと良い知らせを持ち帰りますぞ。だが、行くにはまだ早い。こんなに早く押し掛けるとお姉さんの方の都合が悪いかもしれませんな。ですから、一度うちに帰ってコーヒーを一杯飲んでから出かけることにしますよ。」

彼は腰を浮かそうとしたが、彼女はその腕を静かにとった。

「まあ貴方、お行きにならなくてもいいでしょう? 丁度ティスタが私の朝食の準備をしているところなので、先生の分も用意させますから。」

それでリッテル氏は留まり、三人一緒に朝食を摂ることとなった。粗末な黒パン、錫の壺に淹れたコーヒー、欠茶碗にミルクが少し。これきり。だがそれでも彼らは喜んで、パンを全部平らげ、コーヒーとミルクを残らず飲み干し、ティスタがテーブルの片付けに立った時には、質素なる響宴に相応しい場が出来上がっていた。黒パンとコーヒー、かくもつましい食卓であっても、語られる内容によって高貴なものとなる。それはディヴィーズ金満家(*3)の一座の間ではなかなか拝聴する機会のないものだった。

なんとなればリッテル氏が学者にして哲人だったからだ。若い頃より地質学、天文学、化学における赫赫たる奇妙な新発見を学び、大自然が懐中に隠す幽かな秘密をあぶり出し、天と地に記された言葉を見いだして愛読してきた。私は彼がかつてドイツの大学で学んでいたことを知った。彼はそこで思索の道に入った。二十歳の時から、ローラ・デルコールの隣に座る現在に至るまで絶えず考え続け、そして今、年老い、髭は雪の白、顔には長年の孤独が深く畝を立て、それでも考え続けていた。思索の為に世を捨てても尚、一向に真実に迫ることができておらぬと彼は言い、我が無知なることに、生命の御前で赤子のようにあることに満足している、と言ったのだ。

ローラが、先生はどうして現代の教養ある哲学者たちの間に入って、そこで起きている論争に論客として参加したがらないのですか、そして我が名を世に高からしめようとしないのですかと質問すると、彼は控えめな口調でこう答えた。曰く、自分には野心がないし、仮にかつてそんなものを持っていたとしても、世間の名声を得るための足がかりにするには、存在が秘める謎はあまりに広大だといつも感じていた。彼は言った、「この生命界では、かような存在の状況下では、何人なにびとも事物の意味に分け入り得ない――換言すれば、肉の指を以てしてはそれらの最内奥に潜む源泉に触れ得ぬのです。我々が辛うじて知りうるのはたった一つ、即ち我々は何も知り得ないということであり、我々が問われた時、それに対する最も正直な返答は、『判らない』の一句なのです。生の意味をかくも知らぬ以上、死の意味を判ろうとしても無駄というものでしょう。日常的な存在に関するより下等な考慮について言えば、一体それが何だというのですか。疾うの昔に儂は願うことを止めたのですよ。野望も愛も、儂には過去のものです。」

こう語る老人の顔にふと、窓枠から垂れた蔓が影を落とし、鋭く澄んだ両目に、流れることのない涙が突然の霧となって現れたような気がした。隣にいる優しい女性がそれを見て取ったかは定かでないが、老人が言葉を止めた時、静かにこう問うたのだ、貴方は悲しい人生を歩まれたのですか、と。彼が深い苦悩の裡にあったに違いないという恐れを抱いて。

老人は答えた。「誰にとっても人生は悲しいものですよ。誰にとってもそれは見果てぬ謎だからです。フラウ・ローラ、貴女は人生を甘美なものだと思いましたか? 違う? 儂もです。しかし、儂が失ったものは、本当に何かを失ったのだとして、したくてそうしたのではないのです。そうですな――これが儂の定めなのです、それ以下でもなく、それ以上でもない。」

「ですが、貴方はご自分から身をお引きになったのですよね、先生? 自分で自分を孤独の中に埋葬して、先生ほどの学者なら世間で得られたかもしれない名声から遠ざかっておられる。沈黙を選ばれたのですか?」

「そう、」彼は陰気に返した。「沈黙すべく選択したのです。どうして下らない議論に息を無駄遣いしなければならないのですか。子供の凧に付いた蝿取紙ではあるまいし、儂の名前に空しい文字列が紐付けされるようにとあくせくやって、それでどうなるのですか。儂は地面に引き摺り下ろされたいわけじゃない、そんな紐なしに上がりたいのだ。我々の企ては全部が全部、結局は見当外れなのです。あらゆる栄光は落胆――あらゆる成功は失敗。それがどれほど酷い苦さかは、英雄その人だけが知り得るのです!」

「後悔のお気持ちはないのですか、リッテル先生?」ローラは澄んだ、真摯な目を一杯に開いて老人を見つめた。

「ありませんな。」彼の答えは簡単だった。

「これから先もずっと沈黙を?」

「ずっと、目の黒いうちはずっと。」老いたドイツ人は言った。「儂が口をはさまなくてもこの世には既に十分な数の口論があり、儂が宣言しなくても十分な数のドグマがあります。儂が何を言おうといっこう役に立たないと思っとりますよ。儂に彼らを今より少しでも賢明に、純粋に、寛大に、誠実にすることができますか? 互いに正直になって、憐れみを持ち、思いやり、公平になれと教えられるとでも? 彼らが預言者にも、神なるナザレの教師にさえ耳を傾けないとしたら、一体儂に何ができましょう。彼らは信仰を殺戮や迫害や詐欺の口実としていないだろうか。自分らのこの上なく神聖な真実、最も衷心からの信仰さえ、それらを支えているのは虚偽と策謀に塗れた組織なのではないか。ちっ! 人は真実を無理矢理纏っているのだけれど、それらは嘘によって裏打ちされごわごわになっているのですよ! 人生の謎はかくも恐ろしく、悲しみだらけだ。だから、ぺちゃくちゃ舌を動かしている輩は哲学者にはなれません。言葉は私らを粉砕し、苦しめ、引き裂くばかりだ。ですから、儂は己の考えを胸の中に納めておくのが一番だと思っとるのです。測り難き物事については沈黙することこそ至高だと信じ、『我は無なれど御神は全なり――儂は愚者だが御神は賢い――』とさえ言えば、もうそれ以上口にできることはないと承知しつつ。まもなく夕映えのむこうのより完全な世界のより明るい光の下で、直に美しいの御姿に見えることができるでしょう。顔と顔を合わせ、儂が知られていると等しく儂も知ることになるのです!(*4)」

「すると、」ローラが優しく聞いた。「一人になれるように、というのが貴方が世間をお捨てになった理由なのですか?」

「儂が世捨人になったのは、奥さん、正義と美徳の名であらゆる種類の圧制がなされることに気づいたからですよ。儂の心は過ちから目を背け、儂にはそれを正義に変える力がなかった。儂は人生の謎に圧倒され、金銭も名誉も断った。不実であることに満足できるなら自分の物になったかもしれないのですがね。だが儂は神の恩寵で強く生い立ち、世間は儂をその金メッキの育児室から放り出した。儂は一廉の男になって、子供っぽい物事とは縁を切ったのです。」

そこで老人はのろのろと椅子から立ち、ドアの掛け金に手を延ばしてそれを持上げ、外に出た。ありがたい一陣の風が屋外から小部屋に吹き込み、ぼろぼろの古外套の胸に止められたイヌホオズキの花房を揺らした。私は暗紫色の頭を擡げて、リッテル氏の顔に再び憂愁の影が落ちているのを見た。嵐の一日が過ぎ去ろうとする時の夕暮れの雲のように。

我々はカーザ・ドーロに向かった。

奥様はご自分の居間にいらっしゃいまして、そこで先生とお会いなさるそうです、と老ドイツ人を家の中に招き入れた黒髪のイタリア女が微笑んで言った。この女性は在所の者で、間違いなく彼に良い思い出があり、感謝しているようだった。それで我々は屋敷カーザの二階の見事な調度の小部屋で上機嫌でくつろいだ。

開いた窓の横にタペストリーで飾られた寝椅子があり、昼近い陽光が当らないようにゴーズのカーテンが注意深く巡らされていた。その上に堂々とした中年女性が凭れ掛かっていたのだが、ローラ・デルコールに似ているようで、不思議なほど似ていなかったため、我々の後ろでイタリア女がドアを閉めた時、私の憂鬱な花々は情動を抑えきれずブルブルと震え上がった。

繊細な面立ちは同じだ。豊かな髪もまた。だが、眼差しが!――ローラのあの眼差しは――ああ、それらから覗く魂は、神性はそこにはなかった。女の目からは宿泊業者の金気を映す、金属的なぎらつきだけが見えていたのだ! 女は戸口に立つリッテル氏に冷たい両目を向け、金切り声を放った――またしてもなんとローラと違っていたことか!――硬貨がジャラジャラいう乾いた音だ――一体何の用向きがあって舞い込んできたのかと問うているのだ。

「リッテルさん、聞く所では、私に話があるとのことですが?」

どうやら、この女は自分の話の間、老人を立たせたままにするらしい。

「はい、シニョーラ、」彼は穏やかに答えた。「貴女宛の手紙を持参いたしました。小生が帰ります前にここでご一読願えるでしょうか。貴女からのお返事をいただいて帰るよう書き手から依頼されておりますので。」

彼はローラの書翰をチョッキから恭しく取り出した。あたかもこの友人が触れた手紙の紙それ自体を愛してでもいるかのように。また、その紙をこんなに冷淡な手と目に晒すのが、どことなく気乗りしないことであるかのように。カルロッタ・ネロはそれを冷たく手に取り、傲慢な上流婦人の雰囲気を醸しながら、何ページにも渡ってぎっしり書かれた文章を一通り眺めた。読んでいる最中に一度、頬が紅潮し唇が震えた気がしたが、彼女が目を上げ再び話し出した時、私は見間違えたのだと思った。あるいは、彼女の情動の元になった原因が私の想像とは異なっていたのか。というのも、冷酷な目の光には何の変化もなく、乾いたチリチリ声が柔らかくなることもなく、こんな返事をしたからだ。

「済みませんが、貴方のお友達のためにできることはありません。手紙は読んだ、明朝ここを発つ、こうお伝えになって。」

こう言いながら、リッテル氏が引き下がっても仕方がないと思われる態度で彼女は頭をさげ、ソファの脇にある黒檀のコンソールの上に手紙を置いた。だが、老いたドイツ人は食い下がった。

「シニョーラ、」震える声で彼は言った。彼の心臓は憤って早鐘を打ち、私の花弁のデリケートな繊維を揺らしたのだ。「貴女はこれが妹さんからの手紙だとお判りなのですか? お金も物も足りず、ご主人を亡くされ、死に瀕していることも?」

カルロッタ・ネロは眉墨で描いた眉を上げた。

「本当に?」彼女は言った。「そう聞くと心が痛みます。それでもわたくしには何もできません。そう伝えてくれればいいのです。」

「シニョーラ、考え直して戴けないものでしょうか。十年前の過ちが貴女の姉としての親切心に重しを載せているとしても、ここでそうすげなくなさると人倫に悖ることになりませんか?」

「失礼ながらリッテルさん、貴方は空想家なのですね。わたくしは、姉としての親切心も、憐れみも、共感も一切持っておりません。こんな――こんな言葉なんかに。」

彼女はいらいらしながらコンソールの上の手紙の方に向いた。彼女は事実を語っているのだと私は思った。

リッテル氏は言葉を失った。

「ドローレスは自分で自分の道を決めたのです。」手持ち無沙汰にどこか去り難くしている訪問者を見ながら宿泊業者の妻は言った。「一体どんな権利があって今更わたくしに縋るのですか。自分で勝手に恥辱を招いたのですから、その結果は自分で引き受けるべきものでしょう。あんなに厳しく戒めたのに、自ら進んで落ちた泥沼から這い上がるのを助けるためになんて、わたくしは指一本でも動かすつもりはございません。どんな無分別にも罰は付き物――他の馬鹿者と同じようにそれを背負わなければならない、というだけの話。世の中には他にも未亡人がいて、あれはまだましな方じゃありませんか、あれでもずっと!」

「それを、」やっとの思いで自分を取り戻したリッテル氏が尋ねた。「貴女からの答えとして妹さんに伝えろと?」

「お好きになさって。」偉大なるレディは相も変わらぬ無関心な声で答えた。「あれをここに呼んでも無駄ですよ。会えませんから。とにかく夫と共に明日発ちますので。」

またも彼女は頭を下げ、リッテル氏も今度はその合図に屈した。寛容な心臓が苦しそうに鼓動するのが判った――ドキン、ドキン、と古い襤褸外套の下で。だが、我が花の精を顔に吹きかけると、彼は、型通りに「ごきげんようブオン・ジョルノ、シニョーラ。」とだけ言って踵を返した。

「沈黙こそ至高。」私は囁いた。

第三章

彼は暗い自室に戻った。碌に陽も射さず、大きな書物と髑髏と化石とそして、深紅のバラを着けいつまでも変わらぬ姿で彼を迎える美しい少女の絵が掛かった小さな部屋だ。ベランダのベラドンナから漂うアロマが部屋一杯に染み渡り、老哲学者の魂を隅々まで静かな寛容の気で満たした。

彼は書棚の前に立ち、躊躇いがちに一巻一巻、萎びた指を書物の上に這わせた。私は既に彼の胸を過った考えを知っており、香りを立ててその高貴なる犠牲的行為を援護した。次いで彼は本を取り出した――一冊、二冊、三冊――彼がとりわけ珍重していた古典の大層古い版で、彼のような学者や目利きにとってはまさにエルドラドにあたる書籍だった。彼は震える程に優しい手つきで本を開き、そのページの上に愛情のこもった視線を落とし続けた。あたかもそれらの書物が生涯の友の顔であるかのように。そして暗い隅にある絵に目を向けた。一つの名前が唇から零れた。柔らかな響きのドイツ語の縮小辞が。だが、同時に漏れた溜息が余りに長引いたため、ほとんど聞き取れなかった。しかし私には、この瞬間、彼の広い心が二重に楽しみを捨てたことが判っていた。彼は不滅の天才たちの高貴な著作を宝としていたのに負けない程、過ぎ去りし愛情が遺してくれた贈り物を慈しんでいたからだ。

彼は本を脇に抱えて静かに部屋を出、町に戻った。開けた広場や市場を避け、薄汚くうねる路地に沿って行き、狭い街路の暗い感じのする背の高い家までやって来た。そこでリッテル氏は立ち止まって中に入り、前庭を通って家の裏手にある大きな部屋に足を運んだ。そこには一人の紳士がおり、気楽そうにアームチェアに凭れていた。ついさっきまでそこで寝ていたのだろう。象牙のペーパーナイフを使って、手に持った本のページを切っていた(*5)。我々が入り込んだその部屋は、奇妙な合成物めいて見え、私にはそれを何と言ったものか判らなかった。部分的には出版社の倉庫のようであり、部分的には文学館のようであり、あるいは単なる金持ちのhomme de lettres文人の私設宝物室のようでもあった。

リッテル氏は三冊の分厚い本をテーブルの上に乗せた。そのテーブルには古い手稿やベラム革のカバーのついた化石じみた古書が所狭しと散らばっていた。

「ああ、こんにちはジョルノ先生ヘル!」と紳士は手許の本から目を上げて言った。「何をお持ちで?」

彼は話しながら近づいて来ると、老人がテーブルの上に積んだ山の中から一番上の本を開いて扉を検めた。

「おお、マリア様!」彼は叫び、とたんに態度全体が気楽な無関心から真剣な興味へと変わった。「なんと、遂にこれを手放すのですか? これはまたどうした風の吹き回しで。ローマではピストール金貨二百枚積んでも売っていただけなかった本じゃありませんか。どれほどカネを出されてもこれは売らん、と仰って!」

「ああ、シニョール、ですが、今は売るのです。」

ああ、物惜しみしない喜捨だ。だが、その心痛は耐え難い程であり、この殉教者はどうして僅かな溜息をつくだけでいられるのだろう!

「同じお値段ですね、先生? 価格交渉はなしってことで。猊下エミネンザならこの手の本をたっぷり持っとりますが、先生、貴方は貧乏だ、ねえ。」

彼はどこか馴れ馴れしい感じで恩着せがましく老ドイツ人に頷いた。「慎ましくしなさるな、力になりますよ!」とでも言いたげに。

しかし、先生はそんな言葉にも気配にも上の空で、だが私には、その瞬間、よれよれの外套の下では彼の心臓が滅多にないやり方でひっくり返っているのだろうと思われた。

「同じ値段で、それでよければ、シニョール。」

我々の前にいるこの心優しい人物は枢機卿の代理人のようだと私は思った。突如として、驚いたような吟味するような視線を哲学者の穏やかで威厳のある顔に鋭く飛ばし、口笛で二音からなる短くて陽気なアリアを吹いた。これを手助けにして、歯ごたえのあるごちそうを噛み砕き、精神的に咀嚼してみせようとしていたのだ。次いで肘の所にある鉄枠の銭箱の方を向いて鍵を開け、約束通りの額を取り出して手早く数えると、老ドイツ人に手渡した。彼は震える指でかねを集めた。あたかも友人を裏切った報酬でもあるかのように。そして高貴な頭をがっくりと胸まで落とした。まるで激越な最前線で戦う軍馬が、心臓まで撃ち抜かれたかのように。

彼の行いはの帳簿に記録された。

さようならアッディーオ先生ヘル。」

お元気でグーテン・タークご主人シニョール。」

リッテル氏は家に戻らなかった。我が家を、昼の陽に焼かれ水ぶくれができそうなその緑のベランダを通り過ぎ、牧場を越えてローラ・デルコールの陋屋に向かった。彼女は開けたままのドアの所に座り、透き通った両の掌を祈りを上げるかのようにきつく握りしめ、その大きな瞼は暗く重く、のしかかる苦痛の程を物語っていた。ああ、ローラ! ローラ! 「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん!」(*6) だがそれは人の手になるこの世界ではなく、ああ、地上の娘よ、こんな世界ではないのだ、この後に御神が創り賜う新たなる世に於いてである!

「リッテル先生! 行ってくださったのですね? 姉が何と申したか仰って! ティスタは今いません、薬草を採りに森に行っています。」

「ティスタにはどこまで話したのですか?」

「この件で? 何も。自分で――のことを――伺ってから――」

彼女はリッテル氏を歓迎しようと痛いほど興奮し切って腰を挙げた。が、そこで蹌踉いてしまった。私は彼女が倒れたに違いないと思ったのだが、そうなる前に老人が優しく抱きとめていた。

「安心しなさい、ローラさん。」と囁いた。「良い知らせですぞ。」

彼女は木の椅子に倒れ込み、血の気の失せた両手で顔を覆った。喜びに啜り泣いているのだ。長い苦しみに一人で耐えぬいた婦人だけがこのように泣くことができる。

寄り添って立つリッテル氏は親切な目で見つめつつ、彼女が思う存分泣く間、声を出さずに白髭を撫で続けた。彼女の幸せそうな黒い瞳は夢見心地で、涙を一杯に溜めていたが、再び彼の顔を見上げた。夏の日照りに干上がった池が、慈雨を受けたかのようだった。

「姉は何て言っていました? メモか伝言をくれましたか?」

リッテル氏は金貨を取り出して彼女の膝に乗せた。

「持って参りましたぞ。」とこれだけ言って。

「イエス様、マリア様! 姉がこんなに! なんていい人なんでしょう! なんて気前がいいのでしょう! 私が受け取っていいのですよね、先生?」

「これはティスタのものです。奉公に出るためのお金です。ですが、条件がありましてな。奥さん。『この贈り物の贈り主が何者か、ティスタに知らしてはならない。未知の友人からだと説明しなさい。大きくなれば自然にわかるだろう。』ということです。」

「親切な私のロッタ! すると、自分を愛せるくらいティスタを成長させてからどんな親切をしたか教えようというのですね! あの子の為なら、私はお金を受け取るしかないでしょう、ねえ先生? ですが、私は姉の所に行って自分からありがとうといいたいのです、構いませんよね?」

「今は駄目です、ローラ。お姉さんは明日の朝ここから他所に行かねばならんのです。シニョール・ネロに約束があって、そうせざるを得ず、そこで当座のところ儂にこれを託したのですよ。敬意と別れの挨拶と共に。」

落ち着いた柔和な目で彼女を見ながら、老人は小屋の壁にもたれ、銀の髭を撫でた。

地上の娘よ、御神をして裁かしめよ。御神のみが死すべき人間の心を知り給うが故。自分についていうと、地の塵より生じた花に過ぎぬ私が、それでも尚、老哲人の嘘は少なくともカルロッタ・ネロの率直さに比して、より気品がありまた情け深いと考えたことを告白する。

「ローラ、幸せかね?」

彼女は目を上げて微笑んだ。

この微笑みを見て、哲学者は報われたのだ。

その後まもなくバッティスタ・デルコールは町の薬種商の見習いになり、もう有頂天だった。だが尚、彼の母もリッテル氏も未知の友人の名を告げなかった。やがて夏が終わりに近づき、森の羊歯類が色褪せ始める頃、ドローレス・デルコールは患い付き、寝込み、日に日に血の気を失っていった。もう仕事は全くできず、ティスタとリッテル氏のお陰で生きている状態になった。

私についていえば、その時もなお緑の屋根のあるベランダで花を付け、いつも暗い部屋を覗き込んでいた。そして、一冊一冊と、老ドイツ人の書棚から黴臭い大部の本が消え、金に換わっているのに気づいていたのだ。

しかしある朝、ちょうど東雲来る前、悲しい名前(*7)と苦難の生涯を持った女性が眠ったまま息を引き取った。夜明けと共に、悲しみに心臓が破れそうなティスタがリッテル氏の許に現れ、母の死を告げた。老人は外を見やった。東の靄った青い空の先に海があり、いましもそこから金色の曙光が輝き出さんとしていた。老人はいつもの静かな、忍耐強いやり方で、この日は近いと思っていたとだけ答えた。

私には老人の言葉がよく判った。しかし、少年にとっては無意味だった。

ある夜が来た。その日書棚は頭蓋骨と化石だけを残して空しく立ち、リッテル氏の穏やかな顔には奇妙に明るい表情が浮かんでいた。その陰影は、光も影も、地上のものではなかった。この五日間一片のパンも口にしなかった彼は、窮乏と高齢のために身動きがとれず、さりとて訪ねてくるような友人もいなかったのだ。ティスタは、思うに、今では自分のことで忙しかったのだろう、最近ではめっきり足が遠のいていた。彼が不親切だったのではない、若さで一杯だったのだ、若く逞しい愛情で。笑いとお祭り騒ぎに浮かれた耳にとっては、リッテル老人の話は退屈だった。何よりも、彼はこの老哲人にどれ程のものを負うているか知らなかった。リッテル氏は尚も沈黙を守っていたからだ。

蒸し暑い秋の日だった。風は空の遠くの一隅で眠り惚けているようで、そよとも吹かず、牧場の草も穂を垂らしたまま、熱し渇いた静寂が四方をじっと覆っていた。

だが、暮れなんとする西方に目を遣ると、長い地平線の其処此処からむくむくと積雲が湧き、その頂上に赤々と炎が燃え立つのが見えた。沈み行く陽から放たれる動乱の太き光軸、天を目がけて打ち上げられ、焼け付くその剣は、死の都市の上に振りかざされるが如く空にかかっていた。

リッテル氏はその夜遅くまで起きたまま、一包みの虫食いのある手紙を読んでいた。ベッドの下の小さな木箱にしまってあったものだ。読みながら、一枚一枚ランプの炎に投じていった。年月に黄色く変じた一つの小さな紙片が、焦げながらも破壊を免れ、テーブルから浮き上がり窓枠を超えベランダにまで飛んできて、私の側に落ちた。紙片の上には強張ったドイツの文字で何か書いてあった。その文字は一点一画、鉤印に至るまで几帳面にきっちりと認められていた。その言葉というのは:――

「余は、余が娘との婚姻について、富と名声とを得べき機会をば単なる斑気のために抛擲するが如き愚物に対し、これをきっぱりと拒絶するものである。昨日、貴君は提供されたる教授職を辞退するの暴挙に及んだ。その理由たるや職に附随する条件が自分に合わぬからだという。貴君は自身がその条件に適わぬと空想し、あたら好機を逸した。大変結構だ。貴君は余が娘もまた逸したのだ。明らかに貴君には世の中を渡るべき由なく、故に決して富裕になることなく、また余が娘と妻合うこともあり得ぬ。貴君と余が娘との縁談はなかったものと考えられたい。」

ああ! さてはこれが深紅のバラの物語であったのか!

最後の手紙がテーブルの上で灰と化した時には夜はすっかり更けていた。そして眠りにつこうとした老ドイツ人は、着替える暇もなくよろよろと暗い隅の小さなベッドに倒れ込んだ。ランプの油は燃え尽きようとしており、物憂い光をちらちらと、飢え窶れ襤褸外套の上で組まれた両手と気品のある顔に投げかけていた。青ざめた瞼を閉じ、忍耐強く唇を結び、大理石の王の顔を思わせる物静かで断固たる表情だった。頭上には深紅のバラを着けた美しい女性がいた。気まぐれな炎のままに明滅を繰り返し、これはまさに嵐の夜に瞬く信号灯に似て、難破船から投げ出され波間に翻弄される命にとって、最後の希望の光となるのだ。彼はこれまで生きてきたように、沈黙の裡に死んだ。屠られた殉教者として、持ち場を死守した戦士として果てたのである。

その時、ピエモンテ一帯を暴風雨が襲い、休息から復活した巨人の如く風が吹き荒れた。この巨人は黒い雷雲を呼び、次いで、飛び退る世界の上に吠え立てる悪魔めいて、その力の切っ先を唸らせた。すると棘のような雹と雨が鋭く激しい音を上げ、ハリケーンが叫び暴風が轟々と恐怖のロールを鳴らし、天の果てから果てまで揺るがした。どうしたことだ! どうしてこんなに荒れ狂うのだ、かくも温和で静かな魂がこの世を去る定めの夜だというのに!

一瞬、私は再び彼を見た。眩い稲妻の一閃が見せたのだ、ランプの消えた静かな小部屋全体を、焦げた手紙の燃え滓が散る木の机の上を、鏡を見るかのようにはっきりと。

彼は白布を掛けたベッドの上で動くことなく横たわっていた。勝利の絶頂で倒された英雄、広き額はさながら騎士の如くして、静かなる唇は永遠に言葉を失った。穏やかに威儀正しく、ローラと同様に、眠りの休息が彼を平安へと連れ去った。

もはや彼にとっては嵐も、闇も、諍いも存在しなかった。完全なる日の光の下で御神と対面していたのである。

漸くのことで静々と、鈍色の風景の最果てから白っぽい幽鬼のような日の出がやってきた。風の叫びや荒れ狂う暴風の騒乱は水っぽい空の中に消え、雲の一団も西の方、水平線の彼方へと去っていった。しかし鉢植えのベラドンナはベランダの石床の上に枯れ落ちていた。霰と風にうち裂かれ、茎と蔓は雷に焼かれ、紫の花は散り散りとなって割れた鉢や荒れた小部屋の床に散らばる燃え滓と入り混じっていた。

明けゆく朝の白い高みでは、神の御心へと帰りゆく風がその無限の翼の上に二つの重荷を運んでいた。滅んだ花の精と、優しき生という名の供物と。

厳粛にして朗々たるその抑揚は、始まりと同じく、短調のオルガン曲の終結部の響きへと沈み込んでいった。亡霊の顔つきは不明瞭に揺らぎ、私を取り巻く仄暗い紫の大気の中に溶け込んだ。だが、私は花の精の燃える視線が自分の顔面に注がれているのを感じていた。私はそのゆらゆらと浮かぶ存在に向かって両手を差し出して懇願した。触ることのできない彼女の衣をなんとかして掴むことができたら。

「花の精よ!」私は叫んだ。「もう一つだけ質問があります! ティスタ少年は間違いなくその朝やって来て、ついに、遅きに失したとはいえ、知られざる友人が誰だったのかを知ったのでしょうか?」

「命限られたる者の娘よ、」今しも消えなんとする亡霊の声が返ってきた。「吾には判らぬ。地上における我が使命はその夜終わったのだ。而れども彼の死者の墓間に咲く我が妹花が、神の息、即ち気まぐれなる天の微風に乗せて折々伝言を寄越す。妹らの言によれば、ピエモンテ州の大きな町に住む一人の富裕なる薬種商が、リッテル氏の安息の地に大きな白い十字架を建立したと聞く。そは豊かで見目好き若人であり、名はバッティスタ・デルコールである。十字架の台座には次の言葉が金文字で彫ってある:『神と父の御前にあって汚れ無き信仰は斯くの如し。苦しみ喘ぐ父なき子と寡婦とを訪いて世の濁りを受けざりき。』」

再び声がした、「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり」(*7)と。


翻訳について

底本は Project Gutenberg の Dreams and Dream Stories By Anna Kingsford の第二部 Dream Stories の第七話 The Nightshade です。この翻訳は独自に行ったもので、先行する訳と類似する部分があっても偶然によるものです。聖書の引用には聖書 - 文語訳 (JCL)を利用しました。

この訳文は他の拙訳同様 Creative Commons CC-BY 3.0 の下で公開します。TPPに伴う著作権保護期間の延長が事実上決定した現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。

固有名詞等:Atropa Belladonna、Treatises on Chemistry、Herr Ritter、Battista ('Tista) Delcor、 Frau Dolores ('Lora) Delcor、Andrea Bruno、Antonia and Catterina Pic、Carlotta ('Lotta) Nero、Casa d'Oro、Cristofero、Eminenza

第一部 Dreams の中から、短い詩集 Dream Verses を除いた部分を「夢日記」として訳出してあります(誰か Dream Verses を訳してくれませんか……)。第二部 Dream Stories「夢の物語」には、以下の八編が収められています。いくつか邦訳を試みておりますので。興味をおもちでしたらどうぞ。
  1. A Village of Seers:「千里眼の村」
  2. Steepside; A Ghost Story:「崖端館」
  3. Beyond the Sunset:「夕映えのむこうの国」
  4. A Turn of Luck : 「幸運のターン」
  5. Noémi:「ノエミ」
  6. The Little Old Man's Story:「小さな老人の話」
  7. The Nightshade:「犬酸漿」(本作)
  8. St. George the Chevalier:「騎士・聖ジョージ」


3, Jul., 2016 : とりあえずあげます
10, Jul., 2016 : 若干の誤訳を修正。アトロピンという薬品名やトロピカルって言葉から、Atropiaだと思い込んでいました。
12, Jul., 2016 : バッティスタが不統一だったので修正。
21-22, Jul., 2016 : 若干の表現修正。
26-27, Aug., 2016 : 若干の表現修正。
6, Sep., 2016 : 第一話へのリンク。
7, Sep., 2016 : 若干の表現修正。
11, Oct., 2016 : 聖書からの引用を追加。
4, Dec., 2016 : 若干の表現修正。
4, Mar., 2017 : 第五話へのリンク、Noemi → Noémi
1, Feb., 2019 : 第六話へのリンク
23, Mar., 2019 : カーサ→カーザ orz
18, Apr., 2020 : 第八話へのリンク
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