【過去に活躍した車両】

■当線で過去に活躍していた主な車両を紹介します。※写真横にWがあるものはウイキからの出典画像です

【キハ20】1957年

キハ20はそれまで登場していた車体幅が狭かったキハ10系に代わり登場した地方ローカル用の代表車両です。数多く製造されたため全国のローカル線で普通に見られました。両端に運転台が付いており1両単独運行も可能。これまでの車両と同様に客室扉は開ける際は手動であけるため、各扉にはレバーハンドルが付いています。

鹿児島地区では自動ドアを備えたキハ47の登場後においては、乗客による混同を避ける目的で、ドアのガラス面に「手であけてください」という青のスプレー文字が施されました。(キハ20の翌年登場のキハ58系では元々自動ドアで、ドア窓にも「自動ドア」という白文字が付いていたため、この処置はされていません)

昭和50年代までは朱色とクリームの塗り分けの外観でしたが、その後全国的に朱色一色に変更されました。初期の車両は、上の画像のような「バス窓」になっていました。

その後、新系列のキハ40系列による置換えが進み、後述する派生形式のキハ52以外は急速に姿を消しました。
【保存情報】鹿屋市鉄道記念館に静態保存あり:キハ20 441

【キハ25】1957年

キハ20の派生形式の1つで、片側運転台仕様のものがキハ25です。
外観もキハ20とは似ており、特徴として荷物車としても使えるように、客室を3室に区切られるアコーディオンカーテンを備えていました。当線には貨物列車が運行されていたため、このキハ25は荷物車として使用されなかったものの、当時は全国の多くの駅で鉄道小荷物を扱っていたので、小口の貨物輸送のため下の写真のように旅客列車に輸送荷物が相乗りするケースが存在しました。



下の写真は現在の営業列車を使用しての荷物輸送の例(飯田線119系電車・天竜峡ー豊橋)

 【キハ52】1958年

キハ20の派生形式の1つで、エンジンが2基ある高出力タイプです。鹿児島に在籍していたのは途中で新設計の横型エンジンに変更され、音もキハ58系に限りなく近かった100番台車両でした。

両方に運転台があり、トイレもあり、さらには2基分の機関スペースも確保した結果、窓1個分だけ車体が長くなったので、ドア間のボックス席の窓の数が6個なのが特徴です。実は1両単独で運行できて馬力も強い車両となると、ほぼこのキハ52に絞られるので、JRに引き継がれてからも長らく肥薩線(山線)で使用されました。そのためキハ20系列の中では唯一車体カラーが白地に青ライン2本のJRカラーになったり、屋根上に冷房装置を搭載する改造を受けるなど、長生きすると色々なことがあるという見本のような車両です。全国各地でも私鉄を含め、同様の理由で最近まで現役で生き残った車両が多いのも特徴です。

鹿児島地区でこのキハ52が引退したのは、両運転台のキハ40を機関換装で高出力化したキハ140がようやく登場してからでした。

当線では一般の編成に混ざって連結されて使用されましたが、臨時列車ながら1両で単行運転する機会もあり、それが昭和60年前後の年末年始の終電後に登場した「イレブンハーフトレイン」で、23:30に国分・川内・喜入の各方面に向けて同時に出発するというもので、その喜入行きに充当された実績があります。現行ダイヤではこれより遅い鹿児島中央駅23:50発が通常の終電となっていて、深夜時間帯が便利になったことを感じさせます。

【キハ55】1956年

キハ55は準急用として設計された中・長距離用の車両で、勾配対策や高速化のためにエンジンが2基あります。この仕様が後にキハ58系などの本格的な急行車両のベースとなり、日本がディーゼルカー王国となるきっかけを作りました。

キハ55は登場後に早速「準急日光」で俊足ぶりが発揮されると続々と各地で頭角を現し、九州でも名列車「準急ひかり」などとして日豊・豊肥線経由で門司港と鹿児島・熊本・宮崎を結びましたが、特に小倉→博多間ではディーゼル特急「かもめ」よりも2駅余分の停車でありながら逆に5分早着という俊足ぶりだったそうです。これらの名声が影響したのか、東海道新幹線が開業するとすぐにその列車名が召し上げられたのはご存知の通りで、準急ひかりの系譜は現在の「にちりん」「九州横断特急」として引き継がれています。列車にも人と同じく「襲名」があるのは面白いことです。

国鉄だけでなく、私鉄でも同じ車両が発注されるなど反響も大きかったようです(その一つが島原鉄道で、国鉄線乗り入れ・併結のためキハ55と同一仕様にされたそうです。このあたりのいきさつが城山三郎の経済小説「盲人重役」に書かれています)。

【キハ26】1958年
W(志布志にての注釈あり)

キハ26は元々は前述のキハ55の1台エンジン仕様の普通車として登場しました。
この時期は折しも宮崎・鹿児島への新婚旅行ブームで、ゆったり旅するためにグリーン車連結の要望もあって、これに対応するべくグリーン車仕様として派生形式のキロ26も登場しましたが、鹿児島地区のキハ26の場合は全車がキロ26をグリーン車設備のまま普通車に用途変更してキハ26-400番台として編入された「乗り得車両」で、方向転換可能なクロスシートと座席一列ごとの個窓が一般のキハ26との違いでした。外観も写真のように非常に窓がたくさんあって容易に区別できました。

のちに鹿児島工場で定員アップのため、4列分のクロスシートを残してロングシート化改造を受た際は、キハ26-600番台に再度変更になって当線を走りますが、このとき撤去された座席の一部は、やはり鹿児島工場で改造により登場したキハ58系団体車両「らくだ」用に再利用されていました。

【キハ58・キハ28】1961年



キハ58シリーズといえばディーゼル列車の代名詞というくらいに全国各地に見られた車両で、暖地用・寒冷地用・荷物車、さらには修学旅行用など派生形式も含めて、1969年までの9年間で1800両余りも製造されて最大の陣容を誇った形式です。

キハ58は走行機関を2基としたもの、キハ28は1基です。その他の相違として、58は床下スペースが一杯なので冷房用電源を搭載できずに他形式からの給電が必要なこと、トイレ用の水タンクも床下に積めずに屋根上にあることで、屋根上を見れば両者の区別は容易です。

急行用として車体の大きさを最大規格として居住性を高めると共に、トイレと洗面所を備え全国の急行で活躍しましたが、その後の特急化などで活躍の場が狭くなるとジョイフルトレインや普通列車に転用されました。

下の画像はJR九州の普通列車としての姿ですが、この白と青ラインの塗装は国鉄時代にすでに塗装変更されていたキハ40系とは異なり、JRとなってからかなり後に塗装変更が実施されました。JRとなってからも従来のクリームと朱色のツートンのままで、サイドの窓下中央に朱色で(赤ではない)「JR」という大きなシール文字が施されました。一方JR東海でも同様のシールが施され、こちらもオレンジではなく朱色だったことから、ひょうっとすると両社で同じ色のシールを使用していたのかもしれません。

後に冷房化する際に、前述のようにキハ58は床下が2基の走行機関で一杯なため他車(キハ28や65)に発電セットを取り付けて隣接して給電を受けることになっているので、キハ58のみの編成では冷房が使えないという制限があります。
この58シリーズは床や車体が防音仕様であり、2機関でありながら車内の防音性が高いため音も静かで、またコイルバネ台車でありながら車体との重量バランスがよいのか乗り心地も優れていました。(隣接のキハ65と車内を行ったり来たして比べて判明)

JRになると豊肥線急行用に機関換装を受けたキハ58 5000番台も登場しました。これは2基のうち1基の機関だけを換装するという大変珍しい存在で(つまり、1両の車両を異なる走行エンジン2基で走らすという空前絶後の超珍車ということ)、一方JR東海で「快速みえ」用に110Km/h対応するため特急用の空気バネ・ディスクブレーキ付台車に交換したうえ2基とも機関換装を行った車両もキハ58 5000番台で、両者は形式・番台どころか車両番号も重複しているという大変レアな珍車でした。
しかし後年、各JR会社が新系列車両を投入したり、車体材料としてアスベストの使用が判明したことで急速に両数を減らしていきました。
このキハ58系列は直結走行時に駆動ギアからと思われる独特なうなりが聞こえてきます。このを耳にするとキハ58系だなあと実感する人も多いと思います。ところがこの駆動系が「移植」されて引継いでいる現役の車両が存在します。九州横断特急やゆふ・あそで使用されているキハ185系です。国鉄末期の製造で、極力制作費を抑える目的でエンジン・台車は新造ですが変速機と駆動系は廃車体から再利用したといいます。この廃車体とはまさしくキハ58系に他ならず、互いに2機関同士であるため都合が良かったのでしょう。そしてもちろんキハ185系でも直結走行時に懐かしい唸りを耳にすることができます。

なお私個人の感覚ですが、この58系の8気筒(DMH17系・非過給)機関は、上り急勾配で直結走行のまま30km/h程度まで速度が低下してきてもかなり粘るタイプという印象があります。

【キロ28】1961年

当線では過去にはグリーン車が連結されている列車がありました。
当線には急行「錦江」が乗り入れていた時期があり、急行グリーン車として連結された実績があるほか、合間運用で普通列車のグリーン車としても使用されました。

昭和天皇は2度にわたり当線の列車にご乗車になっており、1度目はSL列車でC56型牽引のお召し列車でしたが2度目はこのキロ28を利用して指宿まで出掛けられています。

しかし国鉄末期には急行や普通列車のグリーン車は廃止の方向が打ち出されたため、首都圏を除いて全国的に普通列車のグリーン車は廃止されてしまいました。全国的に用途を失ったグリーン車は、その後は車内設備はほぼそのままで普通車に用途変更され「乗り得車両」となったりする例がありましたが(鹿児島本線の急行用475系電車のグリーン車もこれに該当しました)、鹿児島地区のキロ28は普通車として活躍することもなく全車廃車となってしまいました。

このキロ28はキハ58系シリーズの派生形式で、グリーン車としてテーブル付きのえんじ生地のリクライニングシートと車掌室・トイレを備えており、運転台はありません。車体は標準のツートンカラーに加えて窓下にグリーン車を示す緑のラインが引かれ、大型の下降式2連窓と出入り口の「GREEN CAR」と文字が添えられたグリーンマークの表示があり、高額な特別料金を払わないと乗れない車両という高級な雰囲気を漂わせていました。

両数の多かったキハ58系列の中では、グリーン車は早期から冷房化が進められたこともあって、鹿児島地区では1両単独の冷房システムが採用されました。そのため屋根上の冷房装置が他形式よりも少し古めかしく、スマートとは言えない角ばった形状のものが付いていました。(写真のものは鹿児島地区ではない車両で、冷房の形状も異なっていますのでご了承下さい)

【キハ65】1969年
W
前述のように、キハ58は高出力の一方で独自で冷房の電源を持っておらず、かといってエンジン1基のキハ28を多く連結すれば編成全体の出力が下がるというジレンマを解消するためにこのキハ65が製造されました。前年登場した特急用キハ181系を基本とした30リッター級の水平対向12気筒の500PS走行用エンジンを1基持ち、このためスペースが空いた2エンド側(後方)に冷房電源となる4VK発電機関を持っています。これによりキハ58へも冷房の電気を送れるようになり、その結果スピードアップと冷房化が実現して全国的に急行サービスに弾みがつきました。同時にパワーを生かして山岳路線で速度向上も実現しました。特に四国に集中的に配置された実績がこの形式の性格を物語っているようです。

重量が40トンを超えておりトイレ設備の設置は見送られましたが、出入り扉は寝台車のような折れ戸式として寸法を狭め、あわせてトイレを廃止した分も客室定員を増やさずに客室スペースにあてたので、座席の間隔が非常にゆったりとしています。

またキハ58の仲間でありながら、メカ関係はキハ181系・外観は急行型電車に近い完全な別物で、新幹線0系と同様にブレーキ装置が車輪ディスク方式のため、走行時にキラキラ光るブレーキディスクが印象的な車両でした。

当線では8両が使用され、後にJR四国から移籍したうちの1両が加わりました(車号:52、54〜60、四国車は36か37だったと記憶)。当線に乗り入れてくる急行「錦江」とその合間運用として、キハ58やグリーン車キロ28を連結した4両編成で使用されましたが、当線への急行乗り入れ中止やグリーン車の廃止、キハ47の登場もあったりして、58+65+47という3両ユニットに組み替えられて長らく活躍しました。

しかし1992年に後継のキハ200型が登場すると、排気量が約6割ダウンながらも出力がほぼ同じ、しかも1両あたり7トン近く軽くて燃費やメンテナンス性が優れてしかも斬新な車両のため、普通・快速列車では急速にこれに置き換えられて全車がジョイフルトレイン改造やリクライニングシート改造を受けて急行「えびの」「あそ」などに移籍していきました(晩年は本来の山岳急行用途で活躍できたので幸せな車両だったと思います)。