昭和後半の部屋 生活


昭和32年(1957年)、帝国人造絹絲(ていこくじんぞうけんし)(現:帝人)と東洋レーヨン(現:東レ)がイギリスのICI社から
ポリエステルの製造ライセンスを取得して、翌年から生産が開始されました。
両社共通の商標としてテトロンが使われています。
商標なので、現在、帝人と東レではテトロン®と、®付きで表記しています。

なお、帝人の旧社名にある人造絹糸はレーヨンのことだそうです。


昭和33年(1958年)以前のものと思われる折尺(おりじゃく)です。
センチ(メートル)と寸(尺)が併記されています。
計量法により昭和33年(1958年)12月31日限りで取引や証明に尺貫法(しゃっかんほう)を用いることが禁止されたそうです。
現在、尺目盛りが付いたもの(尺相当目盛り付き長さ計)は、尺の目盛りに、メートル法の値が記されているようです。

裏面はインチ(フィート)表示になっています。


昭和のころは漢字の会社名が多く、ブランド名と一致していないことが珍しくなく、
会社名を変える会社が出始めました。

野田醤油(のだしょうゆ)株式会社は昭和39年(1964年)にキッコーマン醤油(しょうゆ)株式会社に変わりました。

この缶は醤油9リットル缶が入っていた缶で、会社名の左側には宮内庁御用達(くないちょうごようたし)と記されています。
9リットル缶は贈答用で、ふだんはお店にびんを持って行って詰めてもらっていましたが、地域により異なるかもしれません。


ブランドを変えるところもありました。
ナショナルのブランドは平成20年(2008年)に廃止されました。
社名は松下電器産業株式会社から、ブランドと同じパナソニック株式会社に変わりました。

左はナショナルのネオ ハイトップ、右は東芝(社名は東京芝浦電気株式会社)のキングパワーです。
どちらもマンガン乾電池で、アルカリ乾電池は高価でした。

昭和59年(1984年)に東京芝浦電気株式会社から株式会社東芝に社名が変わりました。

東芝の乾電池にはベルマークがついていました。


昭和30年代後半(1960年代)、インスタントコーヒーが国内生産されるようになり、
家庭で手軽にコーヒーが飲めるようになりました。
ネスカフェは昭和41年(1966年)から国内生産されています。
「違いがわかる男の」ゴールドブレンドは高級品でした。
今は社会全体の生活レベルが上がって、以前より身近になっているように思います。
ネッスル日本は平成6年(1994年)、ネスレ日本に変わりました。
ロゴは鳥の親子と巣をモチーフにしたものですが、写真のものは文字がイラストに重なってわかりにくいです。

ネスカフェのびんだけ残っていたので、中身は撮影用にNESCAFÉ(ネスカフェ) Excella(エクセラ)を入れております。


近くにスーパーができていないなどで、牛乳の宅配を利用する家庭が今より多かったものと思います。
これは当時の販促品と思われるコップで、遊星仮面(昭和41年(1966年)から昭和42年(1967年)に放送)と
遊星少年パピイ(昭和40年(1965年)から昭和41年(1966年)に放送)が印刷されています。
アニメの内容はまったく覚えていません。


昭和43年(1968年)に郵便番号が導入されました。写真はその前の封筒です。
郵便番号だけではなく番地も書かれていません。

この場所は今は大字蕨(おおあざわらび)ではありません。
埼玉銀行蕨東出張所は昭和39年(1964年)12月25日に開設され、
昭和41年(1966年)10月1日に蕨東支店になったそうです。
今は埼玉りそな銀行蕨東支店になっています。

郵便番号導入当初は3桁+2桁で、うしろの2桁は使われない地域がありました。
平成10年(1998年)2月から3桁+4桁が導入されています。


はがきが今の大きさになったのは昭和41年(1966年)のようです。
写真中央は昭和43年(1968年)用の年賀はがきで今と同じ100mm x 148mmですが、
写真左は昭和35年(1960年)用の年賀はがきで、90mm x 140mmとなっています。
写真右は昭和53年(1978年)用の年賀はがきです。


鉄道のきっぷは厚紙でできた硬券でした。
これは新幹線の入場券です。

国鉄は昭和62年(1987年)4月に地域別の旅客会社と貨物会社に分割されました。


東京の地下鉄も硬券でした。
平成16年(2004年)に東京メトロ(東京地下鉄株式会社)になる前、営団(帝都高速度交通営団)という事業体でした。


昭和47年(1972年)、保温ポットは、持ち上げなくても注げるエアーポットが登場しました。
象印エアーポット ”押すだけ” は昭和48年(1973年)に発売されました。
これは象印エアーポット 押すだけ VE-2200ですが、詳しい年代は不明です。
初期のエアーポットは中せんをはずしてお湯を入れる方式でした。


昭和50年代(1980年前後)は、飲み物はビンが主流で、牛乳類の飲み切りサイズは
三角の紙パック(テトラパック、正しくはテトラ・クラシック®というそうです。)もありました。
チェリオの炭酸飲料は当たりを集めるともう一本もらえました。
1コで一本もらえる当たりもあったと思いますが、使ってしまったかもしれません。

三角パックの牛乳はべつかい乳業から今も販売されているようですが、
紙パックではなくプラスチックフィルムに変わっているようです。
(2024年1月放送のザ・ニンチドショー!!で紹介されました。)


ビンの(せん)(王冠(おうかん))を開けるために栓抜(せんぬ)きが日常的に使われました。
写真はポコちゃんの栓抜きですが、いつごろの物か、何のおまけだったのか不明です。

昭和40年代くらいの不二家 ミルキーの大きいほうの箱は、揺するとペコちゃんの目が動きましたが、
ポコちゃんの目は印刷で動きませんでした。
その前の初期のころはポコちゃんの目も動くようになっていたようです。


テレビCMなどで、企業名やブランド名にキャッチコピーが添えられることがあります。
昭和47年(1972年)に作られたらしい For Beautiful Human Life というキャッチコピーは、英語として正しくない、
というネット記事がありますが、時を経てみれば、キャッチコピーが多くなかった時代に、
視聴者の印象に残るキャッチコピーとして成功だったのではないか、と思います。

鐘紡(かねぼう)株式会社は平成13年(2001年)にカネボウ株式会社に変わり、さらに化粧品事業は平成18年(2006年)に花王グループに入ったようです。
このテムジン オードトワレは漢字の鐘紡時代のものですが、くわしい販売時期はわかりません。


住所の表示が大字(おおあざ)○○ ○○番地から、○○ ○丁目○番○号に変わりました。
地域により異なるかもしれません。


会社にもよりますが、昭和のころは運動会や旅行などの社内行事が盛んにおこなわれていました。

会社によっては、費用を会社負担で、慰安旅行(いあんりょこう)慰安会(いあんかい)がおこなわれていました。
父親の勤務先(当時の従業員数400人程度)では、慰安会として観劇をしていました。
写真はその時の新宿コマ劇場のチケットです。
写真上のチケットの公演内容は不明です。
新宿コマ劇場は平成20年(2008年)の年末の公演を最後に閉館になりました。


日本酒とウイスキーにはそれぞれに級別制度というのがあり、特級、一級、二級などと表示されていました。
一般的には、特級、一級、二級の順に品質が高いのですが、
日本酒では、審査を受ける必要がない二級酒として販売された吟醸酒(ぎんじょうしゅ)などがあり、
二級酒が必ずしも品質が低いわけではありませんでした。
日本酒の級別制度は平成4年(1992年)に、ウイスキーの級別制度は平成元年(1989年)に、それぞれ廃止されました。
これは菊姫のカタログ 菊姫之記 の第2刷(平成3年(1991年)7月版)です。
お酒は個人の好みが異なるため、特定の酒造会社や銘柄をお薦めしているわけではありません。
とは言うものの、私も薦めてもらわなければ、このカタログを手に入れられなかったわけですが。


情報はテレビなどの放送や本などの印刷物からがほとんどでした。
地域ごとの商店街に本屋さんがありました。
保育社のカラーブックスは昭和37年(1962年)に第一巻が発行され、お手頃価格でカラー写真が多く、ジャンルが多彩で、
情報源として重宝しました。
保育社は平成11年(1999年)に経営危機になりましたが、再建され、カラーブックスの一部の巻は今も売られているようです。

なお、一般論としてインターネット上の情報には、信頼性の低いものもあり、注意が必要と言われています。
本が情報インフラとして重要であることは変わっていないと思われます。



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