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このページでは、当地湘南の様子をビジュアルにお送りします。
私のみならず湘南に想い出がある方やこよなく愛でて下さる方の寄稿を歓迎いたします。
                                             世話人敬白

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2009年02月08日

               湘南便りその240

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第29回
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 29.【妙本寺‐3 祖師堂】

 二天門をくぐると正面に大きな瓦葺きの建物があります。これが「祖師堂」です。

 どなたもお寺さんの配置は山門奥にある立派な建物が本堂だと思われているでしょう
 が、妙本寺の場合、この建物は「祖師堂」と呼ばれます。

 祖師堂は十二間四方の瓦葺き入母屋造りの建物です。一間幅の回廊がありますが、
 他のお寺さんと異なり、堂の正面には更に二間の奥行きがあります。

 これは、大きなお寺ゆえに大勢の参拝者があるので、参拝者への配慮から、履物を
 脱がないでお参りできるようになっているのだそうです。

 祖師堂内の中央にあるお厨子は、江戸にあった鼠山感応寺(ねずみやまかんのうじ)
 が、江戸後期 ”水野忠邦”による「天保の改革」で取り潰された際、感応寺のお堂に
 あった厨子を妙本寺に移したのだそうです。

 この厨子に日蓮聖人像が祀られています。

 この日蓮聖人像は、池上本門寺・身延久遠寺と一本の木で彫られた「一木三体のお
 像」と言われ、日法上人の作ですが、そのなかでも妙本寺の像は日蓮聖人御存命時
 の製作で一番古いとされ鎌倉市の重要文化財に指定されています。

 私も実際祖師堂に入り拝観させていただいたことがありますが、とても立派な像であ
 りました。



これが祖師堂です。


2009年01月21日

               湘南便りその239

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第28回
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 28.【妙本寺‐2】

 日蓮宗の大きなお寺は、「二門二堂」という形式もあるそうですが、妙本寺は「総門」
 「二天門」と「方丈門」の三門と「祖師堂」「本堂」の二堂があります。

 今回はこの内の二天門を紹介します。

 
正面の石段を登るか右側の坂を登ると朱塗りの二天門の前に着きます。

 二天門の建設は嘉永元年(1848)頃と推定されています。

 桁行 (正面) 三間、梁間 (奥行) 二間の八脚門で、中央は約4m、両脇は各 約2.4m、
 合計 8.8mです。

 二天門には龍の彫り物があり、ニ、三歩下がって手をたたくと、龍が鳴くように聞こえ
 るといわれています。

 両脇の飛貫の上は連子欄間とし、頭貫の端には、象(または獏)や獅子の形の彫り
 物がついています。

 屋根の側面は、切妻造りで、虹梁 (こうりょう) が二段になっていますが、これを二
 重虹梁式というのだそうです。

 両脇間にニ天の像が立っています。向かって右が持国天、左が多聞天(毘沙門天)
 とのことです。

 一般の寺院の山門には、所謂、仁王様(金剛力士像)が立っていますが、この形式
 はあまり見たことがありません。

 その理由を恩師に聞いたことがあるのですが?でした。



これが夕映えの二天門です。



2008年12月28日

               湘南便りその238

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第27回
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 27.【妙本寺‐1】

 逆川橋を過ぎさらに通りを北に向かうと夷堂橋があります。その橋を渡る前に右の道
 を行くと妙本寺があります。

 妙本寺(みょうほんじ)は神奈川県鎌倉市大町にある日蓮宗の本山(霊蹟寺院)です。
 山号は長興山(ちょうこうざん)で文応元年(1260年)の創建。開基は比企能本、 開
 山は日朗、十界曼荼羅を本尊とします。

 現在妙本寺のある谷戸は、現在は比企ヶ谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には
 比企能員(よしかず)一族の屋敷がありました。

 比企能員は源頼朝の乳母、比企尼の養子であり、1180年以後は頼朝の信任を得て、
 御家人となった。源平合戦から奥州合戦まで数多くの功績があり、後に能員の妻は
 源頼家の乳母となり、その娘、若狭局(わかさのつぼね)は頼家の妻となって頼家の
 子、一後に能員の幡(いちまん)を生むなど、源氏とかなり深い関係を持つようになり
 ました。

 頼朝としては、妻の実家である北条氏への権力集中を防ぐ意図で嫡男頼家の乳母
 に北条氏以外の比企氏を指名したのだろと思いますが、その結果として、北条氏は、
 次第に勢力を増す比企氏を危険視し、1199年頼朝の死後は、いっそうその対立は
 顕著なものとなりました。

 建仁3年(1203年)に頼家が病気で倒れると、次の将軍を誰にするかで、 千幡(後の
 源実朝)を将軍にしようとする北条氏と、 若狭局が生んだ一幡を将軍にしようとする
 比企氏の間で争いが起きました。

 能員は頼家と北条氏討伐を謀りますが、察知され、北条時政の名越にある別邸で殺
 害されてしまいます。 比企一族は、能員殺害後、比企ヶ谷の谷戸(小御所)に篭って
 北条氏らの軍勢と戦いますが、敗れ、屋敷に火を放って自害しました(小御所合戦、
 比企の乱、比企能員の変)。 そして若狭局は、井戸(蛇苦止の井)に身を投げて自害
 し、一幡も戦火の中で亡くなりました。

 



妙本寺はこんな奥深い谷戸にあります。



2008年11月16日

               湘南便りその237

         
鎌倉ハイキングコースY

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                    第26回
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 26.【逆川橋】

 辻の薬師堂からさらにバス通りを北に進むと逆川橋(さかさがわばし)の橋標が立っ
 ています。橋標からに右に曲がる小道に入ると、小さな橋が架かっているのが見え
 ます。これが鎌倉十橋の一つとされる逆川橋です。

 新編鎌倉志には、『逆川は名越坂より西北方面に流れている、故に逆川と称す。大
 町と辻町の間を流れて滑川に合流する。大町と辻町の間に橋がある、逆川橋と言い
 鎌倉十橋の一なり』とあります。

 逆川とは逆に流れる川という意味ですが、鎌倉の川は山から海へと、北から南へと
 流れているのが多いのですが、逆川の場合、地形の関係で川の一部が南から北へ
 と他の川とは逆方向に流れ、その後は大町と辻町の境の魚町橋より南西に向きを変
 え上河原付近より滑川に合流しているのです。
 
 そのため、川はまるで「海に背を向け逆に流れている」ように見えるのです。
 この様な事から、逆川という名が付いたのでしょう。
 



これが橋標です。
身体を傾けないと読めませんが
『十橋之一逆川橋』と刻まれています。



現在の逆川橋です。
橋の竣工は昭和36年7月だそうです。



2008年10月26日

               湘南便りその236

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第25回
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 25.【辻の薬師堂】

 元八幡から横須賀線の踏切を渡るとすぐ左手に辻の薬師堂があります。

 この薬師堂は、建久元年(1190年)に、源頼朝が二階堂(現在の鎌倉宮あたり)に建
 立した医王山東光寺(一説に、二階堂行光が承元3年・1209年に永福寺の傍らに建
 立)の境内にあったものといわれます。

 後醍醐天皇の皇子護良親王が幽閉され、後に足利直義のために殺害されたのが、
 この東光寺ですが、南北朝時代には関東十刹の一とされました。

 その後宝永元年(1704年)、薬師堂は、大町名越御嶽(名越切通しの近く)にあった古
 義真言宗長善寺に移されました。長善寺は、奈良時代の神亀年間に由比の長者染
 谷太郎時忠の建立といわれる古刹です。

 その後、大町辻に移り、延宝2年(1674年)5月には、水戸光圀も訪れており、江戸末
 期に焼失したが、薬師堂だけは残ったといいます。

 さらには、明治期の横須賀線敷設工事に伴い、現在地に移設されました。

 この薬師堂は大町辻町の町内会の人々によって維持管理されています。神奈川県
 指定文化財の諸仏像は、鎌倉国宝館に寄託されていますが、レプリカは拝観可能
 です。

 
(Wikipediaより説明を引用)



辻の薬師堂です。



2008年10月05日

               湘南便りその235

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第24回
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 24.【元八幡】

 来迎寺から本通りに戻って横須賀線の踏切まで歩くと踏切少し手前の路地を入っ
 たところに元八幡があります。

 鶴岡八幡宮は吾妻鏡(あずまかがみ)によると、社は伊豫の守源頼義が勅命によっ
 て安倍の貞任を征伐した時(前九年の役)に、戦勝を祈願するため康平六年(10
 63年)秋八月に石清水八幡を勧請して社を由比の郷に建てたと記されています。

 また、永保元年(1081年)二月に陸奥守義家が修復を加えたとあるのは、此処であ
 り、鶴岡とは、昔この地をそのように呼んでいた為だと思われます。

 その後、治承四年(1180年)十月十二日に源頼朝が祖先を崇める為、小林郷の北
 方にある山を定めて宮の廟を建て、由比の宮をここに遷しました。これが現在の八
 幡宮です。

 吾妻鏡によると治承四年十月七日に頼朝が先ず遙かに鶴岡八幡宮を参拝したとい
 うのは、由比ケ浜の宮のことです。遷宮の後も鶴岡八幡宮と云ったのは、旧称に従
 ったものといわれ、以来この地は元八幡と称されています。
 



元八幡です。



境内には源義家の旗立の松があります。



2008年09月21日

               湘南便りその234

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第23回
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 23.【来迎寺】

 先に紹介した五所神社前の道をさらに北に歩くと来迎寺があります。

 
来迎寺は、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うため建立した真言宗の寺が始まり
 (能蔵寺)です。

 その後、開山の音阿が時宗に改宗したため、現在は時宗藤沢清浄光寺末 随我山
 来迎寺となっています。

 三浦義明は、頼朝挙兵の際に間に合わず、その帰りに当時平家方だった畠山重忠
 軍と戦い討死しました(89歳)。

 頼朝は、義明が17回忌まで生きたものとみなすよう伝えたため、「百六つ義明公」と
 呼ばれるようになりました。

 境内には義明の五輪塔が、本堂裏には三浦一族の墓があります。



来迎寺入口です。
右側に立つ木がミモザで毎年3月頃に見事な黄色い花が咲きます。
正面が本堂です。



本堂裏側にある三浦一族の墓です。




2008年09月07日

               湘南便りその233

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第22回
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 22.【啓運寺】

 乱橋からさらに進むとまたまたひっそりとした佇まいの啓運寺があります。

 お寺というよりもお堂といった感じなので調べてみたら、明治の中頃までは本当に小
 学校の校舎として使用されていたのだそうです。

 このお寺は、正式には松光山啓運寺といいます。文明15年(1483)、大町妙法寺の
 住職だった日澄上人が創建し移り住んだと伝えられています。

 日澄上人の死後は、長勝寺の住職がこの寺を兼任してきたので、現在でも無住の寺
 となっています。本尊は江戸時代の作といわれる日蓮上人の像、三宝祖師像です。

 お堂は、昭和8年に再建されました。

 明治の一時期、黒田清輝がアトリエに使ったこともあるといわれます。



啓運寺本堂です。
本当に寂しい雰囲気です。



境内にはこんな石塔群があります。
鎌倉時代の作だといわれています。




2008年08月31日

               湘南便りその232

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第21回
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 21.【乱橋】

 向福寺を出て小町大路をさらに鎌倉駅方面に進むと道端に鎌倉十橋の一つ「亂橋」
 の橋標と道路向い側に石碑があります。

 新編鎌倉志によると「鎌倉十橋と言うのは、昔より鎌倉に伝わる「鎌倉の名数」の一
 つで、琵琶橋、筋違橋、歌の橋、勝の橋、裁許橋、針磨橋、夷堂橋、逆川橋、乱橋、
 十王堂橋」とあります。

 その新編鎌倉志に、亂橋は、辻町より材木座へ渡り行く石橋なり。鎌倉十橋のうち
 なり。また、鎌倉攬勝考には、今は村名に唱ふ。辻町より材木座へ渡る石橋をいふ。
 新編相模国風土記稿にも同様に記されています

 橋の規模は川幅は1.2m、幅員は約8mで、橋の規模は実に小さくぼんやり歩い
 ていると見過ごしてしまいそうです。

 古い言い伝えに「新田義貞の軍が鎌倉に攻め入った時、北条方の軍勢がこの橋の
 あたりからくずれはじめたので乱橋と言う」との伝承がありますが、新田義貞軍の鎌
 倉攻めは元弘三年(1333)五月であり、吾妻鏡に亂橋の名が見えたのは宝治二年
 (1248)六月なので、約八十五年さかのぼることになります。

 しかしながら、伝承は伝承として大切なものであり、 先の鎌倉観光文化検定でもこ
 の説が採用されていました。



これが橋標です。
注意していないと通り過ぎてしまいます。



現在はこんな状態です。


2008年08月24日

               湘南便りその231

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第20回
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 20.【向福寺】

 五所神社から小町大路に戻り、鎌倉駅方面に少し歩くと本堂と庫裡だけのひそやか
 な佇まいの向福寺があります。

 開山は、一向上人といわれ、時宗の開祖である一遍上人と同じく鎌倉時代に各地を
 遊行し、踊り念仏によって教えを広めました。

 本尊は観音、勢至の両菩薩を脇侍とする木造阿弥陀三尊像で、南北朝時代の作品
 といわれています。

 また、このお寺は、鎌倉三十三所観音霊場第十五番札所となっています。

 江戸時代末、1826(文政9)年に再建された本堂と表門は、関東大震災で全壊しまし
 たが現在の本堂は昭和の初期に建てられました。

 観光スポットから外れガイドブックにも出ていないのがかえって魅力のお寺です。

 また、『丹下左膳』などの作品で知られる作家・林不忘(はやしふぼう)は、1926(大正
 15)年、この寺で新婚生活を送りました。

 (不忘の墓は妙本寺にあります。)




向福寺本堂です。
注意しないと行き過ぎてしまいます。




2008年08月10日

               湘南便りその230

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第19回
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 19.【五所神社‐2】

 五所神社の境内の一角に弘長2年(1262年)の銘を持つ板碑があります。
 この板碑はもともとは九品寺近くにあった感應寺の境内にあったといわれています。

 傍らに立つ案内板によるとこの板碑は不動明王の種子(梵字)を冠し、国の重要美術
 品に指定されているのだそうです。



板碑は、主として追善供養のためにつくられたもので
平板な石に種子(しゅじ:梵字で如来や菩薩をあらわすもの

を刻んだものです。


2008年08月03日

               湘南便りその229

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第18回
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 18.【五所神社‐1】

 実相寺を出て前の道を少し北に歩くと五所神社があります。

 五所神社の前身は乱橋村の鎮守三島神社で、明治41年(1908年)7月、乱橋・材木座
 の合併の際、 乱橋の八雲神社・金毘羅宮及び材木座の諏訪神社・見目(みるめ)明
 神社の四社が合祀されて五所神社と改められたものです。

 祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)・スサノオノミコト・崇徳院霊・建御名方命(た
 けみなかたのみこと)・天照大神の五柱ですが、 この内の見目社は補陀落寺の鎮守
 と思われ諏訪社も同寺の管理下にあったといいます。

 今年は、上記合祀から100年めにあたり、それを祝って、去る6月8日に、五所鎮座百
 年祭が行われました。
 



五所神社の参道です。
狛犬が迎えてくれます。



五所神社の社殿です。



2008年07月27日

               湘南便りその228

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第17回
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 17.【実相寺】

 九品寺前のバス通りを少し鎌倉駅方向に進み山側にある細い道に入ると実相寺があ
 ります。

 実相寺は、弘延山実相寺(こうえんざんじっそうじ)といい日蓮宗のお寺で、曽我兄弟
 に父の仇として討たれた武将、工藤祐経(すけつね)の屋敷跡と伝えられています。

 祐経の娘の子で、後に法難によって伊豆国に流された日蓮上人の弟子となった日昭
 が、その屋敷跡に法華堂を建てたのが始まりで、弘安7年(1284)に法華寺となり、
 その後伊豆玉沢(三島市)に移設されました。

 次いで、元和7年(1621)日潤によて再建されたのが現在の実相寺で、この実相寺も
 明治初頭、火事により焼失し現在の本堂はその後に再建されました。



実相寺総門です。江戸時代の建築で、
この門の様式を薬医門というのだそうです。



実相寺本堂です。
境内はひっそりと静かな佇まいです。



開山日昭の墓です。




2008年07月13日

               湘南便りその227

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第16回
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 16.【九品寺】

 補陀落寺から、大町大路に出て少し材木座方面に戻ると九品寺があります。山号は
 内裏山といい浄土宗のお寺です。開山は風航順西とされます。

 この地は、鎌倉攻めに入った新田義貞が本陣を構えた場所で、鎌倉幕府滅亡後に戦
 死者を弔うために義貞によってこのお寺が建立されました。

 本堂には、『九品寺』と書かれた扁額が見えますが、新田義貞直筆の写しだと伝えら
 れています。また、新田の『丸に一つ引き両紋』あるいは『新田大中黒』と呼ばれる家
 紋もあちこちに見られます。

 上野国の清和源氏・新田義貞は、元弘3(1333)年5月8日に産土社(うぶすなかみ)の
 生品神社で鎌倉幕府倒幕の旗揚げし、北条軍を蹴散らしながら南下しました。
 そして5月21日早朝の稲村ガ崎海岸の大潮を利用した浜路ルートで、鎌倉に突入し、
 同時に西方の極楽寺坂と化粧坂と巨福呂坂からも新田軍が突入に成功し、北条軍を
 じわじわと追い詰めて行ったのです。
 



九品寺本堂です。



ここ(天水鉢)にも新田家の家紋「新田大中黒」が見えます。




2008年07月06日

               湘南便りその226

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第15回
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 15.【補陀洛寺】

 光明寺から小町大路を少し鎌倉方面に進み途中の路地を右に入ると補陀落寺(南向
 山帰命院補陀洛寺・真言宗)があります。開山は文覚上人開基は源頼朝と伝えられ、
 頼朝が鎌倉に入った翌年の養和元年(1181年)に頼朝の祈願所として創建されました。

 創建当初は七堂伽藍をもつ壮大な寺院でしたが、再三の竜巻で被災して、次第に寂
 れてしまいました。

 本尊は、木造十一面観音菩薩立像ですが、他に木造不動明王像、木造薬師三尊像、
 永和3年(1377年)銘の木造秘鍵大師坐像、地蔵菩薩像、源頼朝像、木造文覚上人裸
 形像、など仏像の宝庫といわれています。また、平家の赤旗と称する旗一流が残され
 ています。

 その他、本堂前には立派なサルスベリの樹があって、盛夏に向かい満開になります。



補陀洛寺正面です。
今はこじんまりとした佇まいです。



門前にある石標には「源頼朝公御祈願所南向山補陀洛寺」と記さ
れています。



2008年06月15日

               湘南便りその225

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第14回
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 14.【正覚寺】

 六角ノ井のすぐ近くには、浄土宗の住吉山悟真院正覚寺があります。

 この寺は、もともとは材木座の光明寺の開山である然阿良忠が開いた良忠院悟真寺
 というお寺でしたが、背後の山に三浦氏の住吉城があったため、たびたび戦乱に巻き
 込まれ廃絶し、天文10年(1541年)に光明寺の住持快誉上人が正覚寺として再興しま
 した。

 材木座の海が一望でき、本堂横の階段を上がると住吉城址があります。
 住吉城は、自然の地形をうまく利用した山城で、北条早雲が造ったといわれます。

 鎌倉時代、鎌倉幕府創設にあたって尽力した三浦氏は相模で最大の勢力を形成しま
 すが、後に北条氏と対立して滅亡してしまいます。

 三浦氏滅亡後、一族の佐原氏によって三浦氏の名跡が再興され、鎌倉御家人三浦
 氏の末裔となる三浦道寸がこの城を落としましたが 再び早雲に落とされ、道寸は三
 浦の新井城に逃れることになりました。



正覚寺本堂です。
今はこじんまりしたお寺です。



2008年06月15日

               湘南便りその224

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第13回
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 13.【六角の井】

 和賀江島の直ぐ側に鎌倉十井の一つである六角の井があります。

 この井戸は別名「矢の根の井」といわれ、次のような土地に伝わる伝説があります。

 昔強弓をもって知られた鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)は、 保元の乱に
 おいて為義に従い崇徳上皇方についたが敗れ、伊豆大島に流されました。

 ある日、為朝が弓を引く力が衰えたかを試すために、伊豆大島より鎌倉の材木座海
 岸にある、 光明寺裏山の天照山をめがけて遠矢を放ったところ、その矢は18里の
 洋上を飛び越えて、 六角の井の中に落ちたと云われています。

 わずか13のときに九州に下り、三年のうちに平定したという為朝の矢は「船いくさの
 遠矢」(義朝)と評された強弓で、 保元の乱では一発の矢で二人を倒したり、敵の太
 ももをつらぬいて前後の鞍の輪に串刺しにしたといいます。

 また義朝の兜の星をけずって後ろの寺の門に突き刺さった、その証拠の矢傷が宝
 荘厳院(京都・白河六勝寺の子院、廃寺)の方立にのこっているとされたり、 さらに
 八丈島で追討にあったときには、官軍の船を一発で貫通し沈没させた、 などという
 神話があります。

 しかし、大島から鎌倉までは、18里もあるのでこの話は?ですね。



六角の井です。



この写真では良く分かりませんが、井戸は八角形です。
二角は逗子の分で六角が鎌倉分なので六角ノ井という説があります。



2008年06月08日

               湘南便りその223

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第12回
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 12.【光明寺−11 光明寺開山・開基の墓】

 ■開山と開基の墓

 ちょっと順番がずれてしまいましたが、先日、光明寺の開山と開基の墓の写真を撮っ
 て来ましたので紹介します。



開山の然阿良忠の墓です。

良忠は、石見国三隅の出身で、園城寺(三井寺)・出雲国鰐淵寺に入り
浄土・天台・真言・法相法相の各教学を修めました。
1236年(嘉禎2年)法然の弟子である弁長の弟子となり、1240年(仁治元年)
幕府の執権北条経時の帰依を受けて鎌倉に蓮華寺(現在の光明寺)を創建しました。
1248年(宝治2年)には後嵯峨上皇に円頓戒を授戒しており、関東において広く浄土教を
布教し、時には日蓮と争うなどしています。



開基・北条経時の墓です。

父は北条時氏。母は安達景盛の女松下禅尼。妻は宇都宮泰綱の女。
寛喜2年(1230)、7歳で父を失うが、執権である祖父泰時の庇護の下で成長しました。
文暦元年(1234)3月5日11歳の時、将軍御所で元服し、将軍九条頼経の偏諱を賜り
「北条弥四郎経時」と号しました。
8月1日、小侍所別当に就任。嘉禎3年(1237)2月28日14歳で、左近衛将監に任官。
翌日、叙爵。仁治2年(1241)6月、18歳で評定衆に就任し、8月12日、従五位上に叙せ
られています。
日本史に名を残した名君が多い鎌倉時代前期の執権北条氏において珍しく存在感の
薄い執権と評されています。光明寺の説明に彼の名前が出ても「経時って誰?」と思わ
れてしまうことがありますが、今でも時々影の薄さを嘆く経時の亡霊が鎌倉に出没し、
その嘆き声が鎌倉市内全域に響き渡る事があるという噂も・・・



2008年05月25日

               湘南便りその222

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第11回
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 11.【和賀江島−1】

 ■日本最古の築港遺跡
 
 
光明寺から出て海岸通りを左に進んで砂浜に出ると沖合いに玉石を積んだ小さな島
 が水面に顔を出しているのが見えます。

 この島は和賀江島(わかえじま)と呼ばれ、鎌倉時代に東国の貿易の拠点として開発
 された日本最古の築港遺跡です。

 吾妻鏡貞永元年(1232)7月12日の条に
 
「今日勧進聖人往阿弥陀仏(寛喜3年4月に九州筑前新宮浜の鐘ケ崎に防波堤を構
 築した。)が申請につきて、舟船著岸の煩いなからんがために、和賀江島を築くべき
 の由と云々、武州(北条泰時)は特に御歓喜ありて合力せしめたもう、諸人また助成
 すと云々。」
とあり、同じく7月15日の条には
 「今日、和賀江島を築き始む。平三郎左衛門尉盛綱行き向かうと云々。」
と述べられ
 ています。
 また、同年8月9日の条に
「和賀江島その功を終ふ。よって尾藤左近入道・平三郎左
 衛門尉・諏方兵衛尉御使として巡検す云々。」
とあります。

 この記述を整理しますと和賀江島の築堤工事は7月15日に着工し、8月9日に完成し
 たことになり、工期は26日となりますが、あまりにも短期間で完成しています。

 研究者によれば、玉石の大きさ、これらを相模川、酒匂川、伊豆海岸などから運ば
 れたと言われていることから舟による運搬及び工事規模や当時の土木技術の水準、
 舟の大きさから考えてみるとやはりこの工期は疑問視されているそうです。

 和賀江島は、鎌倉時代には極楽寺(鎌倉市極楽寺)により管理され、日本各地や遙
 か宋(現在の中国)の国との貿易で大いににぎわっていました。

 和賀江島は、江戸時代までは港として利用されていましたが、度重なる震災や老朽
 化により、現在では、その面影として石のがれきを残すのみとなっています。



海の中に出ているのが和賀江島です。
背後に江ノ島と稲村ガ崎が見えます。


2008年05月18日

               湘南便りその221

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第10回
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 10.【光明寺−10 光明寺裏山の展望】

 ■神奈川の景勝50選

 光明寺裏山は、山門の扁額に書かれていた天照山というのが正式名です。
 ここに登るには本堂裏手からの道があるのですが、工事中ということで一旦境内を
 出て前回紹介した内藤家墓所から登っていきました。

 でも、これは、「登る」というほどのものでもないし、そこは山頂でもなんでもなくて、
 単なる舗装された道路でした。

 どこが絶景ポイントなのか探したところ、やがて石碑が見つかりました。

 ここから見る景色は写真の通りですが、これが神奈川の景勝50選なのかどうかは、
 果たしてどうでしょうか・・?



これが石碑です。



確かに稲村ガ崎や江ノ島は見えますが・・・



2008年04月27日

               湘南便りその220

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第09回
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 9.【光明寺−9 内藤家墓所】

 ■光明寺の裏手には、日向(ひゅうが)延岡藩主内藤家と、磐木(いわき)湯長城谷
 領主内藤家の江戸時代の墓所があります。

 大型の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や六観音、六地蔵など、200基以上の石像遺
 品が並んでおり、周辺とは全く異なる空間です。



内藤家は陸奥磐城平藩を治めた江戸初期の大名です。
内藤忠興(1592-1674)が生前、江戸霊厳寺にあった墓地を
浄土宗関東大本山・光明寺に移し、寛永11(1634)年から
明治21(1888)年に至る宝篋印塔40基、卒塔婆12基の
他五輪塔、角塔婆、石仏などが立ち並んでいます。



この正面の宝篋印塔が、藩祖内藤忠興の墓らしいです。



2008年04月20日

               湘南便りその219

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第08回
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 8.【光明寺−8 鎌倉アカデミア】

 ■ここに鎌倉アカデミアありき

 敗戦から間もない昭和21年5月。戦火を免れた鎌倉光明寺に、斬新な大学が作られ
 ました。

 その名は、「鎌倉アカデミア」
 愚かな戦争をくり返さず、真の民主主義の土壌を作り上げようと、哲学者三枝博音を
 学長に、高見順ら多くの知識人たちが教壇に立ち、知に飢える若者たちと相互練磨し
 ながら、揺るぎない教養を身につける場を作り上げたのです。

 それまで「敵か味方か」「生か死か」など、二者択一しか持ちえなかって若者たちに
 とって、ここは、生きる根源を問い直し、再構築していく場となりました。

 鎌倉アカデミアは、当初大学設立を目指したものの、資産や運営資金の不足から専
 門学校として申請されました。したがって、正規の大学とはなりえず、正式には鎌倉
 大学校といいます。

 しかし、創立時からの資金難に加え、自治体や企業からの援助も得られず、わずか
 4年半しか存続できませんでした。教授陣は最後の2年近くは無給で講義に当たり、
 また学生の半数は学費を納めていなかったそうです。

 1996年、創立50年を記念して光明寺の一角に記念碑が建立。また2006年5月13日に
 は、創立60周年記念祭が同じく光明寺の本堂にて行なわれました。



ここで学んだ人達は次の方々です。
いずみたく ・岩内克己 ・勝田久 ・加藤茂雄 ・鈴木清順 ・津上忠 ・左幸子
前田武彦 ・山口瞳 ・廣澤榮



2008年04月13日

               湘南便りその218

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第07回
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 7.【光明寺−7 善導大師像】

 ■善導大師像

 本堂側には、善導大師像が立っています。光明寺等浄土宗関係のHPを読みますと
 次のような方だったそうです。

 善導大師は、隋の時代の末期、現在の山東省にあたる地で生まれ、幼くして出家しま
 す。末法の世に生まれ、修行の及ばぬ身であることを思い、末法にかなった道を求め
 て数々の経論をひもといていった善導は、 『観無量寿経』に心をひかれ、一心不乱の
 修法を重ねましたが根本の信念が得られません。

 善導は、各地に名僧をたずね、道を求めることになりました。 29才の時、善導は玄忠
 寺の道綽に会うことができました。そのとき道綽は80才でした。

 道綽の念仏の声は朗々として善導の心を打ちました。五年の師弟生活のうちに善導
 の念仏往生の信念は確固たるものとなりました。

 当時は、唐代初期の中国仏教の一大盛期であり、 各地に有名な高僧を輩出した時
 代でした。善導は唐の都、長安に入り、光明寺に住んで広く大衆に門戸を開き、念仏
 を勧めます。その結果、「長安の城中、念仏に満つ」といわれるほど念仏が盛んにな
 りました。

 善導は『観経疏』を著すことによって、これまでの『観無量寿経』についての解釈を改
 め、念仏往生こそ末法悪世の人々のための仏の本意であることを明らかにしました。
 これを善導流の念仏といいます。

 善導は持戒が非常に厳格で、三十余年のあいだ自分の寝所を定めず、しかも念仏
 の声は口を絶えず、眼をあげて女人を見ないというほどであったと伝えられています。

 法然上人はことのほか善導を敬慕され、阿弥陀仏の化身とまであおがれています。




善導大師像です。



2008年04月06日

               湘南便りその217

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第06回
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 6.【光明寺−6 記主庭園】

 ■記主庭園
 本堂と開山堂を結ぶ回廊の奥に、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作と伝わる池泉(ち
 せん)式の記主きしゅ庭園があります。 

 今回訪れたのは春先だったので下の写真のような状態でしたが、真夏の記主池は、
 見事な紅桃色の蓮の花が埋めつくします。



光明寺の蓮は、ロマン溢れる古代蓮として知られています。
この古代蓮は、大賀一郎博士が昭和26年(1951)千葉県検見遺跡
の泥炭層で発見した縄文時代の蓮の実3個のうちの1個から発芽
させたもので、大賀蓮とも呼ばれています。





2008年03月30日

               湘南便りその216

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第05回
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 5.【光明寺−5 三尊五祖の石庭】

 ■三尊五祖の石庭

 本堂南側には、立派な石庭があります。

 お寺さんの説明によりますと・・・
 三尊とは、極楽浄土の阿弥陀仏とその脇士たる観音・勢至の二大菩薩。
 五祖は浄土教を説法流布された釈尊(印度)善導(中国)法然・鎮西・記主(日本)の
 浄土宗五大祖師を表しているのだそうです。

 庭園全体の構図は、煩悩多いこの世(此岸)と救われていく彼の岸(彼岸)とを示して
 います。





石庭といえば、その昔修学旅行でいった京都の竜安寺のそれが有名です。
ここはそれより規模が小さいのですが、ただ静かに座って眺めているだけで、
心がゆったりしてきます。
因みに前回紹介したネコはここが縄張りみたいです。




2008年03月23日

               湘南便りその215

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第04回
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 4.【光明寺−4】

 ■本堂-2

 広い本堂には尊阿弥陀三尊像をはじめ、数多くの彫刻があり、また、絵巻を中心とし
 た絵画や古文書が豊富なことでも知られます。

 文化財

 国宝:紙本著色当麻曼荼羅縁起 2巻−鎌倉時代制作の絵巻物で、上下2巻に分か
     れる。奈良・当麻寺に伝わる著名な当麻曼荼羅と中将姫の説話を絵解きした
     ものである。
 重要文化財:絹本著色当麻曼荼羅図 1幅 ・紙本著色浄土五祖絵伝 1巻 絹本著色
     十八羅漢および僧像 19幅



ご本尊の阿弥陀如来像です。
浄土宗は法然上人(ほうねんしょうにん)が宗祖で、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
と唱えれば極楽浄土(西方浄土)に導かれるという他力本願の念仏宗です。
この仏様を拝んでいると何だか有難い気持ちになってきます。
合掌


2008年03月16日

               湘南便りその214

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第03回
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 3.【光明寺−3】

 ■本 堂

 元禄11年(1698)建立の入母屋造、銅板葺き、正面側面ともに約25mの鎌倉でも最大
 級の本堂です。内部は畳敷きの広大な空間となっています。1923年の関東大震災で
 もほとんど損傷せず、建立当時の姿を保っている建物です。1999年には重要文化財
 に指定されました。

 私は時間がある時はこの本堂でボーッとしていることが多いです。
 その理由は、このお寺さんには「来るものは拒まず」という伝統的な方針がおありで、
 深夜などは論外ですが、本堂の中で長くのんびりしていても追い出されることはあり
 ません。

 これは、私が良く利用している小町通りのレストランのマダムから聞いた話ですが、
 マダムの友達でプチ家出?が趣味の方がおいでで、その人がある日家出をしたもの
 の行くところがなくて仕方なく光明寺の本堂の軒下で寝袋に包まって寝ていたら、朝
 起きた時に頭の上に弁当が置いてあったので驚いたそうです。

 おそらくお寺の方がそっと置いておいたのでしょう。普通なら追い出されて当たり前な
 のに・・・。

 私はそれを聞いて、流石は法然上人の浄土宗の寺だと思ったものでした。

 そのせいでしょうか、ここにいる猫達はみな栄養が良く太っています。

 鎌倉を何度も訪れているとこんな話を聴くことが出来るのが嬉しいことです。

 因みにこのプチ家好きの方は、それ以後光明寺さんに足を向けて寝れなくなったそう
 です。



光明寺本堂です。



どうです。栄養状態は良好でしょう。



2008年03月02日

               湘南便りその213

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第02回
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 2.【光明寺−2】

 ■山 門

 惣門を入ると正面に大きな山門がそびえています。

 光明寺山門は、弘化3年(1846)に再建の計画がされたもので、市内では最大の門
 です。下層は柱が正面横方向に6列、5間に別れ、その内中央の三間が通路になっ
 ている2階建ての門で五間三戸二重門と呼ばれます。

 その威容は、まさに浄土宗関東大本山に相応しいものです。明治初期の廃仏毀釈
 の際、鶴岡八幡宮から移築されたものとされます。
 



これが山門です。でかい!



中央には「天照山」と書かれた額がかかっています。
これは後花園天皇から永享8年(1436)に賜ったものだそうです。



2008年02月24日

               湘南便りその212

         
鎌倉ハイキングコースY

         和賀江島から材木座そして東勝寺跡へ

                    第01回
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 1.【光明寺−1】

 立春が過ぎて鎌倉にも春の息吹が感じられる季節になりました。

 今回から、鎌倉の南地域を歩いてみたいと思います。
 この辺りは、2003年4月からのシリーズでも一部紹介しましたが、今回から最新情報
 をお届けします。
 
 まずは、最初に鎌倉駅東口の7番バス乗り場から京急バス「新逗子」行きで光明寺へ
 向かいます。
 
 光明寺は、鎌倉市材木座にある浄土宗関東大本山の寺院です。山号は天照山とい
 います。

 開基は北条経時、開山は浄土宗三祖然阿良忠です。

 さぁ、それでは入ってみましょう。



最初に惣門です。
この惣門は、虹梁大瓶式に分類される門で江戸時代初期の17世紀前期の建築
とされます。正面には「勅願所」と書かれた額がかかっています。
これは八世親誉祐崇上人の徳の高さに感じた後土御門天皇によって勅願寺と
なったことに由来するものです。


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