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このページでは、当地湘南の様子をビジュアルにお送りします。
私のみならず湘南に想い出がある方やこよなく愛でて下さる方の寄稿を歓迎いたします。
                                             世話人敬白

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2007年09月30日

               湘南便りその195

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第32回
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32.【名越切通し その32 釈迦堂切通しへ】

 勝長寿院跡から田楽辻子の道へ戻り、今度は釈迦堂切通しに行ってみましょう。

 随分長くなりましたが、今回で名越え切通しハイキングコースは終了です。

 さて、次はどちらへご案内しましょうか?



釈迦堂切通しへは、この小道を進みます。



これが釈迦堂切り通しです。
切通し(きりどおし)とは、山や丘などを掘削し、人馬の交通を行えるようにした道の事
です。釈迦堂切り通しは、かつての名越方面への主要道でした。
釈迦堂の名は、1224(元仁元)年11月、鎌倉幕府三代執権の北条泰時が父義時の
菩提を弔うために、釈迦堂ヶ谷に釈迦堂を建立したことに由来していますが、
未だに釈迦堂の場所は分かっていません。
写真は大町側から撮影したものです。



切通しの壁面にはやぐらが・・



2007年09月23日

               湘南便りその194

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第31回
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31.【名越切通し その31 勝長寿院跡】

 田楽辻子の道を鎌倉方向に歩きます。すぐに釈迦堂切り通しへ抜ける道があります
 が、もう少し鎌倉よりに歩いて勝長寿院跡に寄ってみたいと思います。

 勝長寿院は、1185(文治元)年に源 頼朝が父の義朝の菩提を弔うために建立した寺
 です。源 義朝と郎党の鎌田正清の頸を埋葬したといいます。

 勝長寿院は鶴岡八幡宮(寺)と永福寺に並ぶ頼朝が建立した三大寺院として位置づ
 けられ、 本尊は成朝の手による金色阿弥陀仏像で他にも運慶の手になる五大尊像
 が安置されました。

 伽藍も壮大で阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、三重宝塔があったといいます。

 鎌倉幕府滅亡後は足利公方家によって保護されましたが、公方家が鎌倉を去ると衰
 退の方向へ向かい、16世紀には廃絶してしまいました。



この道をしばらく進みます。



ここが勝長寿院跡の碑です。



源義朝と鎌田正清の墓です。
1159年平治の乱で敗れた義朝は尾張国にたどり着き、宿をとるため家来の
長田忠致のもとに身を寄せましたが、恩賞目当てで裏切った長田父子に
入浴中に襲撃されてあえない最期を遂げました。([平治物語])享年38でした。
後年、鎌倉時代になり、将軍の父に狼藉を働き殺害した罪をとがめられ、
長田一族は処刑されました。



2007年09月16日

               湘南便りその193

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第30回
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30.【名越切通し その30 衣張山から田楽辻子の道へU】

 衣張山登山口を抜けて直進すると田楽辻子の道に出ます。

 道端にこの道に由来を書いた道標がありまして、それには以下のように書かれてい
 ました。

 
田楽辻子のみち由来

 鎌倉時代に呼ばれていた小路で、路名の由来は、路ぞいの釈迦堂前に田楽師が住
 んでいたためと伝える。
 辻子は通りぬけのできる小路のことで、十字路を辻という。
 「吾妻鏡」などの田楽にまつわる記事に基づいて現在の道筋をたどると筋替橋を起
 点として宝戒寺裏から滑川を渉り、大御堂ヶ谷・釈迦堂ヶ谷の入口を経て宅間ヶ谷
 に出て六浦と合流する小路と考えられる。



この道が田楽辻子の道です。ここから釈迦堂切通しを目指します。


2007年09月09日

               湘南便りその192

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第29回
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29.【名越切通し その29 衣張山から田楽辻子の道へT】

 さて、石切り場跡から元の山道に戻って下山します。



途中にこんな大きな岩が・・



ようやく道が平坦になりました。
杉木立が見事です。



ここが衣張山登山道の入口です。



2007年09月02日

               湘南便りその191

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第28回
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28.【名越切通し その28 衣張山へV】

 それでは衣張山から下山しましょう。



このような道を降りて行きます。



途中には五輪塔の集団が・・



そして、こんな穴が・・、
これは昔の石切場跡です。一人で入るのはコワイです。
鎌倉石は、黄褐〜褐〜青灰色の凝灰質粗粒砂岩や、軽石に富む凝灰質砂岩からなっています。
比較的軟弱で加工が容易であり、耐火力が強い特徴があります。
鎌倉周辺の社寺の石段・土台石に多く見られます。



2007年08月26日

               湘南便りその190

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第27回
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27.【名越切通し その27 衣張山へU】

 衣張山の名前は、源頼朝と頼朝夫人政子(北条政子)が、夏の暑い日にこの山を白
 絹で覆い、冬山に見立て涼をとったという伝説に由来しています。

 おそらくは、当時の頼朝の権力を象徴的に伝えるために、後の時代に創作された話
 でしょう。
 
 また尼さんが衣を松に掛けてさらした衣掛山だとも言われています。

 水戸光圀が家臣の河井恒久らに命じて編纂した『新編鎌倉志』には次のように書か
 れています。

 
犬懸谷は、釈迦堂谷の東隣なり、土俗、衣掛谷とも云。此所と、釈迦堂谷との間に、
 切抜の道あり。名越へ出るなり。昔の本道とみへたり。
 ・・・此上の山を衣張山と云ふ。相傅ふ頼朝卿、大蔵谷に御座の時、夏日此山にきぬ
 をはり、雪の降掛が如にして見給ふ故に名くと也。或云、昔此地に比丘尼寺ありしに、
 彼比丘尼、松の枝に衣を掛晒せしが、其木後に枝葉栄へて、今山の上にある二本の
 松の大木なりと云ふ。




 さて、ここが頂上の広場です。



山頂からの眺望です。
訪れた日は曇天でしたが、晴れた日は富士山が見えます。



ここにも五輪塔とお地蔵様が・・



2007年08月19日

               湘南便りその189

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第26回
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26.【名越切通し その26 衣張山へT】

 
これからハイランドを抜けて衣張山に登ってみましょう。

 衣張山は標高が120.2メートルで、一寸した登山気分も味わえ頂上からは鎌倉市街
 を眼下に駿河湾と稲村ガ崎から江の島・富士山までの素晴らしい眺めを満喫できる
 快適なハイキングコースとなっています。



公園の中をしばらく行くとこんな立て札がありました。
衣張山まで←12分とあります。ここが登山口です。



こんな山道をはぁはぁ言いながら登って行きます。



しばらく行くとこんな平場に出ますが、ここは山頂ではありません。



木陰にはこんな五輪塔がありました。



2007年08月05日

               湘南便りその188

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第25回
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25.【名越切通し その25 大切岸からハイランドへW】

 
そろそろハイランドに近づいてきました。



パノラマ台から降りてハイランドへ向かう道ばたに稲荷地蔵がありました。



そして、こんな可愛いお地蔵さんが・・・



この辺りは子ども自然ふれあいの森と呼ばれています。



2007年07月29日

               湘南便りその187

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第24回
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24.【名越切通し その24 大切岸からハイランドへV】

 
さらにハイランド方面に進みます。



しばらく行くと前方に柵のようなものが・・・



柵に近づくとこんな標識がありましたので登ってみましょう。



ここがパノラマ台頂上です。
とても狭いので大人数は無理ですが、360度の眺めが楽しめます。



遠くに江ノ島が望めます。



2007年07月22日

               湘南便りその186

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第23回
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23.【名越切通し その23 大切岸からハイランドへU】

 
さて、大切岸からハイランド方面に進みましょう。



大切岸から先ほど登ってきた法性寺の墓地が見えます。



大切岸の一部です。
この切岸は、現在はこの付近に約800メートル程残っているだけですが、
「都市周縁の地域史」で伊藤一美先生は、北東部は鎌倉の十二所から、
西南は住吉城跡付近まで続いていたと書かれています。
「大切岸」は三段にも四段にもなっていて、崖の上には「平場」(下の写真)
があります。





2007年07月15日

               湘南便りその185

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第22回
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22.【名越切通し その22 大切岸からハイランドへT】

 
さて、さらに先に進みましょう。



奥の院からさらに進むと墓地がありますが、その一角に
こんな立て札があります。この後ろの細い道を登ります。



坂道を登り切ると道案内がありますので、大切岸・ハイランド方面へ

 

道の途中に石廟が山路横の開けた場所に大小2つ佇んでいました。
いつ頃、誰のために建てたものだろうかは不明ですが、
脇に鎌倉市が立てた木製の標識がありました。



2007年07月08日

               湘南便りその184

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第21回
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21.【名越切通し その21 法性寺へW】

 
引き続き法性寺の探索です。



奥の院の左手に鳥居があります。
山王権現社の鳥居です。
石段を登ってみましょう。



山頂には、山王大権現の石祠と石塔があります。



山頂から逗子方面の眺望です。
なかなかのもんでしょう。



2007年07月01日

               湘南便りその183

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第20回
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20.【名越切通し その20 法性寺へV】

 
それでは法性寺の奥へ入ってみましょう。



山門を過ぎるとこんな看板があります。



ずーっと歩いていくと急な階段があります。階段が苦手な人は左の坂道へ進みます。



坂道or階段を登り切ると法性寺奥の院があります。



2007年06月24日

               湘南便りその182

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第19回
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19.【名越切通し その19 法性寺へU】

 
引き続き法性寺へ向かいます。



県道を渡って鎌倉方面に進みます。



しばらくしてJR横須賀線の踏切を渡ります。



踏切を渡って直ぐ左に法性寺の山門が見えます。



日蓮は、安房の清澄寺で日蓮宗を開示した後、鎌倉入りし、鎌倉の松葉ヶ谷に草
庵を結び布教活動を行いますが、他宗に対して排他的な布教を行ったため、
文応元年(1260年8月)に草庵を焼き討ちされてしまいます。
日蓮は、その時山王神のおつかいの白猿に導かれ、ここ法性寺まで逃げてきた
と言う伝説があります。
「猿畠山」と書かれた山門の扁額には、日蓮を導いたとされる白猿があしらわ
れています。



2007年06月17日

               湘南便りその181

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第18回
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18.【名越切通し その18 法性寺へT】

 
名越の切通しを抜けて法性寺へ向かいます。



切通しを抜けると直ぐに亀ヶ岡団地に出ます。法性寺には別の行き方もある
のですが、今回は亀ヶ岡団地経由で行ってみます。



団地へ出て直ぐに左の道を直進します。



ここまで来て左折します。
この先は長い下り坂が続きます。



下り坂を過ぎると県道に出ます。
これは県道を横断してから撮った写真です。



2007年06月10日

               湘南便りその180

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第17回
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17.【名越切通し その17 いよいよ名越切通しY】
 
 更に先に進んでみます。



まんだら堂跡を過ぎてしばらく行くといきなり左右の視界が広がります。



道をわざと馬一頭がかろうじて通れる広さにしてあったり、道の真ん中に巨岩を埋めて
騎馬で通りづらくしたりといった、古の要塞都市鎌倉の様子が、この道にはきちんと残
っています。
北条氏にとって永年の懸案だった三浦氏は、結局、1247年、宝治合戦により滅ぼさ
れてしまいます。この時も、やはり、三浦氏と安達氏の争いであり、北条氏は“黒子”役
を演じています。




名越の切通しには沢山の猫がいます。
声をかけたら睨まれてしまいました。



2007年06月03日

               湘南便りその179

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第16回
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16.【名越切通し その16 いよいよ名越切通しX】
 
 更に切通しを先に進んでみましょう。



中間地点を更に少し進むと「史跡まんだら堂跡」の立て札があります。
このまんだら堂(現日蓮宗妙行寺の境内)には小さなやぐらが群集し、
その中に無数の五輪塔が並んでいるのですが、現在は閉鎖中でここ
からは入れません。残念!



でも、何とか見たいと思ってここの裏側に回って塀越しに撮った
写真です。こんな風に沢山の「やぐら」があります。



廃墟となった妙行寺

第2時大戦後にまんだら堂跡には法華経の行者故小山白哲老師が妙行寺を建て、あたりを
畑にするため弟子の青年と二人で掘り起こすと無数の五輪搭や宝篋印搭が出土したため、
すこしづつ復元をされたのだそうです。
小山白哲老師は世界平和を祈るかたわら庭に花を育て、この地は鎌倉有数の花菖蒲
やあじさいの名所になりました。
しかし老師の死後、寺は荒れるにまかせ、まんだら堂自体も閉鎖されて現在にいたって
います。
数年のうちに逗子市によって整備されると聞いたのですが・・・



2007年05月27日

               湘南便りその178

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第15回
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15.【名越切通し その15 いよいよ名越切通しW】
 
 吾妻鏡には、名越切通しが下記のように登場します。

 
天福元年(1233)八月十八日 庚寅
 早旦、武州江島明神に奉幣せんが為出で給うの処、前浜死人有り。これ殺害せらる
 者 なり。 仍って神拝を遂げ給わず、直に御所に参り給う。即ち評定衆を召し沙汰を
 経らる。 先ず御家人等をして武蔵大路・西浜名越坂・大倉横大路已下方々を固めし
 む。 途 路に候し犯科者有るや否や、その内の家々を捜し求むべきの由仰せ下さる
 るの間、諸人奔走す。 而るに
名越辺の或る男直垂の袖を洗う。その滴血なり。恠し
 みを成し岩手左衛門の尉これを生虜り、相具し御所に参る。推問の刻、所犯の條遁
 れる所無し。こ れ博奕人なり。仍って殊にその業を停止すべきの由下知すと。

 五代執権北条時頼の時代(執権就任:1246年)になると、頼朝旗上げの頃からの有
 力御家人は次々と排除され、北条氏と三浦氏(泰村)と安達氏(義景)くらいになって
 いました。

 三浦氏は三浦半島を本拠としていて、幕府の主導権を握る北条氏にとって、この三
 浦氏に備えることは大きな課題であり、この名越の切通しはとくに重要視され、整備
 されたといいます。



名越切通しの中間地点です。
中央に見えるのは「置き石」です。




傍らには道標があります。



2007年05月20日

               湘南便りその177

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第14回
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14.【名越切通し その14 いよいよ名越切通しV】
 
 
引き続き名越切通しをめざします。



歩道の手摺越しに下を見るとこんな具合です。
下をJR横須賀線が通っていてトンネルが見えます。
要するに名越の切通しはJR横須賀線のトンネルの上にあるのです。
しかし、高所恐怖症の方にはお勧めしません。



道の山側に庚申塔と首の無い石地蔵像が現れます。
古道らしい雰囲気になってきました。



こんな道がしばらく続きます。
足許に注意して進みましょう。



2007年05月13日

               湘南便りその176

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第13回
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13.【名越切通し その13 いよいよ名越切通しU】
 
 
引き続き名越切通しをめざします。



日蓮乞水の直ぐ側に名越坂踏切がありますのでこれをわたります。



踏切を渡って直ぐに右折します。



しばらく行くとゴミ集積所にこんな看板があります。



さらに坂道を行くとこんな分れ道に突き当たります。
これを右手に行くと名越切通しになります。
ここまでの道が非常に分かり難いのです。



2007年05月06日

               湘南便りその175

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第12回
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12.【名越切通し その12 いよいよ名越切通しT】
 
 
お待たせしました?今回から、いよいよ名越えの切通しに入ります。

 名越切通しは、鎌倉から三浦方面に通じる要路でした。現在は名越トンネルの上を
 通っています。名越という名前は、この道が険しく難路であったために「難越(なんご
 え)」から「名越(なごえ)」になったといわれています。

 この切通への道は大変分かりにくいので、初めて訪れるに人は、入り口を発見でき
 ずに引き返してしまう人もおいでのようです。

 そのため、先ずは、安国論寺からの道を紹介しましょう。



安国論寺の山門を出て前の道を左へ歩いて
県道鎌倉葉山線に出ます。



県道に出るとすぐ左に踏切りが見えます。
JR東日本横須賀線の名越踏切りです。



踏切りを渡って直ぐの道を左へ直進です。



日蓮乞水
名越踏切から東に向かう道をしばらく進むと石囲いの中の石碑と井戸が現れます。
これは日蓮乞水(にちれんのこいみず)といい、鎌倉五名水の一つにもなっています。



2007年04月29日

               湘南便りその174

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第11回
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11.【名越切通し その11 安国論寺V】
 
 
今回はいつもと趣を変えて、わが国の財政再建と行政改革に命を捧げた人のお墓
 を紹介します。

 
今から26年前の1981年。当時の日本は、今と同様に財政危機が叫ばれていまし
 たが、
その中で、行政改革、財政再建を使命とした「臨時行政調査会」を当時の総
 理大臣、鈴木善幸は設置することになりました。その時、会長として白羽の矢が立
 てられたのが、土光敏夫氏でした。

 会長に就任した土光氏は、次々と改革を提唱しました。

 以下は フリー百科事典『ウィキペディア』より引用します。

 第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、

 ・首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
 ・増税によらない財政再建の実現。
 ・各地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
 ・3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧
 迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。

 以上、四箇条の申し入れを行い、実現を条件とした。行政改革に執念を燃やし、2年
 後の昭和58年(1983年)に行財政改革答申をまとめ「増税なき財政再建」「三公社民
 営化」などの路線を打ち出し、さらに昭和61年(1986年)までは臨時行政改革推進審
 議会の会長を務め、行政改革の先頭に立った。

 謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から、「ミ
 スター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」の異名を奉られ
 た。

 昭和61年(1986年)勲一等旭日桐花大綬章を受章。昭和63年(1988年)8月4日、老衰
 のため東京都品川区東大井の東芝中央病院で死去。享年91。

 その土光さんは今この安国論寺の墓地に眠っています。




ここに土光さんが眠っています。
母上が熱心な日蓮宗の信者であったそうです。
墓石には法名安国院殿法覚顕正日敏大居士とあります。

南無妙法蓮華経



2007年04月22日

               湘南便りその173

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第10回
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10.【名越切通し その10 安国論寺U】
 
 
前回に続いて安国論寺を紹介します。



立正安国論を書いたと言われる御法窟です。
本堂の前にあります。



御法窟横にある坂道を登ると富士見台があります。
写真は富士見台から稲村ガ崎方面の眺望です。



蓮上人が松葉が谷焼き討ちの法難の際、
白猿に袖をひかれて避難したと言われる南面窟です。



2007年04月15日

               湘南便りその172

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第09回
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9.【名越切通し その9 安国論寺T】
 
 
妙法寺を出て名越踏切方面に少し歩くと安国論寺があります。

 鎌倉は日蓮に関するお寺や史跡が多いところですが、安国論寺もその一つです。

 日蓮が鎌倉入りして最初に道場を興した岩窟がもととなり、現在の安国論寺となっ
 たと伝えられています。

 この岩窟で『立正安国論』を書いたともいわれており、開山は日蓮とされますが、正
 確こは、その跡地に弟子の日朗が安国論窟寺としたのがその始まりです。 日蓮は
 20年にわたってここに滞在し、布教活動を行ないました。

 文永元年(1260)7月16日、日蓮は、「立正安国論」を時の前執権・北条時頼に呈上
 しました。

 その当時の鎌倉は各地で大地震、暴風雨、流行病、火災、干ばつなどが続いて人
 心は不安な状況にありました。 日蓮が「立正安国論」を著したのは、正にこういう時
 期でした。

 日蓮は、この立正安国論の中でこれらの災難の原因は禅宗や念仏宗などの邪教
 に国中が帰依しているためだとしてこれらの災難を防ぐ正法は法華経以外にない
 と断じました。そして、もし速やかに法華経に帰依しなければさらなる大難が続発す
 すると警告したのです。
 
 立正安国論はこのように排他的で過激な内容であったため、それ以来日蓮は幕府
 や他宗から数々の迫害を受けることになりました。 
 



安国論寺山門です。
なかなか雰囲気があります。



安国論寺本堂です。



2007年04月08日

               湘南便りその171

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第08回
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8.【名越切通し その8 妙法寺V】
 
 
ひきつづき妙法寺を案内します。
 



法華堂
日叡作といわれる厄除祖師像が安置されています。
毎年9月12日のみ公開されるそうです。



松葉ヶ谷草庵跡
ここが日蓮が住まった「御小庵」跡だそうです。
だそうですというのは他にも草庵跡を主張しているお寺があるからです。



護良親王の墓
後醍醐天皇の第三皇子大塔宮護良親王(1308年〜1335年)が祀られています。
護良親王は足利尊氏と共に後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府打倒に力を尽くしました。
しかし尊氏と対立し東光寺(現在の鎌倉宮)の土牢に幽閉された後殺害されました。
延文2年(1357)にこの寺を再建した法親王日叡上人は護良親王の子です。



護良親王の墓から見た稲村ガ崎です。



2007年04月01日

               湘南便りその170

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第07回
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7.【名越切通し その7 妙法寺U】
 
 妙法寺には沢山見所がありますので、以下に列挙して説明していきます。



仁王門
その昔、江戸市民はもとより、大大名から将軍家までがこの寺に帰依し
11代将軍徳川家斉もしばしば参拝したのだそうです。
そのため総門、仁王門、法華堂は朱塗りにしたそうですが、現在朱塗りなのは
この仁王門だけです。

 

お馴染みの仁王様ですが、江戸時代辺りの作でしょうか?



苔の石段です。このためこの寺は別名・苔寺といわれていますが
冬に撮影したのでこの写真では良く分かりません。
梅雨の季節に訪れると実感出来ます。


2007年03月25日

               湘南便りその169

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第06回
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6.【名越切通し その6 妙法寺T】
 
 大宝寺を出て釈迦堂切り通しへの道を横切って名越方面への細い道を歩くと妙法寺
  があります。

  松葉ヶ谷草庵跡 (妙法寺)は日蓮大聖人が建長5年(1253年)に建てた小庵の一つと
  伝えられています。 松葉ヶ谷という地名は、この地に的場(弓の稽古場)があったの
  で的場ヶ谷と呼ばれ転じて松葉ヶ谷となったのだそうです。

  日蓮上人は20年この地に住み布教活動を行っていましたが反感を持つ武士や僧ら
  によって1260年(文応元年)に草庵は焼き討ちにあいました。これを松葉ヶ谷法難と
  いいます。


  その草庵跡に日蓮開山の本圀寺がありましたが1357年(興国6年)京都に移っため
  1357年(延文2年)法親王日叡上人が父・護良親王の霊を弔うため寺を再興したの
  が妙法寺の起こりといわれています。

  妙法寺は、境内に美しい苔の石段があることから「苔寺」としても有名です。



妙法寺総門です。
入り口はこじんまりとしていますが、奥行きはかなり広いお寺です。



妙法寺本堂です。



大覚堂です。
細川家もこのお寺に帰依していたようで、
熊本城の天守閣に祀られていた
加藤清正の像が細川家から寄進され、ここに安置されているとか?

2007年03月04日

               湘南便りその168

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第05回
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5.【名越切通し その5 大宝寺】
 
 
安養院を出てさらに名越へ向かう県道鎌倉葉山線を少し東へ歩くとその先に名越バ
  ス停があります。その近くの信号を左に曲がって進んで行くと、やがて左に折れる道
  の角に大宝寺入り口の標示が見えて来ます。

  このあたりは、佐竹屋敷跡といわれ新羅三郎義光(源義光)が、後三年役後この地
  に館をかまえ、子孫の佐竹秀義以後、数代が居住していたといわれています。

  1399年(応永6年)義盛が出家し多福寺を建てましたが、それが、この大宝寺の前身
  で、その後廃寺になっていたものを、1444年(文安1年)本覚寺開山の日出により再
  興され、多福寺の名を山号に残して大宝寺に改められたと伝えられています。



大宝寺入り口です。
辺りはひっそりとした住宅地で観光客の姿はほとんどありません。



境内には佐竹氏の先祖・新羅三郎源義光を祀った多福明神社があります。



2007年03月04日

               湘南便りその167

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第04回
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4.【名越切通し その4 安養院】
 
 
別願寺を出てさらに逗子方面に少し歩くとこじんまりとしていますが品の良い感じの
  安養院があります。

  安養院は浄土宗の寺で山号は祇園山です。もともとこの地には尊観が開いた浄土
  宗の善導寺がありましたが、のちに北条政子が亡き夫頼朝の冥福を祈って建てた
  長楽寺が焼失したため、鎌倉末期にこの善導寺の跡に長楽寺を移し、政子の法名
  である安養院を院号としこれが寺名になったといわれています。

  この辺りは日蓮宗のお寺が非常に多く浄土宗のお寺は珍しいのですが、この寺は、
  何といっても春に咲くムラサキツツジが有名です。

 



安養院本堂です。



 本堂の裏には「1308(徳治3)年」の銘がある大きな宝篋印塔(国重文)と
政子の供養塔といわれる小さな宝篋印塔が並んでいます。
北条政子の墓は寿福寺にもありますが果たしてどちらが本物なのでしょうか?


2007年02月25日

               湘南便りその166

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第03回
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3.【名越切通し その3 別願寺】
 
 
夷堂橋を渡ると妙本寺の山門が見えます。この山門前を右折して細い路地を進みま
 すと以前ご紹介した常栄寺(ぼたもち寺)八雲神社がありますが、この前を通り過ぎま
 すと大通りに出ます。ここを左に逗子方面に進みますと別願寺があります。

 別願寺は、もとは能成寺という真言宗のお寺で弘安五年(1282年)公忍上人が時宗に
 帰依し別願寺としました。

 鎌倉の時宗の中心となり室町時代は足利一族が深く信仰し鎌倉御所の菩提寺として
 栄え、天正19年(1591年)徳川家康から寺領を寄進され寺勢を誇りましたが江戸時代
 除々に衰微したといいます。



現在は注意しないと通り過ぎてしまいそうな佇まいのお寺さんです。



境内の墓所の中に室町幕府第四代の鎌倉公方である足利持氏の供養塔が
あります。
鎌倉公方とは、室町時代に室町幕府の征夷大将軍が関東十ヶ国における
出先機関として設置した鎌倉府の長で関東公方ともいわれます。
1349年に足利尊氏と弟の足利直義が対立(観応の擾乱に発展)した際、
直義に代わって政務を執るために上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に
下向した足利基氏を初代とします。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より)
しかし、このような分権統治の形態は兄弟一族間の権力争いの元になって
しまい、4代目持氏の時に悲劇が生じてしまいました。



2007年02月18日

               湘南便りその165

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第02回
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2.【名越切通し その2 本覚寺・夷堂橋】
 
 
大巧寺を通り抜けて小町大路を南に少し歩きますと本覚寺があります。
 本覚寺は、日蓮宗のお寺で山号は妙厳山といいます。

  鎌倉時代、ここには幕府の守護神を祀っていた天台宗の夷堂があったのですが、こ
  の夷堂に配流地の佐渡から鎌倉へ戻った日蓮が滞在したそうで、この夷堂跡を日出
  が1436(永亨8)年に日蓮宗に改め創建したのがはじまりといいます。



毎年1月9日〜10日には、ここでえびす講が開催されます。



本覚寺門前には夷堂橋があります。
袂には写真の碑が建てられていますが、碑文を要約しますと

この橋は鎌倉十橋のひとつです。ここには昔夷堂があった と言います。
この川は現在は 滑(なめり)流といいますが、 昔は場所によって多くの呼び
名がありました。上流では胡 桃(くるみ)川といい、浄明寺 門前では滑川
といい、文覚 (もんがく)屋敷跡の辺りでは 坐禅(ざぜん)川といい、この辺
りでは夷堂川と呼び、延命 寺の辺りはスミウリ川とい い、閻魔(えんま)堂
跡の辺は 閻魔堂川といいました。


2007年01月28日

               湘南便りその164

         
鎌倉ハイキングコースW

             名越切通しハイキングコース

                    第01回
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1.【名越切通し その1 鎌倉駅〜大巧寺】

 今回から、鎌倉のハイキングコースの一つとして知られる名越切通しを中心とした
  コースを案内します。名越切通しは鎌倉では一番東側に位置していて隣の逗子市
  に通じていまして、その先には三浦半島が続いています。先ずはいつものように鎌
  倉駅から出発しましょう。



今回も鎌倉駅(JR横須賀線)の東口から歩いていくことにします。



駅から直進して若宮大路の向かい側の大巧寺に立ち寄ってみましょう。



大巧寺本堂
この寺は、もともとは「大行寺」という名の真言宗の寺院で、場所も金沢街道沿
いの十二所(じゅうにそ)にあったといわれています。
頼朝が合戦の前の軍議をここで開き大勝したので、「大巧寺」と名を改め、
後、元応2(1320)年、現在地に移されたとされます。
この寺の五代目の住職日棟上人が、難産の為亡くなった母子の霊を鎮
めたという伝説が伝わるこの寺は、安産祈願の参拝客が多く訪れます。
そのため、安産祈願の寺として「産女(おんめ)さま」と呼ばれています。



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