Go-21

このページは、これまで当会のMLにて紹介していました「Go-21湘南便り」をリニューアルして
当地湘南の様子をビジュアルにお送りします。
私のみならず湘南に想い出がある方やこよなく愛でて下さる方の寄稿を歓迎いたします。
                                             世話人敬白

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2007年01月21日

               湘南便りその163

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第13回
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13.【朝比奈切通し その12 文覚上人屋敷跡】

 
田楽辻子の道をさらに進み、大御堂橋まで来ると道端に文覚上人屋敷跡の石碑が
 あります。

 源頼朝は伊豆に流されてからの20年、一族の菩提を弔うために念仏に明け暮れる
 日々を送っていましたが、そんな頼朝に近づいて挙兵を勧める人物がいました。
 その人物とは、文覚(もんがく。1139 ?〜1203 ?)という真言宗の僧でした。

 文覚は俗名は遠藤盛遠といい、もとは上西門院の北面の武士でしたが、十九歳の
 時に、 人妻である袈裟御前を横恋慕し、思いあまって夫を殺そうとし、誤って袈裟
 御前を殺してしまいました。 この事件をきっかけに盛遠は発心し、剃髪して出家を
 遂げました。

 那智での千日籠りの後、文覚は各地の霊山を修行してまわり、その後に都に戻り
 ました。 都では、文覚は高雄の奥に住み、神護寺の復興を志しましたが、後白河
 法皇のいる法住寺殿に押し入り大声で勧進帳を読み上げて、 法皇の怒りを買うな
 ど、勧進の強引さが目立ち、ついに伊豆に流されます。

 その配流先で文覚は、やはり流人である頼朝に出会ったのでした。文覚は頼朝を
 たびたび尋ねます。

 福原遷都から1ヶ月が過ぎたころ、文覚は、頼朝の父 義朝のものだという髑髏を
 持って頼朝に会い、頼朝に挙兵を促します。頼朝は「自分は勅勘(天皇のお咎め)
 をこうむっている身であり、勅勘を許されない限り、謀反を起こすことできない」と
 その申し出を断るのですが、「ならば、ただちに上京し、法皇からお許しをいただい
 てこよう」と、文覚は自身も勅勘の身ながら、新都に向かってしまいます。

 頼朝は、文覚のためにまた苦境に追いやられるのではないかと不安で仕方がなか
 ったのですが、文覚は出発してから8日めに再び頼朝のもとに姿を現わしました。

 「そら、院宣よ」
 そう言って、文覚は後白河法皇から取り付けた平家打倒の院宣を頼朝に差し出し
 ました。
 この院宣を、頼朝は手を洗い口をすすぎ身を清め、新しい烏帽子、浄衣を着て三
 度拝して慎んで受け、そして、ついに平家打倒に立ち上がることを決意したのです。

 と平家物語には書いてあるのですが、文覚上人のお話は「地獄門」という題名で映
 画化もされています。

 清盛から褒美に何が欲しいと聞かれて袈裟御前との結婚を許して欲しい と言って
 満座の嘲笑を買い、映画ではあれが清盛憎し、の原因のように描かれていました。

 今でいうストーカーですね。 性格に問題があったのは確かでしょうが 怨みを昇華
 するのに組んだ相手が源頼朝だったからラッキーだったのでしょう。

 しかし、義朝の髑髏を持って頼朝に挙兵を促すなどなんとも生臭い坊さんではあり
 ます。
 
 今回で、朝比奈切通しハイキングコースはこれでお終いです。次回からは新しいコ
 ースを紹介しますので、お楽しみに!



文覚上人屋敷跡の石碑です。

碑文
文覚俗称を遠藤盛遠と云ひ もと院の武者所(むしゃどころ:警備所)たりしが 
年十八 想を左衛門尉源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟御前(けさごぜん)に
懸け 郤(反っ)て誤って之を殺し 愴恨(そうこん:後悔)の余り 僧と為る 
其の練行甚だ勇猛に 邪寒盛暑林叢に露臥し 飛瀑に凝立し屡々死に瀕す 
養和二年(1182)四月 頼朝の本願として弁財天を江ノ島に勧請(かんじょう
:創設)し 之に参籠する事三十七箇日 食を断って祈願を凝らせりと 此の
地即ち其の当時文覚が居住の旧迹なり



2007年01月14日

               湘南便りその162

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第12回
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12.【朝比奈切通し その11 田楽辻子の道】

 
さて、これまでお付き合いいただいた今回のハイキングコースも終わりに近づいて
 きました。今回は、浄妙寺からいつもの金沢街道ではなく、報国寺から続く田楽辻
 子の道を通って鎌倉駅方面に戻りたいと思います。



報国寺さんは山門の工事中でした。



山門の右手に田楽辻子の道があります。



金沢街道の喧騒が嘘みたいな静寂があります。
こんな道が続きます。



途中、衣張山への道の角に「上杉朝宗及氏憲邸址」が建っています。
この石碑に書かれていることの大意を記します。

朝宗は、足利氏満、満兼に歴任し、出家して入道となり禅助と号した。
人々は犬懸の管領と呼んだ。
 朝宗の子の氏憲は、あとをついで足利持氏の執事となり、入道して禅秀と号した。
しかし後に持氏と不和となり、応永二十三年(1416年)氏憲は持氏の叔父の満隆と
謀って満仲をおしたてて兵を起こしたのであるが、遂に敗れ翌年正月一味と共に
雪ノ下の鶴岡別当坊で自殺した。
 ここは、上杉朝宗とその子氏憲の邸宅があったところである。


これを説明するには「鎌倉公方」のことを説明しなければなりませんが、それは
またの機会にします。



2007年01月07日

               湘南便りその161

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第11回
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11.【朝比奈切通し その10 浄妙寺】


 
明王院から金沢街道へ戻りさらに鎌倉方面に歩くと浄妙寺があります。

 浄妙寺は鎌倉五山の第五位の歴史あるお寺です。
 この寺は鎌倉幕府の重臣、足利義兼(あしかがよしかね)が1188年(文治4年)に建て
 られました。初めは真言宗の極楽寺といいましたが、義兼の子、義氏(よしうじ)の時
 に臨済宗に改められ、後に寺名も浄妙寺となったと伝えられています。

 本堂の前に立つと、どっしりとした大きな銅葺の屋根に風格を感じます。周囲を山に
 囲まれている上、訪れる人もまばらで、境内は落ち着いた雰囲気です。境内は広く、
 墓地には、この寺の中興開基とされる足利貞氏(尊氏の父)の墓があります。

 なお、お寺の名前は「浄妙寺」ですが、この辺りの地区名やバス停名は寺に敬意を
 表して「浄明寺」と異なる漢字を使っています。

 でも、違う寺があるわけではありません。



浄妙寺山門です。



1756年に再建されたという本堂です。ここには釈迦如来像が祀られ
裏の開山堂には栄西の弟子・退耕行勇像があります。



足利貞氏(尊氏の父)の墓です。




2007年01月01日

               湘南便りその160

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第10回
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10.【朝比奈切通し その9 明王院】

 
明けましておめでとうございます。本年も湘南便りを宜しくお願いいたします。

 
光触寺から、バス通りを鎌倉方向に100メートル程戻ると明石橋という橋があります。
 その手前の道を右に入り川沿いを歩くいて少し先の突き当たりを右に折れると明王
 院が見えてきます。

 その昔、十二所(じゅうにそ)村といったこの辺りまで来ると、鎌倉市内でも随分のど
 かな雰囲気です。

 明王院は真言宗御室派のお寺です。1235年(嘉禎元年)に鎌倉幕府第4代将軍藤原
 頼経(ふじわらのよりつね)が建立しました。

 創建当時は不動を中心に東西南北に、降三世(ごうさんぜ)、大威徳(だいいとく)、
 軍荼利(ぐんだり)、金剛夜叉(こんごうやしゃ)の五大明王像が祀られて栄えました
 が、現在は本尊不動明王坐像一体だけが残され、簡素な茅葺きの本堂に安置され
 ています。



正面に冠木門(かぶきもん)が見えます。



茅葺の明王院本堂です。




2006年12月24日

               湘南便りその159

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第09回
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9.【朝比奈切通し その8 光触寺】

 
十二所神社から金沢街道を鎌倉方面に少し進み左手にある細い道を入ると突き当り
 に光触寺があります。

 岩蔵山光触寺はもと真言宗の寺でしたが、弘安2(1279)年、全国を行脚し、踊念仏を
 唱えて民衆の信仰を集めた一遍上人を開基に迎え時宗に改めました。

 本尊の運慶作といわれる頬焼阿弥陀(ほほやけあみだ)には、無実の罪をきせられ、
 頬に焼印を押される男の身代わりに自らの頬を焼かせたという伝説が伝わっていま
 す。

 境内の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)は、もと金沢街道の傍らにあり、六浦の塩売りが毎
 朝この地蔵に初穂の塩をお供えすると、帰りには地蔵が塩を嘗めてしまわれ必ず無
 くなっていたので塩嘗の名がついたのだそうです。 木造の祠の中に安置されたお地
 蔵さまには今でも沢山の塩が供えられています。

 境内は訪れる方もほとんどなく、とても静かでしっとりとした佇まいです。

 本堂の拝観は事前に予約が必要です。



光触寺三門です。



光触寺本堂です。



塩嘗地蔵と呼ばれるお地蔵様です。
長い年月を経て丸みを帯びたおだやな表情をしておいでです。



境内には開基一遍上人像が建っています。



2006年12月17日

               湘南便りその158

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第08回
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8.【朝比奈切通し その7 十二所神社】

 
太刀洗水を過ぎてしばらく進むと金沢街道に出ます。鎌倉行きバス停横の横断歩道
 を渡ってすぐのところにこじんまりとした社が見えてきます。

 これが十二所神社です。

 十二所神社は、十二所界隈の鎮守様で祭神は天神7柱・地神5柱の12柱です。

 もともとは近くにある光触寺に祀られていた熊野十二所権現を、明治初年の神仏分
 離令でこの地に移したといわれています。

 十二所神社(じゅうにしょじんじゃ、じゅうにそじんじゃ)という名前の神社は日本全国
 に存在して、その多くは熊野三山の神(熊野神)を勧請したもので、明治の神仏分離
 までは「十二所権現社」などと呼ばれていました。

 熊野三山の神は「家都御子神」「熊野速玉男神」「熊野牟須美神」の三柱ですが3つ
 の神社がそれぞれに祭神を勧請しあっており、さらに第四殿に天照大神を祀ってい
 るので、一つの神社で四柱となり、3社あるのであわせて十二柱となるのです。

 これを「熊野十二所権現」と称し、これらの神を勧請して祀ったのが十二所権現社、
 現在の十二所神社だといわれています。



金沢街道の鎌倉行き十二所バス停です。



十二所神社本殿です。



十二所神社の軒下の彫刻は、2兎(匹)のうさぎが彫られた珍しいものです。
これは月待ち信仰の影響でしょうか?



2006年12月10日

               湘南便りその157

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第07回
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7.【朝比奈切通し その6 太刀洗水】

 
三郎滝から金沢街道に向かって少し進むと川の向こう岸の崖面に石祠が見られ、
 そこには「太刀洗水」と書かれています。ここは鎌倉五名水の一つとなっています。

 ここからチョロチョロと流れている水で梶原景時は上総介平広常を切った血刀を洗
 ったという伝説があるのです。

 上総介平広常の屋敷はここから少し先の朝比奈切通への分岐を直進した七曲谷
 戸と呼ばれる平地にあったと伝えられています。

 その屋敷跡から山越えの道を七曲坂といい、七曲坂は朝比奈切通が開削される以
 前の六浦への旧道とも考えられている道なのです。

 平広常は上総介として上総、下総二カ国に所領を持ち大きな勢力を有していました。
 また、広常は、鎌倉を本拠とする源義朝(頼朝の父)の郎党でした。1156年の保元
 の乱では義朝の長男、源義平に従い、義平十七騎の一騎に数えられたほどの人物
 でした。

 1180年9月、石橋山の戦いに敗れた破れた頼朝が、安房国で再起を図ると広常は二
 万騎の大軍を率いて頼朝のもとに参陣しましたが、 頼朝はこの大軍を喜ばず、広常
 の遅参を咎めて目通りを許さなかったそうです。その頼朝に対して広常は恐れ入っ
 て「この殿は必ずや日本の大将軍になるであろうと」語ったといいます。 しかし、この
 時の広常の遅参が後の災いのもとになりました。

 寿永2年(1183)に頼朝の密命を受けて梶原景時は広常の屋敷に訪れます。広常と
 双六を打っていた景時は隙をうかがい広常に斬り掛かったのです。

 広常の屋敷から逃れた景時は上の写真の小滝のところで血刀を洗ったと伝えられ
 ているのです。『吾妻鏡』にもそのことの記述があります。

 この時代は、戦いを始める時に「やあやあ我こそは・・・」と名乗って正々堂々と闘った
 ものですが、実のところ裏ではこのような騙し討ちが当たり前の世の中でした。



これが太刀洗水です。
良く注意しないと見過ごしてしまいます。




2006年11月19日

               湘南便りその156

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第06回
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6.【朝比奈切通し その5 三郎滝】

 
大切岸からさらに進んでそろそろ切通しが終わりに近づくころ、左手に滝が見えて
 きます。これが、前回お話した朝比奈三郎の名にちなんで、 三郎滝と呼ばれている
 朝比奈小滝です。
 
 朝比奈三郎義秀の出生は定かではありませんが健保元年(1213)に38歳とありま
 すので逆算すると安元2年(1176年)の生まれと考えられます。

 安房の朝夷郡に生まれ育ったので朝夷名三郎と称しました。なお、伝説によると母
 は木曽義仲の妾巴という説がありますが、木曽義仲が討たれ、巴が行方をくらます
 のが1184年ですからちょっと辻褄が合いません。

 和田合戦の後安房へ渡って行方をくらませていますので没年も不明です。

 泳ぎが達者で力もあった好男子で、和田合戦の時は北条義時の息子朝時に手負い
 を負わせ、足利義氏を追い、武田五郎信光に戦いを挑んだが信光の息子(信忠)が
 父に代わって戦おうとしたのに感心して、信光を見逃したというエピソードが残ってい
 ます。



これが三郎の滝です。
鎌倉にも滝があるのです。




滝の横に立つ石碑です。





2006年11月12日

               湘南便りその155

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第05回
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5.【朝比奈切通し その4】

 
熊野神社から元の道に戻り鎌倉方面に進みます。

 少し行くと下りになりますが、この辺りは岩盤のところが多く、足元が濡れているの
 で滑り易
くなっています。道の脇には水が流れ、小さな滝と釜になっているところも
 あります。


 市境のあたりにある切岸(きりぎし)のようなところに1mくらいの仏像が彫られていま
 す。辺りには道造供養塔や安永九年峠坂道普請と書かれた石塔が置かれています
 が、江戸中期の作でしょうか?

 この朝比奈切通しには、和田義盛の三男で強力無双といわれた朝比奈三郎が一夜
 で切り開いたという伝説があります。
 



市境付近にある大切岸です。
この写真は鎌倉側から金沢方面を撮ったものです。



市の境界を示す道標です。



切岸に刻まれた石仏です。




2006年11月05日

               湘南便りその154

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第04回
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4.【朝比奈切通し その3 熊野神社】

 少し進むと「熊野神社」と記された大きな石碑と案内板がありますので、その間の山
 道を進んでいきます。山道とはいっても神社の参道になっているのでしっかりとして
 いて、傾斜も殆どなく平坦で歩きやすい道となっています。とはいえ足元はぬかるん
 でいることが多いので注意しましょう。

 この熊野神社は、鎌倉の鬼門にあたるこの場所に源頼朝が熊野三社大明神を勧請
 して、北条泰時が社殿を建立したと伝えられています。

 案内板には

 朝比奈町鎮守 熊野神社
 御祭神
 速玉男之命、伊邪那岐命、伊邪那美命
 御由緒
 古傳に曰、源頼朝鎌倉に覇府を開くや、朝比奈切通の開削に際し、守護神として熊
 野三社大明神を勧請せられしと、元禄年中地頭加藤太郎左衛門尉之を再建す。
 里人の崇敬亦篤く、安永及嘉永年間にも修築を加え、明治6年村社に列格、古来安
 産守護に霊験著しと云爾

 とあります。
 



参道入り口の案内板です。



暫く行くと杉木立の中に社殿が見えてきます。
辺りは荘厳な雰囲気です。



本殿です。



拝殿です。




2006年10月29日

               湘南便りその153

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第03回
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3.【朝比奈切通し その2】

 今回は、先ず朝比奈切通しの奥にある熊野神社に向かうことにします。

 鎌倉の切通しといえば元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めのときの攻防が思い
 起こされますが、その時にここ朝比奈切通を通ったのでしょうか?

 新田義貞に同調して下総国で挙兵した*千葉貞胤は下野国の小山秀朝と合流し鎌
 倉を目指します。 一方の幕府軍の金沢貞将は上総・下総の軍勢を見方につけるた
 めに鎌倉を出発するのですが、この両者は武蔵国鶴見で戦っています。

 貞将は破れ鎌倉へ引き返しています。このとき金沢貞将の軍勢は六浦を経由してい
 たと考えられているので、この朝比奈切通を通って行った可能性があります。

 *千葉 貞胤
 1291(正応 4)〜1351. 1.28
 ◇鎌倉・南北朝時代の武将。千葉介・下総守護。胤宗の子、母は15代執権北条貞顕
 の娘。南朝方の新田義貞に従ってきたが、越前木目峠で雪中行軍。遭難しかかり、
 北朝方に降伏。以後、北朝方となる(太平記)

 



切通しに入って直ぐに頭の上がうるさくなってきます。
実はこれ横浜横須賀道路なんです。



こんな道がしばらく続きます。
この右手は壁になっていますがこれを「小切岸といいます。



やがて正面に熊野神社への道標が見えてきます。
左 熊野神社、右 かまくら道とあります。




2006年10月22日

               湘南便りその152

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第02回
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2.【朝比奈切通し その1】

 朝比奈切り通しは、1241(仁治2)年鎌倉幕府三代執権北条泰時が、六浦(金沢八
 景)と鎌倉との重要交通路として工事を始めて作ったところです。

 泰時本人が監督し、自らもっこを担ぎ工事を完遂させた、とも言われています。
 当時六浦は塩の産地で、関東地方をはじめ、唐からも物品が集まる港でした。
 この切り通しが出来たことにより、舟で運ばれた各地の物資はこの切り通しを利用
 して鎌倉に届くようになりました。




この右手の坂道が切通しの入り口です。



入り口の傍には石碑が



道の右手には庚申塔や道祖神が祀られていました。
江戸時代の作のようですが、この道は江戸時代にも利用されて
いたようです。






2006年10月15日

               湘南便りその151

         
鎌倉ハイキングコースV

             朝比奈切通しハイキングコース

                    第01回
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1.【今回は大船から出発】

 今回から新しいシリーズを始めます。

 鎌倉にはいくつかの「切通し」(きりどおし)があります。

 切通しとはその字のごとく山を切崩して造られた人工的要路で、そのうち「鎌倉七口」
 と言われた七つの切通しは、外部から三方を山で囲まれた鎌倉への要路となってい
 ました。

 すなわち、七口の防御を固めておけば鎌倉攻めは困難だったわけで、切通しは、鎌
 倉幕府の防護に大変重要な存在でした。

 この湘南便りでは、これまでいくつかの切り通しを紹介してきましたが、今回からこの
 中の一つ「朝比奈切通し」を中心としたハイキングコースを紹介します。

 この朝比奈切通しは、鎌倉市十二所から横浜市金沢区朝比奈町に至る結構長い距
 離のため、全体の計画にそったコースの開始点を事前に決める必要があります。

 鎌倉側からは、JRまたは江ノ島電鉄の鎌倉駅東口5番乗り場から、鎌24金沢八景駅
 行きか鎌23鎌倉霊園正門前太刀洗行きで十二所バス亭から(約30分位?)、入る方
 法がありますが、今回は、大船から金沢八景行きのバスに乗って、朝比奈バス停か
 ら入る方法を紹介したいと思います。
 



JR大船駅北改札口です。
最近リニューアルされてご覧の通りとてもきれいになりました。



改札口を出て右へ進むと笠間口に出ます。
道路を渡って左へ進むと東バスターミナルがあります。



東バスターミナル3番乗り場から神奈中バス金沢八景行きに乗車します。
目的地「朝比奈」まで約30分、280円です。(前払い)



バス停を降りて近くの横断歩道を渡ると朝夷奈切通の標識が,
ここから左に入ります。





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