Go-21

このページは、これまで当会のMLにて紹介していました「Go-21湘南便り」をリニューアルして
当地湘南の様子をビジュアルにお送りします。
私のみならず湘南に想い出がある方やこよなく愛でて下さる方の寄稿を歓迎いたします。
                                             世話人敬白

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2006年03月19日

               湘南便りその126

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第11回
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【(11)宝戒寺】

 少し間が空いてしまいましたが、祇園山ハイキングコースの締めくくりとして宝戒寺を
 紹介しましょう。
 
 金龍山釈満院円頓宝戒寺は、天台宗の寺院です。開基は後醍醐天皇、開山は天台
 座主五代国師円観恵鎮慈威和上で、1335年(建武2年)に創建されました。

 この地は、北条義時が小町邸を造って以来、北条執権の屋敷があったところです。
 鎌倉幕府滅亡後、北条九代の霊を慰めまた国宝的人材を養成修行する道場として、
 後醍醐天皇が足利尊氏に命じて、この屋敷跡に建立させた寺です。

 境内には四季を通じて花が咲いています。特に秋境内一面に白萩が咲き、萩寺とし
 て親しまれています。また108種の椿が、10月下旬から5月まで咲き続けます。

 この寺は鶴岡八幡宮からも近く、参拝の後に立ち寄ってみても良いのではと思います。
 また、本堂の中に自由に入りご本尊にお参りできますので、どうぞ。



東勝寺橋を渡り真直ぐ進むと小町大路に突き当たります。
看板の通り、右に行くと宝戒寺です。



宝戒寺門前です。
左右に咲いているのは萩の花です。



2006年01月01日

               湘南便りその125

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第10回
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【(10)滑川と東勝寺橋U】

 東勝寺橋は、青砥藤綱の銭さらいのお話の舞台になりました。

 鎌倉幕府執権に仕えた青砥左衛門尉藤綱は、名裁判官として有名な人物です。
 ある日東勝寺近くの滑川畔で、銭十文を落とした藤綱は五十文を出して灯りを求め、
 銭を探させやっとのことで落とした銭をみつけたのです。

 それを見た人々は、「愚かなことを」と笑いましたが、藤綱は、「10文は小なりといえ
 ど失えば天下の損。50文の出費は自分には損だが、人の手に渡り益となるのだか
 らそれでよい」と言って取り合わなかったそうです。

 皆さんは、この話をどのように思いますか?



この青砥藤綱の話が、東勝寺橋の傍の碑に記してあります。
以下に原文を紹介します。

太平記ニ拠レバ 藤綱ハ北條時宗 貞時ノ二代ニ仕ヘテ引付衆ニ列リシ人
ナルガ 嘗テ夜ニ入リ出仕ノ際誤ッテ銭十文ヲ滑川ニ堕シ五十文ノ續松ヲ購ヒ
水中ヲ照ラシテ銭ヲ捜シ竟ニ之ヲ得タリ時ニ人々 小利大損哉ト之ヲ嘲ル
 藤綱ハ「十文ハ小ナリト雖之ヲ失ヘバ天下ノ貨ヲ損ゼン 五十文ハ我ニ損
ナリト雖亦人ニ益ス」旨ヲ訓セシトイフ 即チ其ノ物語ハ
 此ノ邊ニ於テ 演ゼラレシモノナラント傳ヘラル
昭和十三年三月建      鎌倉町青年團



2006年01月01日

               湘南便りその124

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第09回
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【H滑川と東勝寺橋T】

 滑川は、三浦半島付根の朝比奈峠付近を源流にしており、およそ6km下り、相模湾
 に注ぐ鎌倉旧市街地最大の河川です。

 滑川の名称は、上流から胡桃川、太刀洗川、座禅川、夷堂川そして炭売川、閻魔川
 などがあり、流域による川の性質や接し方の違いを伺うことができます。

 東勝寺橋は、この中流部にあり、橋上の道は、前回まで紹介した国指定史跡東勝寺
 跡に通じています。

 東勝寺橋の構造形式は、上路式鉄筋コンクリートアーチ橋で、関東大震災における
 復興期の典型的なものです。これは、当時鉄筋コンクリートが積極的に導入された
 こと、西欧古典主義的なデザインから新しい形を求める造形運動が盛んになった時
 期であったことなどがあげられます。

 この程度の川幅の場合、鉄筋コンクリート床板橋を採用するのが一般的ですが、構
 造形式でアーチを選択した理由としては、渓谷のような地形で桁下空間が大きくとれ
 ることや交通量が少なかったことなどが考えられます。



ここから真っ直ぐ行くと東勝寺跡です。



関東大震災の復興期には、このようなアーチ橋が多く建造されましたが、
そのほとんどが撤去された今日、当時の姿を保つ東勝寺橋は希少なものです。



2006年01月01日

               湘南便りその123

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第08回
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【G北条高時U】

 それではここで、141年の鎌倉時代の幕引きを演じた鎌倉幕府14代執権北条高時の
 歴史を振り返ってみたいと思います。

 高時は9代執権北条貞時の子で1309(延慶2)年に元服し、1311(応長元)年10月、
 父貞時の死により得宗家を相続しました。

 1316(正和5)年7月、14代執権に就任しましたが、わずか13歳と幼少であったために
 内管領長崎高資が実権を掌握することになりました。

 1317(文保元)年には、大覚寺統・持明院統の対立を調停するために両統迭立を提
 案しましたが、これが容れられて文保の和談が成立しました。

 1324(正中元)年の正中の変に際しては、日野資朝を佐渡に配流し、後醍醐天皇に
 は咎めはありませんでした。

 1326(正中3)年には病を得て出家、執権職を北条(金沢)貞顕に譲りますが、このこ
 ろより高時の怠惰は顕著となり、政務は高資に任せ、田楽・闘犬にふける日々だった
 といいます。そのため幕政の腐敗と衰退は顕著化し、奥州安東氏の制圧に10年近く
 を費やすことになりました。

 1331(元弘元)年4月の元弘の変に際しては、軍を上洛させ、日野俊基・文観らを捕
 らえ俊基を斬罪に処しました。8月27日には後醍醐天皇が笠置山に挙兵したため翌
 月に足利高氏(尊氏)・北条(大仏)貞直らを派兵。27日には天皇を捕縛して廃立し、
 光厳天皇を立てました。

 翌1332(元弘2)年には後醍醐天皇を隠岐に配流しますが、翌年2月に天皇が配所
 を脱出したため、幕府は高氏を追討のために派兵します。しかし5月7日、高氏は幕
 府に反旗を翻して六波羅探題を討滅,翌8日には新田義貞が上野国生品明神に挙
 兵。小手指原・分倍河原で数十万に膨れ上がった新田勢に敗れ18日には鎌倉に迫
 りました。

 22日、新田勢が鎌倉市内に侵入、死期を悟った高時は東勝寺に逃れて自刃しまし
 た。享年31。源頼朝の開府以来141年、本邦初の武家政権鎌倉幕府はここに滅亡
 したのです。

 法名 日輪寺崇鑑法界寺殿



やぐら(洞穴式墳墓)の前には墓標があり、何だか北条一門の
怨念がたちこめているような雰囲気です。



2005年12月25日

               湘南便りその122

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第07回
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【F北条高時】

 前回、私は、ここを訪れるといつもNHKの大河ドラマ「太平記」で北条高時役をやって
 いた片岡鶴太郎さんの演技を思い出します。と書きましたが、今回はこの北条高時に
 触れてみたいと思います。

 日本史上、敵役以上に歴史上で不遇を託っているのは、「暗愚、愚か者」として定着し
 ている人たちではないでしょうか。

 北条高時について山川の『日本史用語集』では「遊楽に耽って幕政を乱し、元弘の変
 に際して後醍醐天皇を隠岐に流したが、御家人が離反し、新田義貞の鎌倉攻撃を防
 ぎ得ず自殺した」と述べています。これなどは客観的なほうで、中には「田楽や闘犬
 に明け暮れる、凡庸というよりは暗愚な執権であり、鎌倉幕府滅亡の一因となった」と
 書かれているものまであります。

 私はそんな見方に一石を投じたのが、NHKの大河ドラマ「太平記」(1991)であった
 と考えています。

 母親から「しっかりせよ」と厳しく言われた高時が、鼓を打ちながら「わしは名執権と言
 われた父上(貞時)に頭が上がらず、母上に頭が上がらず、わしが死んでも泣いてく
 れるのは、田楽一座と犬百匹」と泣くシーンが私には印象的でした。

 そしてもう一つ、忘れられないシーンが鎌倉幕府滅亡の場面でした。

 新田義貞の攻撃の前に、「鎌倉以外に行く所などない。潔く自害しよう。」という意見と、
 「生きていてこそ次がある。海へ逃れるべきだ。」という意見がぶつかる中、覚悟を決め
 た高時が腹を切ります。そして、最期の息で彼はこうつぶやきました。

 「これで父上は褒めてくれるかのう」

 幼いときから、ことあるごとに偉大な祖父(北条時宗)や父(北条貞時)と比べられ、「馬
 鹿だ、愚かだ」と言われ続け、母親からも父親からも一度もほめられたことのなかった
 彼が、人生の最期に、「これで、武士らしい見事な最期であったと、父上は初めて自分
 を褒めてくれるだろうか」という、何という哀しく切ない言葉でしょうか。

 ここに北条高時の苦悩があったのです。

 高時が家督を継いだのは9歳の時、執権となったのは14歳でした。
 数え年だから今でいう中学校1年生です。北条時宗よりも若い。これでしっかりせよ、
 ちゃんとやれというのは酷なことでしょう。

 しかも内管領はそれを利用して専横をふるうわけで、成長するにつれて実情の分かっ
 てきた彼は、現実逃避をして「亡気」と評されるようになります。それをどうすることもで
 きない自分。「みんな仲良うの」とへらへら笑ってはいても、内心はどのように思ってい
 たのでしょうか。

 そこへ転機が訪れます。1331年、元弘の変。これを治め、後醍醐天皇を隠岐へ退け、
 幕府を守ったのです。生まれて初めて得た「やれる」という自信。この勢いで長崎高資
 を討とうとしますが、これには失敗。責任を家臣に押しつけ、関与を否定します。

 あぁ、やっぱり自分はだめだという挫折感・・・。周囲はさぞ呆れ、「やはり高時は暗愚
 だ」と笑っていることであろう・・・。

 24歳の時、在位10年にして執権職を譲った後も、北条氏の当主の地位に縛られてい
 た彼は、幕府を滅ぼすという最大の屈辱の中で、最期に自らが誇れる死に様をもって、
 31年の生涯を閉じたのです。

 片岡鶴太郎さんはこの北条高時の哀しみを実に上手く演じきっていました。



腹切りやぐらの側には石碑があり概略次のように書かれています。
「東勝寺は、北条家の菩提寺でありました。 
新田 義貞が 菩提寺にせめてきて、北条氏はこの東勝寺に逃げ込み
ましたが、北条高時一族870人余が、ここで自殺しました。
こうして、北条高時一族は悲惨な終わり方をしました。」  
 



2005年12月18日

               湘南便りその121

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第06回
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【E東勝寺跡】

 東勝寺は山号を青龍山といい、青龍とは四神相応による東の守護神を意味します。
 東勝寺は、鎌倉幕府三代執権、北条泰時創建の臨済宗の禅寺(北条氏の菩提寺)
 と伝えられます。
 
 元弘3年、新田義貞らの鎌倉攻めの時、十四代執権北条高時ら一族郎党がここに
 立てこもり寺に火を放ち、自刃して最期を遂げました。寺はその後直ちに再興され、
 室町時代には、関東十刹の第三位に列せられましたが、戦国時代には廃絶したとさ
 れます。
 
 この東勝寺は現在は全くの廃寺です。東勝寺があったところは滑川の東勝寺橋を
 渡って少し上った付近であったろうことは以前から伝えられてはいましたが、現在は、
 当時の面影はまったくなく、山の麓に「東勝寺跡」の石碑が建っており、その左手に
 やぐら(洞穴式墳墓)がぽっかり口をあけているだけです。これが北条一族の墓とさ
 れています。
 
 私は、ここを訪れるといつもNHKの大河ドラマ「太平記」で北条高時役をやっていた
 片岡鶴太郎さんの演技を思い出します。



尾根道をひたすら歩くと「腹切やぐら」と書かれた道標があります。ここがハイキング
コースの終点です。ここから山を下って東勝寺跡に着きます。



ここが腹切やぐらです。夜になるととてもこの辺りには近づけません。



2005年12月11日

               湘南便りその120

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第05回
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【D祇園山ハイキングコース】

 祇園山ハイキングコースは、八雲神社から東勝寺跡に至る約1kmのコースで、健康
 な脚力であれば約40分で歩くことができる鎌倉では初心者向けのコースといわれて
 いますが、実際のところ足場が悪く、急坂が数箇所あって初心者向けだろうとナメて
 かかると後悔することになります。

 さて、祇園山山頂から後は、殆ど尾根伝いに散策を楽しめます。 

 杉の林を過ぎて、左下に墓地が見えて来て、「保安林」の白い看板が出ているところ
 を左下に下ると妙本寺に出ます。 この分岐点は何も道標が無いのですが、この保
 安林の看板と左下に見える墓地、足元にシャガの葉が生えているので、わかります。
 降り口は露出した木の根を階段にしながら、30センチ幅ぐらいの細い急な道を降り
 ます。 すぐに墓地が間近に見えてきますが、道は巨大な羊歯の葉に覆われてジュ
 ラシックパーク?のような雰囲気です。  

 この分岐点を見過ごして進んでも、大丈夫です。むしろそちらのほうが道は平坦に
 なります。その後思いのほか早く東勝寺址や腹切りやぐらに出ます。

 ところで、先日このコースを歩いていたら重そうな旅行かばんを持って革靴を履いた
 ギャルが登って来ましたが、これは大変危険なことです。最低でもスニーカーにリュ
 ック姿で行きたいものです。



祇園山山頂からは、いきなりこんな道になります。



途中こんな急坂があります。地表に出ている木の根をつかみながら
登ります。こんなところを革靴やサンダルで登るのは無茶です。



2005年12月04日

               湘南便りその119

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第04回
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【C祇園山山頂】

 八雲神社横のハイキングコース入り口から息を切らせながら200段ほど石段を登り
 つめると平坦な道になります。そこで道が左右に分かれているので右手に行くといき
 なり視界が開けます。ここが祇園山山頂です。
 
 ここからは、遠くに稲村ガ崎が小さく見えて、由比ガ浜から 材木座までの眺望が楽
 しめます。

 下の写真は祇園山の山頂を撮影したものです。手前の白い台上の円盤はここから
 の展望案内指示盤です。御覧の通りの樹木に覆われた山頂なので遠望が効くのは
 案内指示盤の立つ西側一部だけになります。

 この案内指示盤の背後にはコンクリートの土台があります。これは先々代の安養院
 の住職が建てたお堂の基礎だったと言われますが、お堂は台風のために倒壊してし
 まったのだそうです。

 また、祇園山は大正14年に亡くなられた貴族院議員の村田保氏の宅地庭園でもあ
 り「三養山」とも呼ばれ、今も一段下の平場などには当時の壊れた石像片などが転
 がっているのが見られます。

 さあ、ここからが本格的な山道の始まりです。



祇園山山頂にある案内指示盤です。



頂上からの展望です。正面に稲村ガ崎が見えます。



2005年11月27日

               湘南便りその118

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第03回
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【B八雲神社】

 祇園山ハイキングコースの南口にあたるのが八雲神社です。 この神社は古くは祇
 園天王社と称していて明治維新に八雲神社と改称されたことが境内の説明版に書
 かれています。

 前九年の役(もしくは後三年の役)に向かった源義家の弟新羅三郎義光が、当時疫
 病が流行っていた鎌倉の悪霊退散のために京都祇園社を勧請した神社だそうです。

 この源氏3兄弟、長男義家は石清水八幡宮八幡で元服したから八幡太郎、次男は
 賀茂神社で元服したから賀茂二郎、三男義光は新羅明神で元服したから新羅三郎
 といわれています。

 義光の子孫は佐竹氏や小笠原氏や武田氏など、たくさんの家に分かれていきます。
 江戸時代の大名にもなってるぐらいですから、鎌倉三代で終わった本家より長く続
 いたことになります。

 境内には義光のお手玉石(力試しのような成人式を行ったらしい)と伝えられる石が
 あったり、室町期になって佐竹一族の霊祠を移したりと、義光がらみの痕跡も強く残
 されています。

 



八雲神社正面です。



お社の直ぐ横がハイキングコース入り口です。



2005年11月13日

               湘南便りその117

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第02回
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【A鎌倉駅から八雲神社へ】
 
 それでは、鎌倉駅(JR横須賀線)の東口から歩いていくことにしましょう。

  バスターミナルの先の広い道を50mほど進んでいくと若宮大路があります。
  左手に行くと、段葛を通って鶴岡八幡宮へと続いていますが、今回は交差点の横断
  歩道を渡って右手へと進んでいきます。
 この若宮大路の桜は、大正7年、鶴岡八幡宮の段葛に植えられたのを手始めに、神
  奈川県・鎌倉市の協力を得てかまくら緑の会が育ててきたものです。
  私も毎年ここの桜を楽しみにしています。

  郵便局を過ぎていくと横須賀線の陸橋がありまして、このまま若宮大路を進んでいく
  と由比ヶ浜や材木座海岸へ行けますが、今回は陸橋の手前を左折して線路沿いの
  道を進んでいきます。
写真@



写真@

滑川に架かる大町橋を渡って行き、右手に分かれていく踏み切りを見送って更に街
中を進んでいくと、歩道の先にちょこんと「八雲神社」の看板が立っているので、そこ
の路地を左手に入っていきます。
写真A



写真A


2005年11月06日

               湘南便りその116

         
鎌倉ハイキングコースT

               祇園山ハイキングコース

                    第01回
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【@先ずは江ノ電で】
 
 しばらくHPの更新をサボっていたら早くも11月になり秋たけなわの季節となりました。

 本来であれば、鎌倉の紅葉などをご案内するのがスタンダードなのですが、残念な
 がら今年は気温が高い日が長く続いたため、鎌倉の紅葉はまだの状態です。

 そこで、秋といえば食欲の秋、そしてスポーツの秋ということで今回から鎌倉のハイ
 キングコースの案内などいたしたいと思います。
 
 そんなわけで、鎌倉へのお出かけは江ノ電でということで最初は江ノ電を紹介します。

 湘南のシンボルの一つ江ノ電は、明治35年(1902年)に開通し2002年で100周
 年を迎えました。

 当時、藤沢〜片瀬(現、江ノ島)を走っていた江ノ電は明治43年に全線開通し、藤沢
 〜鎌倉を15駅で結び、約35分かけて走っています。
 
 この可愛らしい電車は、民家の間をすり抜けるように走ったかと思うと、湘南の広大
 な海沿いを、そして一般車道を悠々と進み、日々人々の足となり活躍しています。

 私が特に好きなのは七里ヶ浜駅から鎌倉高校前駅の間の、海があらわれるあたりで
 す。夕方に通りかかると、だいだい色に染まった海が急に目に飛び込んできて、それ
 は涙が出そうになるくらい美しい風景です。

 これほど情緒のある電車と沿線風景は他に例を見ません。

 私は江ノ電大好きです・・・。



NHKの大河ドラマ「義経」にちなんで現在江ノ電では
義経号が運行されています。
鎌倉には源義経ゆかりの史跡が沢山あります。



そしておなじみ鎌倉駅です。