Go-21

このページは、これまで当会のMLにて紹介していました「Go-21湘南便り」をリニューアルして
当地湘南の様子をビジュアルにお送りします。
私のみならず湘南に想い出がある方やこよなく愛でて下さる方の寄稿を歓迎いたします。
                                             世話人敬白

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2005年07月10日

               湘南便りその115

          
 北鎌倉から大船へ

                    第24回
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 【大長寺−A】
 
 その昔、秀吉の小田原攻めの際、玉縄城は徳川の軍勢で包囲され、この近くも家康
  勢の現地調達で食料などが召し上げられ、農民が難儀していたのですが中興の祖
  「暁誉源栄」(4代住職)は、以前に岡崎の松平家菩提寺「大樹寺」で修行をしていた
  ので、家康公とは顔見知りだったため、 地元住民と嘆願に出かけた際に「非戦闘員
  の家を荒らしてはならない」という触書を出すことに成功したといわれています。

  その後家康が江戸に移った後も、家康公が通りがかった際には藤沢まで家康公に
  会いに行くなど、交流が続き、徳川家が菩提寺を「増上寺」に変えた際には、家康公
  とその父松平廣忠の位牌を作ることが許されました。

  家康公から愛されたということで、お寺の門前に「下馬」の高札が認められました。
  この高札は、作るときの細かい規定があり、大きさ・高さ、さらに文字の太さや書体
  にいたるまで細かい規定が定められています。

  ご本尊の阿弥陀如来像は、室町時代の作ですが両脇侍は明治の作だそうです。




本堂は、明治15年12月類焼しましたが、明治43年9月に再建されました。
焼失前は九間四方だったのが七間四方になったので、元の位置から右へずれたそうです。




宝蔵

家康公とその父松平廣忠の
位牌が祀られています。扉に葵の紋があります。



庫裡の前で猫がお昼寝をしていました。
境内に人影はなくのどかな雰囲気でした。



2005年07月03日

               湘南便りその114

          
 北鎌倉から大船へ

                    第23回
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 【大長寺−@】
 
 大長寺は、大船駅から岩瀬住宅経由鎌倉湖畔循環バスで砂押橋バス停下車、鎌倉
  街道を鎌倉女子大方面へ徒歩5分ほど右側に少し入ったところにあります。

  大長寺(だいちょうじ)は、亀鏡山護国院と号し1548(天文17)年、玉縄城主・北条綱成
  が治国安眠の祈願所として日頃崇敬する感誉存貞(かんよそんてい)を開山に招いて
  創建した浄土宗の寺です。

  4世・源栄は中興の祖といわれていて、1590(天正18)年の小田原攻めには玉縄城主・
  北条氏勝が籠城していたのを徳川家康の内命を受けて、大応寺(龍宝寺)の住職・良
  達らと説得して降伏させたといわれています。

  家康は江戸に入ってから鷹狩りの時など源栄のすぐれていることを知ってしばしば訪
  れたそうです。当初この寺は大頂寺と書いていましたが、家康が「山号が亀鏡山なら
  ば僧は大長寿だろう」と言ったことから大長寺と改められたのだそうです。

  所在地 : 鎌倉市岩瀬1464



大長寺冠木門
バス通りから横道を見ると、この立派な冠木門(かぶきもん)が見えてきます。
なかなか趣のある門です。



2005年06月26日

               湘南便りその113

          
 北鎌倉から大船へ

                    第22回
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 【鎌倉芸術館】
 
 鎌倉芸術館は、鎌倉駅でも北鎌倉駅でもなく、大船駅で下車して歩いて約10分のと
  ころにあります。

  大船駅は頻繁に利用するのですが、駅の周辺はごちゃごちゃしていて鎌倉でありな
  がら、一般の人が感じる鎌倉らしさはありません。

  そんな大船で、鎌倉芸術館は、新しい鎌倉の文化発信基地として、平成5年10月
  に開館しました。市民が国内外の優れた芸術文化を鑑賞する場として、また、文化
  活動の創造・発表の場として利用されています。

  大小ふたつのホールがあり、一流の出演者によるクラシック、ミュージカル、能、落語
  ロックなど、さまざまな公演や、映画観賞会が行われています。
 
  ギャラリーでは四季折々の作品が展示され、市民の芸術活動の拠点となっており、
  スタジオ、練習室、会議室などもあり、予約制で利用が可能。また館内の西洋料理レ
  ストラン「パウゼ」では各種ランチや本格的なディナーが楽しめます。

  鎌倉芸術館は、なかなか素敵なホールです。
  夜になると中庭の竹林がライトアップされてまるで美術館のようです。



鎌倉芸術館正面です。



2005年06月19日

               湘南便りその112

          
 北鎌倉から大船へ

                    第21回
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 【松竹大船撮影所】
 
 とは言っても、現在、この大船の地には松竹大船撮影所はありません。

  昭和9年 松竹は撮影所をそれまであった蒲田から大船に移します。

  昭和9年、日活は京王電鉄多摩川原駅前に朝日映画連盟という会社が建てたまま
  放置している撮影所を買収し改修し、 関東大震災以後京都に移していた現代劇部
  をここに移しました。

  日活多摩川撮影所が、陣営を強化して出発したことは、松竹の新たな脅威となりま
  した。「老朽化した蒲田を捨てて、どこかに拠点を移さなくてはなるまい」 蒲田撮影
  所長の城戸四郎は、ひそかに候補地を物色していましたが、そこで浮かび上がった
  のが大船だったのです。

  大船は現在、鎌倉市北部の一地区ですが、当時は小坂村と玉縄村が合併してでき
  た大船町で、 東海道本線と横須賀線の分岐点にあたる大船駅をぽつんとあるだけ
  の荒涼たる原野といった場所でした。大正十一年ごろ、東京渡辺銀行を中心とする
  「大船田園都市株式会社」が発足し、付適を開拓して「新鎌倉別荘地」と宣伝して売
  り出しにかかりましたが、関東大震災で立ち消えになってしまいました。

  緑にかこまれ、海にも近い。映画製作の環境イメージとしても恰好の土地である。
  城戸が前々から夢に描いてきた撮影所を核とした田園都市づくり、つまりアメリカの
  ハリウッドのような映画王国にふさわしい条件がととのっている。城戸の構想を聞い
  た大船町が、町所有の土地二万坪を提供しようと申し出たことで、城戸の夢は一挙
  に実現のはこびとなったのです。



かって松竹大船撮影所があった地には鎌倉女子大のキャンパスが
広がっています。





2005年05月22日

               湘南便りその111

          
 北鎌倉から大船へ

                    第20回
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 【龍宝寺-A】
 
 境内を本堂に向かって歩くと右手に「重要文化財旧石井家住宅」があります。

  石井家も北條の地侍であったといわれ、小田原城主北条氏の出城玉縄城跡に近
  い、関谷部落にあったものが移築保存され重要文化財に指定されました。

  建築は17世紀末頃で、土壁にかやぶき屋根、窓も少なく、 ひさしや縁側を設けな
  い当時の神奈川県の民家様式がそのまま残されています。

  また、庭には当時の農具を復元した「踏柄臼(ふみがらうす)」が寄贈され、 当時の
  生活をうかがえます。

  歴史書によると、玉縄の地名の由来は“古代の人が使った美しい飾り玉が出土した
  所からこの地名が生まれたと言われています。

  玉縄城は北条早雲が1512年に小田原城の支城として築城しました。
  築城当時は城廻を中心にして植木・打越・関谷に亘る広大なもので、支城を長尾台
  ・大鋸・高谷・渡内に配した難攻不落の名城でしたが、1590年豊臣秀吉の小田原城
  攻略の際、和議に応じて降伏し4代城主氏勝が出家して攻め手の徳川軍に開城し、
  その歴史と役割を終えました。

  現在は清泉女学院がその跡に建っていて残念ながら昔の面影は何も残っていませ
  ん。



石井家です。萱葺きの屋根に風情を感じます。



建物内部へも立ち入り自由です。 
田舎育ちの私には何だか懐かしい匂いがしました。
隣に「玉縄民族資料館」もあり、両方で100円です。


 

龍宝寺の境内は花がいっぱいです。
左がモクレン、右が雪柳です。



2005年05月15日

               湘南便りその110

          
 北鎌倉から大船へ

                    第19回
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 【龍宝寺-@】
 
 大船から藤沢方面へ向かい、フラワーセンター北の竜宝寺トンネルを抜けた右手に
  龍宝寺(りゅうほうじ)があります。 龍宝寺は正確には、陽谷山龍宝寺といい曹洞宗
  のお寺です。
 
  龍宝寺のあるところは昔「七騎谷」といい鎌倉三代源実朝が甥公暁に殺された時に
  その配下7人が隠れていた場所だということです。ちなみにその公暁をとらえた長尾
  氏の居城は、玉縄の向かいの長尾台にありました。

  龍宝寺は、玉縄(たまなわ)城2代目城主北条綱成)が1503年(文亀3年)に建てた
  瑞光院がこの寺のはじまりといわれ、開山は泰絮宗栄(たいじょそうえい)と伝えら
  れています。

  その後1575年(天正3)に玉縄4代目城主氏勝が3代城主氏繁(うじしげ)を弔うため
  現在の地に移し、氏繁の戒名「龍宝寺殿大応栄公大居士」により、寺名を「龍宝寺」
  として建立されました。その当時は玉縄北条氏の菩堤寺として栄え、七堂伽藍の建
  物がならび、広い土地や財産を持つ立派な寺だったといわれています。

  1951年(昭和26)、龍宝寺は火災により建物のほとんどが焼け、残ったのは山門と
  鐘楼(しょうろう)だけになりましたが、1960年(昭和35)大岡実博士の設計で、立派
  な本堂が再建されました。

  本尊は釈迦三尊で、玉縄城主歴代の位牌や源実朝の位牌もあります。
  堂内には玉縄城の模型があって、裏山には玉縄城主歴代の墓もあります。

  また、本堂参道の反対側には新井白石の墓標という石があります。



龍宝寺山門です。桜が見事です。



本堂へ続く道です。かなり奥行きが深く写真左手には幼稚園があります。



龍宝寺本堂です。



2005年05月08日

               湘南便りその109

          
 北鎌倉から大船へ

                    第18回
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 【大船観音の春-A】
 
 今回は観音様についての薀蓄です。

 「慈悲」に溢れ、身近な願いを叶えてくれると信じられている観音菩薩は、日本では、
 地蔵菩薩(お釈迦様の入滅後からお釈迦様の「未来仏」である弥勒菩薩が現れるま
 での間、すべての人々を救うためにこの世に出現した救世主)と人気を二分する存
 在です。

 観音信仰は「観音経」に由来します。
 「観音経」は「法華経」の「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十
 五」の略称で「普門」とははどこの門から入ってもいいという意味です。

 ここでは、観音菩薩は、仏、聖者、天神、国王、長者、僧侶、婦女身など33の姿に変
 身して、すべての人々のあらゆる悩みや苦しみを救ってくれる万能の救済者だと説か
 れています。
 
 観音信仰が生み出したものに33カ所観音霊場巡りがあります。33という数字は、33の
 姿に変身し人々を救済してくれることにちなみます。33カ所観音霊場巡りは、平安時
 代に西国(さいごく、関西地方)や板東(ばんどう、関東地方)などで誕生しました。
 それが、いまだに人気が衰えず、日本の各地に70種類以上もあるのだそうです。

 観音菩薩は、役割に応じて7変化します。基本が一面二臂(いちめんにひ、1つの顔
 と2本の腕)の人間そのままの姿をしている聖観音(しょうかんのん)です。聖観音の
 ほかの観音菩薩は、千手観音(せんじゅかんのん)、馬頭観音(ばとうかんのん)、
 十一面観音(じゅういちめんかんのん)、准胝観音(じゅんていかんのん)と不空羂索
 観音(ふくうけんじゃくかんのん)、如意輪観音(にょいりんかんのん)の六つです。
 こうした七つの観音菩薩は、変化観音(へんげかんのん)と呼ばれ、33カ所観音霊場
 に祀られていますが、以下に説明しますと・・
 
 ・千手観音は千の手とそれぞれの手に一つの眼を持ち、漏れなく人々を救済する。
 ・馬頭観音は観音菩薩の中では唯一、怒った顔をしている。頭上に馬の頭を冠してい
  る。馬が草をむさぼり食うように人間の煩悩を食い尽くすことを象徴している。
 ・十一面観音はその名の通り、11の顔を持っている。さまざまな表情で、人々に語りか
  け、仏道に導く役割を果たす。准胝観音は「菩薩の母」、「仏母(ぶつも)」といわれる。
  母性を象徴し、子授けの観音菩薩。三つの目と18本の手を持つ。
 ・不空羂索観音は、すべての人を逃がさずに救済する役目の観音菩薩で、 羂索と
  は、網と釣り糸を意味するという。
 ・如意輪観音は、宝珠や輪宝の功徳によって人々の苦を救う観音菩薩である。  

 ところで、皆さんはご覧になってどの観音様だか見分けることが出来ますか?



境内の満開の桜です。



正面から見た観音様です。



観音様の胎内にある祭壇には大船観音の1/20スケールの
観音像が祀られています。



2005年05月01日

               湘南便りその108

          
 北鎌倉から大船へ

                    第17回
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 【大船観音の春-@】

 湘南方面から東京方面へJR線に乗車し大船駅に近づいてくると、左前方(北西側)
  の小山の上に白衣の観音様が見えてきます。

  私は大船駅を通る度にそのお姿を見るのですが、いつもその面立ちの優しさに心
  洗われる気持ちになります。

  今回からこの大船観音にご案内します。

  大船駅西口から小高い山を登りきると、曹洞宗大船観音寺の山門に突き当たりま
  す。境内にある急な石段の下に立つと、大船観音の白い頭が望め、段を上がるご
  とにその巨大な姿が現われてきます。

  大船観音は, 観音思想を普及させ 世相を浄化しようという意図で, 清浦奎吾氏(大
  正13年に総理大臣) や 金子堅太郎氏(初代日本大学校長, 後に司法大臣) らに
  よって「護国観音」の建立が計画されました。この時点では 普通に立った姿が予定
  されていたようですが, 現地の地質が弱いため 坐像に変更され, 更に 胸像へと 計
  画が変わりました。

  1929(昭和4)年に着工されましたが やがて資金難におちいり, 像の原形ができたと
  ころで 工事は中断されてしまいました。 さらに戦争が勃発したため そのままの姿
  で長い間放置されてきました。

  戦後 安藤正純氏(吉田内閣で国務大臣)や 五島慶太氏(東急グループの創設者)
 らの協力のもとに 工事が再開され, およそ 20年間 放置されていた原形を生かし
  て肉付けする形で, ようやく1960年(昭和35年)に完成したのです。



大船観音入り口まではこんな坂を上ります。



ここが入り口です。拝観料300円お支払い下さい。



満開の桜に浮かぶ観音像です。合掌。




2005年04月17日

               湘南便りその107

          
 北鎌倉から大船へ

                    第16回
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 【西台山光照寺】

 北鎌倉駅から鎌倉街道を大船方面に500mほど歩き、小坂郵便局前のT字路を左折
  すると、右手すぐのところに光照寺があります。

 お寺の山号西台山は、幕府から見て西の高台の方角に在ったからだといわれていま
 すが、開山は「一向俊聖上人」(いっこうしゅんじょうしょうにん)です。

 「一向上人」は、時宗の宗祖「一遍上人」と同時代の人で、念仏聖(ねんぶつひじり)で
 す。光照寺の本山は、藤沢の清浄光寺(遊行寺)ですが、開山の「一向俊聖上人」の
 関係から、滋賀県の米原町・番場の浄土宗「蓮花寺」の流れをくむお寺ともいわれます。

 時宗というのは一遍上人(いっぺんしょうにん)が鎌倉時代に広めた宗派であり、一遍
 上人は全国を遊行したことで知られています。
 僧侶にはきびしい持戒・修行が課せられ、決まった寺をもって安住することなしに、家
 を棄て一切の欲を棄てて遊行する修行が課せられていましたが、一般の人々は、何
 もしなくても、そのような僧侶からお札(ふだ)をもらったり一緒に踊念仏に参加するだ
 けで救われとされていたため、時宗は広い階層に広まっていきました。

 このお寺の場所は一遍上人法難霊場といわれ、鎌倉での布教念仏のため鎌倉の北
 の入り口、小袋坂(巨福呂坂)から鎌倉に入ろうとしましたが、執権北条時宗の警護
 の武士に阻止され、木戸の外で一夜を明かし踊り念仏をしました。
 翌日「かたせの館の御堂」に現れ、数日後「かたせの浜の地蔵堂」に移り4ヶ月ほど
 滞在し踊り念仏で民衆に仏教をひろたと伝えられています。

 建長寺や円覚寺のような有名なお寺とはちょと異なる趣のある寺です。拝観料も必要
 ありませんので北鎌倉へおいでの節は一度お立ち寄り下さい。




 光照寺の山門は別名「くるす門」と呼ばれています。
「くるす門」は元々は近くの台地の上にあった東渓院というお寺にあったものですが、
明治初めの廃仏毀釈で廃寺となり、仏像などとともに光照寺に移築されました。



光照寺本堂です。




2005年04月17日

               湘南便りその106

          
 北鎌倉から大船へ

                    第15回
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 【熊野神社】

 多聞院正面の隣に「熊野神社」の鳥居があります。
  熊野神社は、大船の鎮守で日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀られています。

  この神社は、室町時代に上杉家に仕え、後に小田原北条氏にも仕えた甘糟(あまか
  す)家の太郎左右衛門尉平長俊が、1579(天正7)年に勧請したといわれています。

  甘糟氏は室町時代に上杉家に仕え、後に小田原北条氏にも仕えました。1526(大永
  6)年、房総から里見義弘が乱入したとき 玉縄城主北条氏時とともに応戦し、敵に取
  られた首を埋葬した玉縄首塚は、 後に甘糟首塚ともいわれるほど勇名を馳せたとい
  われています。



熊野神社の鳥居です。



本殿です。ちょと寂しい雰囲気です。




2005年04月10日

               湘南便りその105

          
 北鎌倉から大船へ

                    第14回
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 【多聞院】

 常楽寺からバス通りに出て東にすすみ、交差点をわたって小道に入り少し行くと右
  側に多聞院(真言宗)が見えます。

  この寺は、天衛山福寿寺と号し、南介僧都(ナンカイソウズ)により文明年間(1469〜87)
  に開山されたと伝えられています。

  もとは山ノ内の爪ガ谷にあった観蓮寺(カンレンジ)といわれ、のちに現在地に移って改
  名し、そばの熊野神社の別当職になったとされています。

  本堂には多聞天ともいわれる毘沙門天(ビシャモンテン)が本尊として祀られています。

  わきには岡野観音ともいわれる十一面観音があり、鎌倉の由井(比)の長者染屋太
  郎時忠(ソメヤノタロウトキタダ)の3歳の娘が鷲にさらわれて食べられ、岡野のあたりに骨
  が散っていたので、時忠が骨を納めて観音を造立させ、のちに運慶が造り直したと
  いう伝説があります。

  まだ牛頭天王(ゴズテンノウ)という木像は、山ノ内の八雲(ヤクモ)神社の祭神として多聞
  院の前の観蓮寺でいっしょに祀られていたといわれています。

   他に弘法大師像や聖観音像・地蔵像・薬師如来像なども安置されています。

  境内に中に入ってみますと綺麗に手入されていて、本堂前には立派な紅梅の木が
  ありました。季節には、馥郁たる花の香が境内に漂うことと思われます。

  この寺は、所謂、鎌倉の観光コースにはないところですが、その分とても静かな佇
  まいを感じることが出来ます。



多聞院本堂です。





2005年04月03日

               湘南便りその104

          
 北鎌倉から大船へ

                    第13回
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 【常楽寺】B 北条泰時

 常楽寺の裏手には、北条泰時の墓があります。今回はこの北条泰時について書いて
  みたいと思います。

  北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉幕府の第二代執権北条義時の嫡男として寿
  永2年(1183年)に生まれました。母は阿波局。.

  1194年に将軍源頼朝が烏帽子親を務めて元服し,その際に頼朝の一字を賜って、頼
  時と名乗りました。1211年に修理亮に補任。1213年の和田合戦では父・義時と共に
  和田義盛を滅ぼし、1218年には父から侍所の別当に任じられ、また、式部丞に遷任。
  同年、従五位下に叙位。1219年には従五位上に昇叙。同年、武蔵守に転任しました。

  1221年の承久の乱では、幕府軍の総大将を務めて倒幕軍を破って京都に入り、戦後、
  朝廷を監視するために設置された六波羅探題北方として初めて就任しました。
  因みに同じく南方には叔父北条時房が就任しています。

  224年、父・義時が急死したため、鎌倉に戻って家督を相続し第3代執権となりました。
  翌年には伯母の北条政子や有力幕臣の大江広元が相次いで没したため、幕府内で
  不穏な空気が流れましたが、泰時は叔父の北条時房を執権を補佐する連署に任じ
  てその地位を磐石なものとしました。さらに評定衆を設置して、有力御家人による合
  議制を確立し、1232年には最初の武家の法典であることで有名な御成敗式目(貞永
  式目)を制定しました。

  泰時は父・義時同様に朝廷に対しては厳しい態度で臨み、1242年に四条天皇が崩
  御したため順徳天皇の皇子が新たな天皇として擁立されようとしましたが、泰時は
  順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに猛反対
  し後嵯峨天皇を新たな天皇として擁立しましたが、同年、病のために没しました。
  法名:常楽寺観阿。


 源頼朝が築いた鎌倉幕府の土台を安定させたのは、北条泰時と言えます。
 
北条泰時は、だれよりも源頼朝を尊敬し、彼を手本に したと言います。
  もしかすると、源頼朝のあとつぎは、彼の息子の源頼家や源実朝ではなく、自分だ
  という思いがあったのかもしれません。

  その思いのとおり、北条泰時は鎌倉幕府を安定させるためのしくみを作り上げました。
  鎌倉幕府を育て上げたのは北条泰時と言えるでしょう。。




北条泰時の墓、意外に質素です。




2005年03月27日

               湘南便りその103

          
 北鎌倉から大船へ

                    第12回
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 【常楽寺】A 大姫と義高

 常楽寺の裏山に木曽義仲の息子義高の碑と墓があります。今回はこの義高と源頼
  朝の娘である大姫の悲しい物語を紹介します。

  まだ頼朝が鎌倉に幕府を立てる前、つまり源平時代のことです。
  大姫の父、頼朝と義高の父の義仲は父同士が兄弟のつまり従兄弟同士ですが二人
  は仲が良くありませんでした。源氏一族内での勢力争いが二人の間では起きていた
  のです。頼朝よりも先に京へと上り、平家を討とう、そう思ったいた義仲ですが、そん
  なことは自らを源氏の嫡流=源氏の棟梁とする頼朝は許すわけがありません。

  頼朝は義仲に嫡男の義高を渡せ、と言って来ます。
  頼朝にはその頃、六つの娘、大姫がいてその大姫の婿に義高を、と言ってきたので
  す。しかし、これは大姫の婿という名の人質でした。
  事態は既に義高を差し出さなければ、鎌倉と木曾の戦になる、そんなところまで来て
  しまっていたのです。
  止む無く義仲は義高を鎌倉に差し出すことを決断しました。
  この時義高は11歳でした。

  義高にはいつも一緒に遊んでいた同い年の海野小太郎幸氏という友人がいました。
  義高は彼を伴って、鎌倉へ向かうことを決めます。
  
  鎌倉では大姫と大姫の母・北条政子が二人を歓迎したといいます。
  大姫はどちらかと言うと病弱な方で、幼い頃から一緒に遊んでくれる友達もいなかっ
  たので、義高が鎌倉に来てからは、四六時中そばにいたことから二人は幼いながら
  もとても仲が良かったと言われています。

  ところが義高の父・義仲は、京に上洛するも、しだいに後白河法皇に疎まれるように
  なってしまい、ついには、後白河法皇は鎌倉の頼朝に義仲追討の院宣を出します。
  頼朝は義仲の軍を弟・義経の軍をもって追い詰め、現在の滋賀県、粟津の松原とい
  うところで義仲を討ち取ります。

  さて、頼朝は義高の父・義仲を討ちました。つまり、義高にとっては、頼朝は父の仇
  になるわけです。頼朝はそれを恐れました。今は11歳の幼い少年いえど、自分が
  父義朝の仇であった平氏を撃ったように成人すれば必ず自分に刃を向けることでし
  ょう。その前になんとしても義高を亡き者にする必要が頼朝にはあったのです。

  「義高を討つ。」
  これを聞いて頼朝の妻・政子は彼に抗議します。

  それが世のならいだとしても、あんな幼いものを…むごすぎます。
  それに、義高を慕っている大姫はどうするのですか?
  と、しかし政子の抗議もむなしく、頼朝は考えを変えようとはしませんでした。

  そこで政子は義高をお参りに行く女房たちの中に女装させてまぜ、そしてそこから
  抜け出して逃げさせる、という計画をたてます。

  このとき、木曾から一緒に来た海野小太郎は義高の不在を周りに知られないため
  に義高のフリをして部屋ですごろくをすることにしました。
  気づかれるまでの間に少しでも遠くに義高が逃げられるように、小太郎はそう考え
  たのでしょう。小太郎は義高の脱走に伴することをしませんでした。

  しかし、小太郎はすぐに義高でないことがばれ、追っ手がすぐに各地へと送られま
  した。そして、義高脱走から四日後の四月二十六日、埼玉県の入間川の河原で追
  っ手に討たれてしまいます。

  これをどこからか漏れ聞いた大姫はショックでそれ以後水ものどを通らなくなり、
  義高への想いを貫き続け、わずか二十歳の若さでこの世を去りました。

 義高の碑文には次のように書かれています。

 義高は義仲の長子なり 義仲嘗(かっ)て頼朝の怨(うらみ)を招きて兵を受け将に戦に
 及ばんとす 義高質として鎌倉に至り和漸(ようや)くなる 爾来(以後)頼朝の養う所と
 なり其女(むすめ)を得て妻となす後義仲の粟津に誅(ちゅう:殺)せらるるに及び遁(逃)
 れて入間河原に至り捕へられて斬らる 塚は元此地の西南約二町木 曾免(きそめん)
 といふ田間に在りしを延宝年中(1673‐1681)此に移すといふ 旭将軍が痛烈にして豪
 快なる短き生涯の余韻を伝へて数奇の運命に弄(もてあそ)ばれし彼の薄命の公子が
 首級(しゅきゅう:首)は此の地に於て永き眠を結べるなり

 今年の大河ドラマは源義経ですが、ともかくこの時代は身内どうしで殺しあうのです
 からどうにもやりきれない思いがします。



仏殿
1691年に再建されたもので、方三間禅宗様式の特徴を良く示しています。
本尊の阿弥陀如来像と脇持の観音・勢至菩薩像の三尊が安置され、
天井には狩野雪信の雲龍が描かれています。



木曽義高の墓
常楽寺の左脇を通って裏山を登ったところにあります。




2005年03月20日

               湘南便りその102

          
 北鎌倉から大船へ

                    第11回
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 【常楽寺】@

 JR大船駅バスロータリー6番乗場から、江ノ電バス・鎌倉駅ゆきに5分ほど乗って常
  楽寺前で降り、バス通りから数十メートル路地を入ると、茅葺きの常楽寺三門があり
  ます。

  鎌倉子供風土記によりますとこの常楽寺は、「1233年、鎌倉幕府3代目の執権“北条
  泰時が妻の母の供養”のために、墓のあったそばに寺を建立(当時は粟船御堂と呼
  ばれていた)した。 その後、泰時が1247年に亡くなってこの寺に埋葬された折、泰
  時の法名が“常楽院殿”であった事から常楽寺に改められた。
  また“5代執権・北条時頼”が、のちの建長寺開祖である中国の宋から来た僧 “蘭渓
  道隆” を招いて、ここに道場を開かせたが、蘭渓道隆は建長寺を建立してそちらに
  移るまでここに住んでいた。そのため上楽寺は建長寺の根本の寺として、寺領を配
  当されていた」 とあります。

  現在の常楽寺の回りは大船駅周辺の住宅地となっており、鎌倉市内に点在する寺の
  中でも、常楽寺は少々ルートから離れた場所にある為 常に静かな古寺の面影を感じ
  ます。



常楽寺三門
参道を進むと立派な三門がみえます。
山門には粟船山と書かれた額が掛かっています。
額には建長素堂とも書き込まれていました。



粟船山の額
ちなみに粟船とは大船の旧名で、かってはここまで海が入り込んでいて
粟を運ぶ船が多く出入りしたことからこの名がついたのだそうです。





2005年03月13日

               湘南便りその101

          
 北鎌倉から大船へ

                    第10回
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 【円覚寺】C 夏目漱石

 円覚寺と縁の深い文学者としては夏目漱石があげられますが、今回は漱石の話を
 紹介します。

 神経衰弱の病状著しかった漱石は1894年の12月から1895年1月にかけて円覚寺に
 参禅しました。

 12月に塔頭、帰源院に釈宗活をたずね、その手引きによって釈宗演のもとで参禅し
 ましたが、失敗に終わってしまいました。これについては、『門』でこの時の参禅を描
 いていますし、『草枕』でも思い出が描かれています。また、『吾輩は猫である』にも
 登場します。

  石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山(ごさん)なるものを、
 ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺(えんがくじ)の塔頭(たっちゅう)であったろう、
 やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄(き)な法衣(ころ
 も)を着た、頭の鉢(はち)の開いた坊主が出て来た。余は上(のぼ)る、坊主は下(く
 だ)る。すれ違った時、坊主が鋭どい声でどこへ御出(おいで)なさると問うた。
 余はただ境内(けいだい)を拝見にと答えて、同時に足を停(と)めたら、坊主は直(た
 だ)ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。 『草枕』十一

  「誰がって。一人は理野陶然(りのとうぜん)さ。独仙の御蔭で大(おおい)に禅学に
 凝(こ)り固まって鎌倉へ出掛けて行って、とうとう出先で気狂になってしまった。
 円覚寺(えんがくじ)の前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切り内(うち)へ飛び
 込んでレールの上で座禅をするんだね。それで向うから来る汽車をとめて見せる
 と云う大気焔(だいきえん)さ。もっとも汽車の方で留ってくれたから一命だけはとり
 とめたが、その代り今度は火に入(い)って焼けず、 水に入って溺(おぼ)れぬ金剛
 不壊(こんごうふえ)のからだだと号して寺内(じない)の蓮池(はすいけ)へ這入(は
 い)ってぶくぶくあるき廻ったもんだ」 『吾輩は猫である』九

 円覚寺は、建長寺に比べて、ゆったりと落ち着いた風情があって、私の好きな寺の
 ひとつでもあります。 ここでいただいた説明書の中にすばらしい一節がありました。

 
「人は大きく、己は小さく、心は丸く、腹たてず、気は長く 口謹めば命ながかれ」

 これを読むと、私なんぞは、とても長生きできないようです。



北条時宗の廟所である仏日庵です。



夢窓疎石の塔頭で四季の花が美しい黄梅院です。



2005年03月06日

               湘南便りその100

          
 北鎌倉から大船へ

                    第9回
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 【円覚寺】B 七堂伽藍

 円覚寺は、七堂伽藍の中国禅宗様式で建てられていますので、父時頼の建立した
  建長寺と建物の配置がそっくりです。

  ただ父に遠慮して少し規模を小さくしました。それを補うために段差を付けた場所に
  建立し総門、山門、仏殿、法堂(現存しない)、方丈の並び方が階段状になっていて、
  間近に行って仰ぎ見ると大きく見えます。

  前回紹介したように仏殿は、残念ながら関東大震災で倒壊し、昭和39年にコンクリ
  ート造りで再建されました。本尊は宝冠釈迦如来で人間臭い飾りを付けています。

  これは、高い位にいる釈迦が、人間と同じ位に下りてきて話すという禅宗の考え方
  を意味しています。

  方丈の前庭には仏教にゆかりの柏槙(びゃくしん)、木斛(もっこく)、などの樹木が
  立ち並び、その裏庭は、枯山水の石庭が広がっています。



舎利殿
神奈川県で唯一の国宝建造物です。ここの仏舎利は源実朝が
宋の能仁寺から招来したものと言われています。
これは、鎌倉尼五山第一位の太平寺(廃寺)の仏殿を移築した
もので、ここには開山堂と禅の修行をする僧堂とがありますが、
普段は非公開になっています。
しかし、宝物風入れのときと正月三が日だけは一般に公開されます。




洪鐘
三門の東側の高台にあり、弁天堂の高台にある洪鐘(おおがね)は
1301(正安3)年 物部国光が執権・北条時貞の命で鋳造した鐘です。
関東最大級の鐘楼で、国宝に指定されています。第九鎌倉三名鐘の
一つになっています。



2005年02月27日

               湘南便りその99

          
 北鎌倉から大船へ

                    第8回
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 【円覚寺】A 北条時宗

 円覚寺開基の北条時宗は、既にNHK大河ドラマで有名になっていますが、ここであ
  らためて紹介したいと思います。

 
北条時宗(1251〜1284)は、五代執権・北条時頼の嫡男として建長三年(1251)5月15
  日に生まれました。得宗の子である時宗には、生まれながらにして強い期待が集ま
  っており、9歳で小侍所別当、13歳で執権を補佐する連署となり、十八歳の若さで第
  8代執権に就任しました。

  しかし時宗を待っていたのは、かってない国難である文永十一年(1274)の文永の役
  と弘安四年(1281)弘安の役の2度に渡る元軍の
侵略攻撃でした。

  それに先立ち蒙古王世祖フビライから突然届けられた国書は、「大蒙古国皇帝、書
  を日本国王に奉ず」の書き出しで始まっています。 自分の国に大をつけ、自らを皇
  帝と呼んでいるのに日本へは大もなく単に国王としているだけです。そして国書には
  次のようにつづけられていました。

 
「私(フビライーハン)が思うに、昔から、小国の君主は、領土が接している場合は、
  修好に努力するものである。私の祖先も天命を受けて中華の地を得た。異域の国
  々でも、その徳に服している者の数は計り知れない。高麗も長い間、戦争に苦しん
  でいたが、私が即位してすぐに平和をもらたし、その本領を安堵してやった。
  それで高麗の国王も臣下も感激して来朝している。名分からいえば、私と朝鮮王は
  君臣関係にあるが、実際は父子のように喜びを分かち合っている。この高麗は、私
  の国の東の属国である。日本は高麗に密接しているうえに、開国以来、中国に来貢
  してきた。それなのに、私が皇帝に即位してから使臣一人やってこない。これはきっ
  と私のことをよく知らないからだろう。それで特に使いに手紙を持たせて派遣し私の
  志を布告する次第である。 これからは、好みをむすび、互いに親睦を図りたいもの
  である。また聖人は「四海を以って家となす」というが、通好しなければ一家とはいえ
  ない。もし、武力を用いなければならないようなことになれば、これはもとより好むと
  ころである。日本国王よ、よく考えなさい。」


  幕府が、この手紙を朝廷に見せると、公家達は驚きおののいて鳩首会議した挙句,
  に返書をつくり、時宗に命じて蒙古に送らせようとしました。しかし、この時、わずか
  17歳の執権北条時宗は、「蒙古からの手紙は無礼であって返答する必要はない」
  として、朝廷の命を拒絶し、朝鮮からの使者を追い返してしまいました。そして直ち
  に蒙古に断固立ち向かう姿勢を示しました。

  日本は、663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れて以来、600年以上もの
  間、外国との戦争をほとんど忘れていました。しかし、当時の日本の政権が武家の
  手にあり、しかも執権が北条時宗という大英雄だったことが幸いでした。

  時宗は1284年、まだ33歳の若さで亡くなりました。2度目の元寇「弘安の役」からわ
  ずか3年後です。まるで元寇に立ち向かうために生まれ、それを成し遂げて全ての
  精魂を使い果たして死んでいったかのようです。 時宗は、日本人としての誇りと気
  概を最後まで失わなかったのです。

  円覚寺内の十王堂前の立て札には次のような言葉が書いてあります。

 
「腰を立てて下さい。背骨を伸ばして下さい。顔を起こして下さい。もっとゆっ
  くり日本の美くしい言葉を話して下さい。これが日本を守る根本(モト)です。
  日本を守ろう」


  我々は今こそこの言葉の意味を考えなければなりません。



三門
   1783(天明3)年に誠拙(せいせつ)和尚が再建した楼門です。
      誠拙和尚(大国大師)は江戸中期に円覚寺を再興した人物です。
      木造2層の造りで高さは約20m門には伏見上皇勅筆の「圓覚興聖禅寺」
という扁額が掛かっています。




仏殿
大光明宝殿と称し、円覚寺の中核となる建物です。
元亀四年(1573年)の「仏殿指図」に従って建立された
唐様禅宗様式の建物。
旧仏殿は木造でしたが、関東大震災で倒壊。昭和39年、
現在の鉄筋コンクリート造りの建物が再建されました。
この中に本尊の宝冠釈迦如来座像(頭部は鎌倉時代、
胴部は江戸時代)が安置されています。



2005年02月20日

               湘南便りその98

          
 北鎌倉から大船へ

                    第7回
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 【円覚寺】@

 JR北鎌倉駅で下車した観光客がまず訪ねる社寺といえば、九分九厘円覚寺でしょ
  う。というのもJR横須賀線の線路は、円覚寺のかっての境内を突っ切って走ってい
  て参詣者は電車を降りたホームからそのまま駅の裏道に沿って、円覚寺総門ヘの
  石段の前に出ることができるからです。

  円覚寺は、「瑞鹿山大圓覚興聖禅寺」(ずいろくざんだいえんかくこうしょうぜんじ)と
  いうのが正式名称で、鎌倉時代に建立、江戸中期に再興されました。

  文永11年と弘安4年、海を越えて元国(現在の中国にあった蒙古民族を中心とした
  国家)が、二度日本を襲来しました。 時の執権北条時宗は、この国難に際して国を
  挙げて元軍の侵入を阻止します。

  円覚寺は、この戦いで戦死した敵味方供養の為に建立されました。鎌倉五山第二
  位の瑞鹿山円覚興聖禅寺は、時宗が開基、開山は宋僧、無学祖元(仏光国師)で
  す。無学祖元これ以上学ぶ事が無いという程の高僧でした。

  寺の落慶開堂の日に、白鹿が国師の説法を聞きに来た事から瑞鹿山の山号が、
  また国師が定礎の鍬を入れると地中から円覚経の石櫃が出てきた事から円覚寺
  と名づけられたと伝えられています。

  そして、寺入口の線路前の池は「白鷺池 (びゃくろち)」と言い、国師が鎌倉に来た時
  に八幡宮の神が白鷺となって国師を、この地に導いたという伝説があります。




この階段を上がると総門です。周囲が緑に囲まれたとても静かな
雰囲気です。



総門にかかる瑞鹿山の額です。




2005年02月13日

               湘南便りその97

          
 北鎌倉から大船へ

                    第6回
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 【建長寺】D 半僧坊

 建長寺裏手には半僧坊権現社に行く道があって長くてキツイ階段が続いています。
 石段を数えて見ると何と245段ありましたので挑戦するには少し根性がいります。

 建長寺の後ろの山を勝上嶽といい、ここに祀られている半僧坊大権現は建長寺の
 守護神とされています。創建は明治22年(1889年)、静岡の方広寺から勧請したも
 のです。途中の石段には鉄製の天狗像が並んでいて、なかなか楽しい眺めです。
 半僧坊本殿の左側には、開山の座禅窟と呼ばれるほら穴があり、ここで、蘭渓道
 隆と一遍上人が歌を詠みあったという伝説があります。

 半僧坊には休憩所もあるので、疲れたらここでのんびりするのもよいでしょう。
 また,半僧坊へ登る途中には,江戸時代初期のの豪商で海運・治水に功労のあっ
 た河村瑞賢の墓もあります。

 しかし、どうしてここには天狗や烏天狗がやたら多いのでしょうか?
 

 半僧坊にまつられている大権現は建長寺でも最も奥まった高台にあって、建長寺
 を守っています。その大権現様のお供が実は天狗なのです。
 さらに、その天狗の家来が烏天狗というわけです。

 つまり、ここに大勢いる天狗さんや烏天狗達は建長寺を守っているというわけです。

 それから、全く話が違うのですが、建長寺の隣にある鎌倉学園は、あのサザンの桑
 田さんの母校だそうです。




半僧坊の社です。ここまでたどり着くのにえらい疲れました。



半僧坊へ行く途中で「ロウバイ」が咲いているのを見つけました。
見事です。




2005年02月06日

               湘南便りその97

          
 北鎌倉から大船へ

                    第6回
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 【建長寺】C 建長寺のたぬき和尚

 
今回は建長寺三門にまつわる昔話を紹介します。

  むかし、鎌倉の建長寺(けんちょうじ)がすっかりさびれて、山門の柱はかたむき、
  屋根もくずれるばかりのありさまになったときのことといいます。

  この山門を再建するため、勧進(かんじん)の和尚が、村や町をまわっていました。
  どこでも気持ちよくむかえて、こころざしのお金をさし出しましたが、この和尚が、行
 った先ざきで、お礼に書いてのこしていく書や画は、いっ ぷう変わっていて、字は
 だれも読めるものがいないというふしぎな字でした。
  そればかりでなく、和尚が来る前には先ぶれが出て、あらかじめ犬をつないでおく
 こと、食事のときは一人だけにすること、などとさしずされるのでした。
  どうもあやしい、あの和尚は、人間ではないのかもしれない、などといううわさが、
 どこからともなく起こりました。

  ある宿場の男が、和尚の正体を見てやろうと考えて、朝旅立とうとする前に、犬を
 表に放しておきました。
  和尚が、宿の人びとにお礼をのべて、さてかごに乗ろうとしたとき、犬はおそろしい
 うなり声をあげて、和尚に飛びかかっていきました。
  あっという間にのど首をくい切られた和尚は、その場で死んでしまいました。ふとこ
 ろからは、今まで苦労して集めた金三十五両と、銭五貫二百文が出てきました。

  和尚のなきがらは、しばらくは変わったことも起こりませんでしたが、七日目になる
 と、たぬきの姿に変わりました。

  それは、建長寺のうら山にすんでいた、古狸だったのです。
  日ごろお世話になっている恩にむくいるため、山門再建に一働きしようとして、長い
 勧進の旅に出ていたのです。

  このことが建長寺へ知らされると、寺では、自分たちの代わりに旅に出て、苦労して
 死んだたぬきをあわれみ、境内(けいだいに)に、小さな祠(ほこら)をつくって供養し
 たということです。 そして、この祠(ほこら)には、夜になるとひとりでに燈明(とうみょ
 う)がともったということです。

  それから、建長寺の三門を、「狸の三門」というようになりました。


 (かながわのむかしばなし50選)より

 

写真左:【法堂】仏殿の背後に立つ。文化11年(1814年)に再建された堂で
堂内右奥に源頼朝が富士の巻狩りで使ったという大太鼓が置かれている。
秋になると法堂の左脇のカエデが見事です。

写真右:【唐門】方丈前にある建物。仏殿と共に増上寺から移築された門で
桁行き1間、梁間1間銅板葺き、正面に唐破j風を見せる向唐門の造り。




2005年01月30日

                湘南便りその96

          
 北鎌倉から大船へ

                    第5回
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 【建長寺】B 本尊はお地蔵様

 ところで、これだけの大きな寺院のしかも臨済宗で本尊はお地蔵様なのだそうです。
 これだけの規模のお寺さんのは一般的には釈迦牟尼といいますが、それはなぜで
 しょう?

 この地は、その昔地獄谷とよばれていて、心平寺というお寺があり、地蔵像をまつっ
 た地蔵堂があったそうです。建長寺はその地蔵堂が発達したお寺だから、ということ
 なのだそうです。

 地蔵菩薩にはこんなエピソードがあります。

 『 この地が地獄谷とよばれた刑場だったころ、斉田左衛門というものが罪に問われ、
 斬罪となりました。役人が彼に刀を振り下ろし、首がはねられたと思った瞬間、刀が
 折れ、当の斉田左衛門は平然としているのです。何度やっても首が落ちないので、
 役人が彼の首筋を調べてみると、まげの中から一寸八分の地蔵像が見つかり、そ
 の地蔵像にはいくつかの刀傷がありました。

 実は、斉田左衛門は地蔵を日頃信仰していて、いつもこの小さな地蔵像を身につけ
 ていたため、そのご利益で奇跡的に命拾いをしたのであった。そして熱心な信仰ぶり
 を認められ、彼は斬罪を許されたのでした。

 小さな地蔵像は、斉田地蔵といわれ、その後、心平寺の地蔵堂の地蔵の頭の中に
 納められていましたが、建長寺が建立されると、丈六の地蔵菩薩(現在仏殿に安置
 されている)の胎内に移されたということです。』

 それでは、地蔵菩薩とはいったい何者なのでしょう?

 学研の「密教の本」によりますと、
 「インドでは『クシティガルバ』といい、大地の母とか蔵という意味がある。大地が実
 に堅固で、あらゆるものをのせていながら揺れ動くこともなく、種々のものをその中
 に蔵しているように、法験無量のところから、地蔵と名づけている。
 釈迦の滅後、弥勒が世に出るまでの期間、人々を救って悟りの境地へ導く任をも
 つ者であるとされるほか、地獄を支配する十人の王を支配する者であるとか、十王
 の中心とされる閻魔王が実は姿を変えたのが、地蔵であるともいわれる。
 密教においては、五穀豊穣、敬愛和合、立身出世、悪人調伏、地中に埋蔵されたも
 のの発見に霊験ありとされている。真言をひたすら7万回唱えると、大金持ちになれ
 るとか。」

 皆さんも真言7万回にチャレンジしましょう。



仏 殿
禅宗では本堂のことを仏殿とよんでおり、本尊の地蔵菩薩坐像を安置している。
建物は江戸初期の1647年(正保4)に、徳川2代将軍秀忠の夫人崇源院の霊廟を
芝の増上寺から移築したもの。
仏殿前のビャクシンの巨木は、蘭渓道隆[らんけいどうりゅう]が宋から持ってきて植
えたものと伝わる。仏殿奥にある龍王殿では、毎週金・土曜に座禅会(料金:志納、
時間:17〜18時)が開かれる。



ご本尊の地蔵菩薩像です。
合掌



2005年01月23日

                湘南便りその95

          
 北鎌倉から大船へ

                    第4回
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 【建長寺】A 開基 北条時頼

 建長寺は、北条時頼を開基としていますが、北条時頼といいますとNHKの大河ドラマ
 「北条時宗」の中で時宗の父親(時頼)役であった渡辺謙を思い出します。
 
 時頼は時氏の次男、泰時の孫にあたり、安貞元年(1227年)5月14日に生まれました。
 母は安達景盛の娘で松下禅尼といいます。

 時頼は、兄・経時の死の直前、執権に就任しましたが、彼の執権職時代は安定したも
 のではありませんでした。経時の死後、同じ北条氏の
名越氏が、時頼から執権職を
 奪おうと企てましたが、時頼は先手をうち首謀者を配流、自殺させるなどして回避しま
 した。この時は戦にまで発展しませんでしたが、その後1247年、北条氏の最大のラ
 イバル三浦氏が謀反を企てたとし、他の御家人も巻き込む大きな戦になってしまいま
 した。

 後に
宝治合戦と呼ばれたこの戦は時頼側が勝ち、鎌倉幕府成立時期からの大豪族
 の三浦一族は実質的に滅亡しました。これにより時頼が得宗政治の勢力を拡大させ
 る事になりました。しかしこれは時頼側が三浦を挑発したとも、時頼の母の一族であ
 る安達景盛が北条に継ぐ力を確立する為にじゃまな三浦を討つべく企てたとも考えら
 れ、真偽は確かではありません。

 他の豪族を討ったという点で時頼は冷徹な権力者とも言わますが、同時に弱小御家
 人の保護にもつとめたり、経済の安定を図るなどの善政を布いています。

 時頼は、病気を理由に執権職を北条重時の子・
長時に譲り出家しましたが、これは
 息子・時宗
が成長するまでの中継ぎに過ぎずその後も実権は時頼が握っていたとい
 われています。

 その後37才で没。その死にざまは、袈裟を着て座禅をし、動揺する事なく死を迎えた
 とあります。墓所は
最明寺(今のあじさい寺で有名な明月院の境内にあります。



三門
建長寺内に建つ高さ約30mで入母屋造、裳階付[もこしつき]、十二脚門の巨大
な楼門です。1775年(安永4)に万拙和尚[ばんせつおしょう]が再建したもので
『建長興国禅寺』の額は後深草[ごふかくさ]天皇の宸筆[しんぴつ]と伝えらます。
なお、禅宗では山門ではなく三門とよぶことが多いのですが、これは、悟りに入る
3つの法門、つまり三解脱門[さんげだつもん]のことで、この下を通ると心が清めら
れるといわれています。



2005年01月16日

                湘南便りその94

          
 北鎌倉から大船へ

                    第3回
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 【建長寺】@

 北鎌倉駅の直ぐそばが円覚寺なのですが、五山の序列にしたがい今回から建長寺を
 紹介します。

 
建長寺は巨福山建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位とされる臨済宗建長寺派の
 大本山です。今から約750年前の建長5年(1253年)に後深草天皇の勅命で鎌倉幕府
 五大執権北条時頼(1227年〜63年)が幕府の興隆と北条家の菩提のために宋から禅
 宗の高僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて創建されました。日本最初の禅宗
 道場が開かれ、往時は千人を超える雲水が修行したと伝えられています。

 現在は臨済宗建長寺派の大本山として末寺に406ヶ寺をひかえ、臨済宗第3の規模を
 誇り、広大な敷地に一直線上に配された総門・三門・仏殿・法堂の伽藍配置は、中国
 宋代の禅宗様式を取り入れたもので、関東地方では最大規模を誇る貴重な遺産とな
 っています。

 鎌倉五山とは、中国の風をならって北条氏が取り入れた制度で、臨済宗の寺格を定め、
 官が任命した住持を順次上位の寺へと昇任させる制度のことです。
 京都の寺の格付けとからみ幾多の変遷をみましたが、元中3(1386)年、足利義満が定
 めた建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の五山が現在に至っています。

 鎌倉を訪れる時は、この鎌倉五山を諳んじて言えるようにしましょう。そうすると一緒に
 行ったメンバーから尊敬?されます。

 建長寺の開山として迎えられたのは宋の名僧・蘭渓道隆で、中国の高憎無明慧性に学
 び、寛元4年(1246年)33歳の時に来日し、九州、京都を経た後、鎌倉に入り北条時頼に
 請け負われて建長寺に迎えられました。蘭渓道隆は、中国宋時代の純粋で厳しい禅風
 をそのまま導入し、一時は千人を超える修行憎を指導しました。その教えは、現在国宝
 として寺に残る自筆の「法語規則」に見ることができます。道隆は死後に大覚禅師という
 日本で初めての禅師号を授かっています。
 
 建長寺にはいろいろな見所がありますが、これから順次紹介して行きたいと思います。
 
 今回は、総門を紹介します。
 

 

総門(巨福門)
そうもん(こふくもん)
建長寺入口にあり、別名巨福門[こふくもん]とよばれます。
1943年(昭和18)に京都の般舟三昧院[はんしゅうざんまいいん]から移築されたもので、
頭上にかかる額『福山』は宋出身の禅僧で10代住職
一山一寧(いつさんいちねい)の筆によるといいます。
「巨」の字に点が加えられているのは文字をひきしめるためで、
百貫の重みに値するのでこの点は百貫点と称されています。





2005年01月09日

                湘南便りその93

          
 北鎌倉から大船へ

                    第2回
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 【円応寺】

 北鎌倉駅から鎌倉街道を鎌倉方面に歩き建長寺の東外門前で県道を横切ると巨福呂
 坂の小高いところに円応寺(臨済宗)があります。山号は新居山といい、新居閻魔(アラ
 イエンマ)堂とか十王堂ともいわれています。

 この寺は、荒居閻魔堂といって由比ガ浜海岸に建つ小さなお堂でしたが、1073年(元
 禄16年)の大地震と津波の被害のため現在の地へ移されものです。

 急こう配の階段を三十段ほど上るとこじんまりした境内の正面に閻魔堂があります。
 堂内には本尊の閻魔大王像をはじめ秦広、初江、宋帝、五官、変成、泰山、平等、都
 市、五道転輪の冥界の十王が安置されています。

 本尊の閻魔大王像は、鎌倉時代の仏師運慶の作で、瀕死の状態になった運慶が、
 閻魔大王から衆生に閻魔の像を彫って伝えろと言われ生き返ったと伝えられていま
 す。そのため、笑いながら彫ったので、像もどことなく笑って見えるという伝説により、
 「笑い閻魔」とも呼ばれています。

 これらは、鎌倉時代に流行した十王思想に基づいて作られた仏像で、いずれも形相
 がもの凄く、ずらりと居並ぶさまは不気味な迫力があります。

 この本尊と倶生神像は国の重要文化財、鬼卒像と人頭杖(じんとうじょう)は重要美術
 品に指定されています。

 また、十王のうち国重要文化財の初江王(しょこうおう)だけは鶴岡八幡宮境内に有る
 国宝館に寄託中となっています。

 ここの仏像はキャプションがついていて、十王それぞれが地獄でどのように人を裁く
 かを詳しく説明してくれています。まるで博物館のようです。

 これを読みながら私自身死後の世界についていろいろ考えてしまいました。
 これについては、「つぶやき」のページでお話することとします。




巨福呂坂を上ると右手に入り口の石段があります。



正面が閻魔大王坐像がある閻魔堂です。




2005年01月01日

                湘南便りその92

          
 北鎌倉から大船へ

                    第1回
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【北鎌倉駅】

新年明けましておめでとうございます。今年も湘南便りを宜しくお願いします。

さて、長らくご無沙汰していましたが、今回から「北鎌倉から大船へ」と題して新シリーズ
をお送りします。

                      
◆  ◆  ◆

歴史の都、鎌倉めぐりをする方々の多くは、横須賀線・北鎌倉駅を出発点と定められて
いるようです。

ここ北鎌倉駅は昭和2年に完成し、運輸省選定の関東の駅百選に選定されている寺院
に囲まれた落ち着いた雰囲気の駅です。

東京から55分の距離にもかかわらず、自動改札など近代的な設備がある中で、構内踏
切があったり、昔の駅名標を飾ってあったり、このあたりの他のJR駅にはない独特の風
情があって懐かしさも持ち合わせています。

今回から、この駅を出発点として、あまり観光客が訪れることのない鎌倉の見所を紹介
することにします。

次回につづく



黄昏時の北鎌倉駅です。
この写真を撮ろうと思ったらどこかの中学校?の生徒が沢山切符売り場
に並んでいたので随分待たされました。