Go-21

このページは、これまで当会のMLにて紹介していました「Go-21湘南便り」をリニューアルして
当地湘南の様子をビジュアルにお送りします。
私のみならず湘南に想い出がある方やこよなく愛でて下さる方の寄稿を歓迎いたします。
                                             世話人敬白

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2004年05月09日

               湘南便りその86

          
湘南・鎌倉春の花便り

                    第9回
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【明月院の春その2】

明月院は明月谷という谷間にあります。

お寺の中を川が流れ、全体的にしっとりとしたその土手に 多くのアジサイが繁っている
ことを考えれば、立地条件がこの花に適していたのだと思われます。

明月院がアジサイで有名になりはじたのは昭和40年代後半です。
あじさいの花の青紫色は梅雨の小雨の中で、寺院にふさわしいような 沈んだ幻想的
な光を放ちます。

アジサイ自体は珍しいものではなく、鎌倉でもいたる所に繁茂していて、東慶寺の入
り口、 瑞泉寺の梅の下、成就院の切通し上の参道、曼陀羅堂跡・・・といろいろな所
で私達の目を楽しませてくれます。

どうも我々は宣伝効果に迷わされてしまい、アジサイといえば明月院と思ってしまい
ますが 私としては、アジサイの季節、混乱で込合った明月院の境内を歩くより、もっ
と静かな他の寺院で アジサイを観賞したほうが情緒を感じられるように思うのですが
・・・。

アジサイの様子は、6月にならないと紹介出来ませんのでもう少しお待ち下さい。


 

左:開山堂(宗ゆう堂)南北朝時代の1380(康暦2)年に建てられました。
茅葺きで寄棟造りの屋根が大きく張出しているのが特徴です。
右:北条時頼の墓です。


 

左:明月院やぐら、鎌倉時代独特の洞穴墳墓で、別名「羅漢洞」といいます。
間口7m、奥行6m、高さ3mあり、鎌倉時代のやぐらとしては最大級です。
右:本堂(紫陽殿)です。
この風情のある丸窓は観光パンフレットにもよく登場します。



明月院の梅です。



2004年05月02日

               湘南便りその85

          
湘南・鎌倉春の花便り

                    第8回
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【明月院の春その1】

季節は風薫る五月となりました。五月が過ぎ梅雨に入ると俄然脚光を浴びるのが紫陽
花の寺、明月院です。でも、まだ梅雨には間がありますので、今回は早春の明月院を
紹介したいと思います。

文永年間(1264〜75)山ノ内に「禅興寺」いう寺院が創建されました。
北条時宗が蘭渓道隆を開山に立てたこの寺は、時宗の父時頼が建立した「最明寺」が
前身と伝えられています。この「禅興寺」の塔頭として室町時代に開創されたのが今日
「アジサイ寺」の名で知られる「明月院」です。

「禅興寺」は「最明寺」が廃寺となっていたのを再興したものといわれています。
禅興寺は、建長寺などを開いた蘭渓道隆の開基ですが、室町時代のはじめには既に
廃れてしまっていたようです。室町時代のはじめ、密室守厳(人名)を開山に、関東管
領の
上杉憲方が再興しました。塔頭寺院である明月院は、このときに建てられたよう
です。

ここで少し、用語解説をします。

北条時頼:第五代執権、北条時頼は、30才で出家すると、この地に持仏堂として最
明寺(自身の法名)を建立しました。建長寺は公的な寺で、こちらはくつろぎの寺とし
て開いたのが始まりです。時頼は37才で没しますが、その3年後に北条時宗(時頼
の子)が禅興寺の名前で再興します。建長寺と円覚寺の両大寺の間の寺という事で
、建長寺開山・蘭渓道隆を開山に、円覚寺開基・時宗自身が開基の形をとりました。
総門左手の奥に時頼の廟所と墓所が祀られています。時頼は、鎌倉幕府を磐石にし
た執権ですが倹約家として仁政を施したといわれています。

上杉憲方:上杉憲方は室町幕府鎌倉公方第二代の足利氏満に仕えた関東管領で
す。憲方は、出家後に禅興寺の中に密室守厳を開山に、塔頭寺院「明月院」を復興
しました。実は明月院という名は、この時が始まりではなく、平治の乱で戦死した首藤
俊道の菩提を弔う為に、その子經俊によって「明月庵」として、この地に創建されてい
ます。足利三代将軍義満の時に、禅興寺は関東十刹の第一位と定められますが、
明月庵は明月院と改められ禅興寺支院の首位に置かれます。禅興寺境内は競馬が
できる程の広さで、現在の電車線路の辺まであったようです。また、相当立派な大池
のある庭園もあり、四代将軍・藤原頼経も花見にやって来たりしていたようです。
当時の権力者の社交場の寺でした。しかし、禅興寺は、明治初年には、廃寺となり塔
頭「明月院」のみを残す事になりました。

塔頭寺院:禅宗で,高僧の塔があるところが原義。転じて大寺に所属する別坊のこと
をいいます。

次回につづく



明月院総門です。紫陽花の季節にはこの前に長蛇の列が出来ます。



北条時頼廟所前の紅梅。見事です



2004年04月25日

               湘南便りその84

          
湘南・鎌倉春の花便り

                    第7回
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【東慶寺の春】

3月の初め、東慶寺をたずねてみました。

東慶寺は、北鎌倉駅から徒歩3分のところにあり、鎌倉でも大変有名な寺です。

東慶寺は、駆け込み寺、縁切り寺として有名で、もとは尼寺(あまでら)で山号は松岡
山といいます。

1285(弘安8)年に 北条時宗夫人覚山志道尼 が創建し、縁切寺法を作りました。
これは離婚希望者が東慶寺に入り、3年間修行すれば、女性からの離縁が可能とな
るというもので明治時代に廃止されるまで約600年間受け継がれました。
後には離縁のためだけではなく、人生の悩みを持った女性も駆けこんできたといわ
れています。

このお寺は近所にある円覚寺や建長寺というお寺に比べたら非常に小さなお寺です
が、それ以上有名なのは、江戸時代から女性の方から離婚できるこの「駆け込み寺」
の寺法が確立されていたからだと思われます。
 
出雲にて結び鎌倉にてほどき松ヶ丘、経も三行半覚え

といった江戸時代の川柳が沢山残っていますが、男性の方からしか離婚の申し立て
が出来なかった時代、江戸幕府も公認のかなり権威のあった、女性の味方の「家庭
裁判所」であった様です。

寺には今も当時の離縁状がたくさん残っており、本堂裏の松ヶ岡宝蔵に蒔絵の箱な
どとともに展示されています。

昔の事は別として東慶寺は花の寺として広く知られています。境内には四季折々に
季節の花が咲き何時もカメラを持った参詣客が絶えません。特に絶品なのは墓地
の右手前にある崖の小さな祠を囲むように群生している 「岩タバコ」 で、6月頃の
花の季節には紫の綺麗な花を咲かせ、他では見られない景観を作っています。

正面の石段を登ると小さな茅葺の山門があり、山門をくぐると左側に鐘楼があります。
少し進んだ右側に太平殿と呼ばれる仏殿があり、中央に本尊の釈迦如来像と左右
に覚山尼と用堂尼の像が祀られています。

さらに奥に進むと墓地になっていて、高見順や、闘魂と書かれた(バレーボールの形
をした)丸い球を形どった大松博文の墓、前田青邨の筆塚などもあって文人にゆかり
のある寺でも有名です。





山門から続く参道の左側は梅林になってい
て、早春には紅白の梅が咲き競います。
写真は鐘楼前の見事な白梅です。



マンサクの花と紅梅です。



2004年04月18日

               湘南便りその83

          
湘南・鎌倉春の花便り

                    第6回
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【小動神社】

満福寺から国道134号線を渡ると小動(こゆるぎ)神社があります。

この神社は、文治年間(1185〜89)源平の合戦に活躍した佐々木盛綱が、江の島弁
財天への参詣の途中この神社がある小動山に上り、その風光と松に感激して日頃
信仰する近江国八王子宮を勧請したのが始まりだといわれています。

また、新田義貞が鎌倉攻めをした時、神社に戦勝を祈願し、成就の後に太刀と黄金
を寄進したため、それで社殿を再興したとも伝えられています。

明治元年(1868)地名を冠し小動神社と改称、地区の氏神となりました。

石造りの鳥居をくぐると権現造りの社殿があり、現在も腰越五ケ町の鎮守となってい
ます。7月7日〜14日の例祭「天王まつり」では、各町の山車が行列を作り祭りを盛り
上げます。

境内には展望台があり、ここからは、江の島や箱根などが眺められます。

この神社の裏手が、小動崎(こゆるぎがさき)となっていますが、ここはあの太宰治が
心中を図った場所として有名なところです。この心中事件について少し紹介します。

太宰治が鎌倉郡腰越町小動崎で田辺あつみ(本名:田部シメ子)と心中未遂(田部シ
メ子は死亡)をおこしたのは 昭和5年11月28日夜半のことでした。

『“帝大生と女給情死を図る”青森県北郡金木町素封家同郡県会議員津島文治氏弟
東京市外戸塚町二五〇常盤館止宿帝大生修治(二二)及び銀座十字屋楽器店裏ハ
リウッド・バー内田邉あつみ(一九)の両名は二十八日朝家出同日午後五時頃相州
腰越小動神社裏海岸でカルモチンをのみ情死を計り二十九日朝八時頃苦悩中を付
近の漁師が発見女は間もなく絶命男は腰越恵風園に収容したが一命は取止めるら
しい』、と昭和5年11月30日(日)の東京朝日新聞朝刊に報道されています。

しかし、太宰ファンには申し訳ないのですが、19歳の女性と心中事件をおこして自分
だけは生き残るとは、なんとも、みっともない話です。


アクセス : 江ノ島電鉄腰越駅より腰越漁港方面徒歩7分
営業時間 : 参拝自由
入場料 : なし
駐車場 : あり(無料)5台



小動神社本殿です。小じんまりとした佇まいです。



展望台から望む太平洋と江ノ島です。


2004年04月11日

               湘南便りその82

          
湘南・鎌倉春の花便り

                    第5回
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【満福寺】

江ノ電の電車は江ノ島を過ぎてその先にある商店街を過ぎた辺りで、左にそれると間
もなく腰越駅に到着します。この駅は4輌連結の電車がホームに収まらない小さな駅
です。

キップを、駅員が一人いる改札口に置き、線路を越えて、大きな通り(国道467号)に
出て、そこから左手に80mほど進むと「満福寺」の石塔が目に入ってきます。
狭い民家の間を抜けて更に40mほど進むと江ノ電の線路が見えてきますが、さび付
いて少し赤く見える単線の線路を越えると、目前に満福寺の寺門へ続く階段がありま
す。

「龍護山 満福寺」は、天平年間(8世紀前半)、聖武天皇の命を受け行基が開いたとさ
れています。

満福寺の名が世に出たのは、幼名「牛若丸」として数多くの伝説を残している源義経が
、兄・頼朝の武将として「壇ノ浦の戦い」(文治元年(1185))で平家を全滅させたものの、
頼朝の勘気に触れ、鎌倉入りを拒絶され、滞在したところとしてです。
自らの心中を切々と訴えた「腰越状」をしたためた場所でもあり、この寺には現在もそ
の写しが残っています。

今回はこの腰越状について少しお話します。

元暦元年(1184)源義経は後白河法皇から平氏追討の功績から左衛門少尉に任じ
られ検非違使となりました。しかし、この任命は源頼朝の許可がなく行われました。

一の谷、屋島、壇ノ浦と次々と平氏を打ち破ってきた名将義経に対して「武士による政
権」を作りたい頼朝は義経の無頓着な行動や政治方針等の違いから不満持っていま
した。

頼朝は、この任命にたいして強く不満を持ち、以来頼朝と義経の仲は悪化していくこと
になりました。

元暦2年(1185)5月7日義経は頼朝の怒りを解こうと鎌倉に向かいましたが鎌倉に入
ることが許されず、5月24日腰越の満幅寺に逗留し、一通の嘆願状を書いて、頼朝の
信望が厚かった公文書別当大江広元に差し出した。これが腰越状です。

この書状には読む人の心に切々と響いてきます。兄の心はどう変わろうとも、兄への
服従する気持ちは絶対に変わらないことを述べています。しかし、それでも、頼朝の
怒りを解くことが出来ず、義経は重い足取りで京へ戻っていったのです。

                    ◆     ◆     ◆
意訳 腰越状
 
源義経おそれながらもうしあげます。気持ちは鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天
皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけ
ると思っていたのに、はからずも、あらぬ告げ口によって大きな手柄もほめてはいた
だけなくなりました。私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しも
してはいませんのに、お叱りをうけ、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いてい
ます。

あらぬ告げ口に対し、私の言い分すらお聞き下さらないで、鎌倉にも入れず、従って
日頃の私の気持ちもお伝えできず数日をこの腰越で無駄に過ごしております。あれ
以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔ににお会いできず、兄弟としての意味もな
いのと、同じようです。なぜかような不幸せな巡り会いとなったのでしょう。
 
亡くなった父の御霊が再びこの世に出てきてくださらない限り、どなたにも私の胸のう
ちの悲しみを申し上げることもできず、また憐れんでもいただけないのでしょうか。
あの黄瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく、父はなくな
り、母に抱かれて、大和国の宇多郡、龍門の牧というところにつれてゆかれ、一日片
時も安全な楽しい日はなかったのです。その当時、京都も動乱が続き、身の危険も
あったので、色々なところへ隠れたり、遠い国へ行ったり、そして土地の民や百姓に
世話になり、何とかこれまで生き延びてきました。
 
たちまち、頼朝公の旗揚げというめでたいおうわさに、飛び立つ思いで急いで駆けつ
けましたところ、宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、まずその手始めに義仲
を倒し、次ぎに平家を攻めました。ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き
父の御霊をお休めする以外に、何一つ野望をもったことはありませんでした。
 
その上、さむらいとして最上の官位である五位の尉に任命されましたのは、自分だけ
ではなく、源家の名誉でもありましょう。義経は野心など少しもございません。それに
もかかわらず、このようにきついお怒りをうけては、この義経の気持ちをどのようにお
伝えしたなら、分かっていただけるのでしょうか。神仏の加護におすがりするほかは
ないように思えましたので、たびたび神仏に誓って偽りを申しませんと、文書を差し上
げましたが、お許しがありません。
 
わが国は神の国と申します。神は非礼を嫌うはずです。もはや頼むところは、あなた
の慈悲に頼る以外は無くなってしまいました。情けをもって義経の心のうちを、頼朝
殿にお知らせいただきたいと思います。もしも疑いが晴れて許されるならば、ご恩は
一生忘れません。
 
ただただ長い不安が取り除かれて、静かな気持ちを得ることだけが望みです。もは
やこれ以上愚痴めいたことを書くのはよしましょう。どうか賢明なる判断を。 義経
 
元歴二年五月 日
 
源義経
進上因幡前司殿(大江広元)

                   ◆     ◆     ◆

ともに苦労して親の敵を討つことが出来たというのにまさに兄弟は他人の始まりなので
しょうか?そんな時代でなかりせばこんな悲劇は起きなかったのかもしれません。




江ノ電の踏切の向こう側に満福寺があります。



満福寺本堂です。こじんまりしたお寺です。



2004年04月04日

               湘南便りその81

          
湘南・鎌倉春の花便り

                    第5回
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最初にお断りします。前回までは、湘南・鎌倉梅便りと題してお送りしてきましたが、
このページの更新より、季節の花々が咲くのが早くなってしまいました。
そのため、今回から上記の通り表題を変えさせていただくことにしました。

【花の寺・常泉寺】

藤沢から小田急線で町田方面に向かって6つめの駅で「高座渋谷」という駅がありま
す。この駅は普段各駅停車しか停まらない地味な駅ですが春になり花の季節になる
と沢山の人々が降立ちます。

常泉寺はこの駅から徒歩で8分ほどのところにあるお寺です。

宗旨は、禅宗の中の曹洞宗で、本山は福井県の永平寺、横浜の総持寺。創建は、
天正16年(1588年)と言われています。御本尊様は木造の聖観世音菩薩の座像で
す。

常泉寺は神奈川県が選定した「かながわの花の名所100選」に選ばれた花の寺で
す。境内には100種を超える花木、草花があり、四季を通じて1年中花を楽しむこと
ができます。

中でも有名なのがミツマタです。70メートルある参道の両側に120本、そして境内の
あちこちにもミツマタが植えられ、常泉寺は、大変珍しい赤、白、黄色、三色のミツマ
タの穏やかな色彩と香りでいっぱいとなります。

花の寺といわれるだけあって、この時期の常泉寺はミツマタ以外の花もたくさん見頃
を迎えています。黄梅、桃、寒緋桜、マンサク、カイドウのほか、カタクリの花なども見
ることが出来ます。

鎌倉の花の寺とは異なり、田舎町の真中にポツンとある寺ですが、とても趣きのある
ところでした。しかし、花は見事です。

今回は大サービスで常泉寺の花々を紹介しますのでこちらをご覧下さい。→



常泉寺の参道です。今はミツマタのアーチの中を歩くようです。



常泉寺の本堂です。この裏手は墓地になっています。



2004年03月28日

               湘南便りその80

           
湘南・鎌倉梅便り

                    第4回
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【龍口寺その3-仏舎利塔と眺望】

龍口寺には昭和45年に竣工した釈尊のご真骨を安置する仏舎利塔があります。

仏舎利塔の由来は、紀元前478年にお釈迦様が入滅された時、釈尊に帰依していた
国々では、釈尊を荼毘にふした御遺骨を八等分して、夫々塔を建てて御遺骨を奉安し
ました。これを仏舎利塔といいます。

その後、釈尊の教えである仏教が各地に広まると、その御遺骨は少しずつ分骨されて
各地に仏舎利塔が建ち、釈尊崇拝のシンボルとなったのだそうです。



龍口寺仏舎利塔です。
ここからの眺望は素晴らしいです。




仏舎利塔から眺めた江ノ島です。



龍口寺の裏手は公園になっていますが、梅が見事に咲いていました。



2004年03月21日

               湘南便りその79

           
湘南・鎌倉梅便り

                    第3回
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【龍口寺その2-龍ノ口法難】


日蓮上人は安房小湊に生まれ、得度しますがが、地元では受け入れられず、1253年
(32歳)で鎌倉に入り、松葉が谷(現在の大町)に庵を結びました。

「立正安国論」を幕府に献策するもなかなか受け入れて貰えず。その上、他宗を激しく
非難、攻撃するため、何度も法難にあっています。

1271年(文永8年)、幕府は鎌倉松葉谷の草庵で日蓮上人をはじめ日朗上人らを捕ら
えました。日蓮上人は、市中引き回しのうえ、龍ノ口刑場に連行され、処刑されること
になりました。これを、
龍ノ口法難と呼んでいます。

日蓮上人を土牢から引き出し、敷皮石の上に座らせ斬首の準備を整えました。

この時江の島の方から満月のような光のようなものが飛んできて、斬首役人は目が眩
み、処刑することができませんでした。結局、日蓮上人は、一転死罪を免除され、佐渡
に配流されました。

その後、日蓮上人は佐渡流罪から放免になって鎌倉に戻りますが、相変わらず幕府
には認められず、結局、身延山に入りそこでその生涯を終わりました。

とはいえ、20年近く鎌倉で布教に努めており、鎌倉には日蓮宗のお寺が最も多く、紛
れもなく鎌倉は日蓮宗の発信地といえます。




鐘桜堂(延寿の鐘)と日蓮上人像
昭和44年、龍口寺法難700年を記念して、中山法華経寺から移築された
ものです。700貫(26トン)もある大釣鐘です。




五重塔
龍口寺にはご覧のような素晴らしい五重塔があります。
神奈川県唯一の欅造り銅板葺の本式木造五重塔で明治43年に竣工されました。
大本堂とともに「神奈川県建築物百選}になっています。



2004年03月14日

               湘南便りその78

           
湘南・鎌倉梅便り

                    第2回
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【龍口寺その1】


今回から、龍口寺についてご案内します。

寂光山龍口寺は、日蓮宗門随一の霊場本山で、江ノ電江ノ島駅から徒歩2分のところ
にあります。

龍口寺の創建は延元2(1337)年に、日法上人が日蓮聖人の「四大法難」のうち、最も
有名な「龍の口法難」のあった龍の口刑場跡に「敷皮堂」(しきかわどう)というお堂を
建て、自分で作った日蓮聖人の像を安置したのが始まりであるといわれています。

ただし、龍口寺の創建については諸説あり、明徳2年(1391)から、応永24年(1417)の
26年間に、現在の龍口寺の前身である「龍口院」が創建されたとの説もあります。

院から寺になった時期については明らかではありませんが、天正15年(1587)になっ
て、北条氏直の奉公人宗悦の書状によると、その宛所は龍口寺になっているところか
ら、室町時代末には寺となっていたのではないかと考えられます。

龍口寺付近に片瀬八ヶ所(本蓮寺・常立寺・東漸寺・勧行寺・本龍寺・妙典寺・本成寺
・法源寺)と呼ばれる日蓮宗寺院があり、輪番制といい、「5日おきに」順番で寺を守っ
ていましたが、明治19年(1886)から龍口寺住職制をとるようになりました。

また、このあたりの浜は鎌倉幕府の刑場だったところで、約二世紀半にわたり大庭景
親・義経・元の使者杜世忠ら5人や北条時行を含む多くの者の処刑が行われたと伝え
られています。



龍口寺 仁王門
湘南江の島駅より3分という至近距離にあり、
寺の目の前の道路は江ノ電が江の島駅から腰越駅まで路面を走ります。



龍口寺大本堂です。



2004年03月07日

               湘南便りその77

           
湘南・鎌倉梅便り

                    第1回
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例年より暖かかった2月が過ぎ、3月になったとたんに真冬のような寒さになりましたが
そうは言っても当地湘南には春の息吹があちこちで聞けるようになりました。
今回から、新シリーズで湘南・鎌倉の梅便りをお送りします。


【常立寺】

最初に紹介するのは常立寺です。龍口寺の西北・龍口山の裏側の麓にあり、駅から歩
いて3分ほどで行けます。

常立寺は今は、日蓮宗の寺ですが、元は真言宗の寺で、近くの滝の口の刑場で処刑さ
れた刑死者を弔う為に出来た寺でした。

山門をくぐって左手の境内に元使塚があり、それを守るかのような老松一樹のそばに、
大正14年に元寇650年を記念して、建立された法華題目碑があります。
 
1275年、元の使者杜世忠ら5名がフビライの命を受け、時の執権北条時宗に無条件降
伏を迫って来日しました。勿論時宗は激怒、彼らは九州の博多から、ここ竜の口に召し
寄せられて斬首。その今はの際に遺した詩文(漢文)が、元使塚の側の碑陰に刻まれ
ています。
 
門を出ずるとき妻子寒衣を贈り、問う我が西行幾日にして帰ると来時もし黄金の印を佩
びせば、蘇秦を見るに機を下らざることなけん(杜世忠)、四大とも主なし、五温悉くみる
空なり、両国の生霊苦しまん、今日秋風を斬るも(何文着)
 
いずれも30代の言わば、当時のエリ−ト外交官であり、使命を達成して故国に戻れば
将来が約束されていたのでしょう。それが志半ばにして、異国で惨死の憂き目にあい、
最期の心境を吐露したと思われます。

しかし、時宗は彼らに謁見することもなく処刑したようです。もともとは元がわが国を一
方的に侵略したことが原因ですが、残酷なことです。

小泉首相が靖国に参拝する度に、わが国の隣国から侵略国家の再来だと非難されま
すが、そういう隣国からわが国が侵略されそうになった歴史もあったのです。我々はそ
のことも忘れるべきではないと思います。

 



常立寺本堂です。とても手入れが行き届いた境内です。



大正14年に元寇650年を記念して、建立された法華題目碑です。



ここは枝垂れ梅の名所で梅が咲く頃には大勢のカメラマンが押し寄せます。
写真は、白梅・紅梅・中心部が薄緑色の青軸(アオジク)などの枝垂れ梅です。




2004年02月29日

               湘南便りその76

           
紅葉の名残を求めて

                    第6回
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【鎌倉五郎本店】

源吉兆庵の他にもう一つ鎌倉の菓子所を紹介します。その店は鎌倉五郎本店です。

これまで私は、鎌倉へ行ったときには見向きもしなかった鎌倉五郎本店でした。

その理由は東京駅大丸などのデパ地下に入っているし、あの「東京ばなな」も作ってい
る会社でして、特別鎌倉に縁があるお菓子屋ではないので、ありがたがらなくたって…
と思って入らなかったのです。

その意味で、私としてはこれまでは、お隣の源吉兆庵の方がご贔屓でした。

ところが、先日親戚の人から鎌倉五郎本店の「麦田もち」をいただいて食してみ
て気が変りました。

鎌倉五郎本店の麦田もちは出来たての餡をコシのある餅で包み込み、香り豊かな自家
製の麦粉をまぶしたもので、さらし餡の白い餅と粒餡のヨモギ餅の2種類があります。

はったい粉をかけたつぶあんとこしあんのこしのあるお餅はいずれも香ばしくて甘さもあ
っさりでとても美味しいのです。私はとても気に入りました。

鎌倉の小町通のお店では食べ歩きできるようにひとつずつ売ってくれます。

アクセス : JR横須賀線鎌倉駅より徒歩3分
営業時間 : 10時〜19時
休業日 : 年中無休
入場料 : なし
料金 : 麦田もち各150円、その他五郎の栗どら200円(各税別)etc
カード : JCB、VISA、マスター、UC
駐車場 : なし


以上で今回のシリーズは終了です。次回から新しいシリーズでお送りします。




これが「麦田もち」です。一度お試しあれ。



2004年02月15日

               湘南便りその75

           
紅葉の名残を求めて

                    第5回
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【鎌倉 源吉兆庵】

鎌倉の帰りにお土産を買うことにしました。鎌倉には有名なお菓子屋さんが沢
山あります。これまでもこのHPでいくつかのお店を紹介しましたが、洋菓子が
多かったので今回は和菓子にしましょう。皆さん和菓子はお好きですか?私は
年のせいかクリーム系統の甘味より、所謂和菓子系統の甘味が好きになって来
ました。私のお勧めのお店は「鎌倉源吉兆庵」といい鎌倉駅近くの小町通りに
あります。

私は良く知らなかったのですが、このお店は岡山を発祥の地とする日本でも有
名な和菓子屋さんで、現在、銀座店をはじめ直営店、全国の百貨店合わせて国
内約120店舗、海外では、ニューヨーク、パリ、ロンドン、シンガポール、台北
香港等6カ国8都市に19店舗も展開しているのだそうです。

この和菓子屋さんは、これまでに数々のヒット商品を世に送り出してきたお店ですが、
訪れる季節ごとにくるくる商品が入れ替わっているのが特徴で、これこそが源吉兆庵
のこだわりと思われます。
 
というのも、吉兆庵では、特に季節のフルーツをモチーフにした創作和菓子に力をい
れ、1年中商品開発がなされているそうで、商品同士の競争も激しく、前の年に人気
があった商品でさえも再び店頭に並ぶのは大変なことなのだそうです。
 
そんな中、毎年連続で春の和菓子の舞台に登場しているのが「さくらんぼ」というお菓
子です。
 
この「さくらんぼ」は、ほんのーり甘い和風ゼリーでさくらんぼを包み込んであるのです
が、結構甘さ控えめでとても上品な味です。

皆さんも、鎌倉土産にこの「さくらんぼ」は如何ですか?

鎌倉市小町2-9-1 TEL 0467-23-2788

以上



源吉兆庵さくらんぼ
12個入り
価格  2,600円 (消費税別)




2004年02月08日

               湘南便りその74

           
紅葉の名残を求めて

                    第4回
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【獅子舞】


鎌倉には、閑静な紅葉の渓谷があります。それは、有名な天園ハイキングコー
スに通じる細いわき道なのですが、ここは知る人ぞ知る紅葉の名所で獅子舞と
呼ばれています。

獅子舞の谷への行き方は2通りあります。ひとつは北鎌倉の建長寺の半僧坊か
ら天園ハイキングコースを経て二階堂方面に下るコースで、もう一つは鎌倉宮
から二階堂を経て山道を登って行くコースです。

今回は私は鎌倉宮から向かう後者のコースを選びました。

鎌倉幕府倒幕を企てた護良親王が幽閉された土牢のある神社から北上し、右手
に瑞泉寺を見て
分岐を左折しますと右手に永福寺跡が広がっています。

この広大な原野には、かつて荘厳な寺院があったといいます。源義朝が、戦死
した義経ら武将の魂を鎮めるため、平泉の中尊寺を模し建立したものだそうで
すが、今はその面影すらなく、ススキが銀の穂を揺らすばかりになっています。
ここは、昭和41年に国の史跡に指定され、近く寺院跡の復元が予定されている
とのことです。

分岐を右折し、変電所のふもとを進んで細々と営まれる畑を通ると、道は木々
の合間に入って行きます。

二階堂川沿いに進むと、喧噪はパタリと途絶え、岩壁が両岸に露出する渓谷へ。
逆光を浴びて、こずえがまぶしく光っています。

急な傾斜を登るにつれ、本格的な山道になっていきます。温暖で常緑樹の多い
鎌倉では、山全体が赤く染まるところは少ないのですが、ここは沢一帯をイロ
ハモミジが覆っています。今回は訪れた時期が遅くこれらのモミジの色彩も色
あせてしまっていましたが、朝夕の冷え込みが深まる11月下旬〜12月上旬には、
谷全体が深紅に染まるそうです。晴れた日には、紅葉の海から富士山を見るこ
とも出来るようです。

今回は、残念ながら、途中で日が暮れて来たため、つるべ落としの秋の日に追
われるように下山することになってしまいましたが、谷が紅葉で埋まる頃、今
度はまた訪れようと思いました。




ここが分岐です。左へ行くと獅子舞方面、右に行くと瑞泉寺方面です。




少しだけ紅葉の名残がありました。しかし、暗い山道は怖いです。



2004年02月01日

               湘南便りその73

           
紅葉の名残を求めて

                    第3回
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【鎌倉宮】

鎌倉宮は鎌倉市二階堂にあります。この地域は鎌倉市の東部にあたり、二階堂
は横浜市に、浄明寺は逗子市に、十二所は横浜市、逗子市に接しています。
この辺りは鎌倉の中心部から離れ、緑に囲まれた多くの谷戸(やと)が散在し、
それらの谷戸ごとに多くの史跡と閑静な住宅が調和して存在しています。

文治5年(1189年)源頼朝は奥州藤原氏を攻め、そのとき毛越寺や中尊寺
の素晴らしさに、大いに刺激を受け、これらの寺を参考に建久3年(1192
年)、この地に永福寺という寺を建立しました。そしてその永福寺の本堂が中
尊寺二階大堂を模したため、それからこの地区を二階堂と呼ぶようになったと
いわれています。

鎌倉宮は、明治2年(1869年)、明治天皇によって創建されました。後醍醐天皇の第三
皇子大塔宮護良親王(1308〜1335)が祀られています。

護良親王は、足利尊氏と共に後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府打倒に力を尽くしました。
しかし、その後天皇・尊氏と意見が対立したことから、尊氏によってこの地にあった東
光寺の土牢に幽閉された後、殺害されました。

土牢は、本殿の後にいまも残っていますが、幽閉されていたのは三方の壁に土を塗
った座敷牢だったという説が有力です。

鎌倉宮のお守りは朱塗りの
獅子頭です。

古来から厄除けのお守りとして信じられ、護良親王も建武中興の時、兜に付け
ていたと伝えられています。鎌倉宮のものは木製で朱塗り。厄除け、幸運招来、
交通安全など災いを避けて幸運を呼ぶお守りです。



鎌倉宮です。正面が本殿になります。
普段はひっそりとした佇まいです。

 

木漏れ日の中の「モミジの天井」
鎌倉宮の見どころは社務所前を彩るモミジの古木です。
歩道を覆うように枝が伸びているので、「モミジの天井」とも言われています。
樹齢100年の大木が深紅に色付くさまは格別で鎌倉有数の紅葉ポイントとして知られています。





2004年01月11日

               湘南便りその72

           
紅葉の名残を求めて

                    第2回
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【鶴岡八幡宮】

JR鎌倉駅の東口から鶴岡八幡宮へ向かうには、大きく分けて二通りの経路があり
ます。ひとつはロータリーを左手に見える鳥居をくぐり、小町通りを北へ進む道
もうひとつはロータリー正面の道を若宮大路に出て左折して北へ向かう道です。

先ずは手短に鶴岡八幡宮の紹介をしましょう。

鶴岡八幡宮は、源頼義が奥州の戦乱前九年の役出兵にあたり、京都・石清水八幡宮に
て祈願し、勝利を収め、その戦勝記念として康平6年(1063)八幡宮の分霊を祀った神社
を鶴岡(現在の材木座周辺)に創建したのが、はじまりといわれています。
その後、鎌倉幕府を開いた源頼朝が治承4年 (1180)に現在の場所に移築しましたが、火
災で焼失したため、改めて建久2年(1191)、源氏守護神を祀る宮として開きました。
現在、鶴岡八幡宮は国の史跡として、指定されています。

現在も頻繁にTVで観光案内からトレンディドラマに至るまでの舞台になっている八幡宮
ですが、古いところでは映画の小津安二郎作品にも登場しています。

鶴岡八幡宮が出てくるのは『晩春』です。笠智衆と杉村春子の兄妹が、原節子の縁談に
ついて話しながら、舞殿から本宮に向かいます。お見合いから一週間たっても原節子か
ら返事のもらえない杉村春子はとても心配そうなのですが、舞殿の横まで来てふとがま
口を拾います。「運がいいわよ」と、ころっと気分を変えて大喜び。胸元に入れてしまいま
す。笠智衆が「(警察に)届けないのか」と正すと「そりゃ届けるけどさ」と言いながら、お巡
りさんが通りかかると慌てて本宮への階段へ走っていきます。

このシークェンスは松竹伝統のギャグの三段返しの一部で、技巧派の杉村春子によっ
て大変面白いシーンになっています。

                                   

 

写真左:八幡宮入口の三の鳥居です。丁度人力車がお客さんを乗せていました。
写真右:本宮への階段と有名な隠れ銀杏です。12月初旬であればこの銀杏の木
は見事な黄色に染まります。やっぱり、遅すぎたようです。



同じ境内にある白旗神社へ向かう途中で紅葉の名残りを見つけました。
真中の木の枝にいるのは台湾リスです。




2004年01月01日

              湘南便りその71

           
紅葉の名残を求めて

                    第1回
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今年も「湘南便り」をご愛読下さるよう宜しくお願いいたします。


暫くのご無沙汰でした。昨年は私にとってごたごたが多く、まるで天中殺のような年でした。その間をぬって何とか鎌倉の紅葉の見所を紹介しようと思っていたのですが、なかなか果せず結局は師走の28日に紅葉の名残を求めて鎌倉を訪れてみました。鎌倉の紅葉の見頃は早いところで11月中旬から始まり概ね12月中旬でお終いになります。果たして暮れも押し詰まったこんな時期に紅葉が見れるのでしょうか?ともかく江ノ電に乗って出かけました。

今回は次のようなコースを計画してみました。

JR鎌倉駅→鶴岡八幡宮→鎌倉宮→獅子舞→JR鎌倉駅

それでは、先ずは出発点のJR鎌倉駅の紹介からはじめましょうか・・・

【JR鎌倉駅】

JR「鎌倉駅」は横須賀線にあります。

横須賀線は東京と久里浜を結んでおり、さらに錦糸町、千葉、そして最近は宇都宮方面からも直通運転があります。また、東京駅を起点に東海道本線が東京〜大船間を横須賀線とほぼ平行に走っているので、大船駅で乗換えて鎌倉へも来れます。
東京駅から鎌倉駅までは約55分で来ることができます。
 
横須賀線が開通したのは明治22年でした。
もともと横須賀線は、軍港である横須賀への軍事路線として海軍・陸軍の強い要請で開通しました。開通当時は、大船駅〜横須賀駅までの路線には鎌倉駅と逗子駅の2つがあるだけでした。
 
今となっては残念なことですが、この軍事要請の路線開通で、いくつかの鎌倉史跡が失われました。
 
鎌倉駅には東口と西口があります。東口は、鶴岡八幡宮へと延びる段葛や、ショップやレストランが 軒を連ねる小町通りに面しています。2カ所にレンタサイクルがあり、車や観光バスが入れない 細かな鎌倉を見て回るのには絶好の足になるのでお勧めです。
 
反対の西口は、地元では「うら駅」と呼ばれ、派手さはありませんが 銭洗弁天/假粧坂切通しなど観光コースの出発点となっています。因みに江ノ電鎌倉駅はこの西口に位置しています。




お馴染JR鎌倉駅東口です。