Go-21

このページは、これまで当会のMLにて紹介していました「Go-21湘南便り」をリニューアルして
当地湘南の様子をビジュアルにお送りします。
私のみならず湘南に想い出がある方やこよなく愛でて下さる方の寄稿を歓迎いたします。
                                             世話人敬白
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2003年08月10日

          湘南便りその70:鎌倉散歩第43回

    
     蛇苦止明神

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これまで訪れた材木座方面のお寺をあとにして妙本寺まで戻り、妙本寺入口を左
の方に行って階段を上がると蛇苦止明神(じゃくしみょうじん)があります。

妙本寺については、以前このシリーズで紹介しましたが、日朗(にちろう)を開
山として1260年(文応1)に創建されました。もとは比企能員(ひきよしかず)
の屋敷で、比企一族が、北条氏を中心とする大軍に攻められ、滅ぼされた地でも
あります。

比企一族とは、鎌倉時代初期に勢力のあった一族の名です。将軍家の乳母を務めたり
もしていました。が、それがあだとなって(?)、力をつけつつあった北条氏に目をつけら
れます。 2代将軍源頼家の乳母が比企家だったため、頼家は北条政子の息子(父はも
ちろん源頼朝)ながら比企家寄りの人間でした。

自分の地位に不安を抱いた北条時政は、頼家の息子ともども比企氏を騙し討ち同然で
滅ぼし、やがて頼家をも暗殺します。

比企氏を討った戦がこの比企ヶ谷で行われ、京に修行に出ていた一族の生き残り・滅亡
前の当主能員の息子の能本が、やがてその地に屋敷跡に妙本寺を建てたのでした。
 
この寺には「一幡袖塚」というものがあります。一幡とは、比企氏の滅亡とともに滅ぼさ
れた頼家の嫡子です。この戦では、比企の館に火がかけられました。一幡はその母親
である若狭の局とともに邸内で焼け死に誰だかもわからない状態となっていました。

しかし、その衣の袖が一部が焼け残っていたため、そこから一幡の遺骸だと判明。その
一幡を葬ったのが、この袖塚だといわれています。
 
さて、その一幡の母・若狭の局ですが、火をかけられて井戸に飛び込んで死んだとも伝
えられます。その井戸が、参道の途中をお寺に向かって左手に入った蛇苦止明神社に
あります。

いくらか時代が過ぎた建長年間、北条時政の孫・政村の娘に怨霊が憑き、若狭の局は
まだ比企ヶ谷で火炎の苦を受けている、と言ったらしいです。そこで政村がこの蛇苦止
明神社を建てたといわれています。

これがまたねぇ…すっごい恐いんですよ雰囲気が…。涼しくなりたい方は是非行ってみ
て下さい。



蛇苦止明神本堂です。ちょっと不気味な雰囲気です。



若狭局が入水したという井戸です。



2003年08月03日

          湘南便りその69:鎌倉散歩第42回

    
      妙長寺

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元八幡を出ると元の道へ戻り、南へ約200mほど進みますと、日蓮上人像が左手に
見えてきます。ここが妙長寺です。

寺伝によりますと、このお寺は1299(正安元)年、日蓮の弟子日実が、伊豆の伊
東に日蓮が流されたとき鎌倉の出船の場所にあった材木座沼浦に建てたといわれ
ています。1681(天和元)年の大津波で寺が流されてから現在の地へ移転したと
いうことです。

開山の日実上人は、伊豆で日蓮の命を救った漁師、舟守弥三郎の子(本人との説
もあり)で、後に鎌倉を訪れた彼は沼浦に一堂を建立しました。これが妙長寺の
始まりと伝えられています。

三門の脇には、近年建立された日蓮上人像が立っています。
日蓮上人像の後方右側に写っているのが、高さ11mの相輪塔の先端です。

また、三門を入った右側には伊豆流罪となった日蓮上人の「法難御用船」の1/6
模型も置かれています。

境内には鎌倉、逗子、三崎の漁師や魚商達の手による1878(明治11)年建立の鱗
供養塔があり、古くから庶民に親しまれてきた寺であることがうかがえます。


妙長寺は、相輪塔や日蓮上人像など目立つ目印になるものがある為、この付近を
探訪する際、よい基準地点のお寺になると思われます。

鎌倉は文学面において非常に縁が深いところですが、妙長寺と泉鏡花について紹
介します。

泉鏡花は明治六年(1873年)、石川県金沢市に生まれ、北陸英和学校を中退しま
した。明治二十三年十一月、尾崎紅葉の門に入ろうとして上京しましたが、紅葉
を訪問する勇気がなく方々を彷徨した後、翌二十四年に鎌倉に来て、この妙長寺
に七・八月の二か月間滞在しました。その後、十月に思いきって紅葉を訪ね、入
門を許されました。

以後、創作に励み、小説家として認められ、数々の名作を残しましたが、この妙
長寺滞在の経験をもとにして、明治三十一年に小説「みだれ橋」発表し、後にこ
れは「星あかり」と改題されました。以下にその一節を紹介します。

                星あかり

もとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺よせて、二ツばかり重
ねて、臺にした。其の上に乗って、雨戸の引合せの上の方を、ガタガタ動かして
見たが、開きさうにもない。

雨戸の中は、相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の本堂に隣つた八疊の、
横に長い置床の附いた座敷で、向って左手に葛籠、革鞄などを置いた際に、山科
といふ醫學生が、四六の借蚊帳を釣って寝て居るのである。(中略)

門を出ると、右左二畝ばかり慰みに植ゑた青田があって、向う正面の畔中に、琴
弾松といふのがある。一昨日の晩宵の口に、其の松のうらおもてに、ちらちら灯
が見えたのを、海濱の別荘で花火を焚くのだといひ、否、狐火だともいった。



妙長寺本堂です。静かな佇まいです。



三門を入った右側には、伊豆流罪となった日蓮上人の「法難御用船」の1/6模
型が置かれています。



2003年07月27日

          湘南便りその68:鎌倉散歩第41回

    
     五所神社

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五所神社は、大町四つ角方面から材木座海岸へ向かうバスの通る道と並行する東
側のやや狭い道の中ほどにあります。同じ道筋には来迎寺や実相寺があります。

この神社は、材木座の氏神で明治41年(1908)乱橋村と材木座村が合併した際、
もともとあった三島神社に八雲、諏訪、金比羅、視女八坂を合祀したものです。

境内には感応寺にあったものだといわれる鎌倉時代の板碑があり、国の重要美術
品に指定されています。通常は厨子で覆われているため、見学する際は社務所に
申し込むと拝観出来ます。また材木座の路傍に祀られていたという庚申塔13基も
あり、参道を進み、石段を上ると多数の石塔が左右のブロック塀に沿って並んで
います。

庚申塔は、悪い病や災難を除こうという庚申信仰により建てられたもので 鎌倉市内では
1665(寛文5)年のものが最古といわれます。

仏教とは別の庚申信仰は、平安時代に始まり江戸時代に盛んになりました。
「人間の体内には三しという虫がいて、60日、60年ごとに廻ってくる 庚申の夜、寝てい
る体を抜出し神に悪口を告げる」と信じられていました。
 
毎年6月第2日曜日に『五所神社例祭』が行われ神輿が町中回ったあと材木座海岸で、
三基の御輿が海の中を練り歩きます。鎌倉の本格的な夏の始まりです。



五所神社の社です。



2003年07月20日

          湘南便りその67:鎌倉散歩第40回

    
      元八幡

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来迎寺から元のバス通りに戻り、北へ向かって歩いて横須賀線の踏切手前の路地
を左手に入ると元八幡があります。

鳥居の側にこの神社の由来を書いた碑がありますのでその碑文を紹介します。

鶴ヶ岡八幡宮ハ東鑑ニ本社ハ伊豫守源頼義勅ヲ奉シテ安倍ノ貞任征伐ノ時 丹祈ノ旨
有テ康平六年秋八月潜ニ石清水八幡ヲ勸請シ瑞垣ヲ當國由比ノ郷ニ建ツ 永保元年
二月陸奥守義家修復ヲ加フトアルハ即此處ニシテ 鶴ケ岡トハ昔時此地ヲ呼ヒタルナラ
ム 其後治承四年十月十二日源頼朝祖宗ヲ崇メン為小林ノ郷北ノ山ヲ点シテ宮ノ廟ヲ
構ヘ 由比ノ宮ヲ此處ニ遷シ奉ル 之レ現時ノ八幡宮ニテ東鑑ニ治承四年十月七日頼
朝先ツ遥ニ鶴ケ岡八幡宮ヲ拝シ奉ルトアルハ由比ヶ濱ノ宮ナリ 遷宮ノ後モ鶴ケ岡八幡
宮ト云ヒシハ舊称ニ従ヘルナリ 爾来此處ヲ元八幡ト称ス

                             昭和三年三月建之    鎌倉町青年團

カタカナと漢字では良く分かりませんので平仮名交じりにしてみます。

鶴が丘八幡宮は東(吾妻)鑑に 本社は伊予守源頼義 勅を奉して安部貞任征伐の時丹
祈の旨有りて 康平六年(1063)秋八月 潜(ひそかに)に石清水八幡を勧請(かんじょう:創
設) 瑞垣(みずがき:垣根)を当国由比の郷に建つ 永保元年(1081)二月 陸奥守義家 
修復を加ふ とあるは即(すなわち)此処にして 鶴が丘とは 昔時此地を呼ひたるならむ
 其後治承四年(1180)十月十二日 源頼朝祖宗を崇めんため 小林の郷北の山を点し
て宮の廟を構え 由比の宮を此処に遷(移)し奉る 之れ現時の八幡宮にて 東(吾妻)鑑
に 治承四年(1180)十月七日 頼朝先ず遥(はるか)に鶴が丘八幡宮を拝し奉る とある
は由比ガ浜の宮なり 遷宮の後も鶴が丘八幡宮と云ひしは旧称に従へるなり 爾来 (以
後)此処を元八幡と称す。

何となく分かるようなのですが、もっと分かりやすく説明しますと

鶴岡八幡宮の由来(ゆらい)について吾妻鑑(あずまかがみ)に「この社(やしろ)は、源頼義
(ともよし)が安部貞任(あべのさだとう)の征伐(せいばつ)に向かう時、1063年8月に石清水
(いわしみず)八幡を由比ガ浜に建てた。 その後1081年2月に源義家(よしいえ)が修理を
した。」と書いてあります。 

昔この土地を鶴が丘と呼んだのでしょう。その後1180年10月12日に源頼朝(よりとも)が先
祖を祭るため、小林という土地の北の山に、由比の宮を移したものが現在の八幡宮です。
吾妻鑑に「1180年10月7日に頼朝が遥(はるか)に鶴が丘八幡宮を礼拝した。」と書いてあ
るのは由比ガ浜の神宮で移った後も鶴岡八幡宮というのは前の名前をそのまま使ってい
るからです。 それ以後ここを元八幡といいます。

八幡宮というのは、応神天皇を祀る神社として広く知られていますが、その本源は九州
の宇佐八幡宮といわれています。『延喜式』によると八幡宮の祭神は八幡大菩薩・比売
神・大帯比売(神功皇后)の三柱で、のちに応神天皇と八幡大菩薩を同一のものとして
信仰するようになったらしいです。なぜ頼義が皇祖神を勅許を得ずに勧請したのかは不
明ですが、清和源氏の氏祖が八幡大菩薩と伝えられている事や、長男の義家が石清水
八幡宮で元服し、八幡太郎義家と呼ばれたことと関係があるのでしょう。

その義家が本八幡の修復を行っているわけですが、この義家こそ東国での源氏勢力の
基礎を固めたと言っても過言ではなく、坂東武者として都でも恐れられた武士でした。

義家はたて続いた東国での領地争いに介入して力を増していきましたが、確かに戦略的
に有効ではあったにせよ非戦闘員を大量に殺害するなど近代戦に近い非情さで、当時も
「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろし
や」(『梁塵秘抄』巻第二)と記されたほどでした。




こじんまりとした佇まいですが、鶴岡八幡宮の元祖です。
元八幡に設置されている文学案内板によると、東側のバス通りからこの元八幡へ来る道
の北側の一角は、大正時代には「小山別荘」と呼ばれ、敷地内には別棟の広い家があり
ここを借りて小説家芥川龍之介が住んでいたのだそうです。



2003年07月13日

          湘南便りその66:鎌倉散歩第39回

    
      来迎寺

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実相寺からさらに路地を北に進むと来迎寺があります。

鎌倉には来迎寺(らいごうじ)という名前の寺は二つあります。
鎌倉市材木座にある真言宗能蔵寺跡と鎌倉市西御門にある時宗の寺です。
ここで紹介する寺は材木座にある来迎寺です。

この寺は建久5年(1194年)源頼朝が、源氏旗揚げに貢献した三浦義明の菩提寺
として建立した能蔵寺が前進といわれます。

頼朝の没後、寺号が来迎寺と改められました。
境内の右奥には義明の墓といわれる五輪塔が立っていて、その手前には無名戦
士のものと思われる小さな石塔が約170基並んでいます。今の季節はノウゼン
カツラが見頃ですが、3月にはとても見事なミモザの花が咲きます。

境内には幼稚園があって子供達の笑い声が絶えません。訪れると何となくホッ
とするお寺です。



来迎寺正面です。右手の木がミモザです。実は3月21日に訪れた時は
まだ、開花していなかったのですが、3月25日に再度訪れた時はこの
写真のように見事に花が咲いていました。本当にラッキーでした。




ミモザ
「銀葉アカシア」とも呼ばれ、欧州では「冬の太陽」の愛称で親しまれています。
3月頃黄色い花をいっぱいにつけて芳香を漂わせます。フランスではこの花の
最盛期に「ミモザ祭り」が行われ、その花束を投げ合って春の訪れを祝うそうです。
 



2003年07月06日

          湘南便りその65:鎌倉散歩第38回

    
      実相寺

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九品寺から少し北へ向かい途中の路地を右手に入った所に実相寺があります。
 
この寺は、曽我五郎・十郎兄弟によって仇討ちされた鎌倉時代の武将・工藤左右衛門
祐経の屋敷跡に立つ寺です。開山の日昭上人は祐経の孫にあたり、「六老僧」と呼ば
れる日蓮直弟子6人の筆頭でした。

日蓮が佐渡に流されている間、一門を教化するために建てた法華堂を、上人没後に法
華寺としたのが前進といわれています。

ところで皆さんは、この曽我五郎・十郎兄弟の仇討の話をご存知でしょうか?

以下に少しこの仇討ちの話を紹介します。

平安時代の末期、伊豆の武士たちのあいだでは複雑な所領争いが繰り広げられてい
ました。工藤祐経(くどうすけつね)は伊東祐親(いとうすけちか)に謀られて所領を奪
われてしまいます。祐経はその報復に、伊東祐親、河津三郎(かわづさぶろう)父子を
殺そうと刺客を放ちました。刺客の矢は河津三郎に命中し彼は落命しました。
 
河津三郎の未亡人はふたりの子どもを連れて相模の曽我祐信(そがすけのぶ)のもと
に嫁ぎます。このふたりの子どもが曽我十郎祐成(すけなり)と曽我五郎時致(ときむ
ね)です。父を失ったとき、兄十郎祐成は5歳、弟五郎時致は3歳でした。
 
さまざまな苦難を経た末、兄弟に父の仇工藤祐経を討つチャンスがめぐってきました。
建久4(1193)年、源頼朝は富士の裾野で巻狩りを行いました。巻狩りとは勢子が山の
上の方から鹿や猪を追い出し下の方で待ちかまえた武士たちが獲物を射るものです。

単なるレクリエーションではなく、軍事演習を兼ね、有力な家臣その他の御家人たちが
大勢参加する政治的デモンストレーションでもありました。兄弟は巻狩り期間中の工藤
祐経の宿所を探りあて、警備が手薄な時間をみつけました。5月28日の夜、兄弟は祐
経の宿所に忍び入り仇を討ちました。苦節18年目にして本懐を遂げたのです。
 
やがて周囲の武士たちが兄弟に斬りかかり、十郎祐成は討ち死にしました。五郎時致
は剣をかいくぐって頼朝の宿所に突進し、頼朝の側近に捕えられました。翌日尋問が
行われ、頼朝は五郎が勇気ある武士だということで許そうとしましたが、祐経の子の嘆
願により処刑されてしまいました。

要は、これだけの話ですが、この曽我兄弟による仇討ちは歌舞伎狂言のなかで、「曽
我物」というジャンルを形成するほど、題材として多く取り入れられて来ました。そして
江戸時代中期頃からは、毎年、お正月の幕は「曽我物」で開けるという迄になったので
す。

ささやかですが良く整備された境内には、アジサイ、タイサンボクなど咲く花も多く、静
かで落ち着いた雰囲気があります。目立たないこじんまりとしたお寺ですが、鎌倉の
良さはこんなところに見つけることが出来ます。



実相寺総門です。実はここでカメラが壊れてしまいました。



2003年06月29日

          湘南便りその64:鎌倉散歩第37回

    
      九品寺

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この小さな浄土宗の寺は、観光客には素通りされることが多いのですが、歴史
家にとっては価値のある鎌倉唯一の新田義貞ゆかりのお寺です。

1336(建武3)年に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉攻めをし、北条軍と戦ったときに
戦死した自軍の兵士を慰霊するために京都から風航順西(ふうこうじゅんさい)を迎
えて建立した寺です。

山門にある額「内裏山」と本堂の「九品寺」は義貞の筆跡と言われています。義貞は
このあたりに鎌倉攻めの本陣をはったそうで、このすぐ近くに鎌倉十橋のひとつ、乱
橋(みだればし)の石碑が立っています。(義貞の軍勢に北条軍がこのあたりから崩
れ始めたことから乱橋と言うのだそうです)。

本尊の阿弥陀三尊は水晶の玉眼を持つ貴重な文化財です。寺宝には薬師如来坐像
(県の重要文化財)や石造閻魔大王像などがあります。





入母屋造り(いりもやづくり)造りの本堂です。ここには本尊の阿弥陀三尊が祀られて
いるほか、三門と本堂に掲げられている額は義貞親筆の写しといわれています。



2003年06月22日

          湘南便りその63:鎌倉散歩第36回

    
  補陀落寺(ふだらくじ)

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光明寺から鎌倉駅方面に少し戻った住宅街の中にひっそりと補陀落寺があります。

実際この寺の門の前に立つと他に参拝客も観光客も姿がなく、入っていいものか
戸惑ってしまう佇まいです。

この寺は、源頼朝が1181年(養和元年)文覚上人を開山として建てたといわれ、
ここは、源頼朝公御祈願所であり、頼朝の供養をここですることになっていたと
いわれています。頼朝の木像と位牌、文覚上人の位牌など頼朝関連のものが多く
、中でも平家の赤旗は、平家の総大将平宗盛が最後まで持っていたものだといわ
れ、頼朝がこの寺に奉納したといいます。

この寺の名前の由来ですが、補陀落とはもとは梵語でPotalaka、インドの南海岸
にある観世音菩薩の住む山という意味だそうです。日本では中世には盛んにこの
補陀落を目指して危険な船旅に出る補陀落渡海が試みられたといいます。

本堂には十一面観音、平家打倒を祈願したという不動明王像、運慶作の日光、月
光菩薩などが安置され申し出れば拝観できるそうです。

中世この辺りは芦の茂った湿地が多く、この寺の周囲にも海かまたは海に通じる
水路のようなものがあったという推測も成り立つ事から、この補陀落渡海の思想
と関係が深いのかもしれません。しかし辺りの湿地は住民の努力によって今は完
全に水気はなく閑静な住宅地となっています。鎌倉三十三観音第三番の寺で季節
には 大きな百日紅が見事です。




補陀落寺正面です。



2003年06月15日

          湘南便りその62:鎌倉散歩第35回

    
   おまけ:光明寺の猫

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またまたご無沙汰してしまいましたが、今回は光明寺シリーズの締め括りとして
光明寺の主?である猫達を紹介します。

鎌倉のお寺には、本当に猫の棲むお寺が多いのですが、光明寺にも沢山の猫が棲
んでいます。様子を見ているとこの猫達にはきちんと縄張りがあるようで、大き
く分けると総門と山門と本堂の3グループに分けられるようです。

またこの猫達は、良い食生活を送っているようで体格が良く、毛並みもつやつや
しています。訪れた日は春先の良い天気の日だったせいか、皆、のんびりと日向
ぼっこをしていました。

そんな彼らの姿を見ていて羨ましく思ったのは私だけでしょうか?私が光明寺が
好きな理由がお分かりでしょ・・・。




総門のボスのトラ吉?です。



こんにちわ。良いお天気ですね。



2003年05月18日

          湘南便りその61:鎌倉散歩第34回

    
   幻の鎌倉アカデミア 

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季節は夏に入りましたが、沖縄は既に入梅とか。季節の移り変わりが本当に早
いことを感じます。

さて、少しお休みしましたが、光明寺シリーズその4として今回はこの光明寺
を仮校舎として開講され、あの山口瞳やいずみたくを生んだ昭和の寺子屋「鎌
倉アカデミア」を紹介します。

季節はこれから本格的な夏に向かいますが、夏の鎌倉材木座海岸は若者達であ
ふれます。カラフルなボードを抱えて海へ急ぐ者、海岸で甲羅干しに余念がな
い者・・それは恵まれた時代を絵に描いたような光景です。

しかし、昭和21年、終戦直後の材木座海岸に開校した鎌倉アカデミアの学生達
ほど本当の意味で恵まれ、青春を謳歌した若者はいないでしょう。

材木座の海岸近くに壮大な山門がそそり立つ関東総本山浄土宗天照山光明寺。
鎌倉アカデミアはここで産声を上げ、わずか4年しか存在しなかった学園です。
もともとは鎌倉大学校の名で鎌倉山に壮大な新制大学を創立するはずでしたが
新円切替によって予算的に成り立たなくなり理事団が退陣してしまいました。

普通ならここで学園構想は消滅するのですが、戦後の知識や文化に飢えていた
学生やその父兄、約50名の教授陣の情熱は、教授陣と父兄及び学生の共同経営
というユニークな形態を生み出しました。

そしてその年の10月三枝博音が新たに学長となって学園はスタートしました。
しかしながら、大学としての認可は下りず、光明寺の本堂や庫裏を仮校舎にし
てのスタートでした。

この学園の教授陣というのが実にそうそうたるメンバーで、学科は文学科、演
劇科、産業科の3つで文学科長が林達夫、演劇科長が村山知義、産業科長が早
瀬利雄という顔ぶれで教授陣も中村光夫、吉田健一、高見順、吉野秀雄、千田
是也など当時の知識人が揃い多彩なものでした。

資金難のため教授達は薄給で、晴れた日は寺の境内で青空教室を開くという状
況でしたが、内容は非常に充実したものでした。

境内の桜の下で吉野秀雄が学生達を車座に座らせ、酒を酌み交わしながら「万
葉集」を講義したといいますから信じられないことです。当時学生のひとりだ
った山口瞳は吉野秀雄を慕い、本堂の裏山で「山口君、恋をしなさい!」と励
まされたといいます。その言葉に励まされて結婚を申し込んだのが、当時鎌倉
アカデミアの一期生として通っていた治子夫人でした。

演劇科第一期生には、前田武彦やいずみたくがいました。夏休み中に彼らが開
催した巡回式の人形劇は、湘南地方の小学校の生徒達に大歓迎されたといいま
す。

また、文学科第一期生には沼田陽一がいて、教授である高見順の講義を聴いて
いたそうです。そしてさらに後に出来た映画科に入ったのが鈴木清順でした。

昭和23年3月、依然として大学の認可が下りなかったため、鎌倉大学校の名称を
鎌倉アカデミアに変更、校舎を光明寺から大船の旧海軍の施設に移しましたが、
結局経営難で行き詰まり昭和25年に廃校となってしまいました。

この間、僅か4年。しかし、ここから輩出した人材の多彩さとそれぞれの個性
的なキャラクターには目を見張るものがあります。鈴木清順の映画に山口瞳の
小説に、鎌倉アカデミアの個性的な教育は、今も脈々と息づいているようです。




光明寺境内にある鎌倉アカデミアの碑です。
「ここに鎌倉アカデミアありき」と記されています。
昔、ここに素晴らしい青春がありました。



2003年04月27日

          湘南便りその60:鎌倉散歩第33回

    
    光明寺その3 

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今回は、光明寺にある有名な二つの庭園を紹介します。

光明寺・三尊五祖庭園

光明寺の本堂右手には、三尊五祖庭園と名付けられている庭があります。昭和48年
に開園したものですが、枯山水式で青みががった秩父石で阿弥陀三尊と浄土五祖を
表しています。三尊とは阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩をあらわし、五祖とは
、釈迦・善導大師・法然上人・鎮西上人・良忠上人をさしています。

光明寺・記主庭園(池泉式庭園)

本堂と開山堂を結ぶ渡り廊下をくぐったところにある記主庭園は、小堀遠州の作と
伝えられています。現在の池には、大賀一郎博士が昭和27年に千葉県の検見川遺
跡より発見して発芽させた、約2000年前の古代縄文ハスが植えられていて、7
〜8月下旬には美しく紅色の花を咲かせます。



三尊五祖庭園です。手入れが行き届いています。



記主庭園です。ハスの季節ではないので少し寂しい様子でした。



2003年04月13日

          湘南便りその59:鎌倉散歩第32回

    
    光明寺その2 

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光明寺本堂


この天照山蓮華院光明寺(てんしょうざんれんげいんこうみょうじ)本堂は、寛元
元年(1243年)の創建と伝えられています。鎌倉幕府第4代執権北条経時が、然阿良
忠(ねんありょうちゅう)を迎えて開いた浄土宗の大本山で、良忠は浄土宗第三祖
とされます。

第5代執権時頼をはじめとして、歴代執権の帰依を受けて念仏道場の中心になり、
また江戸時代には、徳川家康が浄土宗学問所の十八壇林筆頭に定めたことによって、
多くの学僧達が集まり大いに栄えました。

17間四方という巨大な建物で庫裏、開山堂と渡り廊下でつながっています。本尊の
阿弥陀如来像の右奥には、説法に聞き惚れ江ノ島に帰りたがらなかったという伝説
があるもと江ノ島の奥の院にあった弁才天像祀られており、左奥にはこのお寺に墓
所がある日向延岡藩主内藤忠興の坐像があります。

毎年10月12日から15日までの「お十夜法要」には、植木市などが開かれ大勢
の人たちで賑わいます。

お十夜法要

10月12〜15日、浄土宗の信徒が全国から集まって夜を徹してご詠歌や念仏を唱える
行事で、もともとは10日間続く行事だったのでこの名がついたといわれています。



光明寺本堂です。訪れた時、境内の桜はもう少しで開花しそうでした。



ご本尊の阿弥陀如来像です。合掌。



2003年04月06日

          湘南便りその58:鎌倉散歩第31回

    
     光明寺その1 

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暫くご無沙汰していましたら、早くも桜の季節になってしまいました。今回から
ページを新たにして、古都鎌倉の魅力を紹介していくことにします。

先ず最初に紹介したいのが、光明寺です。実は富山にある私の実家の菩提寺が光
明寺といいまして全く同じ名前なのですが、菩提寺の方は浄土真宗のお寺さんで
これからご紹介する光明寺は、正式には天照山蓮華院光明寺と言いまして浄土宗
七大本山の一つです。

鎌倉駅から小坪経由の逗子行きのバスに乗って10分、光明寺(こうみょうじ)で降ります
と「関東総本山」という石柱と総門が目に入ります。

浄土宗の大本山などというと何だか格式張った寺を想像してしまいますが、ここは近所
の人達が散歩に来たり、子供が隠れんぼをしたりで、たいへん庶民的雰囲気が漂って
います。私が訪れた時も境内で若者がテニスをしていました。このお寺さんは、いつでも
境内に入って拝観でき、拝観料もないという観光地鎌倉では珍しいお寺さんなのです。

後で分かると思いますが、私にとっては鎌倉でも数少ない癒しのお寺でもあります。

このお寺にはご紹介したいところがいろいろありますので、数回に分けて説明したいと思
いますが、先ずは、このお寺の縁起からお話します。

縁 起

浄土宗七大本山の一つ。天照山蓮華院光明寺(てんしょうざんれんげいんこうみょうじ)
として江戸時代に関東十八檀林(だんりん)の一つに数えられ、浄土宗の三祖良忠上人
(りょうちゅう)が鎌倉に移住し、悟真寺(ごしんじ)に入りましたが、その寺が蓮華(れんげ)
寺と改名され、九世祐崇上人(ゆうそう)のとき光明寺として現在の地に移転したと伝えら
れています。
明応(めいおう)四年(1495)後土御門(ごつちみかど)天皇から綸旨(りんじ)を賜わり勅
願所(ちょくがんじょ)となりました。慶長年間頃は関東本山として発展し、当寺の十夜法
要は、浄土宗の十夜法要の起源とされています。



光明寺の山門(三門)です。正面から見て5つに間仕切りされ、その
中央の3つの間に戸がついている五間三戸(ごけんさんこ)という
大山門です。普通は三間三戸だそうです。
関東地方の木造の山門では最も大きいということで、また、一階が
和風、二階が中国風という珍しい構造でもあります。
掲げられている 「天照山」(てんしょうざん)の額は後花園天皇の宸筆と伝
えられています。楼上に釈迦三尊座像他の仏像を祀っています。