Go-21


このページは、これまで当会のMLにて紹介していました「Go-21湘南便り」をリニューアルして当地
湘南の様子をビジュアルにお送りします。私のみならず当地に想い出がある方や当地をこよなく愛で
て下さる方の寄稿を歓迎いたします。                             世話人敬白

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2001年8月26日

                 湘南便りその26

               鎌倉散策ツァー最終回                 


          Peter's湘南

さて、長谷の観音さまとお別れして、ようやくディナータイムということで江ノ電「長谷駅」から「稲村
ヶ崎駅」へ向かいました。

長谷→極楽寺→稲村ヶ崎とたった数分の電車の旅ですが、緑深い極楽寺トンネルやそこを過ぎ
ると目の前に見えて来る海とのコントラストを楽しむことが出来ます。

極楽寺駅は線路が一本なのですが、稲村ヶ崎駅は上下二本に分かれていまして、上下電車の通
過駅となっています。電車に乗って行きますとこの駅の手前あたりで家と家の間から広々とした大
海原が見え隠れします。いよいよ湘南海岸、「サザンオールスターズ」と「チューブ」の世界になり
ます。

稲村ヶ崎につきましては、これまでもこのページで触れていますので今回は簡単な説明にとどめ
たいと思います。

海岸から少し海に突き出た稲村ヶ崎は、1333(元弘3)年に鎌倉に攻め込んだ新田義貞が黄金の
太刀を海に投げ込んだところ、潮が引いたという伝説が残っています。ここには、新田義貞の碑の
他に、コレラ菌発見で有名なコッホ記念碑や「真白き富士の嶺」の歌で知られる逗子開成中学ボ
ート遭難慰霊碑などがあります。

ペーター湘南

稲村ヶ崎駅から海岸へ向かって歩いて2分。国道134号線沿いにある稲村ヶ崎海水浴場を目前に
したピンク色の壁とフランスパンの看板が目印のレストラン「ペーター湘南」があります。

この近くには、雰囲気のあるレストランが沢山あるのですが、ここは珍しく犬連れがOKなレストラン
です。テラス席もあって眺望がとても素晴らしいところでもあります。

このお店は、アメリカレストラン協会で金賞を取ったというガーリッククリームのフェットチーネが有
名ですが、メニューの料理は全て手作りで注文時にもいろいろなリクエストも聞いてもらえます。
また、国産の牛タンを1日かけて煮込んだ牛タンシチューもおすすめだそうです。

このお店にはパン工房がありまして、焼立てのパンが300円で食べ放題になります。私達はメイン
ディッシュにブイヤベースを選んだのですがこれがまた絶品でありました。

パンの種類は20種類くらいあるそうですが、私が記憶した範囲で次のような種類がありました。

イタリアンデニッシュ、ロールパン(よもぎ、くるみ、みるく、ライ麦)、シナモンロール、食パン、メロ
ンパン、ピーカンフィグベーグルなどなど・・・。

お値段の方もリーズナブルですし、なんと言っても雰囲気が良いのでカップルにおすすめです。
皆さんも一度お試し下さい。

ペーター湘南: 鎌倉市稲村ヶ崎3−5−17 TEL 0467-25-1659 営業時間 11:30〜23:00


さて、8回に亘ってお送りしてきました鎌倉散策ツァーも今回でおしまいです。今回の散策コースは
概ね半日コースでしたが、これを参考にお好きな場所を組み込んでマイフェバレイトコースにして
いただいても良いのでは思います。皆さんからもお勧めのコースをご紹介願います。

それでは、次の機会をお楽しみに、今回ツァーに参加いただいた皆さんご苦労様でした。

世話人拝

今回は写真を多めにご紹介します。



ここが江ノ電稲村ヶ崎駅です。



海岸方面から見たペーター湘南の建物です。



ペーター湘南の看板です。



ペーター湘南からの眺望です。夜はテラスにかがり火がたかれます。


ついでに地図もサービスします。




2001年8月19日

                  湘南便りその25

                鎌倉散策ツァー第7回                 


         長谷寺

長谷のかんのんさま

鎌倉には七十余の寺がありますが、大仏さまと長谷観音が最も有名で、八幡宮周辺の史蹟め
ぐりと共に鎌倉観光のベストコースになっています。だからここは巡礼者のほか一般参詣の人
達が日々群参しています。

山門をくぐり石段を左右に折れながら登る。長谷寺の魅力の一つはこの参道にありますが、最
近すっかり輪奐の美を整えた観音堂の荘厳なたたずまいは実にすばらしいものです。

眺望絶佳な境内にふさわしい見事な伽藍配置といえます。ここのご本尊が像高10メートル余
の木彫像で、全身を金箔でおおい、その華麗さはまさに拝者を圧倒するものです。また、その
巨像からの無辺の愛にすっぼりと包まれるような有難さもおぼえる霊像です。

同木異体

長谷寺という名前の寺のはとんどが大和長谷寺信仰の系列に入りますが、ここは特に本尊が
大和の観音像と「同木」であることで知られています。

『相州鎌倉海光山長谷寺事実』には天平八年(七三六)長さ三丈三寸の観音の巨像が三浦半
島の長井の浜に着き、それを徳道上人を閲山と仰いで藤原房前が奉安したのが長谷寺の草創
とありますが、『新編鎌倉志』の長谷寺の項をひもといてみると「此観音大和長谷より洪水に流
され・・・

和州長谷の観音と此観音とは、一木の楠にて作れり。和畑の観音は木本、此像は木末也」とあ
り、同木異体の信仰に重点を置いているのを見逃すことはできません。それ故に「新長谷寺」と
も称していました。

しかし、寺の創建年代や本尊の造立時期は不明であり、『吾妻鏡』にも何一つ記載されてはいま
せんが、僧忍性が極楽寺坂を切り開いた文永・弘安年間(1264〜88)の頃から、この道を往来
する人々の信仰を集めていったようです。弘長二年(1262)在銘の板碑、文永元年(1264)鋳造
の銅鐘、嘉暦元年(1326)造顕の懸仏などの寺宝が、この寺がだんだんと形を整えていった経
過を示しています。

『風土記稿』は足利尊氏が康永元年(1342)に本尊を金箔で修復、義満が明徳三年(1392)に光
背を造るなど、その後の武将たちの庇護があつかったことを伝えていますが、徳川家康が慶長十
二年(1607)に再興した時の「棟札」に「海光山長谷寺荒廃、七零八落年久矣」とあり、時に消長
の激しかったことを知ることが出来ます。がしかし、江戸時代にこの観音堂を修営した酒井忠勝の
「棟札」には「当寺者観音堅坐之霊場、威力自在之功験挙世皆崇信之」とあるのによって衆庶の
帰依は広範囲に及んでいたといえましょう。

右手に錫杖を持っておられるこの尊像独特のお姿は、地蔵菩薩への信仰をかねているだけに大
衆の信心はあつく、遠く大和の地まで行かなくても同じご利益にあずかれる江戸時代庶民の喜び
は大きかったにちがいないことでしょう。また、ご本尊の左右に奉安される三十三身の木像は、巨
像にあわせて造られたものだけに立派なものです。なお室町時代に流行した高僧像の形式にな
る開山徳道上人の木像があります。

頼朝厄除祈願の阿弥陀如来、弘法大師作の出世大黒天、弁天窟など、ここは礼拝すべき場所が
多いお寺さんです。

山田順子さんが「私たちの観音さま」に、次のように詠っています。

 人よ来ませ慈顔たヽえて今日もまた長谷観音はひとりおはすを

さて、「観音さまは男か女か」について 長谷寺住職竹石耕美さんのお話を紹介します。

参拝の方から、観音さまは男か女かとの問いかけが案外多くあります。ある雑誌のクイズで「観音
さまは男」とひと文字の解答が目にとまりました。いかにも自信に満ちた解答です。しかし、これで
質問者は納得するでしょうか。面白くもなんともないでしょう。

観音さまには、男性的なお顔が多くありますが、光明皇后、檀林皇后をモデルにしたといわれる豊
かな官能の匂いを発するお像、親鸞聖人が出会った観音さまも女であったにちがいないでしょぅ。

たびたび経文に登場する観音さまは男だと、考えもせず決めてしまっています。しかし女であって
もよいのではないでしょうか。すべて女だといいたいのではなく、男女は平等だし、服装も動作も区
別のない時代です。仏さまの世界では、昔から男女の区別はないのだと考えたいのです。

それにしても、仏教を理解することも、わからせることも、とても大変なことだと痛感いたします。
精進したいものです。


この長谷寺には由比ガ浜から三浦半島まで見渡せる展望台があります。当日もここからの眺め
は素晴らしいものでした。




長谷寺山門にかかる大きな提灯です。



展望台からの眺望です。




2001年8月12日

                  湘南便りその24

                鎌倉散策ツァー第6回                 


         高徳院

寿福寺を出て鎌倉駅方面に少し歩くと 『鎌倉はちみつ園』と言う蜂蜜屋さんがあります。大崎大幹
事の話では プロポリス飴なるものが人気があるそうで、安井先生と早速買い込んでいました。

この日は幾分涼しい日ではありましたが、疲れてそろそろ足が痛くなって来ました。ディーナータイ
ムまではまだ時間があったので、大崎氏の発案でタクシーで高徳院まで行く事にしました。

高徳院とは、鎌倉大仏がおいでになるお寺さんです。これまでは鎌倉の穴場をご紹介してきたの
ですが、いきなりメジャーなところへやって来ました。

これまで、鎌倉大仏についてはこのコーナーでも特集を組んできましたが、何分話を飛ばすわけ
にいきませんので若干重複する点はご容赦いただきお付き合い願います。

鎌倉の大仏様と一般にいわれる大仏様は、鎌倉市の高徳院といわれるお寺にあります。

お寺の宗派は浄土宗、承安5年(1175)に開祖されました。

このお寺の本尊、阿弥陀佛があの大きな大仏様というわけです。

国宝に指定されているこの大仏像は源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局が発起し、僧浄
光が勧進(資金集め)して造ったものだそうです。

つまり、民の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して造ったものではなく、大き
な歴史的建造物ではこういうものは珍しいのではないでしょうか。

最初の大仏様は木造で暦仁元年(1228)に着工し、6年間で完成したが、宝治二年(1248)大
風で倒れたので、再び資金を集め、建長四年(1252)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏
殿を造って安置したそうです。

このお寺は海岸からとても近く、台風とみられる災害に幾度もあっています。

完成当初はお堂(大仏殿)の中に安置されており、建武二年(1335)と慶安三年(1369)とに大
風に倒れても、その都度復興してきました。

しかしながら明應四年(1495)の海潮による流出以来は復興せず、露像として知られるようにな
りました。

その後風雨を浴びながらも過ごしてきた大仏様ですが、大正十二年(1923)の関東大震災には
台座が崩れ、仏像は前に傾くというアクシデントがありました。

このため、大正十五年(1926)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなさ
れました。

昭和にはいって、大きな修復がなされ、前傾してる頭部を支える頸部の力を強化プラスチックで補
強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と佛体が離れる免震構造が施さ
れたそうです。

この強化プラスチックと台座の免震構造は日本の文化財としては最初のものであるそうです。

鎌倉大仏へはJR鎌倉駅からだと八幡宮とは逆方向に海の方へ歩いていくとあります。
けれど歩くには少々遠いので、江ノ電にのって長谷駅まで進み、ここから山の方へ歩いていくとよ
いでしょう。

ちなみに大仏様の高さは13.35m、重さは32,670貫(121t)あるそうです。

私達が高徳院を訪れた時も沢山の観光客で境内はいっぱいでした。やはり、外人さんが多かった
です。

次回は、長谷寺をご紹介します。


鎌倉大仏さんです。こんな感じの絵もやさしそうでいいでしょう。




高徳院の裏庭にはリス(台湾リス)がいました。
大崎氏撮影




2001年8月5日

                  湘南便りその23

                鎌倉散策ツァー第5回                 


         寿福寺

英勝寺をあとにして鎌倉駅方向に暫く行きますと 人家が途絶えたあたりの右手に寿福寺があります。

寿福寺は、臨済宗。山号を亀谷山,寺号を寿福金剛禅寺と称しまして鎌倉五山第三位のお寺です。

源氏山の東麓に位置する寿福寺の寺域は,頼朝の父義朝の旧邸と伝えられ、また頼朝が鎌倉に入
って最初に居を定めたといわれ、源氏とのかかわりが深い場所です。

『吾妻鏡』によれば頼朝の夫人政子が、日本に初めて臨済禅をつたえた明庵栄西を鎌倉に迎えて、
1200(正治2)年に建立した寺院と伝えられています。山号となった亀谷は、寺域の地名の亀ヶ谷か
ら名づけられていて、亀ヶ谷は、現在の地名の扇ガ谷の古称で,『吾妻鏡』1180(治承4)年10月7日
頼朝の鎌倉入部の記事に見られるので,早くから使われていたと思われます。寺名は最初,栄西の
号を用いた「葉上房之寺」と称していましたが、まもなく「金剛寿福寺」と呼ぶようになりました。
 
この寺域には、三浦氏の一族、岡崎義実が義朝の菩提を弔うために建てた草堂があり、政子は夫の
頼朝や子供たちの霊をなぐさめるために、栄西に土地を寄進して建立させたといわれています。

したがって、寿福寺の開基は政子ですが、頼家も寿福寺の建立にかかわりがあったとも考えられてい
ます。開山の栄西は、延暦寺で天台学と密教を学び、1168〈仁安3)年と1187(文治3)年の2度にわた
って入宋し、臨済禅の黄竜派をつたえました。しかし、栄西は、鎌倉では密教的行法も行なっており、
本格的な禅宗布教ではなく、寿福寺も最初は円(天台)・密(真言)・禅の三宗兼学の道場で、純粋の
禅宗ではなかったもようです。

将軍実朝の参詣もしばしばあり、幕府からの信奉も厚く、はじめ沼浜(現在の逗子市沼間周辺)にあっ
た義朝の旧宅を移築したといわれており、伽藍は建立当初にはそれほど整っていなかったと思われま
す。その後総門・仏殿・庫裏・方丈などが建てられ、しだいに伽藍が整っていったようです。

寿福寺建立にたずさわった番匠(大工)は栄西と一緒に渡宋した坂上吉春であるとの伝えがあり、大陸
の新しい建築技法が取り入れられていたとも考えられています。しかし、1249(宝治3)年に火災で創建
当初の建物は焼失してしまったので、その様式を知ることは出来ません。その後まもなく再建されまし
たが、1258(正嘉2)年に再び火災で焼失しました。この火災後にまもなく再建されたようです。
 
栄西の亡きあと、寿福寺は、門弟たちが受け継ぎましたが、蘭溪道隆・大休正念らの宋僧が住持とな
ると、宋風の臨済宗となっていった。その後幕府の保護を受け、1311(応長元)年ころ建長寺・円覚寺
とともに幕府から五山の称号をうけ、五山の寺院のなかでは第三位の寺勢を誇りました。

寿福寺は鎌倉末期から南北朝期にかけて最も栄え、この時期、塔頭は開山塔の逍遥庵をはじめ15院
を数えた。室町幕府が1342(康永元)年に定めた五山位次の編成では、第三位に列せられ、1386(至
徳3)年,足利義満が最終的に確定したさいにも鎌倉五山第三位に列せられました。

しかし、寿福寺は、この時期を境にしだいに衰退していき、1395(応永2)年の火災で鎌倉末期以降の
建物は焼失してしまいました。その後まもなく再建されたようですが、昔日の面影はなくなっていたと思
われます。

1467(応仁元)年にまた火災にあい、その後の復興の様子はみられません。小田原の北条氏や江戸
幕府からの保護もありましたが伽藍を復興するほどではありませんでした。しかし、江戸時代前期の
『新編鎌倉志』によればある程度復興されていたようです。現在は外門・三門・仏殿・庫裏からなる寺
院で境内は国史跡になっていて仏殿(非公開)には籠釈迦と呼ばれる乾漆の釈迦如来像と文殊と普
賢菩薩像を中心に鶴岡八幡宮の仁王門にあった仁王像や源実朝像や栄西像などを安置しています。
鎌倉国宝館に寄託中の鎌倉後期の端麗な快慶風の地蔵菩薩立像(国重文)や鎌倉では早期の頂
相という栄西禅師坐像や栄西が実朝に献じたという『喫茶養生記』のある寺としても有名です。

また寺域には明治時代の外相陸奥宗光の墓もあります。

 初夏のまぶしい日差しに照らされて、少し汗ばみながら歩いてくると、緑したたる参道の奥の静寂に
みちた山門の佇まいは、ほっと心静まるものがありました。

円覚寺の壮大さとは打って変わった、古都鎌倉らしいひっそりとした山門越しには4本のビャクシンが
見えていました。




人通りのない静けさの中で中年男二人の記念撮影です。



寿福寺本堂です。左にある樹木が有名なビヤクシンです。
大崎氏撮影




2001年7月29日

                  湘南便りその22

                鎌倉散策ツァー第4回                 


         英勝寺


海蔵寺から来た道を幾分戻って横須賀線沿いの道を鎌倉駅方面に暫く歩いて行きますと英勝寺
が道沿いにあります。

この寺は、
1636年家康の側室於勝の方が太田道灌の屋敷跡に創建したものです。 代々水戸藩
の息女が住職を勤めたので、水戸御殿とも呼ばれました。鎌倉では唯一の尼寺です。

拝観は出来ず、本堂の窓からご本尊を眺めるだけですが、ここはほとんど観光客が訪れないので
静かにじっくりこじんまりとしたきれいな庭が楽しめます。

庭には綺麗な季節の花が沢山咲いていましたが、丁度安寿さんでしょうか、庭の手入れをなさって
いました。側に咲く花の名前をうかがったのですが、ど忘れしたと言われてしまいました。

私達は、本堂の日陰で小休止をしましたが、時折吹くそよ風が気持良いものでした。ふと見上げると
とても立派な「さるすべり」の木が目につきました。訪問時にはまだ花は咲いていませんでしたが、
今頃はきっと咲いているでしょう。

さて、今回はこのお寺を創建した於勝の方の逸話をご紹介しましょう。


勝の方(1578―1642)

於八、於梶、於加知の方。太田康資の女(あるいは養女と伝える)。天正十八年(1590)、徳川家康
に召出され、側室となる。女ながら関ヶ原の合戦に従軍。娘市姫を早逝させたあと、結城秀康の次男
忠昌、家康の十一男頼房、家康の孫振姫などを養育した。大坂冬夏の両陣にも家康に従った。元和
二年(1616)、家康の没後、落飾して英勝院と号した。寛永十一年(1634)、先祖太田道灌の居館跡
がある鎌倉扇ヶ谷に英勝寺を建立。寛永十九年没。江戸瑞松寺に葬られる。
 
◆徳川家康の数多い側室中、聡明かつ武勇をもって知られるといえば、この方である。太田康資も金
棒ふりまわして戦った豪傑であるから、父親ゆずりというべきか。関ヶ原の合戦に勝利した家康は陣を
布いた山を指して「この山を勝山と名づけるぞ」と言った。次に傍らにいた於梶の方に向かって「おまえ
も於勝と改めよ」と言ったという。

◆家康もたびたび戦場へ連れて行ったというから、非常にお気に入りだったのだろうが、女としての魅
力よりも彼女の機知を愛していたふしがある。つまり、家康好みの「自己管理」できている女性なのだ。
「おまえなら戦場へ連れて行っても、泣き喚いてわしの足をひっぱることもあるまい」というわけだ。

◆ある時、家康は本多忠勝、大久保忠佐、平岩親吉らを集めて、飲み会を開催した。その席上、家康
が諸将に問うた。

家康「およそ食物の中でいちばん美味いものはなんであろうかのう?」

食い物の話題ひとつにも、拳を握り締めて発言する三河武士たち。たちまち立ち上がり、口角泡を飛ば
す輩。
忠佐「きしめん、きしめん!きしめんに決まっておるわ!」
忠勝「いやあ、みそカツが一番じゃ!」
親吉「わしはういろうが好きじゃ!」
忠佐「たわけ。ういろうなんざ、おんなこどもの食い物じゃ!」
親吉「きしめんなんか。讃岐うどんのほうがずっとましじゃ」
忠勝「そんなもの馬子にでも食わせろ。手打ちの蕎麦にワサビとつゆをちょびっとつけて、噛まずに一息
にすすりこむ。これじゃわい」
忠佐「江戸っ子か、貴様!?」

ツナマヨおにぎり、寄せ鍋、サンマ、たらこスパゲッティ、出るわ出るわ。『徳川実記』によれば、「おのが
親しむものの事いひ出て、一決せず」とある。要するに自分の好物のことばかり主張していたわけだが、
現代でも「何がいちばん美味しいか」と問われたら、同じ状況に陥るのではないだろうか。

◆もっとも、いつも意見がまとまらないのは、徳川家の常のこと。家康は苦虫をつぶしたような表情にな
り、何が美味しいかで喧嘩しかかっている家臣たちを見つめている。はやくものごとをきちんと決める機
構をつくらねばのう・・・と思いながら。

◆とはいえ、家康自身もよくない。ツメなど噛んでないで、
 「きしめんもいいのう。みそカツは大好物じゃ。ういろうは毎日食べないと気がすまん」
とでも言えばいいのだが、どれかにきちんと決めたい気持ちがある。忠勝たちのそれぞれの好物を聞
いているわけではない。「いちばん」を決めたいのだ。だったら家康自身が好物を口に出せばいいのだ
が、優柔不断で気の多い彼はひとつに決めることができないでいた。

◆何気なく傍らを見ると、猛将たちが口論というよりはつかみあいになりかかっている光景をニコニコ
眺めながら、側室の於梶の方がお茶を煎れている。

家康「於梶。何がおかしいのじゃ。そなたがこの世の中で、いちばん美味いと思うものを知っていると
でも申すのか?」

家康の問いかけに、ポークジンジャーだ八宝菜だウニイクラ丼だ松茸ごはんだと喚いていた武将たち
も、於梶のほうを注目する。

於梶「およそ食べ物のうまいという基準は、塩加減にございます。どんなによい料理でも塩がなけれ
ば味がととのわないものでございます」

◆一同、ふうむと納得。ここでやめておけばよかったのに、

家康「いちばん美味いものは塩か。では、いちばん不味いものはなんじゃ?」

忠勝「それはあれじゃ、○○町の角の定食屋!あそこはひどい」
忠佐「どこぞで馳走になった汁はまずくて、愛想を言う気も失せたわ」
親吉「あー、貴様ンとこの女房の飯はもっとひどいわ」
忠佐「ぬかしたな、こいつ!」


家康「(こいつら、地方へ飛ばしてやろうかと思いつつ)於梶、そなたならば知っておるか、いちばん不
味い食べ物が何かを」
於梶「いちばん不味いものは、塩でございましょう」
家康「なに?さっきいちばん美味いものは塩と申したではないか」
於梶「どんなにりっぱな料理でも、塩を入れ過ぎると食べることはできませんわ」

家康は「これ男子ならば一方の大将に奉りて、大軍をも駆使すべきに、惜しきことかな」と言ったと『故
老諸談』は伝えている。




ここが英勝寺さんの玄関です。お寺さんの玄関とは気が付かず
私は最初この前を通り過ぎてしまいました。



この花の名前を聞いたのですがど忘れしたといわれてしまいました。
アガパンサス(ムラサキクンシラン)といいます。
確かに覚えにくい名前です。




2001年7月22日

                  湘南便りその21

                鎌倉散策ツァー第3回                 


         海蔵寺


扇ガ谷の北、閑静な一角にたたずむ海蔵寺(かいぞうじ)は、1253(建長5)年にもと真言宗のあっ
た地に大伽藍を備えた寺が建立されましたが、鎌倉幕府滅亡の際に炎上。その後1394(応永元)
年、足利氏満の命により上杉氏定が再建したといわれています。

この寺は、いわゆる五山や十刹には属することなく1577(天正5)年以降は塔頭のような存在とし
て建長寺に属し現在に至っています。

境内には江戸時代に浄智寺から移されたという仏殿と、大正時代に建立された本堂が立ち、秋
の萩を筆頭に四季折々の樹木で彩られる景色は大変美しいものがあります。今回、訪れた時も
境内に季節の花が綺麗に咲いていました。

この寺の薬師如来には不思議な伝説が伝わっています。

ある年のこと、寺の裏山から毎日なんとも悲しげな赤ん坊の泣き声が聞こえてくるので開山が行
ってみると、泣き声は古ぼけた墓石の下から聞こえ金色の光がもれ輝いていたといいます。

そこで開山が経を読み袈裟で墓石を覆ったところ泣き声はやみ、翌日そこを掘ってみると立派な
薬師の面が出てきたので、新たに薬師如来像を建立し、そのお面を胎内に納め祀ったのが現在
の本尊といわれています。この伝説から本尊は別名「啼薬師」(なきやくし)「児護薬師」(こもりや
くし)と呼ばれ、子育てにご利益があるそうです。

不思議といわれている話はもうひとつあって、薬師堂の脇を通って洞門をくぐると、格子のはまっ
た真っ暗な岩屋の中に、何のために造られたものなのかわからないという謎に満ちた井戸(?)が
あります。これが十六の井です。

かたわらに置いてある懐中電灯を使って中を覗くと、四角い岩屋の中にそれぞれ直径約70cm、
深さ約40〜50cmの16個の穴が清冽な水をたたえて並んでいます。目を凝らすと正面の壁に観
音菩薩像と弘法大師像が祀られているのもわかります。伝承では、霊験ある金剛巧徳水の井戸
といわれていますが、一説ではやぐら状の墓所で穴は骨を埋めるためのもの?だともいわれて
いて真相は謎に包まれたままです。ここから出土した「嘉元4(1306)年」銘の美しい板碑は、鶴
岡八幡宮の一角にある「鎌倉国宝館」に出陳されています。

この寺には、門前の道ばたに鎌倉十井の一つである「底抜の井」があります。

古図によると、この付近の民家のあるあたりは、伽藍が整っていた時代の 塔頭・龍渓院の跡と
思われます。

このお寺は、カメラマン以外は訪れる人が少なくて、なかなか趣があって雰囲気が良いところで
した。ここも浄智寺と同様穴場ですね。



境内に咲く桔梗とガクアジサイです。沢山のアマチュア?
カメラマンが撮影していました。  大崎氏撮影


安井先生の記念撮影です。桔梗が綺麗です。
背後に咲いているトロピカルな色彩の花はノウゼンカズラです。
大崎氏撮影


仏殿の裏手、山門を出た右側の小さなトンネルをくぐると 山際に
格子がはまった岩屋があります。その中がこの「十六の井」です。

少し薄気味悪い雰囲気ですがここは水が枯れることはないそうです。
大崎氏撮影




2001年7月15日

                  湘南便りその20

                鎌倉散策ツァー第2回                 


         浄智寺

東慶寺からバス通りを東南の鎌倉駅の方向へむかうと、すぐにバス停「明月院」があり、そのあた
りで右の小道に入ると浄智寺(臨済宗)があります。


弘安6年(1283年)北条宗政・師時父子が建てた寺で鎌倉五山の第四位に列する名刹ですが、現
在ある山門や仏殿は、いずれも関東大震災後に再建されたものだそうです。

開山は宋僧兀庵普寧(ゴツタンフネイ)、請待開山は大休正念(ダイキュウショウネン)(仏源禅師)、準開山は
南州宏海(ナンシュウコウカイ)(真応禅師)となっています。

それは開山に招かれた南州宏海が、自分はその任にふさわしくないとして、師の大休正念をよん
で儀式を行ない、さらに世を去っていたが、これも師の兀庵普寧を開山にたてたため、複雑な形に
なったもようです。

それでも、磨り減った石段を上り、臨済宗独特の中国風の鐘楼門をくぐって辿り着く境内は、所謂
観光寺とは一味違う静けさが漂い北鎌倉駅周辺の騒々しさとは隔世の感があります。

曇華殿(どんげでん)と呼ばれる仏殿に安置されている本尊は、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩
の三体の仏像で過去、現在、未来を表す三世仏といわれています。

このお寺は花の寺としても有名で、春はタチヒガン桜、夏は沙羅双樹、初秋の萩が咲く頃の風情は
また格別のものがあります。

総門脇には鎌倉十井の一つ「甘露の井」があります。
一説には甘露の井は方丈の後にあったとも
いわれています。

ここで、私達は、木陰のベンチで大崎氏の差し入れの「うぐいすサブレ」を茶菓子にしてお茶を飲み
ました。あたりの静けさの上に木陰を通ってくる風が涼しくてとても心地良いものでした。

やはり、ここは穴場ですね・・・。



木漏れ日の中の浄智寺山門です。ここには「山居幽勝」の額が掛かっており、
唐様で花頭窓のある二階に梵鐘が吊されています。大崎大幹事撮影。



2001年7月8日

                 湘南便りその19

               鎌倉散策ツァー第1回


いつもと比べると雨の日が少ない梅雨のように感じますが、梅雨前線によって西日本や南日本では
大きな被害が出ているそうです。梅雨が終ると本格的な夏が始まります。

さて、久し振りのGo-21のイベントとして7月7日に鎌倉散策ツァーを実施しましたので今回訪れた鎌
倉の穴場をこれから数回に亘りご紹介したいと思います。

今回は梅雨の最中であるため天候が心配されましたが、予想に反し良い天気となり冷たい東の風
のお蔭で肌にあたる風がとても気持良く過し易い一日でした。


         東慶寺

東慶寺は横須賀線北鎌倉で降りて徒歩10分、円覚寺の南横須賀線の線路を隔てた山腹にあります。
もとは尼寺(あまでら)で縁切寺、駆込寺(かけこみでら)などともいわれた臨済宗円覚寺派の寺です。

山号は松岡山、鎌倉時代の弘安年間(1278〜1288)に北条貞時が創建し、開山は覚山志道尼と伝
えられています。覚山尼は貞時の父時宗の夫人。縁切寺法を作ったのはこの覚山尼といわれていま
す。

後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住職になってから比丘尼御所門席紫衣寺となり土地の名をとって
松ヶ岡御所ともいわれました。それから、歴代住職は名門のレディが勤めることが多かったのです。

江戸時代には将軍家康の孫千姫がバックについて縁切寺法を幕府に認めさせた上に、鎌倉で鶴岡
八幡宮、円覚寺の次に大きい領地を持ち、とても栄えました。住職の江戸登城の時には大名行列も
道を譲ったといわれています。 縁切の寺法が沢山適用されたのもこの時代で、川柳にもなっていま
す。

寺には今も当時の離縁状がたくさん残っていますが、明治になると寺法は廃止され、男の住職が入
山し、僧寺(尼寺の逆)になりました。 

早春の梅に始まる花の寺としても知られ、墓所には田村俊子、和辻哲郎、西田幾太郎など有名文化
人の墓が多くあります。

縁切寺法

鎌倉時代は、女性はいったん結婚すると絶対に自分から離縁を求めることができませんでした。そこ
で思い余って自殺するものまでいたというから、今とは大違い。そこで東慶寺の覚山尼は不幸な女性
を救うため特別な権限を東慶寺に与えるように息子の北条貞時に頼み。その結果できたのがいわゆ
る縁切寺法でした。これは離婚希望者が東慶寺に入り、一定期間を寺のルールにしたがって生活す
れば望みを果たせるというもので明治時代に廃止されるまで代々受け継がれました。後には離縁の
ためだけではなく、人生の悩みを持った女性も駆けこんできたといわれています。

東慶寺の裏山の山肌には、6月から7月初旬にかけて小さな薄紫色の「イワタバコ」の花が咲きます。
今回訪問時はすでに盛りを過ぎていましたが、ほんの少しまだ咲いていました。今回の写真はその
「イワタバコ」の花をご紹介します。




これが「イワタバコ」の花です。大崎大幹事撮影