Go-21



  このページは、これまで当会のMLにて紹介していました「Go-21湘南便り」をリニューアルして当地
  湘南の様子をビジュアルにお送りします。私のみならず当地に想い出がある方や当地をこよなく愛で
  て下さる方の寄稿を歓迎いたします。                             世話人敬白




2001年7月1日

                湘南便りその18【番外編】

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        こきりこ節

暫く間があきましたが、番外編を続けます。今回は五箇山の祭りをご紹介しましょう。

合掌造りで知られる五箇山地方は民謡の宝庫であり、以下にご紹介する祭りではあまり耳にしたことがない
五箇山の民謡も聞くことができます。なかでも、こきりこ節は踊り手の衣装や囃子の楽器に特色があり、私の
好きな民謡の一つです。こちら藤沢から五箇山まではとても遠いのですが、この唄を聞く度に故郷を思い出
します。

■平村の祭り

富山県平村では、9月23日・24日に下梨地区で「五箇山麦屋まつり」、続く25日・26日には隣接する上梨地
区で「こきりこ祭り」が開催される。祭りでは、神社への参拝のあと、境内で地元に古くから伝わる民謡が披
露される。

平村(五箇山)は、わが国有数の豪雪地帯に位置していることから、かつては日本の秘境といわれた。その
ために合掌造りの民家をはじめ、現在も独自の文化、民俗、習慣を数多く残している。

なかでも、大きなカヤ葺き屋根が天に向かって合掌する姿は、素朴な日本の原風景をイメージするものとし
て、訪れる人々の心に郷愁を誘う。

平成7年には、平村の相倉合掌集落が、上平村菅沼集落や岐阜県白川郷とともに、世界文化遺産に登録さ
れている。

その平村はまた、日本民謡の宝庫として全国的にも知られており、今日まで30以上が歌い継がれている。
秋祭りには収穫への感謝の気持ちを込めて、麦屋節、こきりこ節など五箇山ゆかりの民謡が歌い踊られる。
両祭りとも、一般の人々を対象にした民謡踊り講習会が行われるのが特徴で、地域の人々の輪に加わって
踊ることができる。

■「五箇山麦屋まつり」

1日目は午後から子供たちの民謡大会、麦屋節踊り講習会が行われる。夕方からは、地主神社に参拝した
あと、地元の民謡保存会が総出演して麦屋節、四つ竹節など、五箇山民謡の数々が披露される。

2日目は、午後から一般の人々を対象にした麦屋節踊り講習会が開かれたあと、麦屋節笠踊りコンクールが
開催される。そして夕方から地元の民謡保存会が総出演して、夜の12時ごろまで五箇山民謡を歌い踊る。

2日間とも、夜9時ごろから一般の人々が自由に踊りに参加できる総踊りに入る。

(主な民謡)
・麦屋節
五箇山は、倶利伽羅の合戦や屋島の戦いで敗れた平家一門が落ちのび、隠れ住んだところといわれる。
その平家の落武者が自らの悲しい運命を歌に託したのが麦屋節だとされる。「麦や菜種は二年で狩るが 
麻が刈らりょうか半土用に 波の屋島を遠くのがれてきて…」と、哀調をおびた歌に合わせて、黒紋付と袴
に白たすき、脇差のいでたちに菅笠を持って踊る。

・四つ竹節
平村で古くから伝承されてきた民謡で、四つ竹の伴奏に「越中五箇山蚕の本場、娘やりたやあの桑摘みに、
たからゆたかな麦屋のお郷…」と唄う。

・古代神
室町時代に歌い踊られた田楽の名残りをとどめるもので、「サァーわしのサーエー殿さまほめるじゃないが、
大工木挽や桶屋もなさる、人が頼めば左官もなさる…」とユーモラスな歌詞と軽快なテンポで唄い踊られる。

■「こきりこ祭り」

大伴家持や遊行女婦土師、木曽義仲などの配役をはじめ、1,100人の出演者はすべて地元の市民が演じ
る。作・演出は音楽家・劇作家の藤本壽一氏が行い、その下で、一般から募集された15名のアマチュアの
演出家が担当。この「越中万葉夢幻譚」の運営には、150名の市民ボランティアが参加し、会場の整理、舞
台照明、衣装係などの裏方を受け持つ。

 こきりこ節
平安時代、田植えのときに舞った田楽の名残といわれ、2本の竹の棒を打ち合わせて音を出す筑子(こきり
こ)、ささら、板ささらなど往時のままの楽器を今に伝えています。

  こきりこの竹は七寸五分じゃ
  長いは袖のかなかいじゃ

  向かいの山をかつごとすれば
  荷縄が切れてかつがれん
 
  踊りたか踊れ泣く子をいくせ
  ささらは窓のもとにある

今回は、このこきりこ節をBGMにしてみました。ご存知の方は唄ってみて下さい。


こきりこ節です。




2001年5月27日

                 湘南便りその17【番外編】

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鱒の寿司考

さて、今回の番外編は、越中五箇山に続いて富山の郷土の味の話をしましょう。

皆さんは、日本三大駅弁をご存知でしょうか?北海道は森駅の「いかめし」、上越線横川駅の「峠の釜飯」そ
して富山の「鱒の寿司」がその内訳です。

各地の駅弁は鉄道旅行の大きな楽しみです。

富山の駅弁「ますのすし」は全国的にかなり有名で、駅弁人気ランキングでは常に上位を占めていると聞き
ます。私も、富山から藤沢に帰るときには必ず電車の中でますのすしを食べています。

鱒寿司は押し寿司の一種で、木枠に笹の葉を敷いてすし飯を敷き詰め、酢でしめた薄切りのマスをのせて笹
で包み、重石をして一晩おいたものです。

富山には、駅以外にも鱒寿司の専門店がいくつかあり、店によって微妙に味が違うのですが、一般には駅で
売られている「源」の「ますのすし」が知られているようです。店によっては、ご飯の下にマスを敷き詰めるタ
イプの寿司もあって、早とちりのお客さんが、「肝心のマスが入ってないじゃないか!」と文句を言ってくること
もあるとか……。

富山の鱒寿司は江戸時代からあったのですが、当時は鱒寿司よりも鮎の寿司のほうが人気があったとか。
「鮎の寿司」は、神通川で捕れた鮎をご飯と一緒に長期間つけ込んだもので、将軍吉宗に献上したところ大
変喜ばれ、それ以来富山の名物になったそうです。明治時代にはいると、魚と米を発酵させて作る「なれず
し」よりも、一昼夜の押しで作る「はやずし」の方が人々の好みに合うようになり、鮎の寿司は鱒寿司に取っ
て代わられました。

今では、鱒寿司は富山のコンビニでも小さなパックで売られています。さっぱりしていて、風邪や徹夜明けの
食欲がないときでもおいしく食べられ、お値段も手頃です。(駅弁のほうがずっとおいしいけどね…)

よく皆さんから聞かれるので美味しい鱒の寿司の製造元ランキングをお教えします。

旨味系 ベスト3
 1.高田屋 076-432-4774  2.今井商店 076-421-2319  3.なみき鱒寿し店 076-425-6780

酸味系 ベスト3
 1.青山総本舗 076-432-5324  2.千歳 076-432-2515  3.竹勘 076-492-0816

生系・・鱒の鮮度・色艶 ベスト3
 1.川上鱒寿し店 076-432-5129 2.紀雅本舗 076-421-1324 3.前留 076-441-4544

因みに、私の一番のおすすめは、酸味系の青山総本舗さんのものです。上記の通り、鱒の寿司は「源」ばか
りではないのです。但し、JR富山駅構内では、源製しか売っていないのでその中の「特選」を買う事をお勧め
します。

「緑の笹にピンクの鱒」でお馴染みの鱒の寿司を一度ご賞味下さいませ。


まさに緑の笹にピンクの鱒でしょ。



2001年5月13日

                湘南便りその16【番外編】

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        越中「五箇山」

5月も半ばになりましたが、皆さんは5月の連休は如何お過ごしでしたか?家族サービスで遠出された方
も多いと思いますが、私は郷里の富山に帰りましたので、皆さんへのお土産がわりに合掌造りで有名な
五箇山のご紹介をしたいと思います。

昔は陸の孤島と言われた五箇山でしたが、今では 北陸自動車道小矢部・砺波JCTより東海北陸自動車
道の終点五箇山ICで降りますとあっと言う間に当地に着いてしまいます。

五箇山の紹介

昭和初期、ドイツの世界的建築学者ブルーノ・タウトは五箇山を訪れ、合掌造りの合理的な構造を見て
惜しみのない賞賛を贈ったといいます。先人の残した知恵と技は、長い年月を得て脈々と受け継がれ、
深い絆に結ばれて暮らした家族のぬくもりを、いまに伝えているのです。

五箇山の風土

地勢と名前の由来

富山県の南西部、白山山系の北端に位置する五箇山は、砺波平野とは急峻な山地によって 隔絶され、
東西を山々が取り囲んでいます。
このため平坦地はきわめて乏しく、源を遠く濃飛国境に発する庄川と、その支流の渓谷部の狭い段丘面
と山腹の緩斜面を、おもに生活の舞台としています。
現在、上平(かみたいら)、平(たいら)、利賀(とが)の3村の地域を総称して「五箇山(ごかやま)」と呼
んでいますが、 記録によれば、永正年間(1504〜)に上平・平・利賀の3か村の区域を「五ヶ山」と通称
していたことが記されているそうです。
その名の由来をたどると、赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷間に集落があり、「五ケ谷
間」を音読みして 「ごかやま」と呼ぶようになったと考えられます。

上平村の誕生

明治21年に町村制が公布されて、翌明治22年に上平村ができました。
当時の集落数は19人でそれは成出(ナルデ)、楮(コウズ)、真木(マキ)、東赤尾(ヒガシアカオ)、新屋(アタラシヤ)
、上中田(カミナカダ)、田下(タノシタ)、菅沼(スガヌマ)、細島(ホソジマ)、小原(オハラ)、猪谷(イノタン)、皆葎(カイ
ムクラ)、葎島(ムクラジマ)、小瀬(オゼ)、漆谷(ウルシダン)、下島(シタジマ)、西赤尾町(ニシアカオマチ)、打越(ウチコ
シ)及び桂(カツラ)であったそうです。
そして明治22年5月22日に第一回の村会が開かれて、初代村長に生田長四郎氏が選出され同5月29
日に村長に就任しました。  

上平村の名の由来

約800年の昔、栄華をきわめた平家が、うち続く合戦に大敗を喫し、その落人たちが安住の地を求めて
この地に入り、住みついたと伝えられることから「平」は、平家につながるものとの説があります。
又、平村の上手、すなわち庄川の上流に位置することから、「上平村」と名づけたとも伝えられています。

五箇山への道、今昔

合掌造りで有名な五箇山地方はまた、平家の落武者の隠れ里としても知られ、藩政時代には流刑地とし
て、また、藩の塩硝屋藩札が 作られたため、住民の出入りも禁止されるなど、長く他と隔絶した秘境とな
っていました。
現在は、国道156号線・304号線が整備されるなど交通情報も格段に良くなり、新緑に、紅葉にドライ
バーの目を楽しませてくれます。

雪と合掌造り

五箇山では、夏の日中の気温は平野部並みだが、夜間の気温はかなり低く、しのぎやすい。一方、冬の
訪れは早く、11月中旬には初雪 をみることもあります。積雪は、例年で2m余り。積雪期間が長く、村は
5ヶ月近くもの長い間、雪に閉ざされます。こうした厳しい気候風土 に対処し、豪雪にも耐えられるように
と、合掌組み切り妻という独特の形式をした合掌造りが生まれたのです。
純白の雪が茅葺きの合掌屋根をおおう姿にはりんとした美しさが漂い、静寂に包まれた集落には民話の
世界を思わせる風情があります。


暮らしと合掌造り

合掌造りの起源は古く、遠く江戸時代初期にまでさかのぼります。江戸期藩政の頃、五箇山ではすでに
養蚕が行われており、塩硝屋製紙 など家内産業も加賀藩への上納品として奨励されました。したがって
、この産業に適したスペースへの要求が、一階建ての上に合掌を築く という今日の合掌造りに発展する
契機になったと考えられています。
がっしりと構えた合掌造りは、風雪の歴史に耐えてきた人々の静かな折のそのものといってもいいのでは?

平家落人伝説

五箇山といえば"平家の落人が来た所"ということで名が高いです。落人のことについては、本村にも確か
に話が伝えられていて、落人屋敷や控え屋敷などがあり、落人が逃れてきたときの様子などが哀れに伝
えられているけれども、この落人が平家のことであるかとなるとなかなかその確証は得られません。

平家と源氏が戦って、倶利伽羅で平家が敗れたのが寿永二年(1183)で、その後屋島や壇の浦で平家
が敗れたのもそれからおよそ2年後であるから、それは今からおよそ800年前のことになります。しかも
その後において源氏は数回にわたって平家の残党を検索したともいわれているし、貧困で、しかも火災
に弱いカヤ葺屋根の住宅で生活した五箇山の住民から、その当時の物件を発見することは無理なこと
でもあります。
文献によって、五箇山へ平家の落人があったと記したのは、文化年間(今から170年ほど前)に北茎とい
う人が「北国巡杖記」という本に書かれたのがはじめのようで、その後、この北国巡杖記をもととしたもの
がいろいろ書かれています。しかし北茎が何によって平家落人説を書いたのか解っていません。


世界遺産への登録
平成7年12月、「五箇山・白川郷の合掌造り集落」が、世界遺産委員会で正式に世界遺産として登録
されました。
大きな三角形の妻面を見せて そびえ立つ合掌家屋と集落の歴史的景観、そして周囲の自然環境など
が良好に保存されていることが、日本を代表する歴史的遺産として高く 評価されたもので、国内では6
件目。

当地域は白山を中心とする険しい山岳地帯にあり、日本有数の豪雪地帯であったことから、外界と隔
絶された独特の文化を形成。現在も 多くの民族芸能や伝統的行事が伝承されています。
世界遺産への登録を機に、五箇山の上平村菅沼と平村相倉の両集落は、白川郷とともに、山間地帯
の暮らしの知恵が息づく国際的な 文化遺産として国内外の注目を集めているのです。
 
※世界遺産とは、ユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき、貴重な文化遺産や自然遺産を
保護・保存することを目的としたもので、 過去には中国の万里の長城やフランスのベルサイユ宮殿な
どが認定を受けている。 


私は、5月4日に当地を訪れたのですが、連休の最盛期ということもあってこの山間の村は人と車で溢
れていました。駐車場を探し回ってようやく重要文化財の合掌造りの岩瀬家を見学するのが精一杯で
した。

やはり、行楽地は平日に限ることを実感した一日でありました。しかし、山々の新緑はそれはそれは見
事な景観を成していました。世界文化遺産は一見の価値ありです。




世界文化遺産五箇山相倉集落の合掌造り民家です。今の季節は田んぼのあぜ道には
様々な花が咲いていてとても綺麗です。




2001年4月15日

                     湘南便りその15

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          鎌倉街道:夢物語
                       第六話・最終回


江ノ電の江ノ島、腰越間は完全な路面電車になります。電車と原チャリが平行して走っている景色は、ちょっと怖
い感じ。でも、両運転手さんはお互いの存在がないかのように走っています。

竜口寺仁王門の脇に、お得なお昼ご飯を発見。おでん+かやくご飯=500円。なかなか、いいでしょ、これ。

さて、竜口寺をあとにして腰越まで、干物屋さんや魚屋さんを覗きながら散歩。10分ほどで腰越駅へ到着。
腰越駅はホームが短いため、鎌倉寄りの一両は、はみ出してしまいます。下車駅として使う場合は要注意。
駅の順番から行くと、次に下りる目的地は稲村ガ崎になりますが、ささやかな事情があって後回しに。そして終
点、鎌倉へ。

小町通は相変わらずの賑わいで…これも大河ドラマの影響でしょうかね。
これだけの人出の中、独りでお店に入って席を占領するのも気が引けて、(こんな時、大食漢甘味無節操大王
のヤマダ幹事長がいればなぁ)と思いつつ、何店もある食べ物屋さんを横目で見ながら、両側車道渋滞中につ
き排気ガス一杯の八幡宮参道の段葛へ。

八幡宮前交差点は、相変わらずの人の山。遠くに見える実朝暗殺の隠れ銀杏は丸裸。特に行くこともないかと
右折して、突き当たりの寶戒寺へ入ります。これがこの日最大の幸運。境内中に植えられた白梅、紅梅、しだれ
梅が「もうこれ以上咲けません」状態の満開。十分に堪能させていただきました。

この裏手には、北条政権終焉の地があります。今、このブームにも訪れる人は少ないようですが、紅葉の時期
にはちょっとした景色のご褒美が貰えそうなロケーションです。

さて、そろそろ夕方近くということで、稲村ガ崎に戻ります。
稲村ガ崎の駅から住宅地を5分ほど歩くと海岸に出ます。左手の小高い場所が伝説地です。階段をゆっくり昇
り岬の先端に立つと、左手に鎌倉、逗子方面が、右手に江ノ島が見えます。そこに日が沈む…はずなのに。

ついさっきまで出ていた太陽が、いつ張り出したのか厚い雲に遮られてしまいました。諦めて駅へ戻ろうと階段を
下り、横断歩道で信号待ちをしていると、今度は雲の切れ目から太陽が…。道路の向かい側にあるレストラン
Mainの黒い大きな窓ガラスが、一面金色に輝いています。私は青信号をパスし、その場に立ってしばらく眺めて
いました。  おわり。


江ノ島方面に沈む夕日です。波浪亭店主が見た夕方の景色もこのようでしたでしょうか?
6回にわたりお楽しみ頂いた鎌倉・夢物語も今回でお終いとなります。
寄稿頂いた波浪亭店主には感謝申し上げます。次の機会を楽しみにしています。



2001年4月8日

                     湘南便りその15

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          鎌倉街道:夢物語
                         第五話


2月25日。日によって寒暖の差が激しく、この日は晴天ながら寒い一日。
家からの全行程を義貞になぞって行ければ、この企画には良いのですが、私も家族から『徘徊老人の予行
演習』呼ばわりされつつ出掛けまわっている身。そんなにヒマじゃありませんので、この日は横浜線町田から
小田急線で片瀬江ノ島入りです。

竜宮城のような片瀬江ノ島駅を出て弁天橋を渡り商店街を抜ける狭い道を通って江ノ電江ノ島駅へ向かいま
す。

途中、レストランの階段に真っ黒の犬の置物…と思ったら本物。(じっとしてないで、少しは動けよ)と思いつつ
、少し行くと遠くに竜口寺の仏舎利塔が見えてきます。何度も鎌倉には来ていますが、そこへは行ったことが
なく、ちょっと寄っていくことに。

NHK大河ドラマ『北条時宗』の時代は、鎌倉仏教の最盛期でありました。中でも法華経に仏法の真髄をみた
日蓮は、他宗を批判するに止まらず、幕府に対しても立正安国論を提示し、国の在り方を説いたのです。しか
し、それは受け入れられませんでした。逆に当時の法律である貞永式目に照らし、『悪口の咎』で捕らえられ、
すぐさま竜の口の刑場へ連行されます。

いくら鎌倉時代とは言え法治国家の原型はあります。通常、刑の執行には評定が開かれるにもかかわらず、
この時の日蓮には評定が開かれずに刑の執行がされようとしています。それだけ日蓮に対抗する勢力が大
きかったことが伺われます。

刑場に引き出された日蓮に、今まさに刀が振り下ろされるとき、海上の西の空から強い光がさし、刀は二つに
折れ、刑が中止されたという伝説があります。

これが事実かどうかは宗教上のことでもあり、私には判断しかねますが、手続きを踏まない刑の執行に、拒
否反応を示す形式主義者が幕府内にいたことは、想像に難しくありません。時代が違うとはいえ同じ役人で
すからね、私。

死刑を免れた日蓮は、この後、佐渡へ流されることになります。鎌倉街道上道から越後街道を通って行った
のでしょうか。

日蓮にとって最大の法難の刑場跡に立てられたのが寂光山竜口寺です。境内は静かで、本堂の左手に大
きな白椿が立っています。深緑の葉に浮き上がるような白椿。一見の価値ありと思います。

波浪亭  次回へ続く


龍口寺の桜です。
波浪亭店主が訪れた頃は白椿が盛りでしたが、今は桜が満開です。
日蓮上人が文永8年(1271年)鎌倉幕府の命により斬刑に処せられようとした時
奇跡が起こって死を免れたという旧跡(龍の口法難)の刑場跡に延元2年(1337年)
弟子の日法上人が日蓮上人像をまつって建立しました。




2001年4月1日

                     湘南便りその14

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          鎌倉街道:夢物語
                         第四話


さて、なぜ義貞は頂点に立てなかったのか?ここから先に、いくつかの原因が見られることになります。

鎌倉を占拠した新田軍は幕府の役人を、ことごとく蹴散らしてしまいました。戦が終われば次にあるのは褒美の分
配と新体制の構築。しかし、義貞と側近にそのノウハウも、その後のプランも無かったようです。

挙兵した時が150人。勝算ありとは考えていても、成功後のプランが無いのも無理はありません。しかも、たった
14日間の決着です。幕府方の人間を降伏、服従させることをせず、ことごとく鎌倉から蹴散らしたツケが、回って
きたともいえます。

そうこうしているうちに、京の天皇より上洛の命令が届きます。義貞はそれに従い、代わりに鎌倉に入ったのが足
利高氏です。

高氏は義貞が挙兵する直前、北条の命令により京の公家の鎮圧に向かい、都を眼前にして天皇側に寝返り、幕
府の都の拠点である六波羅を攻め落としていました。この時、天皇への恭順を表すため、名前を高氏から尊氏へ
改名しています。

そもそも尊氏は足利家の嫡男ではありましたが、足利の地には足を踏み入れたことがない、という説もある鎌倉
育ちのエリート。言わば現代の官僚でもあり人脈も豊富。義貞が戸惑った事務処理はお手の物です。高氏は難
なく恩賞を分け与え、鎌倉を平時の状況に戻しました。戦の大将より褒美を分配してくれる大将。新田軍に加勢し
た各地の武将が、そう思ったかどうかわかりませんが、今のどこぞの政党を見るようではあります。

その後の義貞は、権力欲に対しては歴代天皇の中でもトップクラスと言われた後醍醐天皇に翻弄されます。尊氏
に権力が集中することを良しとしない天皇の意向によって尊氏と戦い、一時は尊氏を九州まで追いやる程の勝利
を挙げたものの、その後は敗れ、天皇に裏切られます。そして越前に逃れた義貞は短期間の間に越前全土を平
定し、再び決起をしますが命運はここに尽きることになります。享年38歳。

義貞は死の間際、越後から越後街道で三国峠を下り、生まれ故郷の新田の地に思いを馳せたのでしょうか。
新田の地が足利の隣接地であることも、帰りたくとも帰れない、偶然のでき過ぎであったかも知れません。

尊氏が最も恐れていた敵。それが同じ時代の楠木正成ではなく、新田義貞であったことは、義貞の死が確認され
るまで、尊氏が征夷大将軍を名乗らなかったことにも伺えます。それともライバルに対する最大の敬意を、尊氏
は表したのでしょうか。


波浪亭  次回へ続く


新田小四郎義貞像です。

この像は京王線分倍河原駅前にあります。

西暦1332年5月8日(元弘30年)上州(群馬県)を出立した新田勢は同月11日
多摩川のそばで鎌倉軍と対峙しました。

そして同月16日分倍河原合戦
が起きるわけです。
この合戦で大勝した新田勢は鎌倉に進撃を開始し源頼朝がつくり、執権北条氏
に実権を奪われていた鎌倉幕府を滅ぼしました。

義貞が活躍したのは「太平記」の時で、鎌倉幕府が滅び、王政復古である建武
の新政がわずか2年でとん挫し、朝廷は南北朝に別れ楠木正成が湊川に戦死
し足利幕府が成立するという歴史が揺れ動いた頃です。

源氏の嫡流を自認していた新田義貞は鎌倉幕府を倒し、天下の栄誉を受けるつ
もりだったのですが朝廷では義貞を源氏の頭領とは見なしていませんでした。

朝廷は足利尊氏を頭領と認定していたのです。
桓武源氏の源義家(みなもとのよしいえ)を祖父に持つ義国の長男義重が上州
新田荘に移り住み新田となり、次男の義康は足利に留まり鎌倉幕府と深いつな
がりをもち足利は嫡流では無いながら源氏の頭領の地位を占めていきます。

そして、義貞にとって源氏の嫡流という矜持が尊氏に対しての反目なり常に尊氏
に反する勢力に近づいて行くことになります。

すなわち後醍醐天皇方として。



2001年3月25日

                     湘南便りその13

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          鎌倉街道:夢物語
                         第三話

義貞の判断はズバリ的中しました。
新田の軍勢と北条の幕府軍が最初に激突したのが武蔵小手指ヶ原。現在の所沢市小手指、西武ライオンズ球場
の玄関口になります。さしずめ横浜ベイスターズ対ライオンズの日本シリーズ第一戦の火蓋が切って落とされたと
いうことになります。

ここでの新田軍は旗色悪く、後退を余儀なくされます。(この時、義貞が軍の進む方向に小手を指したことが、地名
の由来になっています。)しかし、関東周辺の武将の加勢もあり態勢を立て直した義貞は幕府軍を押していきます。

次に大きな戦闘があったのは、現在の東京都府中市分倍河原です。ここでの戦いで新田軍は圧勝し、鎌倉まで一
気に攻め上っていくことになります。

それにしても小手指ヶ原の南には西武園競輪場が、分倍河原の東には東京競馬場があり、今の世も夢幻の戦が
行われているのは何かの縁でしょうか。
 
各地からの加勢を得ながら、新田軍は日に日に大きくなっていきます。そしていよいよ鎌倉の要衝稲村ガ崎に陣を
張ります。この時の新田軍総勢5000人とか。

みなさんご承知のとおり、鎌倉は3方向を山に囲まれ、道は切り通しで、無理に進めば敵の格好の餌食になってし
まう構造になっています。もう一方は海。

目前の極楽寺を越えれば鎌倉とわかっていて進めない苛立ち。ここで義貞は稲村ガ崎に立つと八幡大菩薩に祈
りをささげ、家伝の宝刀を海に投げ入れます。するとどうでしょう。海は急激に引いて敵方の見張り舟は沖へ流さ
れ、現れた砂浜を伝った新田軍は一気に鎌倉に攻め入ります。結果はあっけなく付きました。

伝説はともかくも、北条方が『切り通しの坂』を十分に警備しながら、干潮時に腰まで水に浸かりながら、海伝いに
攻めて来ると言う『マサカ』に、攻め滅ぼされたということになります。

領地で挙兵してからこの日まで、わずか14日間の出来事でした。

波浪亭  次回へ続く



江ノ電稲村ガ崎駅から海へ下りて来ると国道134号線にぶつかります。そこから左手を
眺めた図がこの写真です。正面が稲村ガ崎です。ここから富士山と江ノ島を望む相模湾
の景観は「かながわ景勝50選」に選ばれています。
また、この季節ここから江ノ島方面に沈む夕日の眺めは素晴らしいものがあります。




2001年3月18日

                    湘南便りその12

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          鎌倉街道:夢物語
                         第ニ話

今から650年ほど前の1333年5月、この街道を使って鎌倉を目指した武将がいます。その名は新田義貞。

新田義貞とはどのような人だったのでしょうか?鎌倉攻めの稲村ガ崎の故事は、(年配の方には)あまりに
も有名ですが、その他のことというと…私自身何も知識がありません。自分の勉強不足を棚に上げて言わせ
ていただければ、中学、高校の日本史教育は年号覚え込ませることには熱心ですが、誰がどのような心情
や社会的な背景で行動したか、といったことが欠けているように思えます。年号しか必要としない教育で、自
分の国に対してのプライドや愛情が、子供の心に育つはずはないとも思うのですが。加えていえば、都道府
県を北から順番に言える大学生が、どの位いるものなのか?社会科が受験科目ではないがために、結果
はお粗末なものだと想像できます。これって分数の計算ができない大学生と同じ位、深刻な問題だと思うの
ですが。

話が脱線しましたので戻しましょう。
この原稿を書こうと思った時、私に一つの疑問が起こりました。それは、『鎌倉を攻め落とした新田義貞が、
なぜ武家の頂点に立てなかったのか?』と言う事です。歴史は足利高氏(尊氏)を頂点に立たせてしまいま
した。

日本の権力史は、例外なく旧権力を倒した人がその権力を引き継いでいます。

天智王朝の後継者、大友皇子(弘文天皇)を壬申の乱で倒した天武天皇。平氏を滅亡させた源頼朝、足利
幕府を倒した織田信長、3日天下の明智光秀を倒した豊臣秀吉、豊臣を倒した徳川家康、徳川幕府を倒し
た官軍(明治政府)。

それでは足利高氏と新田義貞は主従関係だったのか?そうではありません。両人とも八幡太郎義家を祖と
する源氏の家系で、領地は高氏が現在の栃木県足利市、義貞が群馬県太田市と新田郡あたりの隣同士。
年齢は義貞が3歳年上。

決定的な事情がきっとあるだろう…そんなことを考えながら、新田義貞の鎌倉攻めの足跡を追ってみました。

冒頭に書いたとおり1333年5月、北条政権の末期症状(権力の横暴や賄賂の横行等)に不満を蓄積して
いた新田義貞は群馬県で挙兵します。騎馬軍団の総勢150。ひゃくごじゅう、ですのでお間違いなく。いくら
昔の戦争だからといって、150人で幕府に戦争を仕掛けるなど、傍から見れば無謀な行動。しかし義貞に
は勝算がありました。

鎌倉幕府は元々が関東武士団の集合体でもありました。そして「不満を持っている武士は、自分だけでは
ない」という的確なリサーチ、「自分が挙兵すれば、各地の武将も呼応する」という読み、「自分は源氏の本
流である」というブランドのPRなどが勝算の根拠だったのでしょう。

波浪亭  次回へ続く



この神社が元弘3年5月8日卯の刻(午前6時)新田義貞が挙兵した生品(いくしな)神社です。
新田一族はこの日に大中黒の旗印を生品神社のクヌギの御神木に掲げその下に集ったといいます。
この神社は群馬県新田郡新田町市野井にあります。



2001年3月11日

                    湘南便りその11

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          鎌倉街道:夢物語
                         第一話

鎌倉街道は上道(信濃・越後街道)、中道(奥州街道)、下道(江戸・常陸方面)の主だった街道がありました
とか。

私が現在住んでいる所は、この上道が通過している場所になります。
以下、簡単にルートを現在に当てはめてご紹介しましょう。( )内は大まかに当てはめた、今の交通ルートで
す。地図を想像しながらお楽しみ下さい。

新潟県から苗場を抜け三国峠を下った街道と、軽井沢から碓氷峠を下った街道が高崎で合流します。(国道
17号線と18号線)

上道はそこから藤岡を通過し、埼玉県児玉町、寄居町、小川町、嵐山町へと続きます。(国道254号線)嵐山
町の菅谷(国際婦人会館脇)からは、荒川を渡って小さな峠越えになります。峠を越えると毛呂山町です。こ
こからの街道は、埼玉県ゴルフ場銀座に入ります。因みに、このまま国道254号線、通称川越街道をそのま
ま行き、池袋から渋谷・代官山を回る東ルートもあったようです。

さて、日本CCと鳩山CCの間を抜けた上道は、入間CC、城西大学の東を通り、日高CC、久邇CCの間を抜け
て狭山市に入ります。

狭山市からは所沢を通り、東京都東村山市に入ります。

東京都に入った鎌倉街道は、東村山市から小平市を抜け(府中街道)、現在の中央自動車道・府中国立イン
ター東寄りの鎌倉街道(現在も名前が残っている)から多摩川を渡り、多摩市、町田市を通り抜け、神奈川県
に入ります。ここからは私が地理不案内なもので、資料の地名だけを書きますのでご容赦ください。神奈川県
にお住まいの方は、これだけでもルートが想像できるかと思います。瀬谷→飯田→村岡→藤沢→片瀬→鎌倉

現在の公共交通手段を使って、このルートにより近い所をなぞろうとするとどうなるか?これが結構大変なこ
とになります。高崎からJR八高線で越生。そこから東武越生線を使い、坂戸から川越市で下車。本川越から
西武新宿線で所沢へ、そこで西武池袋線に乗り秋津でJR武蔵野線へ乗り換え。新秋津から府中本町乗り換
えの南武線で登戸。小田急線に乗り換えて町田から片瀬江ノ島。江ノ電で鎌倉到着となります。

因みに高崎を9:00出発として鎌倉到着が14:30の約5時間半。上越新幹線、横須賀線ルートでは約2時
間30分で到着します。たまには、ノンビリとした時間の使い方も良いものですが、これはちょっと疲れるかな?

波浪亭  次回へ続く




折角ですから埼玉県を通る鎌倉街道上道(赤い色で示した道)の地図を用意しましたので合わせてご覧下さい。




2001年3月4日

                    湘南便りその10

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                     鎌倉大仏考


前回は、鎌倉大仏のご紹介をしましたが、今回も引き続き鎌倉大仏の探究をしてみたいと思います。

私は鎌倉の大仏様を見る度に今のような設備もない大昔にこんな大きな仏像をどうやって造ったのか不思議
に思ってしまうのですが、皆さんもそう思いませんか?

奈良の大仏様は、皆さんご存知の通り国家事業として国の威信にかけて造られたものですが、鎌倉の大仏様
は主に民衆の力によって造られたのだそうです。

工事の記録といえば、建長4年(1252年)8月17日、「吾妻鏡」に「今日は彼岸第七日に当る。深沢の里に金銅
八尺釈迦如来像を鋳初め奉る。」(実際には阿弥陀如来像で、これは誤記のようです。)とあるだけなのです。

実際の大仏を見て、その工法がどのようなものであったか想像してみますと、先ず外側を丹念に見て行くと顔
や身体に何本かの継ぎ目が走っているのが分かります。この線は鋳造の際の継ぎ目なのです。つまり大仏は
一度に鋳られたり、奈良の大仏様のように輪状鋳たものを重ねたものでもなく、一辺1〜2mの鋳型を繋ぎ合わ
せたものなのです。

ではどれをどうやって継ぎ合わせたかというと、それはどうやら鋳からくりと呼ばれる工法のようで、鋳造したも
のに穴や窪みを作っておき継ぐ際にそこに高熱で溶かした金属を流し込んでくっつけるのだそうです。

工程は概ね次の通りであったようです。

1.基礎固め
2.木組みを作る
3.その骨組に沿って土型を作る。
4.出来あがった土像の周囲に足場を組んで、鋳物の厚みになる分の土を塗り表面の彫を施す。
5.原型の周囲に雲母粉などの剥離剤をつけて外鋳型を取る。
6.外鋳型が乾燥したら外し、4.で塗り付けた土だけをこそげ取る。
7.鋳型を火で焼いて乾燥させ、金属を流し込んで
8.最後に鋳型を取り外し、完成。

この工程を8回繰返して大仏様は出来上がりました。下から次々に鋳込んでいき、完成直後には盛土の小山の
中にすっぽり大仏が隠れた状態であったと考えられます。

てなことで薀蓄を書いていましたら、2月28日NHKの「昼時日本列島」という番組が高徳院からの中継で、ここの
副住職がこれと同じ説明をしていました。

余談ですが、この大仏様は昭和34〜36年にかけて頭部補強と免震処置のために大幅な修理が施されました。
胎内のガイド版によれば「この仏像の床は、大地震の際にはその下の台座から離れて地震の方向に辷るよう
に造られてある免震構造、但し、どんな地震でも、仏像の重心台座の外に出て仏像が倒れることは絶対にない
。」とのことです。

しかし、大仏様の胎内で歌を唄えば、結構音響効果が良いだろうなぁと思ってしまった私は不謹慎者でしょうか?

次回からは、皆さんお馴染み波浪亭店主の「湘南便り番外編」の連載が始まります。お楽しみに。



サービスでもう一つ。
かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな・・・与謝野晶子




2001年2月18日

                  湘南便りその9

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                      鎌倉大仏

江ノ電長谷駅は、駅を降りると人波が2つに分かれます。由比ガ浜方面の海を目指す人と山、つまり大仏方
面へ行く人です。


夏はさすがに海が多いけれども、9月に入るととたんに人の流れは変り大仏方面に行く人が多くなります。
大仏の鎮座する高徳院までは穏やかな坂を登る事12分くらいでしょうか?人波は途中、長谷観音に行く人
あり土産物品店に入ってしまう人があったりして、多少減りはしますが、それでも休日ともなればひと電車で
何十人かがここまでやって来ます。

大仏様を見て最初に思うのは、先ず大きいということでしょうか?入口を見ると大仏の正面まで真っ直ぐな
石畳が敷かれています。ここを歩いて近づいていくにつれ、首がだんだん反っていくのが分かります。
高さは13.35mといいますから3〜4階建てのビルと同じ高さです。すぐ前の賽銭箱のところまで行くと、ほと
んど自分の上に大仏様がのしかかってくるような感じがします。

現代なら工事はそう難しくないかもしれませんね。クレーンだってあるしバーナーで溶接も出来ますが、動力
を人馬に頼っていた時代にどうやってこれほどのものを作り上げることが出来たのか不思議に思えてしまい
ますし、先人の知恵の深さが偲ばれます。

ところで、大仏様といえば奈良の東大寺の大仏様も有名ですが、鎌倉の大仏様とどんなところが違うでしょ
うか?
まぁ、大仏殿の有無の違いはありますが、鎌倉の大仏様は両手が同じ高さで組まれていますが、奈良の大
仏様は右手が高くなっています。これはどうしてか皆さんご存知でしょうか?

仏や菩薩の指の形や手の組み方はその悟りの中身や願いを表しており、印相と呼ばれています。鎌倉の大
仏様のような阿弥陀如来は、衆生の徳や信仰の度合いに応じて救いの手を差しのべてくれる菩薩で、印相
によってそれが具体的な形として表されています。

親指と人差し指で輪を作るのを上品(じょうほん)、親指と中指で作るのを中品(ちゅうほん)、親指と薬指で
作るのを下品(げほん)といい、さらにこの手を腹の前で組む組むのを上生(じょうしょう)、胸の前で組むの
を中生(ちゅうじょう)、右手を上に上げ左手を下げるのを下生(げしょう)と呼んでいます。この二つを組み合
わせて計九つの印があり「九品の印相」と呼んでいます。

鎌倉の大仏様のように上品上生の印を結ぶ仏は最も悟りの程度が高い衆生を救うそうで、このタイプの印
を結んでいる像が一番多いそうです。

それから、鎌倉の大仏様は今は露天ですが、室町時代頃までには大仏殿があったと言われています。です
から、はじめから外にあったのではなく、建物の中にあったのが1335年、嵐で壊れたという記録があるそうで
す。その後修復されたようですが、1495年にも洪水で大仏殿が破壊されたそうです。その後は大仏殿に関す
る記録はないようなので、そのころから外にあるのかもしれません。

昨日も私は高徳院の側を車で通りましたが、多くの観光客で賑わっていました。いつ見てもこの大仏様は美
男におわします。鎌倉を訪れた方は是非会いに行って下さいませ。



鎌倉の大仏様です。どうです美男でしょ。




2001年1月1日

                   湘南便りその8

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皆さん、新しい年を迎えてどの様なお正月をお過ごしでしょうか?
初詣は行きましたか?今年こそ良い年になるように神様にお祈りしたいものです。

さて、波浪亭の奈良紀行シリーズのため暫く湘南便りをお休みしていましたが、新しい年を迎えて再
開します。しかし、奈良と比べて鎌倉は歴史の古さが違いますので比較するのは辛い気がします。

それでは、今回は、初詣も兼ねて我家の近所の江ノ島をご案内しましょうか?

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江ノ島は、西暦522年に突如片瀬の沖合い湧き出したことになっています。
勿論、まともにとる人はいないでしょうが、その頃には江之島と呼ばれていたのでしょうか?

江ノ島は、現在の対岸、片瀬側とつながっていたものが、およそ2万年前に沈降運動により島として分
離していたが、建保4年(1216年)現在のように干潮時には片瀬側と歩いて渡れるようになったそう
です。

この島は、昔から神秘の島であり、信仰の島でした。

そして、江戸時代、江ノ島は鎌倉よりはるかに名高い名所でした。

名高い江ノ島弁天様を祭らせたのは源頼朝ですが、江戸の人達は大山参りの途中、江ノ島に詣でる
のを楽しみとしていました。島の至るところに昔をしのばせるものがあり、それを訪ね歩くのが、江ノ島
一周の楽しみでした。

江ノ島が観光化し始めたのは明治になってからですが、大きく変ったののは、おそらく東京オリンピッ
クからだと思われます。東側にレース用のヨットハーバーが作られ、島の頂上にロケット発射台のよう
な展望台が現れたことで、島はがらりと様相を変え、緑の江ノ島の情緒がすっかり希薄になってしま
いました。

江ノ島大橋を渡り、みやげ物屋が並ぶ参道を登ると、華麗な竜宮門が現れます。1182年(寿永元年)
文覚上人は、弁財天をまつる社を建てましたが、これが真言宗の金亀山与願寺、神仏混淆のまま信仰
されて来ましたが、明治になると神仏分離で与願寺は壊され、海の神、交通の神である宗像の三女神
をまつる江ノ島神社になりました。

辺津宮から中津宮、そして奥津宮を拝した人は、大抵南側の稚児が渕へ降りて行きます。崖には、芭
蕉の句碑がありまして、「疑ふな潮の花も浦の春」と読めます。

荒磯の奥には二つの海触洞窟があって、その岩穴こそ江ノ島の神が鎮まりたもう場所であったと伝え
られています。

帰りは、奥津宮参道の途中から左折し、島の北側を歩くのが良いでしょう。木々の間から望む片瀬海
岸は意外に新鮮で1300年の歴史を持つ江ノ島は、再発見の楽しみをまだ十分に残しているようです。


皆さん、今年の初詣に江ノ島神社は如何ですか?泰安殿の妙音弁才天さんはとてもセクシーです。




日本の渚100選に選ばれた七里ガ浜から江ノ島を望んだ写真です。今の季節は沢山の
サーファーで賑わっています。右正面に薄らと富士山がご覧頂けます。青い海と緑の江ノ島
そしてま白き富士の取り合わせは如何でしょうか?



これが東京オリンピックのヨット競技会場となった江ノ島ヨットハーバーです。約1,000隻の
収容能力があります。今でも湘南のマリンスポーツのメッカです。




2000年12月3日

                あおによし ならのみやこ
                   〜波浪亭、古都を歩く〜
                        第5回

《溢れる優しさ》

 翌朝は十分な睡眠のお陰でスッキリお目覚め。早々にチェックアウトして電車に乗って法隆寺駅へ。

 朝食?…晩飯があれだもの、朝飯なんかあるわけないでしょ。駅でパンと缶コーヒーです。

 この日の予定では午後の新幹線に乗るつもりでいましたので、お得意の駅前レンタル自転車を調達。
斑鳩の里は比較的平坦で自転車観光向きです。

 朝一番の法隆寺は境内掃除の最中でしたが、拝観料を支払う中門の所までは入れていただけます。

 法隆寺の中門は、梅原猛さんが
 「本来、山門は柱が偶数本で立ち上がっている。ところが法隆寺中門は柱が5本。中央の柱には、聖
徳太子の祟りを恐れた祟り封じの意味が込められている」とか解説していたなぁ。(いい加減ですみま
せん。)

 この時間帯の法隆寺の拝観は空いていてとても良い雰囲気ですが、すれ違うお寺の人に「おはよう
ございます」と会釈しながら歩くことになり、結構な人数がいて挨拶の数だけでも一仕事です。
まあ、それはそれで、とても気持ちの良い朝になることは保証します。

 9時を過ぎると案の定、修学旅行の中学生の一団が来て、ワイワイガヤガヤ。ガキ来れば 静寂が無
くなり 法隆寺ということで、夢殿の奥にある中宮寺へ行きます。本当は法隆寺よりこちらが目的でした。

 中宮寺の半か思惟像。私は弥勒菩薩だと思うのですが、お寺の伝承と学術的な見解が異なり、はっき
りしないそうです。

 この仏像は半か思惟、つまり右足を左足の上に乗せ、右肘を右足の上に乗せ、右手がうつむき加減の
頬に指先が触れる形をしています。これは、この世の衆生をどうやって救おうかと考えておられる姿だそ
うです。

 あまりにも華奢な上半身に、この上ない優しさに溢れた表情。私には、救ってくださることを思案されて
いるというより、どんな悩みでも一緒になって抱え込んでくれるように見えてきます。

 畳の上に正座して呼吸を穏やかにし、弥勒菩薩を見つめていると、時間が止まってしまったかのようで
す。

 煩悩に振り回される未熟な自分。そんな自分を見つめ直す旅。たまには如何でしょうか?

 おわり



中宮寺本尊弥勒菩薩半か像です。飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時にモナリザ
・スフインクスと並ぶ世界の三つの微笑像と呼ばれます。このお姿を見る時感動を越える
何かが我胸にこみ上げてくるのを感じます。静けさを心の中に訪ね歩いた時、弥勒菩薩は
心に静かな愛の世界が存在する事を語ってくれる様です。
因みに弥勒菩薩は釈迦の次に仏となることが決まっている菩薩で、56億7千万年後に現
世に現れるとされています。

5回にわたり、波浪亭店主に奈良紀行文を寄せていただきました。皆さんの感想は如何でしたか?
今回ご協力頂いた波浪亭店主には感謝申し上げます。これからも、皆さんからの寄稿を期待して
おりますので宜しくお願いいたします。

         



2000年11月26日

                あおによし ならのみやこ
                   〜波浪亭、古都を歩く〜
                        第4回

《予約の落とし穴》

 写真博物館を出ると雨も強くなっていて、ビニール傘に当たる雨音が煩いくらい。この位の雨になると
人出も少なくなるだろうと、内心ほくそえみながらバスで平城京のほぼ中央部にあったとされる薬師寺
へ向かいます。

 薬師寺は商売熱心…というと誤解を招くかもしれません。正確に言うと、改修費用捻出の瓦寄進簡単
にできるようになっています。歴史的建造物の維持改修費といえども、特定の宗教に公費を出してはい
けないのが憲法の定め。これも仕方がないのでしょう。

 薬師寺でのお奨めは、境内に入る前の遠景です。お寺の周囲を歩いて、飛鳥の空気が感じられる自
分なりのフレームを見つけることができれば、良質のお土産になるでしょう。

 この日の泊まりは法隆寺方面。昨夜の宿泊と同じ日にインターネットで予約をしたホテルですが、土曜
日の宿泊予約が簡単にできただけに妙に不安。
 到着して…ビンゴォ!!
 (これって、ドライブインの二階じゃん)
 でも仕方なく入り口のそばまで行くと後ろから
「いらっしゃい」
と変に元気な男の声。振り返ると私の退路を断つように、ガッチリした体型のオジサンが仁王立ち。
そのまま押し込められるように建物の中に入ると、宿帳を書かされるわけでもなく、
「○○○○円です。鍵は帰りに返してください。じゃ、部屋に案内します。」
と速射砲のような喋り方。あっという間の出来事に戸惑っているゆとりさえなく、スタスタと階段を上がる
オジサンの背中を追いかけると、廊下はミシミシ音を立てる鴬張り?部屋の名前は…『リリー』だと…。
 部屋に入ると、(エッ!ウソだろ!)のダブルベッドがドォーン。そして今は懐かしいチャンネルをガチャ
ガチャ回す真っ赤なボディーの14インチTV。
 「晩飯はどうしようかな?」って呟いたら
 「隣りのコンビニで買うか、向こうの(指で指してくれても、部屋の中なので私には判らない)パチンコ屋
の中にラーメン屋と焼肉屋があります。」と素っ気無く言われてしまいました。

一人になって窓を開け、先ほど言われたパチンコ屋を確認すると、大きな川の対岸で数百メートル先…。
お陰さまでこの日は、不得意な酒を胃に流し込み、記録的に早い時間に眠る事ができました。



波浪亭店主の作品第2弾です。なかなか風情があるでしょう?




2000年11月19日

                 あおによし ならのみやこ
                    〜波浪亭、古都を歩く〜
                         第3回

《関西弁の…》
 国立博物館の本館を出ると目に飛び込んできたのは長蛇の列。別館ではこの日から年に1度の『正倉
院展』が開催されていました。空腹時の食事でさえ並ぶのが嫌な私としては当然にパス。ぐるっとバスに乗
り込んで向かったのは新薬師寺です。

 最寄のバス停からは静かな住宅地のゆるい坂を上っていきます。10分ほど歩いた左手奥には志賀直
哉邸。文学とは無縁の10代を過した私は、彼の作品を読んだ記憶がありません。よって右折し細い路を
通りぬけて新薬師寺へ。

 ここの境内は一面が萩だらけ。開花の時期にもう一度来て見たいと思いながら本堂の中へ入ると、躍動
感溢れる十二神将像が迎えてくれます。十二神将は十二支の守り神の意味があり、それぞれの像の前に
は参拝者が立てた蝋燭が灯っていて、薄暗い堂内を幻想的にしています。円形に並んだ十二の像の前を
回っていくと、最後にドンと鎮座しているのが薬師如来像です。

 ここの薬師如来像は迫力満点。薬壷を持ち、大きな目を見開いて『どこぞ悪いんでっか?治しまひょか?
』と身を乗り出して関西弁で語りかけてきそう…。つい、『お願いします』と答えて財布を取り出し…な訳無い
か。

 新薬師寺の隣りには写真博物館があります。

 新薬師寺とは対照的な近代的建物の中には、奈良の風景を撮り続けた写真家、入江泰吉の作品が展示
されていますので、奈良の美しい風景を凝縮して観るのにはお奨めです。ここを最初に訪れて、気に入った
写真の場所に出向くという楽しみ方もあるかもしれません。



新薬師寺は天平19年(747年)聖武天皇病気平癒の勅願により建立されました。
後に落雷のため本堂のみ残りましたが、奈良朝入母屋建築の傑作であり国宝
に指定されています。冬は、山茶花とあかもちの花でも有名です。




2000年11月12日

                あおによし ならのみやこ
                   〜波浪亭、古都を歩く〜
                        第2回

《如来と菩薩》

 翌日。
 サラリーマン生活30年の習慣とは情けないもので、目覚ましが無くとも6時には目が覚めてしまいます。
インターネットで急遽確保したビジネスホテルなので贅沢は言えませんが、シングルルームの狭すぎる浴
槽に湯を満たし、膝を曲げて入る朝風呂は、ちょっと寂しいものがあります。どうせ中年オヤジの一人旅、
とはいえ一通りの身だしなみは整え、荷物をまとめてチェックアウト。

 奈良は『ぐるっとバス』という観光に便利なバスが運行されていて、そのまま乗っていると、奈良駅→東大
寺→薬師寺→朱雀門→奈良駅のコースを1時間ほどで回ります。もちろん乗降自由で800円。路線バス
も使えますので非常に便利です。

 この日の初めは公園内にある国立博物館。本館の中には大きな薬師如来ほか様々な仏教美術品が展
示されています。私が最も時間を費やして向き合っていたのは、高さ50cmほどの阿弥陀如来像です。悟
りきった境地に達した如来ならではの穏かな表情は、どの角度から見ても変わることがありません。

 この像は個人所有とのことです。私邸の応接間に置いて人目に触れさせない、なんてケチなことをしなか
った所有者に感謝です。でも、(博物館に寄付しろよ、オイッ)って少し思いました。

 菩薩と如来の違いを一口で言うと、悟りの境涯(境界)に達した仏が如来。そこまでには達しきれていない
仏が菩薩。(私はこのような理解をしていますが、宗教上の解釈で異なる場合があります。異論のある方は
ご容赦下さい。)悟りの差が違いだからこそ、菩薩像には過ぎた優しさや美しさが、如来像には何事にも動じ
ない穏やかな表情があると私は感じます。


波浪亭店主敬白


阿弥陀如来坐像
高さ52.6cmの比較的小さな仏像ですがその技法は丁寧でしかも
像内一面に阿弥陀種字を墨書しており、当時の熱烈な浄土信仰
を物語っています。平安時代の作と伝えられますが、その柔和な
表情は見る人の心を慰めるものです。




2000年11月 5日UP

突然ですが、皆さんおなじみの波浪亭店主より特別寄稿を頂きましたので、暫く湘南鎌倉を離れ舞台を古の都
、奈良・京都に移してご案内したいと思います。題して「あおによし ならのみやこ」です。


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                 あおによし ならのみやこ
                    〜波浪亭、古都を歩く〜
                          第1回

《プロローグ》

 これといった緊張感がある訳でもなく、平坦な日々を繰り返しているとはいえ、それはそれなりに心の隅に溜
まるものもある。(そろそろ心の吹き溜まり掃除を…)と考えたら、その後の思考回路は一本道。
 (そうだ!奈良へ行こう!!)

 京都と奈良の違いはあれ、JR東日本のCMに乗せられたような行動をとる自分に恥ずかしさの一片も感じな
いのは、私が立派な中年になったからでしょうか。

 ということで10月某日の昼過ぎ、京都駅に到着。(ここのM信託銀行にはGo-21のF氏がいるなぁ…京都の
夜も賑やかだろうなぁ…京都弁のオネエサンとも話がしてみたいなぁ…舞妓さんも綺麗だろうなぁ…)

 などと到着早々に煩悩が浮かびつつも鮎寿司とお茶を買って近鉄特急へ乗車。昔は車内販売があったし、お
絞りも配られたのに今は何も無し。これも時代だねと納得して寿司を口に入れれば、鮎の柔かくやさしい味は私
を十分に楽しませてくれ、30分少々もすれば右手の車窓に 青丹よし 奈良の都 と歌われた青緑と朱色に彩
られた朱雀門が見え、ほどなく電車は地下に潜って近鉄奈良駅に滑り込みます。

《危うい美形》

 奈良駅近くのホテルに荷物を置き、いざ奈良見物へ…と、ここでかつての鎌倉観光記を読まれた方は、また
自転車に跨って走り回ったのかと思われるでしょうが、今回は違います。ショルダーバッグに小さなスケッチブ
ックを入れ、商店街の三笠山(直径30センチほどのドラ焼き)を横目で流し、お婆さんにも抜かれそうなゆっく
りとした足取りで興福寺へ。

 ここの阿修羅像は人間的な?極めて整った美しい顔立ちをしていますが、じっと見つめていると一触即発の
危うさ、狂気のようなものを秘めた美しさに見えてきます。

 さて、仏像の楽しみ方と言っては不謹慎かも知れませんが、自分が自分なりに楽しめれば、それで良いと思っ
ています。時代々々の特徴を覚え、学芸員や鑑定士になったつもりで楽しむのも良いでしょう。私の場合「衣の
裾が左右に張り出しているのが飛鳥仏の特徴です」といったことに注意して知識を深めるより、「綺麗、可愛い、
好き、嫌い」といった超主観的な楽しみ方をしています。何しろ相手は仏様です。ご本体や仏師に失礼のないよ
う行儀良くさえすれば、あとは正直に向き合うのが一番だと思っています。私が嫌いだと心の中で感じても、仏
様は広い心で許して下さるでしょう。

 夕暮れの奈良公園は人も少なく、ベンチに腰をかけてボンヤリするには絶好です。20メートルほど離れて芝
生に座る鹿と時々視線が合います。(私が鹿を見ているのか?鹿が私を見ているのか?ガンを飛ばし合ってい
るだけということも…)

紅葉はまだ始まったばかり。それでも夕日が染まりかかった木の葉を照らし、秋らしい景色を最大限、演出して
くれています。


波浪亭店主敬白



波浪亭店主のスケッチ「秋 雨の薬師寺」です。ご本人は謙遜しておいでですが
なかなかのタッチです。


興福寺の阿修羅像は、もっとも人気のある仏像といって良いでしょう。
じっと前を見つめる思いつめた少女のような正面の顔。向かって左の
顔は、眉間に皺を寄せて下唇を噛んでいます。合掌し、宙に浮き、天
を支える6本の細い手。一度見たら、決して忘れることが出来ない不思
議な魅力を持っています。



2000年10月29日UP

                   湘南便りその7


このところアクシデント続きでしたが、お見舞いのMailを頂いて有難うございます。足の件は、禁煙の反動から
食い意地がはって来たことによる体重増加によるものでしょうか?それとも、パソコンばかりいじっているため
の運動不足が原因でしょうか?いずれにしても情け無いことです。


さて、湘南便りの今回は長谷と由比ガ浜あたりをご案内しましょうか?このあたりのことは、以前MLでもご案
内しましたが、重複する点はご容赦下さい。

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秋も深まって来た日、鎌倉文学館あたりを訪ねるのは如何でしょうか?

江ノ電由比ガ浜駅から8分、短いトンネルをくぐると、長谷寺の緑をバックに荘厳な木造建築が姿を現します。
旧前田侯爵別邸「長楽山荘」は、三島由紀夫の小説「豊饒の海」にも登場しました。

展示室を見て廻ると、鎌倉に住んでここを創作の場として遂には鎌倉の土となった作家達の生き様が偲ばれ
ます。この鎌倉文学館は平成12年3月に国の登録有形文化財に指定されました。現在特別展示として、「晶
子・かの子と鎌倉ー愛・いのち・文学」(与謝野晶子と岡本かの子)を12月3日まで開催中です。

鎌倉文学館から由比ガ浜大通りを西に行きますと長谷観音前に突き当たります。ここから少し細い路地を行っ
た先が長谷寺です。

この長谷寺は、明治35年「滝口入道」で名高い高山樗牛が最後の1年を過したところです。総門の横に大きな
記念碑が建っています。展望台には、長谷に住んだ久米正雄の胸像が「破船」で描いた由比ガ浜を眺めて立
っています。

このあたりは、高徳院の大仏さんを含めて、修学旅行のメッカです。今日(26日)もここを車で通りましたら大き
な観光バスが何台も長谷観音の狭い路地を入って行きました。


それから、お寺さんや景色ばかりじゃつまんないでしょうから、少し変ったお食事所をご紹介しましょう。

滑川交差点から国道134号線を由比ガ浜に向かうと、日興パレスホテル鎌倉跡地側に
レストラン・シーキャ
ッスル
があります。ここはドイツ人の名物マダムが経営する本格派のドイツ家庭料理のお店でこの地に開店
して今年で43年になります。

全てにスープ、サラダ、パンがつく6種類の肉料理コース2,200円〜3,000円が人気があるようです。ただ、この
お店に入るには予め覚悟が必要です。ここのマダムは非常に厳しい人で
マナーが悪い人は怒られます。

特に食べ残しは厳禁、ソースやマスタードをかけ過ぎると怒られます。このことを知らないでお店に行ってマダ
ムのお気に召さないことをやった人が怒られて呆然としているのを良く見かけました。随分お店には行ってい
ないのですが、マダムは健在でしょうか?ともかく、勇気のある方はお試し下さい。でも料理はとても美味しい
ですよ。

鎌倉市長谷2-7-15 TEL 0467-22-3785 江ノ電由比ヶ浜駅徒歩6分にあります。


鎌倉文学館です。ここは建物や展示物だけではなくご覧の一万坪の庭園
も素晴らしいです。そう言えばここの観覧料が4月1日から200円から300円
に値上げされてしまいました。




由比ガ浜から逗子方面を見た映像です。遠浅の砂浜で湘南屈指の海水浴場でかっては
修練や保養に適した静かで優雅な浜辺だったそうです。真夏の喧騒が去った今とても落ち
着いた雰囲気で貴方を迎えてくれます。向うに見えるのは前回ご紹介した逗子マリーナです。




2000年10月22日UP

                     湘南便りその6


このところお天気がはっきりしません。昨日(20日)上京したのですが、夜に入って凄い雨になり、慌てて家路
を急いだ私でした。今日(21日)も快晴の秋空を拝めると思っていたら曇天になってしまいました。


湘南便りも今回で6回目となりました。私の勝手な思い入れで案内していますが少しは皆さんのお役に立て
ているでしょうか?こうやってHomepageを作成していても読者の皆さんからの反響を頂くことは希な現実があ
ります。こうやっていることが、自己満足に過ぎないのではとも思ってしまうことがあります。


さて、これまでは主として鎌倉の山手を案内して来ましたが、やはり当地は湘南ですから目を海に転じて湘南
海岸をご紹介します。今回は手始めに
材木座逗子を取り上げてみます。

材木座には、昔の鎌倉が温かく残っていると言います。大町四つ角から材木座へ向かって行くと家々の佇ま
いから、いかにも下町的な情緒が漂ってきます。

もともと材木座は鎌倉の港町として賑わった所で、その面影を残すのが和賀江島です。この島は今でこそ水
面から僅かに顔を出す浅瀬に過ぎませんが、昔は多くの船を荒海から守る防波堤でした。

つい戦後までこの海岸は荒涼とした風景だったようですが、逗子マリーナの造成によってすっかり姿が変貌し
てしまいました。でも、今は今なりに、並木に縁どられた南欧風の佇まいを楽しむことが出来ます。

マリーナのすぐ北にある披露山公園展望台に立ちますとマリーナや逗子海岸は勿論、遠くは伊豆半島までも
展望することが出来ます。また、公園の駐車場から谷へ降りる小道をたどると、朱塗りの逗子不動に出ます。

ここは、浪子と武男の悲恋の舞台となったところでもあります。不動堂前の海には、この徳富蘆花の名作を記
念した「不如帰」の碑が建っています。

また、この地は、蘆花のみならず国木田独歩にもゆかりの深いところです。

明治28年6月9日、国民新聞の新進記者だった独歩は、佐々木家の晩餐会に招かれ、18歳の佐々木信子と
会って恋に落ちました。母の反対によっていよいよ燃え上がった二人は徳富蘇峰の援助によって結婚し、そ
の年の11月逗子桜町の旅館柳屋で新婚生活を送る事になります。しかし、ピューリタン的な独歩と、何不自由
なく我侭に育った信子との生活は、僅か5ヶ月しか続きませんでした。信子は佐々木家の誘いにのって身を隠
し、出会いから僅か10ヶ月半で独歩は離婚へと追い込まれることになってしまいました。

この悲恋は、独歩を女性不信の運命論者へと変えて行きました。7年後鎌倉に住んだ独歩は「鎌倉夫人」「運
命論者」「女難」などの作品を書きましたが、その中から独歩の深い苦悩を読み取ることが出来ます。

何となく、独歩の気持が分る私でした。



国道134号線(湘南道路)から見る材木座海岸です。
この道は私の6年間の通勤道路でした。当時はまだ土曜日が
半ドンだった時代で夏場に帰宅する際の渋滞には悩まされ
ましたっけ・・。でもこの道を潮風を感じながらZ32で走ることに
この上ない快感をおぼえます。私のお気に入りの道と風景です。




ここが2000本の椰子に囲まれた逗子マリーナのリゾートマンショ
ンです。南欧風でエキゾチックな雰囲気が素敵でしょ。ここはよく
映画やトレンディドラマのロケ地になっています。ドライブ・デートコ
ースにはお薦めです。しかし、最近どこかのドラ息子が元英国航
空のスチュワーデスだった金髪美人を連れこんだのでは?とされ、
変に有名になってしまいました。




2000年10月15日UP

               湘南便りその5


本日14日は昨日の天気予報とは裏腹にとても良い天気でした。気温も少し高めだったのか駅の階段を
駆け上がると汗だくになってしまいました。
それでも朝晩は結構肌寒く感じるようになりました
皆さんお風邪をめしませんように。

さて、今日は源氏山あたりを散策してみましょうか?

建長寺の筋向い、長寿寺横から入る亀が谷坂は、その昔は、亀も転ぶほどの険しさだったらしいです。
ほの暗い切り通しは、四季それぞれに趣がありますが、これからの紅葉頃最も華やかになります。
浄光明寺前の住宅は、管領上杉定政の邸跡といいます。浄光明寺は足利尊氏が挙兵した寺として知られ
阿弥陀堂あたりの古びたたたずまいが好ましい感じがします。

扇が谷の奥にひっそりと鎮まっている海蔵寺を経て化粧坂へ、この坂を彩る秋の紅葉は化粧の名に恥じない美しさになります。その坂を登ったところが源氏山公園です。この公園は自然の地形を利用しており、4月華やかな桜吹雪を見せ、秋の紅葉は花よりも鮮やかになります。

公園を南へ少し降りると頼朝の夢枕に立った宇賀福神を祭る銭洗弁天があります。ここに涌き出る名水で
銭を洗えば倍増するといいます。

今回、ご紹介したコースは、少しマニアックかもしれません。お出かけの節はハイヒールではなくてトレッキングシューズが良いでしょう。これからの季節はここがお薦めです。



浄光明寺:三門を入ると左手に本堂、右手に不動堂が建ち正面に
古い石段が見えます。木の間がくれに見える古い阿弥陀堂が良い
です。この寺は頼朝の願いで文覚上人が建てたのに始まり1251年
(建長3年)北条長時が真阿を開山として中興しました。

 

源氏山公園:桜の季節はお花見のメッカになります。


銭洗弁天:当然私も財布の中のお金を洗いましたが倍増はしません
でした。これは欲をかいたからでしょうか?



2000年10月8日UP

                      
湘南便りその4

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今日10月7日は、本当に清々しい晴天でした。空に浮かぶ雲も秋らしい風情になってきた感じがします。
今日は朝から上京したのですが、午後に乗った東海道線列車が大船駅に到着すると沢山の人が降車
して行きました。きっと皆さん鎌倉へ向かったのでしょう。考えてみたら今日から三連休なんですね。

私の様に毎日が日曜日状態の人間には関係ない事ですが、昔、サラリーマンだった頃、付合っていた
女性と連休の行き先についてよくもめていたことを思い出しました。そんな日も今では遠くなりました。


さて、北鎌倉をご案内する時には、建長寺さんは欠かせません。今回はこの建長寺をご紹介しましょう。

鎌倉五山の第一位、建長寺は東国一の修禅道場です。総門から紫雲閣まで一直線に並ぶ伽藍様式が
見事ですが、散在する塔頭の一つ宝珠院には、一時葛西善蔵が滞在し数々の作品を残しました。
後に境内の茶店招寿軒の娘ハナと結ばれ、そのゆかりによって宝珠院の墓地に眠っています。

境内は杉の並木が美しく、唐門前に建つ石塚友ニの句碑が心に残ります。

               好日やわけても杉の空澄む日

建長寺は、今から約750年前の建長5年(1253年)に後深草天皇の勅命で鎌倉幕府五代執権北条時頼
が建立した日本最初の禅寺です。ここには、夢窓国師の作とされる庭園があり、禅寺を象徴するような心
字池があります。

一般的には、北鎌倉駅から円覚寺を訪れそこから歩いて10分の明月院へ寄り、そこから10分程歩いて、
建長寺へ向かうのが良いコースでしょうか?

北鎌倉一帯は、あたりに山がせまり、ちょっとした山里の雰囲気があります。お薦めのデートコースの一
つです。三連休はさぞかし混むんでしょうね?ほんとは、平日がお薦めです。




建長寺三門:1775年(安永4年)に建てられ、関東大震災にもびくともしなかった
そうです.「建長興国禅寺」の額は後深草天皇の宸筆



2000年10月01日UP

                   湘南便りその3

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9月が瞬く間に過ぎ、今日から10月です。これから晩秋に向けて一気に鎌倉の自然が変化して行きます。
鎌倉の山々はこれから私の好きな表情を見せてくれることになります。

さて、今日はそんな秋の表情が楽しめる北鎌倉をご紹介します。

東京駅から55分、北鎌倉駅のホームに降り立つと懐かしい山の匂いが鼻孔に広がります。揮発性の杉
甘い梅、強烈な栗、そして朽ちた落ち葉の匂い・・・。古い禅寺と山々の緑に囲まれた北鎌倉は、独特の
この雰囲気に引かれてからか、ここには多くの文学者が集まり、多くの名作が生まれました。

明治25年、教え子との恋に悩んだ島崎藤村は、円覚寺の三門をくぐって帰源院で苦しみの日々を過しま
した。その翌年、夏目漱石がつのる不満と不安を克服すべくこの寺に参禅し、その体験を小説「門」の中
に書き記しました。鎌倉に住んだ川端康成と大佛次郎も、作品の舞台にこの寺を登場させています。

また、「帰郷」のヒーロー守屋恭吾は、夕日を浴びて咲く仏日庵の桜と白木蓮の華やかさに思わず立ち
つくしたのです。

この円覚寺は、1282年(弘安5年)、北条時宗が無学祖元を開山とし元寇の戦死者を弔うため建立しまし
た。鎌倉五山第ニ位で臨済宗円覚寺派の総本山で各種の座禅会が盛んに開催されています。

円覚寺には17の塔頭がありますが、前述した帰源院には、漱石の句「仏性は白き桔梗にこそあらめ」を
刻んだ句碑が堂前に建ち春と秋に「夏目漱石の会」が開かれています。

これからの季節、荘厳な雰囲気の円覚寺の境内に立ちますと別世界に来たような感じをおぼえます。
特に晩秋の円覚寺はお薦めです。JR北鎌倉駅で電車を降りますと直ぐ目の前が円覚寺です。
皆さんもどうぞおこし下さい。




上段:円覚寺三門、見上げますと放射状の禅宗様扇垂木(ぜんしゅうようおおぎたるき)
が良く見えます。「円覚興聖禅寺」の額は伏見上皇の宸筆、1783年(天明3年)に再建さ
れました。

下段:仏殿、本尊は釈迦如来、天井に守屋多々志の白竜図があります。昭和39年に再
建されました。



         

2000年9月23日UP

                    湘南便りその2

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今日は、秋分の日です。まだ日中は汗ばむ日が続いていますが、さすがに朝夕気温が下がって来ている
のを感じます。こちら湘南鎌倉の山々もあと少しで秋への色彩の変化が目に鮮やかになります。

先ほど、いつものコースを愛車Z32で流して来ました。こちらの気温は28〜30度位でしょうか?湿度が低
なって来ているせいか車窓から入る湘南の風が日に日に肌に心地良いものなって来るのを感じます。
今日の湘南の海は、その先にある島々の悲劇をうかがわせる様子もなく、とても穏やかでした。
          
夏の喧騒が去った湘南の海は、優しい表情であなたをお迎えします。


さて、湘南便りその2をお届しましょう。

段葛のつきる所に三の鳥居がそびえ、そこから本殿まで260m、大臣山の緑を背にして朱に輝く社殿はい
つ見ても美しいです。静御前が舞った舞殿、実朝の暗殺劇を見た大銀杏、流血に彩られた歴史ははかな
く悲しいものがあります。
          
頼朝が住んでいた鎌倉幕府の跡は、八幡宮の左側、清泉小学校を中心にした一帯にありました。今も西
御門の地名が残り高級住宅が立ち並んでいます。

頼朝が幕府の鬼門の守りとして祭った荏柄天神、頼朝の観音像を祭った持仏堂跡の白幡神社、そして頼
朝自身もこの白旗神社の丘に眠っています。


それでは、ここで少しロマンチックなお話をご紹介しましょう。

鶴岡八幡宮の歴史の中で最も劇的なシーンは、1186年(文治2年)4月8日であったでしょう。

京都の白拍子であった静御前は源義経に愛され吉野落ちに従いましたが捕えられ鎌倉に送られました。
この日、彼女は頼朝に命じられて神前で舞いました。

よし野山 峯の白雪踏み分けて いりにし人のあとぞ恋しき
(吉野山の白雪を踏み分けて奥州に消えた人=源義経=が恋しい)
しずやしず しずの苧環くり返し 昔を今になすよしもかな
(しず布を織るために糸を巻く苧環=おだまき=のように繰り返す、昔であったらどんなに良いことか)

その哀切、その華麗に見る者は皆感動しましたが、一人頼朝だけは静の無礼を怒りました。この時頼朝を
諌めた政子の言葉は見事なものでした。

「あなたが逆境にいた頃の私は、今の静と同じでした。夫を恋い慕わない女がありましょうか?」

この言葉を聞いた頼朝はさすがに思い直し、褒美を与えてこの場は納まりました。

しかし、その3ヶ月後悲劇が訪れます。身重だった静は、男児を出産しましたが、この義経の子は由比ガ浜
に沈められてしまいました。

この静の歌と政子の言葉を聞いた現代の女性は如何お感じでしょうか?

       


上が八幡宮の本宮です。この地の初詣のメッカです。下が有名な隠れ銀杏です。
樹齢1,000年、高さ30mの大木ですが、源実朝を討った公暁はこの木陰に隠れていたと言います。





2000年9月16日UP

                     湘南便りその1

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9月も半ばになりました。こちら湘南も夏の喧騒が嘘のようになくなり、海岸沿いに立ち並んでいた浜茶屋
も撤去されて砂浜は以前の静けさを取り戻しています。湘南と言えば夏のイメージが強いのですが、これか
ら晩秋に向けての湘南も趣があります。久し振りに湘南便りを貴方に心を込めてお届けします。

湘南と言いましても東は葉山・逗子あたりから西は大磯あたりまで大変に広いのですが、やはり一番人気が
あるのは、古都鎌倉でしょうか?これからしばらくこの鎌倉をご紹介しましょう。

鎌倉駅から吐き出された人波は、多くは
小町通りに吸いこまれ、他は若宮大路の西側を流れて八幡宮へ向
かうのですが、私は桜並木に覆われた
「段葛」(だんかずら)を歩くのが好きです。

寿永元年(1182年)政子の懐妊を知った源頼朝は自ら工事の指揮をとり、この大路を作って安産を祈願しま
した。畠山重忠、和田義盛ら猛将の汗を吸って完成した段葛を歩けば800年前の幻が浮かんでくる気持がい
たします。

鎌倉に入った源頼朝は、先ず先祖が祭った八幡宮を現在の土地に移し、都市計画の中心に据えました。
言わば京都の御所にあたり、大小の道は八幡宮を中心にして碁盤の目のように走り、その幹線道路が社前
から浜辺まで市街を南北に貫く若宮大路になります。

この段葛、初詣の時も通るのですが、日本でも指折りの初詣客を誇るだけにとても長い感じがします。



左が小町通りの人力車のある風景です。休日は人出でいっぱいで歩き辛いくらいです。

  右が春の段葛です。桜のアーチが綺麗でしょ?この突き当りが八幡宮になります。