アレクシス・ワイセンベルク没後10年

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番をめぐって

 Weissenberg 

アレクシス・ワイセンベルク(1929年7月26日 - 2012年1月8日)

  ピアニストのアレクシス・ワイセンベルクが亡くなって今年で早くも10年が経過してしまいました。演奏活動から離れてから長いこと消息を知らないまま死亡記事を目にしたのが10年前、忙しさにかまけてその演奏を振り返ることができませんでした。しかし、ワイセンベルクの演奏に度々衝撃を受けてきた筆者にとって、いつかはその演奏をエピタフとして心に深く刻み込んでおかねばならないと思い続けていたのでした。

 実のところ、ワイセンベルクとの最初の出会いはあまりいいものではありませんでした。初めてワイセンベルクの演奏に接したのが東京文化会館で上映されたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の映像で、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン、オーケストラはベルリン・フィルハーモニーでした。ところがチャイコフスキーの美しい音楽を聴いてどうだったかの記憶はあまりなく、そのショッキングな映像に圧倒され呆然としていたことを昨日のことのように憶えています。この度、当時書いた日記を読み返してみるとその時のことがさらに鮮明に蘇ってきました(1972年8月31日付、夏休み最後の日でした。宿題は終わっていたのかなぁ。)。

 それは無理もありません。当時中学3年生だった筆者が実際のオーケストラの演奏会に出かけたのは僅か5、6回くらいしかなく、他にはNHKの教育テレビでN響や海外の演奏会の模様を見るくらいで、まだLPレコードを買うほどの小遣いを貰っていなかった時代でした。それでも演奏会に行けたのは、往復はがきで申し込んでオーケストラの招待券を貰ったり、有料でも300円程度で行けたりするコンサートがあったからでした(上野の東京文化会館や霞が関にあった旧NHKホールなど)。音楽の授業でオーケストラにはどんな楽器があってそれらがこう配置される、といったことを教わった程度ですから実際のオーケストラについての知識は皆無に等しく、まして海外の本場ではどうなっているかなんて想像どころか空想の世界と言ってもいいくらいでした。

 日記には、「普通では不可能な鍵盤のすぐ上、つまり譜面を置く台の下から演奏者に向けて」撮影されていたり、ホルンなど「吹いている者が指揮者を見ていないような」アングルから撮影していたり、それを「管と指揮者のトリック撮影」、「映像による演奏美術」という表現で興奮気味に描写していて、思わず笑ってしまいますが、その時の衝撃がどれほど大きかったかがよくわかります。たぶん音楽を聴くのを忘れて次々スクリーンに現われる演奏家たちの様々な姿に目を丸くして観ていたのに違いありません。

 この映像(1967年5月ユニテル制作)を改めて観てみると、確かにカットひとつひとつがなんらかの意図を持って周到に作成されていて、それはそれとして面白いものであり、そうしたくなる作成者の気持ちもわからないではないという印象を受けました。この映像は YouTubeで観ることができます。

Tchaikovsky - Concerto Nº 1 para piano y orquesta, op 23 Karajan / Weissenberg


 このチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は、名刺代わりとも言えるホルンの咆哮で幕を開け、続くオーケストラによる輝かしい強奏を背に登場する独奏ピアノの和音の連打、そしてファースト・ヴァイオリンから滔々と流れる美しくも情熱的なメロディーなどと、いつ聴いても心が揺さぶられる名曲です。ピアノ協奏曲史上、曲の冒頭からこれほど聴き手の心をわしづかみにし、ソリストの豪快な打鍵に目が釘付けになってしまう作品は他にはないでしょう。ところがこの映像では、ホルン奏者に続いて指揮者カラヤンの姿は映されていても、豪快に和音を叩くピアノ奏者の雄姿は全く映っていないのです。代わり映されているのは奏者のいないグランド・ピアノとその向こうで気合十分に弾くベルリン・フィルのファースト・ヴァイオリン奏者たちなのです。しかしよく見るとその手前に置かれているピアノの向きが通常と逆になっているではないですか。正確にはソリストが客席に背を向けて座るようにピアノを置いて、そこから左に約10時の方向にピアノを回転させた角度にピアノを置いて、そのピアノ越しに、ピアノのフレームと蓋(屋根)が作る空間にファースト・ヴァイオリンを撮影しているのです。

                                 Weissenberg
                                   何故かピアノの向きが変

 この時ソリストはカメラ・アングルの外にいて映ってはいないので違和感はなく、ピアノという楽器の映像としてはこの向きの方が見栄えがするのは確かです。しかし、ここはソリストがのっけから両手のほぼ全部の指を使って和音をひたすら連打する最初の見せ場であるのにもかかわらず、その鍵盤と格闘するシーンを映さないという信じられない撮り方にはいささか面食らってしまいます。しかもよく見るとピアノのアクション部は動いていない、つまりピアノの音は聴こえていても誰も鍵盤を叩いていないのです。

 しかし、ここで見方を変えてこのチャイコフスキーの曲をピアノ独奏付きのオーケストラ作品として捉えて、その音楽の流れの中で何処が重要なパートかを考えると、確かにこの箇所の主役はファースト・ヴァイオリンであり、ピアノの和音の連打はあくまで伴奏(「超絶」とまでは言えないけれど技巧付きの)でしかないと言えます。この時はコンサートマスターのレオン・シュピーラーの華麗な弾き方に惚れ惚れしていまいますが、まさにこれこそが制作者側がここで見せたかった映像であったのではないでしょうか。このシーンを見ると後のクラシック音楽における映像製作者達の創意工夫のなさをあざ笑っているように感じられてなりません。なおこの序奏のテーマは、ファースト・ヴァイオリンだけではなくチェロもオクターヴ下で一緒に弾いていまして、そのカットもあればなお良かったかもしれません。

 曲が進むにつれて目に付くのが、手前に奏者或いは楽器をアップで映してその遠景に指揮者や独奏者を配置している画面が多いことです。そのメロディーを演奏しているのがどの楽器かを示唆するのに、その奏者だけをアップにするのではなく、ちゃんとカラヤンの指揮でコントロールされていることや、ピアニストの演奏に合わせていることを示す説明的なアングルと言えますが、撮影する角度の関係で確かに「指揮者を見ていない」ように映っています。現在の技術であれば別々に撮影して合成したと考えられますが、この時代であればそういう角度で映るように座って撮影したのかもしれません。また曲の冒頭でホルンが吹く4つ音符の2回目の時のカットでも一瞬ですがホルン奏者は客席の最後列にいて遥か後方のステージにオーケストラが乗っているのが見えるという奇抜なものになっています。さらに驚かされるのは、弦楽器(コントラバス?)の駒と弦、表板が作る空間の中の遠景にカラヤンがいるなど凝ったカットもあります。これはどこかで見た気がすると思ったら、葛飾北斎が描いた浮世絵『冨嶽三十六景』の「尾州不二見原」や「深川万年橋下」に見られる富士山の構図でしょうか。

Weissenberg Weissenberg
      遠景にはカラヤン         北斎 『冨嶽三十六景』から「尾州不二見原」

 桜や紅葉の季節に、人並みではない写真を狙って奇抜なアングルで撮ろうとしたことはどなたにでもあるかと思いますが、それと同じような気持ちが、その場の音楽に相応しい楽器と指揮者の配置を求めたのではないでしょうか。しかし、我々は桜の枝を切ったり紅葉を植え替えたりして撮影はできないのですが、物理的にありえないオーケストラの配置を仕立ててこそ映像作品であると言えるのかもしれません。クラシック音楽の映像作品の創成期であった1960年代当時にこんな試みがあったのかと感心させられると同時に、それから60年以上も経過し、長足の進歩をとげた撮影技術の恩恵を浴しているはずの現在にあって、このカラヤンとワイセンベルクのチャイコフスキーの映像を凌ぐ作品が見当たらないと感じるのは筆者だけでしょうか。

 ソリストがらみのカットにはさらに驚くべきものがあります。音楽が拡がりを見せる時は、ワイセンベルクは客席の最後列の高いところで弾いていて、はるか下の方にオーケストラが映っていたり、カデンツァのところでは誰もいない別室に行って弾いていたりしているのです。ステージと客席の最後列やリハーサル室とを行ったり来たりしながら弾いているということになります。

                             ワイセンベルク
                    背景は客席のはずが・・・

 「不可能なアングル」と日記に記したワイセンベルクの指を正面から捉えた映像は第2楽章で、通常は横や上方からの角度からしか見たことがないピアニストの指の動きが、とても面白く見ることができます(左の写真)。また第3楽章のフィナーレではピアノのアクション部の隙間からワイセンベルクの指の動きが映っているという奇怪とも言えるアングルもあります。ピアノの弦を下から叩くハンマーの下部にあるバックチェックが打鍵に合わせて動く様子が見て取れます。肝心のピアノの弦とそれを叩くハンマーは奏者の顔が見えなくなるから取っ払ったのでしょう(右の写真)。

 臨場感満載とも観る人たちへの親切心とも、ソリストの神業をなんとか記録に残したいという気持ちとも解釈したいところですが、いささかやりすぎの感は否めません。ピアノの鍵盤の蓋や正面の板(前框)などを取り外して撮影していると考えられますが、この鍵盤はハンマーと連動して音が出るのだろうか、ワイセンベルクはただ指を動かしているだけなのだろうか、どうやって音と合わせるのだろうか、などといらぬこと考えて音楽を聴く耳がどこかに行ってしまいそうです。


  Weissenberg Weissenberg
              実際には絶対考えられないアングル?

 なお、この左の写真と似たアングルは後に収録したラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(1988年9月ユニテル制作)の第3楽章でほんの少しだけ見ることができます。この映像は全体的にチャイコフスキーの時とは打って変わって奇抜なアングルは影を潜めていますが(映画監督はカラヤン自身)、この角度からピアニストの指の動きはどうしても見せたかったのかもしれません。以下のYouTubeで観ることができます(30分15秒から)。
 
Rachmaninov Piano concerto No 2 Karajan


 チャイコフスキーの映像に話を戻しましょう。この映像でまず言うべきことは、このチャイコフスキーのピアノ協奏曲を単なるピアニストひとりを主役とした伴奏音楽と捉えないで、チャイコフスキーの魅力を存分に味わえるマスター・ピースとして扱っているということです。この曲はピアノに対して熟達した技巧を要求しているのはもちろんですが、そのオーケストレーションにおいてもチャイコフスキーの冴えた作曲技法が随所に見ることができ、しかもオーケストラが単なる伴奏や添え物ではなく、ピアノ独奏にも伴奏をさせたり、オーケストラの楽器にもソロのフレーズを与えたりと、共に対等の役割を持って音楽を作り上げていく曲と言えます。1967年に映像作品を作成するにあたって、カラヤンがこの曲を選んだのはそれなりの理由があったと考えるべきでしょう。ワイセンベルクが希望したのでもなく、協奏曲であればなんでもよかったのではないことは間違いありません。

 Karajan   Karajan   Karajan
      リヒテル           ベルマン             キーシン

 カラヤンはこの曲をスヴャトスラフ・リヒテル(1962年)、ラザール・ベルマン(1975年)、エフゲニー・キーシン(1988年)と録音し、その度に大きな反響を巻き起こしてきました。その時々に何らかの目的や思い入れがあったとは思いますが、この曲を繰り返し選んできたということは、演奏家の様々なアプローチに応えられるだけの作品であることの裏づけとも言えるのではないでしょうか。

 このチャイコフスキーの映像に先立つ1965年11月にカラヤンがウィーン交響楽団を指揮したシューマンの交響曲第4番の映像作品があります(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督)。この第2楽章冒頭のオーボエと独奏チェロのデュエットのカットはまさにチャイコフスキーの映像の先駆けと見做すことができるもので、チェロのトップがオーボエ奏者の隣で弾くというありえない配置で映っています。しかし、この時は映像を合成しているのではなく、現実に隣に座って収録されていました。モノクロ映像であることを活かし、照明を巧みにコントロールすることで違和感なく仕上げているところはさすがで、音楽を可視化するアプローチのひとつとしてはよくできていると思われます。特にあるフレーズで複数の楽器が対等の役割がある場合、それをひとつのアングルに入れようとすると不要な楽器も映ってしまうため、このようにそこだけ隣に座って演奏する姿を別撮りすればいいということになります。以下のYouTubeで観ることができます(8分50秒あたりから)。

Herbert von Karajan, ca. 1966: Schumann Symphony No. 4 in D [Audio Enhanced]

                             Karajan
                オーボエ奏者とチェロの主席が何故か並んで座っている・・・  

 しかし、その翌年の1966年にカラヤンは、クルーゾー監督の下でモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番(独奏:イェフディ・メニューイン)、ベートーヴェンの交響曲第5番、ドヴォルザークの新世界交響曲の映像を集中的に制作していますが、これらは意外にもシューマンと時と比べると奇抜なカットのない映像でした。音楽に合わせるにしても現実的ではない配置に奏者を座らせたカットは、見る人によっては不自然さが際立つこともあると感じたクルーゾー監督がその手法を封じたのかもしれません。翌1967年、ようやくカラー撮影が開始され、クルーゾー監督との最後の作品となるヴェルディの『レクィエム』の映像を1月に仕上げると、そのわずか3ケ月後にカラヤンはこのチャイコフスキーのピアノ協奏曲の映像作品を、エーケ・ファルクという別の監督を招聘して作成します。そして、シューマンの時の手法を再び復活させたのでした。しかも、凝りに凝ったやり方で。

 このスウェーデン出身のエーケ・ファルク(1974年没)という映画監督を調べてみると驚くべきことがわかりました。なんとファルクは、その2年前にワイセンベルクが弾く映像作品を制作していたのでした。さらに、その映像を観たカラヤンが自分の指揮する作品の監督として抜擢したというのです。『ワイセンベルクの世界』(グステル・ブロイア著、H.E.プリングスハイム&関英夫訳 音楽之友社、1980年)にはワイセンベルクのこういう発言が書かれています。

 「隠遁生活中に映画の出演する申し入れを受けたことがある(1965 年)。それはストラヴィンスキーの『ペトルーシカ』の実験的な映画なのだが、監督が斬新な趣向をもった音楽映画を撮ろうとしていたのが気に入った。彼はストラヴィンスキーの音楽に、いわば映像の「伴奏」を付けたかった。(中略)あらゆる角度から、つまり弦を通して撮影したり、下からも、上からも撮影できるように、ピアノを部分的に取り外さなければならなかった。ピアノ映像の映画化の手法として、これはまったくの新機軸であった。ちょうどそのころ、ヘルベルト・フォン・カラヤンが、新しい思想と新しい映像観をもった映画監督をさがしていた。彼は『ペトルーシカ』の映画を見て、すぐにその音楽的素材の非凡な扱い方に感心した。カラヤンは、自分とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の映画を製作するために、その監督だけでなくピアニストも呼んだ。これが私の隠遁生活に終止符を打つきっかけになった。」

 この1965年にワイセンベルクが弾くストラヴィンスキーの『ペトルーシカ』を観ると、その恐ろしいほど正確な打鍵から繰り出される演奏に圧倒され、15分の間、目と耳が釘付けになってしまいます。ワイセンベルクの姿や指の動きだけでなく、ピアニストや楽器の影を効果的に挿入するなどモノクロの映像の利点をフルに活かしたカメラワークを駆使しつつ、それでいてストラヴィンスキーの音楽の魅力を最大限に引き出しています。この映像は以下のYouTubeで全曲を観ることができます。なお、このワイセンベルクの「隠遁生活」とは、28歳で一切の公開演奏から身を引いた9年間(1956年から1965年まで)のことで、自ら「世間の人が私を憶えていてくれるのは、曲をうまく演奏したからではなく、28歳になってから9年間引きこもってしまったからである。(前掲書)」と自嘲気味に語っていることを指します。

(Artistic Cameras) Alexis Weissenberg plays Petrouchka - Stravinsky (complete)

    Weissenberg  Weissenberg
   『ペトルーシカ』を弾くワイセンベルク   影の効果であたかも4手で演奏しているような

    ワイセンベルク   ワイセンベルク
       見事なモノクロ映像         ハンマーが乱舞する様は必見(5分40秒から)

 これを観ると、まさにカラヤンとのチャイコフスキーの映像のルーツがここにあることがわかります。ワイセンベルクの発言からは、彼自身こういった撮影の仕方にまんざらではなかったようであり、そこにカラヤンという稀代のプロデューサー兼指揮者がエーケ・ファルク監督の協力のもとに、チャコフスキーという豪華な舞台でゴージャスな作品を仕上げていったというその構図が見えてきます。『ペトルーシカ』からわずか2年後、折しも時代はモノクロからカラーへと変遷していく時を迎えた頃であり、まさに時代のターニング・ポイントにおいてクラシック音楽における記念碑的とも言うべきこのチャイコフスキーの映像が誕生したということになります。ここで映像に関するカラヤンの音楽映画づくりの肝心な点について応えている本人の発言を紹介しておきます。

 「英語でよく使われる言いまわしに、『操縦席に座ってみたい』というのがあります。これは言葉を換えれば、物事を別の視点から眺めたいという意味なのです。・・・肝心なのはコンサートのたんなる報告ではなく、画像による解釈であり、それを通じて観客が私たちの演奏する偉大な音楽にさらに意味を感じとることです。(『NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 カラヤン』 天野祐吉著 日本放送出版協会 2008年)」 

                                  Weissenberg&Karajan
                   ワイセンベルクとカラヤン 

 話しを1972年に戻しましょう。実はその時の文化会館のメインの出し物は『フルトヴェングラーと巨匠たち〜フルトヴェングラーを中心にくりひろげられた栄光のベルリン・フィル物語』という記録映画の上映会で、当時傾倒していたフルトヴェングラーの指揮する姿を初めて観ることが出来るとこの日を指折り数えて待っていたのでした。まだそのレコードすらも買うお金もなく、その演奏はラジオでごくたまに聴くくらいでした。また、上野の東京文化会館の4階に音楽資料室という音楽専門の図書館があって、そこでは無料でレコードを聴かせてくれるとあって、よくフルトヴェングラーが指揮する演奏を聴いたものでした。ベートーヴェンの第9、エロイカ、歌劇『フィデリオ』、R.シュトラウスの交響詩、自作の交響曲第2番、等々。スコアも館内で借りられたのでレコードを聴きながら必死でページをめくったものでした。余談ですが、住んでいる住所と学校の所在地が違うとそこの職員に嫌味を言われたことを覚えています(筆者は所謂「越境入学」だったからです。)。当時の職員はやたらえばっていて、「聴かせてやる」という態度がありありで、いつもビクビクしていた記憶があります。

 「待ちに待ったフルトヴェングラーが登場してきた。シューベルトの『未完成交響曲』のリハーサルの模様である。この映画から取られたレコードの一部を放送で聞いたことがある。しかし、その容姿を見るとまったく聞くだけとはちがう。その姿を見ると神のように感じてならないのである。・・・本当に価値ある数分間であった。・・・」とその時の感動が日記には綴られていて、この後長々と映画の内容を克明に記していました。

 このベルリン・フィルの記録映画が終わった後のオマケみたいに上映されたのがワイセンベルクの映像だったのでした。この夏休み最後の日の日記を見ると、このワイセンベルクが弾く協奏曲は「蛇足のような、客寄せだなぁという感じが強く残った。」と書いている一方で、「しかし、耳で聴くだけならばよかったと思った。」とも書いていました。最初のワイセンベルクとの出会いは、音楽以外の要素とその衝撃に翻弄されたものではあったものの、音楽という点に絞ればいい印象を持ったことになります。しかし、日記の最後では、「あまりに機械的な正確さという点では気に入らない演奏である」と締めくくっていました。1969年にワイセンベルクは初来日していますが、以来一般的の評価としては「情感に乏しく無機的なピアノに終始している」といった言い方がよくされていたと記憶しています。

 全く汗をかいているように見えないワイセンベルクの常に冷静な弾き方、正確すぎる演奏に人間離れしたものを感じる人が多かったのでしょう。どんな演奏上難関な箇所でも眉一つ動かさずクールに弾く姿を良しとしないコメントが彼の演奏評の大半を占め、ニコリともしない彼のステージマナーに言及するという変な現象があったのも事実です。この点については、ワイセンベルク自身いくつかの場でこのようなことを語っています。

 「演奏会というものは、愛嬌をふりまいたり、陽気にふるまったりするようなものとは思われない。・・・われわれは音楽を表現する楽器にすぎないのであって、それ以外のものではあってはならない。・・・音楽を入れる器であると言ってもよい。それ以外のものはすべて、ピニストにとっては、無用の飾りものにすぎない。(『ワイセンベルクの世界』 グステル・ブロイア著 H.E.プリングスハイム、関英夫訳 音楽之友社)」

 「ピアノを弾くことはわたしにとってきわめて重大なことです。わたしはにこにこ笑うためにステージにいるのではなく、プログラムを生き返らせるためにいるのです。それでわたしは全力を尽くしてそれをやり、できるだけうまく弾きます。・・・演奏は人を喜ばすとか、人に気に入られるとかのためにするものではありません。唯一の問題は音楽であり、また音楽とわれわれとの結びつきです。(『ピアニストとのひととき』 デイヴィット・デュバル著 横山一雄訳 ムジカノーヴァ)」

 どんな難曲であっても鍵盤と格闘していることを微塵にも感じさせないワイセンベルクの弾き方は、多くのピアニストたちが演じる髪を振り乱し、汗を撒き散らす激情系とは無縁のものであり、叙情的な箇所であっても表情ひとつ変えずに弾く姿は、宙をさまよう目、緩んだ口元、額に刻まれる皺などの顔の表情やからだを揺らすことで音符を表現する陶酔系とも一線を画するものであり、それが当時の評論家や聴き手が求めるものと大きく外れていたということなのでしょう。

 それともうひとつ、カラヤンとの協演が多かったこともワイセンベルクにとってマイナスのイメージが付き纏うことになったと言えます。もちろん、9年間のブランクというハンディーを背負っていたワイセンベルクにとっては、演奏再開のきっかけとなるチャイコフスキーとのこの映像作品をカラヤンと協演し、同時にベルリン・フィルハーモニーとのシーズン開幕で演奏し、翌年のザルツブルク音楽祭へのデビューも果たすなど世界のひのき舞台に一気に駆け上がることができたのはカラヤンのお陰であったことは間違いありません。しかし、音楽界に帝王として君臨するカラヤンには当然ながら多くの崇拝者を生み出しますが同時にアンチ・カラヤンも輩出されます(筆者も何を隠そう学生時代は長いことアンチ・カラヤンでした。)。演奏家は誰しもどちらの陣営に組するべきかという選択を強いられたことでしょう。カラヤンと協演した少なからぬ音楽家たちがカラヤンと喧嘩別れして二度と協演しなくなったといった例は枚挙の暇がありません。

 カラヤンとワイセンベルクによる共演は、この1967年に収録されたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が最初の商業録音と思われます。しかし、この時は映像作品として公にされただけで、レコード録音としては発売されていません。つまり、あくまで映像用として細切れに収録され、各シーンに音声を貼り付けたということだったのでしょう。映像作品として完成されたものから音声を取り出してレコードとして発売するのはさすがに気がひけたのでしょうか。この3年後の1970年に、オーケストラをベルリン・フィルハーモニーからパリ管弦楽団に変えて録音しています。これが両者の共演の第2作になります。

   Weissenberg-Karajan   Weissenberg-Karajan
     ベルリン・フィルとの映像(左:1967年)とパリ管とのLP/CD録音(右:1970年)
 

 この録音は、カラヤンは1969年に急逝したシャルル・ミュンシュの後を受けて3年間パリ管弦楽団の芸術監督(正確には音楽顧問?)を引き受けていた頃のものです(1970年2月)。1970年といえば日本では大阪で万博が開催された年で、海外から多くのオーケストラが来日しています。そのパリ管弦楽団もジョルジュ・プレートル、セルジュ・ボドの両指揮者に率いられて4月に来日していて、なんとその時のソリストはワイセンベルクでした。帯同すべき指揮者は本来芸術監督のカラヤンであるべきだったとの説もありましたが、その1ケ月後にカラヤンはベルリン・フィルハーモニーを率いて来日していますからそれは無理な話しだったのでしょう。この来日公演でワイセンベルクが弾いた曲を調べてみると、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、ショパンのピアノ協奏曲第1番、ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調と、東京公演も含めてわずか11日の間になんとも盛り沢山のプログラムであったことに驚かされます。しかもリサイタルが1日入っていたのです。現在の来日オーケストラのプログラムに協奏曲が入っていても普通1曲か2曲であることを考えると恐るべきピアニストであったことがわかります。

 パリ管弦楽団は、この1970年4月の大阪万博公演に先立つ2ケ月前にワイセンベルクを迎えてカラヤンの指揮のもとでチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を録音しました。場所はパリのサル・ワグラム(Salle Wagram)。LP時代からアンドレ・クリュイタンスやシャルル・ミュンシュ、ジャン・マルティノン等が指揮する多くのフランス音楽のレコード録音が行なわれたホールで、オーケストラの中で管楽器が埋もれることなく浮き上がり、しかも濁ることなく響く録音会場として知られています(2005年に爆発事故で崩壊)。また、フランスのピアニスト、サンソン・フランソワが亡くなる直前までドビュッシーの録音をしていた会場でもあります。フランソワは1970年10月20日、ドビュッシーの「英雄の子守歌」の収録の2日後に亡くなっています。

 広い空間に向けて鳴り渡る一点の曇りのないホルンの響き、それに応えるオーケストラの力強い全奏、そしてピアノの和音の連打によって導かれるヴァイオリンのメロディー、これほど聴き手の心を一瞬にして掴んでしまう曲は他にありませんが、そのチャイコフスキーが描く世界をこれ以上ない程の広がりと豪華な響きで再現するカラヤンの指揮は見事です。どんな映像を駆使して表現しようとしても、音だけでこれだけの限りない想像の世界を体験できるのですから、レコード芸術の奥の深さにはあらためて感心させられます(と同時に映像芸術制作の画期的な一歩を踏み出したカラヤンにとって皮肉なことと言えなくもありません。)。カラヤンがつくる遅めのテンポの中で響くワイセンベルクの打鍵には一切の思惑も衒いもなく、ひたすらチャイコフスキーが書いた音符を自然なかたちでなぞっていきます。低音における強音部においても決して濁らず、全音域におけるその硬質な音はきわめて印象的と言えます。

 ベルリン・フィルハーモニーとの映像と較べると、パリ管弦楽団の色彩感のある明るい音色がこの曲の指向に合っているのか、より絵画的なイマジネーションを誘うように思われます。精緻なアンサンブルを心情とするベルリン・フィルハーモニーに対して、個の美しさを追求するパリ管の意地のようなものも感じさせます。思う存分歌った後は知らん振りのパリ管に対して、フレーズの収め方などでベルリンの管楽器奏者たちの配慮には舌を巻かざるをえませんが、どちらもチャイコフスキーの素晴らしい音楽を聴く妨げになってはいません。

 収録されたサル・ワグラムの音響も影響されているのでしょう、この曲としては異例なくらい遅めのテンポに終始していますので、ここは好悪が分かれることでしょう。カラヤンの代名詞とも言える流麗なレガートを駆使して華麗な音楽作りに、よく言われる「情感に乏しく無機的」なワイセンベルクのピアノという取り合わせのミス・マッチを指摘される演奏ではありますが、果たしてそうなのでしょうか。

 ピアニストのグレン・グールドには、「彼(ワイセンベルク)が弾いた19世紀の協奏曲の録音の多くが、有能であるが、リズムの強調や細部に対する関心をまったく共有しない指揮者との共演にあることです。ヘルベルト・フォン・カラヤンとのいくつかの共演について、これは特に言えます。レガートに執着するカラヤンの姿勢はワイセンベルクのバロック的なアプローチとはまったく合いません。(『グレン・グールド発言集』 ジョン・P・L・ロバーツ編 宮澤淳一訳 みすず書房)」という発言があります。この「19世紀の協奏曲」に該当する彼らの録音にはベートーヴェンの5曲の協奏曲とチャイコフスキーのこの曲があります。グールドがどの曲を念頭に置いてこのことを語ったのかはわかっていません。

 グレン・グールドに限らず、多くの批評家たちはカラヤンがどんな曲でもレガートを駆使して演奏していると批判し、カラヤンの音楽をその「レガート」という言葉で片付けてしまうきらいがありました。確かに1995年に発売されて世界各国でベストセラーを記録した『アダージョ・カラヤン』なるCDの存在はカラヤンの音楽を象徴するものです。しかし、「レガート」1本で曲を演奏するなんて乱暴なことはできるわけもないはずで、具体的に曲のどの部分がレガートで何故それが間違った奏法なのかを指摘する批評家はいなかったのではないでしょうか。その中で、このグレン・グールドの発言にある、「バロック的なアプローチと合っていない」という指摘には傾聴すべきだと思います。現代のピアノを使って、作曲当時の音楽を再現しようとする時代様式に近づく奏法の追求は現代のピアニストにとって重要な課題のひとつと言えますが、おそらくそのことを徹底的に追求した最初のピアニストのひとりとも言うべきグールドがワイセンベルクのアプローチを見抜いていたということがわかります。ワイセンベルクがチェンバロでのバッハ演奏のスペシャリスト、ワンダ・ランドフスカに師事していたことはよく知られていますが、チェンバロ奏法を学んだわけではないことは次の言葉からわかります。

 「ピアノの演奏を勉強するために、ランドフスカの門をたたいたのではない。私は彼女が音楽について何を語ろうとしているかを知りたかったのだ。(『ワイセンベルクの世界』(グステル・ブロイア著、H.E.プリングスハイム&関英夫訳 音楽之友社、1980年)」

 別の資料ではこうも語っています。

 「私はランドフスカからバッハ演奏について学んだ。彼女は私に解釈と装飾、そして原典を尊重することを教えてくれた。("TRUE TO HIMSELF" Trevor Richardson著, Records and Recordings Magazine, April 1973)」

 もちろん、ワイセンベルクがチャイコフスキーの音楽でバロック的なアプローチをしていると言うつもりはありませんが、どんな曲であれ彼の打鍵の基本にはその要素が入っているはずであり、速いパッセージにおける粒立ちの揃った発音と均質な音色から繰り出される音楽は、聴き手に爽快感を与えると同時にわくわくさせるものです。過度な感情移入をせず、恣意的なテンポを揺らすこともせず、鍵盤の制約や運指の都合で生じるによる歪みもない、さらには手垢にまみれた慣例的なルバートを排したワイセンベルクの演奏こそ、バロック的なアプローチのひとつの要素と言えるのではないでしょうか(もちろん、バロックの持つ本来の意味である「歪んだ真珠」ということはここでは触れてはいません。)。

 しかし、この奏法だけではチャイコフスキーの個性ある音楽を鳴らすには不十分であり、そこにカラヤンの音楽づくりが物を言ってきます。ワイセンベルクの強靭にして繊細なピアノタッチを活かすためのとっておきの器をカラヤンが用意したのが、この遅めのテンポであり、金管の華麗な響きとレガートたっぷりの弦楽器の演奏だったのです。チャイコフスキーの、そしてロシアの音楽(正確にはウクライナと言うべきでしょうか)の圧倒的なドラマを構築していくのはカラヤンの独壇場であり、チャイコフスキー演奏には絶対的な自信を持っていたカラヤンならではの矜持を見ることができる演奏と言えます(カラヤンはこの1970年までにチャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』を4回もスタジオ録音している!)。この両者の全く異なるアプローチこそグールドが指摘したことなのですが、カラヤンとワイセンベルクはその異なるスタイルをぶつけることでチャイコフスキーの独特の世界を描こうとしたのではないでしょうか。

 ワイセンベルクはこの曲について興味深いことを言っています(『ピアニストとのひととき(下)』デイヴィット・デュバル著 横山一雄訳 ムジカノーヴァ)。

 「(ピアノ演奏にいちばん合った作曲家は)バッハ、モーツァルト、スカルラッティ、ショパン、リスト、バルトーク、スクリャービン、プロコフィエフ、ラフマニノフ、それにストラヴィンスキーです。・・・・これらの作曲家たちは、ピアノをよく弾けましたから、この楽器にうまく合った曲をかけたわけです。・・・チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は人気はあるのですが、この曲が難しいのは、あの有名なオクターヴじゃなくて、これがピアノのために快適に作られてなくて、非論理的に作曲されているためです。」

 このワイセンベルクの発言を読んで成る程と思いついたことがあります。この曲の解説で必ず言及される初演にまつわる話しです。チャイコフスキーはその友人であった高名なピアニスト、ニコライ・ルビンシテインに献呈しようと草稿を見せたところ、「この作品は陳腐で不細工であり、役に立たない代物であり、貧弱な作品で演奏不可能であるので、私の意見に従って根本的に書き直すのが望ましい」と酷評されたことです。チャイコフスキーはその意見に耳を傾けず、ドイツ人のピアニスト兼指揮者ハンス・フォン・ビューローに献呈し初演を託します。ビューローはボストンでこの曲を初演して大成功を収め、ルビンシテインも後には評価を改めて、何度もピアノ独奏を務めるようになり、この作品を世に知らしめるのに一役買うようになったという話しです。

 この話しは、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を聴く前から繰り返し読まされていたためになんの疑いもいなく信じてきました。ルビンシテインとしても自分に何も相談せずに協奏曲を書いてきたチャイコフスキーに腹を立てたことでしょうし、プライドも傷ついたことでしょう。しかし、同じピアノの名手としての見方をするワイセンベルクの「これがピアノのために快適に作られてなくて、非論理的に作曲されているためです。」という発言からすると、ルビンシテインもこの曲がショパンやリストなどピアノのヴィルトゥーゾ達が書いた音符に共通する書法から外れた箇所がある、つまりピアノに熟達した作曲家ではないチャイコフスキーの未熟な作曲技法に気付いたからではないでしょうか。名曲にケチをつけたことで、音楽史上に不名誉な汚点を残してしまったルビンシテインが気の毒なくらいです。


 余談ですが、筆者が初めてチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を聴いたのは、小学6年生の時に家族で観に行った映画『チャイコフスキー』のワンシーンにおいてでした。確かチャイコフスキーが弟モデストと菜の花畑の中でさまよう時にあの冒頭のホルンが鳴り響き、スクリーンに一杯に溢れる黄色い菜の花に降り注ぐピアノの鮮烈な和音・・・。なにせ半世紀以上前の記憶ですから正確ではないかもしれませんが、いい想い出のひとつではありました。続く体験がワイセンベルクの映像なのですが、実はその半年前の春休みに東京都交響楽団のファミリーコンサートでも聴いていました。そしてその2年後に初めてLPレコードを購入したのでした。表にも裏にも何も印刷されていない白いジャケットに、曲名と「Horowitz Szell 1953」としか書かれていない10×14センチの赤色の紙が左上に貼ってあるだけという私家盤(Penzance Records)でした。後になって知ったところによると、1953年1月12日、ウラディミール・ホロヴィッツのアメリカ・デビュー25周年を記念したカーネギーホールでのライヴ録音で、米RCA社が発売すべく正式録音したにもかかわらず何らかの理由で発売中止となり、2013年にソニー・クラシカルが正式にリリースするまで60年間お蔵入りになっていたものでした。指揮はジョージ・セル、オーケストラはニューヨーク・フィルハーモニック、その25年前にホロヴィッツがアメリカ・デビューを果たした時と同じ曲を同じオーケストラで競演するという企画だったそうです。

 このレコードを擦り切れるほど聴いたことは言うまでもありません。ホロヴィッツがどんな演奏を聴かせてくれるか、現在 YouTube アップされていますので是非お聴きください。百文は一聴に如かずです。

Tchaikovsky, Piano concerto no. 1 in Bb minor, op. 23: Horowitz/Szell/NYP/1953

   Horowitz   Horowitz   Horowitz
    ホロヴィッツ セル指揮ニューヨーク・フィル チャイコフスキーのLPジャケット
 
 なお、ワイセンベルクはニューヨークにいた頃、よくウラディミール・ホロヴィッツに頻繁に会いに行っていたとか。また彼はこう語っています「私が今日あるのは、何人かの音楽家のおかげである。ホロヴィッツ、ジョージ・セル、バーンスタイン、そして誰よりもウィリアム・スタインバーグのおかげである。私が十八歳のとき、コンサートをキャンセルしたホロヴィッツが、ピッツバーグにいるスタインバーグに私を推薦してくれた。(『ワイセンベルクの世界』 グステル・ブロイア著 H.E.プリングスハイム、関英夫訳 音楽之友社)」。さらに、ワイセンベルクはピアニストのアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリとグレン・グールドに憧れていたそうです(Waissenberg Talks to Bryce Morrison, Music and Musicians Magazine, London, 1975)。



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