◇ 1941年12月27日、ショスタコーヴィチが家に友人たちを招いてパーティを開いた時の模様を、クイビシェフ時代の隣人のフローラ・リトヴィノヴァは次のように書き残しています。パーティの途中でショスタコーヴィチは先ほど交響曲第7番を完成させたと告げてその曲をピアノで弾き始め、それが終わると、「みんな口々にあのテーマ(侵略のテーマ)について『ファシズムのテーマ』とか『密告者のテーマ』とか言い合っていた。さらに戦争、レジスタンス、勝利についても語り合った。サモスード(後にこの曲を初演する指揮者)はこの交響曲はとてつもない成功を収めると予言すらもしていた。その後、ショスタコーヴィチと一緒にお茶を飲んだ時、彼は物思いに耽りながらこう言った。『ファシズム、そう、それもある。しかし、音楽は、真の音楽は本当のところ、決してひとつの主題に結びつくことはないのだ。ファシズム、それは単に国家社会主義ではなく、この音楽は恐怖や拘束や魂の屈従を語っているのだ。』その後、彼と気心が知れるようになって、私を信用し始めると、第7番は(第5番も同様だが)ファシズムだけでなく、ソヴィエトの体制、どんな形であれ専制政治と言われるもの、一般に言う全体主義について描いた、と率直に語ってくれた。」
(『Shostakovich Reconsidered by Allan B. Ho and Dmitry
Feofanov』p.488 及び『ショスタコーヴィチ ある生涯』 ローレル・E・ファーイ p.173)
◇ ショスタコーヴィチ自身の言葉以外でも注目すべき点があります。この「侵略のテーマ」がドイツ軍を描写しているとなると、時間的な矛盾が生じるのです。つまり、交響曲第7番はドイツ軍の侵攻の前に作曲し始めているという記録があるからです。レニングラード音楽院でショスタコーヴィチに師事し、卒業後もショスタコーヴィチに個人指導を受けさらには恋愛関係にもあったとされるガリーナ・ウストヴォーリスカヤの回想にはこう書かれています。「1939年か1940年のある日、交響曲第7番がほぼ出来上がったとショスタコーヴィチは私に伝えに来て、この作品を『レーニン』か『レーニンスカヤ』と呼ぶか決めかねていると言った。彼はレーニンを尊敬していていつも自分の作品をレーニンに捧げたいと言っていた。」
(O. Gladkova "Galina Ustvolskaya: Music as Bewitchment", 1999, P. 31)
◇ 息子のマキシム・ショスタコーヴィチは1990年6月12日のレクチャーで父親が言ったことして次のように述べています。「交響曲第7番のインスピレーションは戦争に先立つ時代に起きた国家の悲劇から得たものである。ドイツにもソヴィエトにも邪悪な勢力はある。ソヴィエトには独自のファシズムがあり、ドイツには自分たちのヒトラーがあった。交響曲第7番は戦争の音楽なんかではない。」
(『Shostakovich Reconsidered by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov』p.411)
◇ ショスタコーヴィチ研究家のAleksandr Sherel
は、「侵略のテーマ」を示す1939年6月26日付けのスケッチが残っていることを指摘しています。著名な演出家・俳優であったフセヴォロド・メイエルホリドが1938年1月に形式主義文化の害毒を流布したと批判されて逮捕されます。親友であったショスタコーヴィチは彼を救うべく証人に立った6日後にそのスケッチをメイエルホリドに捧げたとされているのです。なお、メイエルホリドは1940年2月1日に死刑判決を受け、翌日に銃殺されました。このことから、Sherel
はいわゆる「侵攻のテーマ」はヒトラーではなく、人類の敵(たぶんスターリン)であったとしています。 (『Shostakovich
Reconsidered by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov』p.158)
◇ ボロディン弦楽四重奏団のメンバーの1人でショスタコーヴィチとも知り合いだったロスティラフ・ドゥビンスキーによると、「交響曲第7番の第1楽章は戦争が始まる1年前、すなわちスターリンとヒトラーとが仲良がよかった頃には出来上がっていたということを、ソヴィエトの評論家たちは都合よく忘れている。」と書いています。さらに、「『レニングラード交響曲は、1941年のヒトラーによるロシア攻撃の前に計画し書き始めている。第1楽章の悪名高いマーチは『スターリンのテーマ』としてショスタコーヴィチが思いつたものだ。戦争が始まった後、ショスタコーヴィチは『ヒトラーのテーマ』と名付けた。しかし、この曲を出版するとき『悪魔のテーマ』と名前を変えた。まさに、ヒトラーとスターリンが共にこの仕様を満たしているのだ。』(Stormy
Applause: Making Music in a Worker's State by Rostislav Dubinsky 1989)
◇ ショスタコーヴィチの親友だった音楽学者のレフ・レベディンスキーによると、「レニングラード交響曲は1941年にヒトラーがソヴィエトへの攻撃を開始する前に計画され、作曲が開始されていたのだ。あの悪名高い第1楽章の行進曲は、『スターリンのテーマ』として思いついたもので、戦争が始まると、ショスタコーヴィチはこれをヒトラーのテーマだと宣言した。作品が出版されるとそれを「悪のテーマ」と名付けた。」
(『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry
Feofanov p.159)と述べています。
自分の作品について作曲家が語ったことは、得てしてまゆつば物であることが多い。もっと言えば、時代が変わったり、環境が変わったりすれば、作曲者は自分の作品の異なる面を強調するかもしれない。言い換えれば、芸術家の作品が最終的に目指すものは、その作品の最初のアイデアと必ずしも完全に一致はしないということである(『Shostakovich
Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov)。 レオ・マゼル
ショスタコーヴィチは自分の音楽について質問されことや、このテーマは何を表現しているとか、何か特別な意味を持っているかなど訊かれることを嫌っていた。「あなたはこの曲で何が言いたいのか?」と質問されると、彼は「私が言ったことを言っているのだ。」と応えたものだった(『Shostakovich
: a life remembered』 by Elizabeth Wilson p.423-424)。 カレン・ハチャトゥリアン