ここでは、その搬送について詳細を調べた論文 The Flight of the Seventh: The Voyage of
Dmitri Shostakovich’s “Leningrad” Symphony to the West by M. T. Anderson
から得た情報を元にして、確実と思われる搬送ルートをご紹介したいと思います。
1941年6月のドイツ軍のロシア侵攻の一周年に合わせてロンドンでショスタコーヴィチの交響曲第7番を演奏させようとする出来すぎとも思えるイベントまでも企画していたのには驚かされます。さらに、ソヴィエトの楽譜出版&レンタル会社であるAm-Rus
Company
がニューヨークの音楽出版社シャーマーと共同で全米のオーケストラによる『ショスタコーヴィチ週間』なる企画までも検討していました。交響曲第7番の初演を目玉として作曲家の初期の作品や他の管弦楽作品を演奏することをロンドンと同じようにドイツ軍のロシア侵攻の一周年の6月22日頃に演奏するというものでした。しかし、これは譜面の到着のタイミングから難しいと判断されたことや法律上の様々な問題が噴出したことなどから実現されませんでした。
不思議なことに、このマイクロフィルムの西側へのドラマチックな搬送について語る多くの音楽関係書やショスタコーヴィチの交響曲第7番の解説書の中に、英国への搬送についての記述を見つけることができません。英国は米国よりも早く演奏されている、つまり、西側或いは西半球における初演を果たしていて、しかもドイツ軍によるレニングラード包囲一周年記念に合わせた鳴り物入りの企画であり、西側最初のラジオ放送でもあるにもにもかかわらずです。実際はどんなルートで英国に渡ったのかは明らかになっていません。英国から米国に送られたという説、米国から英国に送られたという説などもあるようです。ソフィヤ・ヘーントワの著作
"Voynï " by Sofia Khentova によると、英国ではこのような搬送ルートについての興味は起きなかったとしています。一方米国での騒ぎは、ジャーナリズムによる扇情的で興味本位のセンセーショナリズムといった米国文化特有の現象としています。さすが「紳士の国」英国ということだったのでしょうか。
米国向けのマイクロフィルムが、カイロからどのようなルートで大西洋岸に出たかの詳細もわかっていません。英国向けはカサブランカ経由の可能性はありますが、米国向けはカサブランカでなかったらアクラであろうと考えられます。これについて、The
Music of Dmitri Shostakovich(Roy Blokker and Robert
Dearling)によると米国向けの旅程にカサブランカが入っているのは間違いだろうとしています。当時、カイロからの空路として米国がよく使ったのがガーナの首都アクラで、大西洋横断のために西アフリカから飛び立つポイントとして知られていました。アクラは長らく英国の支配下にあって、その西アフリカ植民地の拠点でもありました。
マイクロフィルムは6月23日にブラジルから米国に向けて軍用艦で運ばれたというソフィヤ・ヘーントワの記述があり("Voynï " by
Sofia Khentova)、それをソロモン・ヴォルコフ等が引用していますが、どうやらその日付も運送手段も間違いで、実際は米海軍の軍用機で空輸されたことがわかっています。実際、アメリカの土を踏んだのはマイアミと思われますが、そこから米国内をどのように運ばれたのかは不明のままです。国務省のヨーロッパ問題担当局に残る資料によると、ワシントンDCにマイクロフィルムが到着したのは1942年5月30日でした。遠くソヴィエトを出発した2ケ月余りの旅がここで終わりを告げたことになります。マイクロフィルムは直ちにソヴィエト大使館に持ち込まれ、VOKSを通じてAm-Rus
Companyの社員によって6月2日にニューヨークへと運ばれました。