プッチーニ:『蝶々夫人』
第8章 『蝶々さん』歌姫列伝
ロジーナ・ストルキオ

ロジーナ・ストルキ(1904年)
(ミTeatro La Fenice di Venezia 2012-2013より)
ロジーナ・ストルキオ( Rosina Storchio :1872年 – 1945年 )
『蝶々夫人』の初演で「蝶々さん」を演じたのが、ヴェネツィア出身のロジーナ・ストルキオでした。ミラノのジュゼッペ・ヴェルディ音楽院で学び、1892年にミラノのダル・ヴェルメ劇場でビゼーのオペラ『カルメン』のミカエラ役を演じて20歳でプロのオペラ歌手としてデビューを果たし、その3年後にはミラノ・スカラ座にデビューし、マスネのオペラ『ウェルテル』のソフィー役を演じています。その後1897年には、レオンカヴァレロのオペラ『ラ・ボエーム』のミミ役、同じく『ザザ』の初演で主役を演じ、さらにはジョルダーノの『イル・ヴォート』のクリスティーナ役でエンリコ・カルーソーと共演するなど、一流歌手としての地位を確固たるものにしています。
そして、1904年2月17日、ロジーナ・ストルキオはミラノのスカラ座で上演されたプッチーニ作曲のオペラ『蝶々夫人』の世界初演でタイトルロールに抜擢されたのですが、これまでご紹介してきた通り上演は大失敗となってしまいました。幕が開くと即座に観客から敵意を向けられ、野次、口笛、ブーイング、嘲笑をあびせられます。失敗の大きな原因はリハーサルの準備不足にあり、プッチーニは初演の2か月弱前の1903年12月27日に楽譜を完成させことから、歌手たちは印刷校正刷りの形でパートの断片を受け取ってリハーサルに臨むというありさまだったことにあるとされています。但しこの説は既述の通りリハーサルに臨んだプッチーニが「初演の成功を疑わなかった」のですから真偽のほどは定かではありません。新作といえども2か月あれば仕上げられるとも言えるし、2ケ月では無理だとも言えるでしょう。どのオペラ作品の初演であってもリハーサルの時間が足らないのはいつものことだったのではないでしょうか。時間が足らなかったという月並みな見立てで済ますのは研究者としては怠慢の誹りは免れないのではないでしょうか。
この時オペラは2幕構成となっていて、そのうち第2幕が異例の長さ(約1時間半)を要するため、ストルキオがこの長い第2幕のほぼ全曲ずっと舞台上にいなければならなかったのですが、これに彼女がうまく対応できなかったかどうかに関する証言は今のところ見当たりません。さらに、観客にとって馴染みのない日本を舞台として日本の女性が主役というところが受け入れづらいところがあったされていますが、とは言え、わずか3ケ月後の再演では同じ日本の舞台であっても大喝采を博したのですからこの説も疑わしいものと言えます。
公演中、ストルキオは突然の風で着物が膨らむという衣装のトラブルに見舞われ、客席からは「妊婦さん!」と掛け声が上がって嘲笑が広がり、蝶々さんの登場のシーンやアリア『ある晴れた日に』など、深い感情を伝えることを意図した場面では、石のような沈黙で迎えられたり、騒音にかき消されたりしました。また、第2幕の夜明けの場面の描写においては、観客が家畜などの動物の鳴き声の物まねで演奏が中断されたのでした。こうした音楽や舞台と関係のない事柄に絡んでくる事態からすると意図的な妨害行為があったと判断するのが妥当なところでしょう。
ロジーナ・ストルキオは、この時既にプッチーニのオペラ『トスカ』役でも高い評価を得ていたことから、プッチーニのこの作品においてその歌唱や演技に対して非難されることは考えにくいところです。後年「蝶々さん」役で活躍したソプラノ歌手三浦環は一時期ロジーナ・ストルキオと同じ一座で歌ったことがあり、回想録の中で次のように書いています。
「私は一頃このストルキオと同じオペラカンパニーで方々演奏旅行をしたことがあります。ストルキオが歌劇『ラ・ボエーム』のミミ、私が歌劇『お蝶夫人』の蝶々さんを持って歩いたのですが、ポルトガルの首都リスボンのテアトル・ムニシバールで歌劇を上演した時のことです。ストルキオの『ラ・ボエーム』のミミを観ましたが、そのうまいこと、とても可愛らしい純情の乙女になって、なんともいえない魅力のある美しい歌をうたうんです(
吉本明光編 『三浦環「お蝶夫人」』 )。」
また、この失敗した初演についても言及しています。この初演の時、三浦環はまだ日本にいてこの初演に立ち会ったわけではないので、おそらくストルキオから直接聞きかされたものと考えられます。
「プッチーニの新作発表だというので、前売の切符が二万リラも売れたという大変な騒ぎでしたが、いざ開演となると、何しろ日本の旋律が編込んである音楽が保守的なミラノの人達の耳に馴染まなかったことも手伝って、第一幕が済んでも誰も拍手をしない、第二幕は恐ろしく長いのでだれてしまい、オペラは終っても、誰も拍手をしないどころかシッ!シッ!と野次が飛ぶ騒ぎで完全に失敗したのです。プッチーニの妹はボックスで観ていましたが、観客があんまり悪口をいうのでたまらなくなって卒倒をしてしまった、という嘘のようなお話もありました。またプリマドンナのストルキオは観客がちっとも拍手してくれないので、楽屋に帰って来て泣き伏してしまったところへプッチーニが入って来て、泣いているストルキオの肩を優しく抱いて
“ストルキオ、気を落してはいけない。このオペラは今夜は失敗したが私には非常な自信がある。近いうちにこのオペラは世界を風靡するだろう。このオペラの面白さが判らないミラノの観客に、私は二度とこのオペラを観せてやらない。私は宣言する。私の目の黒い中うちは『お蝶夫人』をスカラ座で上演することを拒絶する。ストルキオ、必ず落胆してはいけない。あなたの歌のせいでも、私の作曲のせいでもない。今夜の観客の耳が風穴同様だったからだ”
といって慰めたということです( 吉本明光編 『三浦環「お蝶夫人」』 )。」
プッチーニはこの直後に長いと批判された第2幕を2つに分けて第2、3幕とするなど改訂を施し、同年5月28日のイタリア北東部の街ブレシアにおける再演で成功を収めています。なお、三浦環はこの再演でもストルキオが歌ったと回想していますが、それは彼女の記憶違いで、蝶々さんを演じたのはソロミヤ・クルシェルニツカというウクライナ出身の歌手でした。ストルキオが歌ったのは1904年7月7日のイタリア国外での『蝶々夫人』の世界初演となったブエノスアイレス歌劇場で、指揮はアルトゥーロ・トスカニーニでした。
アルトゥーロ・トスカニーニとの関係
ロジーナ・ストルキオと指揮者アルトゥーロ・トスカニーニとの恋愛関係は、1900年頃、ミラノのテアトロ・リリコで行われたレオンカヴァッロのオペラ『ザザ』の世界初演のリハーサル中に始まったとされています。この公演ではトスカニーニが指揮を務め、ストルキオがタイトルロールを歌いました。トスカニーニは当時結婚しており、3人目の子供を生まれる時期であったため、この不倫はミラノ社交界で一大スキャンダルとなったのでした。
これは筆者の憶測ですが、1904年の『蝶々夫人』初演の指揮者にトスカニーニが指名されなかった理由は、このストルキオとの不倫問題がミラノで盛り上がっていたからではないでしょうか。プッチーニはどうしてもストルキに歌わせたかったため、そのトバッチリを避けようとしたと考えられるのです。しかし、トスカニーニに指揮させなかったにもかわらず、侮辱的な「ちびっ子トスカニーニ!」という声も上がったとされています。
その後ストルキオは1903年に息子ジョヴァニーノを出産しましたが、その子供は出産時に脳の損傷を負い、16歳で亡くなりました。トスカニーニとの関係はわずか数年しか続かず、その後トスカニーニは別の女性と関係を持ち始め二人の不倫関係は終焉を迎えたのでした。三浦環は次のように語っています。
「ストルキオは立派なプリマドンナでしたが、運が悪くてメトロポリタンに出られずにしまったが、プリマドンナとして不運であったばかりでなしに人間としても非常に運が悪く、世界指折りの大指揮者のトスカニーニと恋愛して、その子供を産んだのですが、可哀そうにその子供が障害者で、そのため余計可愛がっていましたが、その子供が十三歳の時に死んでしまったのです。それで非常に悲しがって、ミラノの真中に立派なお墓を作りましたが、ストルキオはその子供の死んだのを機会に、それから一切ステージに立たなくなり、ただローマの神様のお堂だけでうたうようになった、プリマドンナとして誠に不運な人でした(
吉本明光編 『三浦環「お蝶夫人」』 )。」
*一部不適切表現がありましたので改めています。
*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
≪ 前のページ ≫
≪ 目次に戻る ≫ ≪ 次のページ ≫