プッチーニ:『蝶々夫人』

第4章 ブレシア版(第2版)と『蝶々夫人』の快進撃

 
                   Brescia

ブレシア、テアトロ・グランデのポスター(Teatro Grande Brescia HPより)


ブレシア版〜どこを改訂したのか?
 プッチーニは、初演失敗のわずか3ケ月後の1904年5月28日に、イタリア北東部の街ブレシアのテアトロ・グランデで『蝶々夫人』の再演をします。公演は大成功を収め、カーテンコールは7回にも及んだとされ、まさにリベンジを果たしたことになります。蝶々さん役はロジーナ・ストルキオからウクライナ出身のソプラノ、ソロミヤ・クルシェルニツカ(1872年〜1952年)に替えています。なお。プッチーニは彼女に「最も美しく魅力的な蝶々さん」という銘文を添えた自分の肖像画を贈っています。

 このブレシア版は、初演版(第1版)から大幅な改定が行われたわけではなかったようです。ディーター・シックリングによると、この版では全曲約4500小節のうち約200小節の削除が行なわれたとしていますが、

 「これらは内容的な観点から見て実質的な意味を持たない、筋書きの短縮に過ぎなかったことがわかります。登場人物の心理描写にわずかに大きな影響を与えた唯一の変更点は、実は新しい楽曲、すなわち第2幕後半へのテノールのアリア「Addio fiorito asil」の挿入でした。これは間違いなく、何より男性主人公が本格的なソロを歌うという伝統的な権利への譲歩であり、同時に原案にあったピンカートンのネガティヴな描写を和らげるものでもありました( ディーター・シックリング著 『蝶々夫人 - 未完のオペラ』 )。」

 第1版では手切れ金を渡して(しかも蝶々さん自身ではなくシャープレスに渡して)逃げるように去っていくピンカートンとなっていて、男の風上にも置けない情けない人物になってしまうため、それはさすがにマズイと思ったのでしょうか。実はこのアリア、プッチーニが元々台本にあっにもかかわらず初演に先立って削除していたのでした。曲をつけていたかどうかは不明で、出版社のジュリオ・リコルディと台本を書いたジュゼッペ・ジャコーザとの手紙のやり取りの中(1904年1月頃)でプッチーニがその詩に音楽をつけたがらなかったとされています(ウバルド・ガルディーニ著「蝶々夫人」のパリ版にいたる経過とその相対的価値についての一考察』)。

 プッチーニはこの版で、長すぎるとされたオリジナルの第2幕を2つに分けて3幕構成へと書き直しを行なっています。この点についてディーター・シックリングはさらに続けます。

 「構造的に見ると、第2幕の中断、つまり第1幕との音楽的な対応関係を断ち切ることは、はるかに重要な意味を持っています。プッチーニは、両幕の冒頭と終結に意識的に類似性を持たせていました。第1幕の開始を告げる活気ある弦楽器のフーガは、第2幕の冒頭では弦・管楽器による疲弊した響きのフガートとして再び現れ、また、両幕の結末(愛の二重唱の後、および蝶々夫人の死の直後)は、いずれも伝統的な和声法において不協和音とされる「解決されない六の和音」で締めくくられます。その際、最初はヴェールに包まれたかのようなオーケストラによってピアニッシモで奏でられ、二度目は「ア・トゥッタ・フォルツァ(全力を込めて)」で叫ぶように強奏されるのです。この繊細な対応関係は3幕構成への分割によって損なわれてしまいました。プッチーニはこの損失を補おうと、後になっても一貫して、第2幕をあくまで「第1部」と「第2部」として扱おうとしました(出版されたスコアやピアノ・ヴォーカル・スコアの表記は混乱を招くものとなっています)。しかし実際の公演では、それら2つの部の間で幕が下り、しばしば2回目の休憩が挟まれるという事実に変わりはありません( ディーター・シックリング著 『蝶々夫人 - 未完のオペラ』 )。」

 プッチーニがこのブレシアでの再演に対して『蝶々夫人』のスコアに改訂のメスを入れたところは主に3つの点で、ディーター・シックリングは以下のようにまとめています。

@ 第1幕からは約130小節が削除されました(第1版の第1幕は全部で1,885小節)。その主な箇所は、結婚式の儀式の場面、蝶々さんのアリア「Ieri son salita」、そして大酒飲みの叔父ヤクシデが登場する場面です。
A 第2幕は、オーケストラによる間奏曲に若干の変更を加えることで、第2幕は2つの部分に分割され、その間に幕が下ろされることになりました。
B 第2幕の後半でテノールには短いアリア「Addio, fiorito asil(さらば、花咲く隠れ家よ)」が追加されました。


大成功を博したブレシア公演
 ブレシアでの大劇場において、世界各国の批評家たちやオペラ関係者など著名人のほか、数か月前のミラノ初演にも立ち会った人々を含む満員の聴衆を前にして、『蝶々夫人』は圧倒的な成功を収めることになりました。プッチーニがアルフレード・カゼッラに宛てた手紙には「まさに夢が叶った瞬間でした!アンコールは7回、カーテンコールは32回にも及びました!」と書かれています。プッチーニがこの曲を捧げたイタリアのエレナ女王の夫である国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世も臨席し、終演後には作曲家にねぎらいの言葉をかけています。また、同劇場で10回の公演の後、国王は祝賀会にプッチーニを招いて記念のメダルを贈与しています(ウバルド・ガルディーニ著 『「蝶々夫人」のパリ版にいたる経過とその相対的価値についての一考察』東京藝術大学リポジトリ)。

 さらに、Opera Lounge というドイツのサイトにはこのブレシアの上演の様子を次のように書かれています。

 「改訂版の『蝶々夫人』はブレシアで大成功を収めました。観客は熱心に耳を傾け、すべてを愛したのです。ピンカートンが最初のアリアを歌い終える前に、拍手は耳をつんざくほどになり、観客はアンコールを要求しました。プッチーニは公演中にもかかわらず何度も舞台に上がり、拍手に応えるよう促されました。第2幕はさらに大きな成功を収めました(" Cio-Cio-Sans Metamorphosen " by Geerd Heinsen and Rüdiger Winter )。」

 わずか3ケ月しか経過していないのに大成功を博し、時間が長いと批判されて書き直した第2幕を待たずに喝采を受けたということは、ミラノ・スカラ座での失敗の原因を論った批評家たちの意見がいかにいいかげんであったがよくわかります。プッチーニはこのブレシアの公演のリハーサル中にも少なくとも1か所、第2幕の終わりにカットを加えているため、第2版の譜面通りには上演されていなかったとディーター・シックリングは指摘しています(105小節の削除)。さらに、

 「この第2版のブレシア公演が大成功を収めた後、オペラは世界的な人気を博し始めました。しかし不思議なことに、プッチーニの懸念は全く解消されなかったのでした。ブレシア公演の時点で、彼はすでに目に見えて大幅な削除を行い、その後2年半にわたり、彼がリハーサルを監督した、あるいは何らかの形で影響を与えたほぼすべての公演で、異なるバージョンを提供したのでした( ディーター・シックリング著 『蝶々夫人 - 未完のオペラ』 )。」

 このブレシアの公演のほぼ1ケ月後の7月7日に指揮者アルトゥーロ・トスカニーニがこの版を使用して『蝶々夫人』を取り上げました。場所はブエノスアイレスのテアトロ・デ・ラ・オペラでしたが、これがイタリア国外における最初の公演となりました。主役は初演で一敗地にまみれたロジーナ・ストルキオでした。リコルディ社は、ロンドンのコヴェント・ガーデンでの初演( 1905年7月10日、イタリア語上演)のために、R.H.エルキンスによる歌いやすい英語訳とともに、この第2版に基づく新しいイタリア語の楽譜を出版しました。英国初演には、エミー・デスティン(蝶々さん)、エンリコ・カルーソー(ピンカートン)、アントニオ・スコッティ(シャープレス)が出演し、クレオフォンテ・カンパニーニが指揮を務めました( " Cio-Cio-Sans Metamorphosen " by Geerd Heinsen and Rüdiger Winter )。

 ブレシアでの2回の上演の後も『蝶々夫人』の快進撃は続き、以下の街を席巻していきます。プッチーニはジェノヴァやブエノスアイレス、ブダペストにも出掛けるなど、これらの多くの公演のリハーサルを監督するなど何らかの形で関与していとされています。そして、それらの都市でのリハーサル中においても、いくつかのカットを行ない、しかも都市によってカットの場所は異なっていたともシックリングは指摘しています。


国内外における『蝶々夫人』上演の記録(1904〜1907年)
1904年5月28日:ブレシア、テアトロ・グランデ
   指揮:クレオフォンテ・カンパニーニ/蝶々さん:ソロミヤ・クルシェルニツカ、10公演

1904年11月17日:ジェノヴァ、フェニーチェ劇場
   指揮:エットレ・パニッツァ/蝶々さん:ソロミヤ・クルシェルニツカ、6公演
1904年7月2日:ブエノスアイレス、テアトロ・オペラ
   指揮:トスカニーニ/蝶々さん:ロジーナ・ストルキオ、6公演
1904年8月25日:モンテビデオ(ウルグアイ)、ソリス劇場
   指揮:トスカニーニ/蝶々さん:ロジーナ・ストルキオ、1公演

1905年7月10〜25日:ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス
   指揮:レオポルド・ムニョーネ/蝶々さん:エミー・デスティン、4公演
1905年10〜11月:ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス
   詳細不明:蝶々さん:(たぶん)エミー・デスティン、11公演
1905年10月12日:ミラノ、ダル・ヴェルメ劇場
   指揮:クレオフォンテ・カンパニーニ/蝶々さん:ソロミヤ・クルシェルニツカ
1905年10月29日:ボローニャ市立劇場
   指揮:トスカニーニ/蝶々さん:ソロミヤ・クルシェルニツカ、8公演
1905年:カイロ(詳細不明)

1906年1月2日:トリノ、レージョ劇場
   指揮:トスカニーニ/蝶々さん:ソロミヤ・クルシェルニツカ7公演
1906年1月24日:ナポリ、サンカルロ劇場
   指揮:レオポルド・ムニョーネ

    蝶々さん:マリア・ファルネティとエルシルデ・チェルヴィ=カローリ、10公演
1906年4月26日:パレルモ、マッシモ劇場
   指揮:レオポルド・ムニョーネ/蝶々さん:ロジーナ・ストルキオ
1906年5〜7月:ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス
   詳細不明:蝶々さん:(たぶん)エミー・デスティン、10公演
1906年5月12日:ブダペスト、ハンガリー王立歌劇場
   指揮:レジェー・メイダー/蝶々さん:エルザ・ザモシ、6公演
1906年6月5日:ブエノスアイレス、テアトロ・デ・ラ・オペラ
   *テアトロ・コロンではない
   指揮:トスカニーニ/蝶々さん:ロジーナ・ストルキオ、3公演
1906年8月30日:モンテビデオ(ウルグアイ)、ソリス劇場
   指揮:トスカニーニ/蝶々さん:ロジーナ・ストルキオ、1公演
1906年10月15日:ワシントンD.C. その後ボルチモア、ボストン、ニューヨーク
1906年10月6日〜12月:ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス 
   蝶々さん:リナ・ジャケッティ、9公演
1906年:アレクサンドリア(詳細不明)

1907年2月11日:ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場
   指揮:アルトゥーロ・ヴィーニャ蝶々さん:ジェラルディン・ファーラー
1907年2月28日:シアトル、グランド・オペラ・ハウス
   蝶々さん:フローレンス・イーストン
1907年6月11日:ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス 
   蝶々さん:エミー・デスティン(ガラ・コンサート/第1幕のみ)

*トスカニーニが指揮したブエノスアイレス公演は1904年7月7日という情報がWebには見られますが、その日トスカニーニは『ファウストの劫罰』を指揮しています。
*ウルグアイのモンテビデオは、ブエノスアイレスから広大なラ・プラタ川の河口を挟んだ対岸に位置していて、飛行機で1時間くらいで移動できる距離に位置します。


 上記の1904年から1907年の間、蝶々さんを歌った歌手を見ると、初演で歌ったロジーナ・ストルキオとブレシアで歌ったソロミヤ・クルシェルニツカが多くの歌劇場で繰り返し出演しています。ロンドンではエミー・デスティンが25回も歌っていて、この3人はプッチーニの信頼が非常に厚かったことがわかります。

 ブレシアの翌年に行なわれたロンドン公演では、後にメトロポリタン歌劇場で活躍することになるエミー・デスティンが蝶々さんを歌い、「幕があがった瞬間から最後の幕がおりるまで、成功は一瞬たりとも疑いの余地はなかった。それ以降、蝶々夫人の役は、エミー・デスティンの当たり役となったほどである。また、彼女のピンカートンを務めたのは、エンリコ・カルーソーだった(ウバルド・ガルディーニ著『「蝶々夫人」のパリ版にいたる経過とその相対的価値についての一考察』)。」とされています。エミー・デスティンはその後、トスカニーニと共にニューヨークに渡りメトロポリタン歌劇場でヴェルディの『アイーダ』を歌ってメト・デビュー(1908年)を果たした後、1920年までにメトで計340回の出演を数えています。うち、『蝶々夫人』は14回歌っています。また、プッチーニは彼女が歌うことを想定してオペラ『西部の娘』を作曲したとされ、初演でもミニー役を務めています。

 1906年に米国初演となったのもこの第2版で、10月にワシントンD.C.、11月にニューヨークでヘンリー・サヴェージ率いるニュー・イングリッシュ・オペラ・カンパニー(英語訳で上演していたことからこの名がついた)によって上演されています。

 「『蝶々夫人』の巡回公演はオペラ史上前例のない規模で、アメリカの主要都市で6ヶ月間上演され、タイトルロールには4人のソプラノ歌手、その他の主要役には2つのキャスト、代役、合唱団、そして60人編成のオーケストラが参加し、指揮はティート・リコルディが務めた。この豪華な公演は週8回上演され、R・H・エルキンスによる英語訳で歌われた。1906年10月15日、ワシントンD.C.のコロンビア劇場で初演され、翌日のワシントン・ポスト紙はこの公演を熱狂的に報じた(" Cio-Cio-Sans Metamorphosen " by Geerd Heinsen and Rüdiger Winter )。」
*実際は3人だったのですが、そのうちの1人のソプラノ歌手が降りたため、その代役が入って3人で巡回したとのことです。

 ブレシアの公演以降、世界各地で『蝶々夫人』は成功に次ぐ成功で、プッチーニが書いた手紙には「無条件の本物の大勝利で、夜毎に成功は大きくなっていく。」、「第2幕のあとに9回のカーテンコールがあった」、「本物の大成功」などの文が踊り、

 「公演のために赴いたどこの都市においても、彼の愛する蝶々夫人が聴衆に愛され、その公演がかがやかしい勝利のうちに幕を閉じるのを目撃した。南アメリカでは、プッチーニはさながら英雄なみに扱われた。各新聞とも連日第一面でプッチーニについて報じたものだった。(中略)ミラノ初演で蝶々夫人を歌ったロジーナ・ストルキオも、雪辱を果たし、イタリア・オペラの指揮にかけては第一人者のアルトゥーロ・トスカニーニが『蝶々夫人』の最高の解釈をほどこしていたのだった(ウバルド・ガルディーニ著「蝶々夫人」のパリ版にいたる経過とその相対的価値についての一考察』)。


*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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