交響曲第8番〜ついにコンプリート!

 
 2019年11月、某大学のOBオケが第60回演奏会を迎えるにあたり第8番『一千人交響曲』がついにやってきました。マーラーの交響曲作品全11曲演奏で最後に残っていたのがこの8番。入団してからこの年までの12年間にマーラーの交響曲作品11曲中6曲もこのオーケストラで弾かせてもらったことになります。この第8番という音楽史上空前絶後の規模を誇り、稀有とも稀代と言うべき多くの側面を持つシンフォニーの譜面を弾くことができたということは生涯忘れえぬ経験となりました。

 1910年に作曲者自身の指揮によってミュンヘンで初演された時、ステージに乗った出演者の数は1030人近く、その中には管弦楽団の他に8人もの独唱者と児童合唱と混声合唱団が含まれという壮観を極めたものでした。「ミュンヘン博覧会1910」という音楽祭の一環、目玉公演として行なわれた公演で、各国から著名人、文化人らが多数訪れ、2日間の公演の切符3000枚は2週間前に売り切れたとされています。初演は大成功をおさめ、演奏終了後30分以上もの間熱狂の渦に包まれたという記録もあり、マーラーの作品の初演としては異例の大成功を収めたことになります。

 若い頃から指揮をしてはオーケストラの団員から嫌われてヨーロッパ各地を転々とし、しかしその実力ゆえついに上り詰めた世界最高峰の音楽の都ウィーンで数々の名演奏によって聴衆を熱狂させながら、今日ではあたりまえになっている楽章間の拍手の禁止、「さくら」の廃止、ワーグナーのノーカット上演の断行、オペラ上演中で客席照明を落とすなどの多くの改革を断行するなどその妥協のなさは各界とりわけ批評家たちからバッシングを受けます。作曲においてもウィーンでは全く評価されず、やむを得ず他の都市で自作を演奏しに行くと職務怠慢と非難され、当時の反ユダヤ主義からくる攻撃もあってついにヨーロッパを追われます。しかし、大西洋を渡ってニューヨークで指揮をしてもその人気ゆえライバルから様々な妨害を受けたとされ、まさに生涯にわたって敵との戦いに明け暮れていたと言えます。こうした中での交響曲第8番の大成功において、マーラーはついにその生涯の絶頂、名声の絶頂に達したのでした。

 しかしその頃私生活では妻アルマとの関係は破綻の危機に晒されていて、交響曲第8番初演の1ヶ月前には精神分析医ジークムント・フロイトの診察を自ら受けに行くなど苦悩を抱えていました。アメリカとヨーロッパを行き来する多忙な生活の中で得た病によって、第8番初演において生涯の絶頂に達した僅か8ヶ月後にマーラーは没します。なお、この第8番の後に作曲されていた『大地の歌』、第9番、死の直前まで書いていた第10番(途中まで)はマーラーの生前は演奏されなかったことになります。

 この時代のヨーロッパは、人類の無限の可能性に疑いを持たず自らの欲望の赴くまま拡大・拡張を続けていた時代であり(数年後に第一次世界大戦に突入)、巨大なものへの憧れとも言うべき数々の偉業を成し遂げていました。ツェッペリンが巨大な飛行船を飛ばして商業航空会社を設立したのが1909年、アムンセンが南極点に到達したのが1911年、イギリスの豪華客船タイタニック号沈没事故は1912年に起きていることなど、これらと1910年に初演されたマーラーの『一千人の交響曲』とを同一線上で語るのは牽強付会の謗りを免れませんが、この曲が、ある時代の空気を吸いながらなしえた人類の偉業のひとつに数えても異論はなかろうと思います。

 私が最初にこの曲を聴いたのはLPレコードの時代、高校生の時に買ったディミトリー・ミトロプーロスがウィーン祝祭管弦楽団を振ったザルツブルク音楽祭でのライヴ録音(1960年8月28日、マーラー生誕100周年。First time on one record と記されたキワモノ。)。蚊の鳴くようなというか隣の部屋で鳴っている何かの騒音としか聞こえないような劣悪なものでした。巨大な作品とはいえ管弦楽部の弱音、合唱の弱音の魅力に溢れたこの曲の素晴らしさを味わうなんてとうてい無理な話で、想像力を最大限に発揮して聴かなければならないものでした。のちにリマスターされてCDになった演奏(音質は期待するほど改善されていない。オーケストラはウィーン・フィルと記されていますが、これは誤記と言うべきでしょう。)も聴きましたが、昨今の完成度の高い演奏を聴いた後ではさすがに聴き劣りするのは免れません。さすがの天才ミトロプーロスをしてもこの巨大な作品を纏め上げるのが精一杯、まだマーラー経験の乏しい混成オーケストラ相手に格闘している様が目に浮かびます。レナード・バーンスタインがその13年後にマーラーの交響曲第5番をウィーン・フィル(たぶんウィーン祝祭管弦楽団の母体だったはず)でリハーサルをしているドキュメンタリー映像を見たことがありますが、そこでもバーンスタインはウィーン・フィルのやる気のなさ、マーラー音楽の理解のなさに毒づきため息をつきながら汗だくになって振っていました。話しを8番に戻しましょう。

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 8番のヴァイオリン・パートを弾いている時に何故かワーグナーの音楽が耳の何処かで鳴っていました。他のマーラーの曲ではなかったことでしたが、似たような旋律があるわけでもないのに不思議に思っていました。どうやら、何度も繰り返される高い音から分散和音で下っていく音型がワーグナーの『パルジファル』や『トリスタンとイゾルデ』に通じるところがあるのかもしれません。しかし使い方は大きく異なり、ワーグナーは歌手が音を伸ばしている時や歌と歌の合間に劇的な効果を上げる感情表現として弦楽器に激しい音符を(つまり、歌を邪魔しないように)書いたのに対して、マーラーは歌手が歌っている時に同時に弦楽器に音符を与えているため、弱音を基本とした中でめまぐるしくダイナミクスを変化させます。

 しかし、意図するところはワーグナーと同じで歌手の内なる感情の起伏を背景に動く弦楽器によって暗示しようとしているものと考えられます。マーラーは下降だけでなく、上降して下降するというパターンも多く書いています。その中でリズムを変えたりするため音型によってはどうしてもテンポが揺らいでしまう傾向にあるため、マーラーはわざわざ Stets streng im Tempo (常に厳格なテンポで)や 、Sempre a tempo (常に元のテンポで)とまでスコアに書いて、奏者が気分に乗じてテンポを動かして歌を置いてきぼりにしたり足を引っ張ったりしないようにという配慮からと思われます(第1部の独唱陣のアンサンブル)。ソリストは8人もいてさらには混声合唱まである中、弦楽器に複雑な音型を同時進行させ、そのために細かくダイナミクスの変化をつけさるという、そんなスコアを書くなんてマーラーの頭の中はどうなっているのだろうと驚くばかりです。千人とは言わなくとも数百人が乗る広い音場でどの声部も聞かせるように演奏する、しかもオーケストラには伴奏というレヴェルを超えた決して易しくない音符を、意味ありげに且つ歌をかき消さないように演奏するのは困難を極めるとこと思わざるを得ません。

 例えば第2部のバリトンの独唱の箇所ではマーラーはこれでもかと速度標語Vorwärts (前に進んで)、 Poco stringendo.(少しだけ次第に速く)、Drängend.(急き込んで)を書き加えたあげく、あらゆる強弱記号を書きなぐってダイナミクスを秒刻みで変化させた上で技術的に極めて難しいパッセージを奏者に献上しています。確かにそれによって歌詞に隠された深い感情表現を劇的な効果を加えてわかりやすく正確に聴衆の耳に届けようとしています(この箇所こそワーグナーを超えた瞬間ではないかと私は確信しています。)。しかし、初演の50年後に演奏した天才指揮者ミトロプーロスですら苦労したこの曲で、マーラーは当時の奏者達からどれだけの結果を得ることができたのでしょうか。マーラーは指揮台の上で大歓声を浴びる中、指揮者として苛立ち怒りにたけり狂い、作曲者として失望と落胆に沈む自分の姿を見つめていたのかもしれません。この8番の後に書いた2人の独唱を伴う『大地の歌』では、この8番での経験を基にマーラーはまた別のオーケストレーションのスタイルを私たちに示してくれることになります。


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