封印再度
WHO INSIDE
 「詩的私的ジャック」(講談社ノベルズ、880円)の感想に、登場人物の誰1人として「なも」や「だがや」も使わないことを理由に、森博嗣の一連の小説の舞台となっている「那古野」は、現実の「名古屋」とは全く別の、一地方都市として考えるべきなのかもしれないと書いた。だが今回、「封印再度」(講談社ノベルズ、900円)を読んで、考えに少しだけ疑問の余地が出た。

 82ページから始まる第2章第7節、院生たちが集まってシュークリームを食べている場面で、高柳利恵という学生が次のようなセリフを口にする。「さっきの壺の話も信じられん。それ、やっぱ嘘に決まっとるて。出せえせんよ、絶対」(83ページ)、「なあにい、新たな疑問って? あんた、何を改まっとるの?」(83−84ページ)、「違うがね。ほれほれ、糸を操って底から鍵をかけとるでしょう」(84ページ)、「密室のトリックだゆうのはね、その糸もちゃんと回収するんだがね。糸を残したまんまでどうするの? ぼけっとしとってかんよ、あんた」(84−85ページ)。

 「なも」も「だがや」も登場しないが、これはまさしく「名古屋弁」の言い回しである。「那古野」を「名古屋」と考えれば、そして高柳がディープにして生粋の那古野人(つまりは名古屋人)だったとしたら、このような口調で喋っていても、いっこうにおかしくないということになる。もっとも、やはり「那古野」と「名古屋」は別の都市で、標準語が標準的に用いられる「那古野」に、「名古屋弁」が日常的に用いられている「名古屋」から、高柳がやってきただけなのかもしれないため、今はまだ完全に考えを改める気になれない。

 それでも「封印再度」には、「那古野」が「名古屋」ではないかと思わせる描写が数多く登場するため、なかなかに混乱させられる。今度の事件となった舞台、岐阜県明智町の「大正村」は現実に存在する集落である。行き方も「封印再度」とそっくりで、「名古屋」から出ているグリーンロードの猿投インターを降りて県道を道なりにずっと行く。名鉄が運営しているテーマパーク「明治村」とは違って、ただの古い街並みをそのまま「大正村」と称しているのも事実であるし、名誉村長を高峰三枝子が務めていたのも本当だ。

 だが、「香雪楼」という名前の旧家が存在していたという記憶はない。そこに香山家という代々仏画を生業として来た一族が住んでいるという事実も多分ない。ましてやその一族の先代が、戦後まもなく蔵の中で謎の死をとげて、今また蔵をアトリエにしていた息子の仏画師が、蔵に血痕だけを残して少し離れた河原で死体となって発見されるなどという、世間を震撼させるような事件が起きたとも聞いていない。やっぱり「名古屋」と「那古野」が違っているように、「名古屋」から行く大正村と「那古野」から行く大正村とは違った村なのかもしれない。

 結論を曖昧にぼかしたまま、とりあえず「那古野」がメインステージの「封印再度」に目を向けると、そこでは今回も、西之園萌絵が事件に巻き込まれて一騒動を起こす。舞台は前述の「那古野」からグリーンロードを通って行く大正村。「香雪楼」の蔵から仏画師が血痕だけ残して行方不明となり、後日近くの河原で遺体となって発見された。胸に刺し傷があったが、凶器だけが蔵からも、遺体発見現場の近くからも見つからない。実は死んだ仏画師の父親も、以前蔵の中で胸を刺されて死んでいたことがあったが、その時もナイフらしい凶器は発見されず、現場に「天地の瓢」と名付けられた壺と、「無我の匣」と名付けられた鍵のかかった箱が残されていた。

 「無我の匣」を開ける鍵は、どうやら「天地の瓢」の中に入っているらしいが、鍵は壺を割らない限り取り出すことができない。萌絵は最初、この箱と壺の秘密を解くために、大正村の香山家を訪れたのだったが、やがて何十年も前の父親とよくにた状況で香山家の当主が死んだこと、現場に壺と箱が残されていたこと、萌絵に壺と箱の存在を間接的に教えた香山家の長女、漫画家の香山マリモが交通事故にあって入院したことなど、次々と巻き起こる謎に惹きつけられるかのように、幾度も大正村を訪れ、事件に嘴を突っ込む。

 あいも変わらず犀川創平は、そんな萌絵をたしなめようとして逆に引っ張られ、意に添わない事件へと巻き込まれていく。少し違うのは、前作の「詩的私的ジャック」にも増して、今回も犀川創平と西之園萌絵との「萌え萌え」な展開が繰り広げられることで、いったい「すべてがFになる」で幕を開けたこのシリーズの、どこにこれほどまでに「ラブラブ」な展開に発展する要素があったのだろうと、読者の大半が今頃きっと、深く考えていることだろう。

 事件そのものの動機、もしくは動機とされたことには、凡人にはおよそ理解し難い要素があるが、強いて理解しようと務めるならば、己を滅することによってのみ見えて来る、至福の境地へと至る道の、最後の1山を越えるために不可欠な作業だったということか。あるいはラストに創平が想像したような、もっと下世話な、というより人間味に満ちた動機が、「匣」と「瓢」の謎の解明、そしてマリモの帰還といった要素を軸に、一気に爆発しただけなのかもしれない。

 だとしたら創平、いくら男女の機微に疎い朴念仁な独身者のように見えても、これでなかなか人の心の解る奴、ということになる。もちろんそうだからこそ、萌絵に対してあれほどまでに繊細な心遣いを見せることが出来たのだろう。

 それにしても初登場の県知事夫人、萌絵の叔母にあたる佐々木睦子の剛胆ぶりは、いつもうにゃうにゃとして萌絵にしてやらてばかりいる叔父の西之園捷輔とは、実に対称的。何しろ初対面の創平に、萌絵を横に置いたまま「この子ではいけませんの?」と問いただすくらいだ。そんな睦子を、(なんという精神力だろう)と冷静に観察している創平も、睦子に匹敵する剛胆さを持っているのだが、それでも萌絵に振り回されてばかりいる今の創平の姿を見ていると、いずれ「この子でいいです」といった暁に訪れる、齢を重ねて睦子のような精神的剛胆さを身につけた(今も身につけているがそれにより輪をかけた)萌絵を迎えた創平の暮らしぶりが、とても不敏に思えて仕方がない。

 そんな時だけは、「名古屋」が「那古野」ではなく、萌絵が「名古屋弁」を喋っていなくて、本当に良かったと思う。ムードの欲しいときに「あんた、何を改まっとるの?」、失敗すれば「ぼけっとしとってかんよ、あんた」なんて、解る人は解るあのイントネーションで、あんまり言われたくないからね。

森博嗣著作感想リンク

「すべてがFになる」(講談社ノベルズ、880円)
「冷たい密室と博士たち」(講談社ノベルズ、800円)
「笑わない数学者」(講談社、880円)
「詩的私的ジャック」(講談社、880円)


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