数奇にして模型
NUMERICAL MODELS
 鶴舞公演にある名古屋市公会堂であのイベントを見たのは、たぶん15年くらい前のことになるだろうか。暑い最中に長蛇の列について待つことおよそ4時間、午後も遅くなってからようやくたどり着いた場内は、それでも大勢の来場者で立錐の余地もないくらいにごった返していて、初めてのぞいたその手のイベントが、かくも大勢のファンを集められるという現実を、目の当たりにして愕然とした記憶がある。

 それよりも鮮明なのは、炎天下の場外で列を作っていた時に見た集団の扮装に感じた衝撃だ。決して目新しい扮装ではない。何故ならその扮装はすでに幾度もテレビの中で、あるいは雑誌の中で目にしたことがあったからだ。しかしだからといって、平面でしかお目にかかった事のないその扮装が、現実に立体物となって外を堂々を闊歩しているという様には、もう驚くよりほかになかった。「これがコスプレか」。

 かつて「ファンロード」創刊号で原宿ホコテンに出没したという「トミノコ族」の写真を見、また「SFマガジン」誌上で幾度となく取りあげられた「バーバレラ」なり「シャンブロウ」なりのマスカレードの伝説に接してなお、公園に敷き詰められた白い砂利の上を闊歩する、重力にチャレンジブルな体躯をした「チビ猫」には、「世の中にはこういう趣味の人たちもいるのだ」という大人の(といっても高校生だったはずだが)態度を粉砕するだけのパワーがあった。

 いわんや一切の免疫を持たずに、「セイラ・マス」やら「一条輝」を見た人が受けた衝撃たるやいかほどのものであったことか。だが果たしてその場で「チビ猫」なり「セイラ」なりの扮装で闊歩していた人々に、不慣れな観衆が抱いた「違和感」が伝わっただろうか。否。炎天下に居並ぶ行列を前にいささかの恥じらいもてらいもなく、楽しげに闊歩していた彼ら彼女ら”コスプレイヤー”(当時この言葉があったのかは定かではない)は、自らの規範に照らして「正常」との確信に満ちていたのではないだろうか。

 ここで正しいのはどちら、などという愚問を繰り返すつもりはない。多数決をとれば世に言う「一般大衆」の意見が正しいとされてしまうのは自明の理だからだ。しかし、たとえ他人には「異常」にしか見えなくても、当人の中で完全に首尾一貫している「正常」な思想があるのだということを、そのことは決して「理解」できるものではなく、ただ「認識」されるのみであるということを、森博嗣の「数奇にして模型」(講談社ノベルズ、1100円)は教えてくれているのだ。

 奇しくも舞台は鶴舞公園にある名古屋市公会堂と良く似た「那古野市公会堂」。ただしその日は15年前に炎天下の中を4時間待ちして入場した「コミカ」ではなく、「モデラーズスワップミート」という、模型マニアの集いだった。その「モデラーズスワップミート」に、筑波市にある某大企業の研究所から社会人入学という形で、鶴舞公園のすぐ横にある名古屋工業大学、ではないM工業大学大学院に学生としてやって来ていた寺林高司はフィギュアモデルのマニアとして参加していた。

 彼の腕前は広く世間(といっても狭い世間だが)が認めるところで、作品は市場に出れば数10万円の値段で取引され、また自作に着せたコスチュームが現実の女性モデルに着せられるだけの人気も誇っていた。当然のようにその「モデラーズスワップミート」にも、寺林の衣装を来た女性モデルが参加して、中身の美人さとあいまって結構な注目を集めていた。

 だが、初日を終えて自作が破損してしまった寺林が、ようやくにして修理を終えて公会堂を後にしようとした瞬間、彼は何者かによって後頭部を殴られて気を失ってしまった。やがて目が覚めた彼の前に転がっていたのは、モデラーとして繊細かつ鋭敏な目を持つ彼が判別した結果、彼とはモデラー仲間でアーティストとして尊敬も集めている筒見紀世都の妹で、彼が作った衣装を纏いコスプレを演じていた明日香、その人だった。

 折しもその事件があったのと同じ夜、M工業大学でも別の殺人事件が起こっていた。寺林と同じ大学院で学ぶ上倉裕子という女性が扼殺(やくさつ)体となって発見されたのだった。彼女はその夜、寺林と研究室で待ち合わせをしていると話していた。そして友人宅に電話をかけて、間もなく行くと告げた後に、殺害されたようだった。

 明けて翌日、寺林が密室となった公会堂4階の1室から発見された時、同じ部屋には1人の少女の首無し死体が転がっていた。それより先に明るみになっていたM工業大学での上倉裕子殺害事件とともに、当然のことながら真っ先に疑われたのが寺林だったが、彼には明確な動機がなく、また警察の尋問にも殺害を伺わせるような挙動、口振りはいっさい含まれておらず、警察は彼を逮捕できなかった。

 そして偶然にもその「モデラーズスワップミート」に居合わせた西之園萌絵も、寺林のあまりにも屈託のない言動を信じてしまった。もっとも疑われる立場に彼がいて、かつ彼が自宅に生首と模した模型を所有し、おまけに首を切断する方法を書いた冊子を持っていたとしても、あくまでも趣味と言い切る彼に、英明すぎて時に自らを「異常」と感じてしまう萌絵は、「そういう趣味の人がいる」と理解を示してしまった。

 だがしかし。とこれ以上は説明すると物語の根幹に関わる部分が露見しそうなので控えるが、敢えていうならば他人の趣味を理解したフリをしても、結局は徒労に終わることが多い、ということだ。だからといって頭ごなしに否定しても、現実に行われている目の前の「異常」な振る舞い、例えていうならば鶴舞公園に現れたコスプレイヤーたちが消えてなくなる訳ではない。ならばどうするか。

 「認識」するしかないのだろう。事件がすべて解決し、その「異常」さのみがクローズアップされようとした時に、萌絵は半分「理解」したふりをして、結局はその「理解」が致命的な失敗を招いたが、逆に犀川は「理解」などせず、ただ事態を「認識」した上ですべてを導き出した。

 さらに言うならば、萌絵は「理解」という行為によって相手の個性を認めようとして、結局は己の許容範囲に取り込もうとしたに過ぎず、犀川は「認識」という行為によって自分は自分であり他人は他人であるという、実に当たり前の、けれども許容範囲が重なり合って生まれる「常識」の枠組みに捉えられている人には決してたどり着けない命題から、犯人を探りその動機を推理した。

 「理解」と「認識」のそのどちらが、「正常」の補集合にあたる「異常」を評価する上で適切な行為なのかは解らない。休日の神楽坂をコスプレイヤーが歩いていても奇異な目で見られなくなったくらいに、世間はその行為に「理解」を示してはいるようだが、無限に拡大するはずのない「理解」よりも、「認識」の方がより広い範囲でこの複雑怪奇な世の中を、「正しい」とか「正しくない」といった「理解」の上に成り立つ判断とは異なる次元から、とらえらるような気がする。

 この何年か、あまりにもいろいろな「理解不能」な事が起こった。ともすれば同じ「理解不能」の一員として激しいバッシングに会う事柄や人達も少なからず出た。そんな時代だからこそ、限度のある「理解」に求めて「解ってくれ」と訴えるより、「私は私だ」と確固たる信念であり続けてその存在を「認識」させること、それが世に言うバッシングを、乗り越える道なのではないかということを、「数奇にして模型」という物語が語っていると、今はそんな気がしてならない。まあこれとても、物語を自らの規範に照らし合わせて正当化するための「理解」の行為に過ぎないのかもしれないのだが。

森博嗣著作感想リンク

「すべてがFになる」(講談社ノベルズ、880円)
「冷たい密室と博士たち」(講談社ノベルズ、800円)
「笑わない数学者」(講談社、880円)
「詩的私的ジャック」(講談社、880円)
「封印再度」(講談社、900円)
「まどろみ消去」(講談社、760円)
「幻惑の死と使途」(講談社、930円)
「夏のレプリカ」(講談社、780円)
「今はもうない」(講談社、880円)


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