レプリカ
REPLACABLE SUMMER
 「世間知らず」と俗に言う。決して褒め言葉なんかじゃない、揶揄や嘲弄や侮蔑のニュアンスを含んだ言葉として使われる。投げかけられれば大人だったら、大人だと任じているいる者だったら決して良い気分はしないだろう。了見の狭さ、視野の狭さ、知識の狭さを指摘されているようで、嫌な気持ちになるだろう。

 けれどもだ。世の中広く見知っているからといって、決して良いことばかりじゃない。蒙が啓かれたことにより、かえって見たくなかった物が見えて来る。いろいろな物が見えるようになったことで、柵(しがらみ)が生まれ、本質に目をつむってしまうようになる。それでも知識を求め、真実を求めて生きていかなくてはならなない人間の、その果てに突き当たる悩みと苦しみと哀しみが、森博嗣の「夏のレプリカ」(講談社ノベルズ、780円)の中で様々な人々によって示される。

 「幻惑の死と使途」(講談社、930円)に描かれる、奇術師・有里匠幻を巡る物語の冒頭で、西之薗萌絵がマジックショーへと誘った友人・簑沢杜萌。萌絵から婚約者という犀川蒼平を紹介されるはずが、蒼平は結局来ず終いで、杜萌は犬山市にある自宅へと帰って行った。その辺りでは知らない者のないくらい大きな屋敷に、タクシーでたどり着いた杜萌だったが、家には政治家の父も母も姉の紗奈恵もいなかった。

 朝になり、やはり戻っていなかった両親と姉の安否を気遣いつつ、どこか気後れして、夜の内に帰宅の挨拶を出来なかった血の繋がらない兄で、盲目の詩人として有名な素生の部屋を訪ねた杜萌だったが、鍵がかかって中に兄がいるのかいないのか解らなかった。1人で朝食の準備を始めた杜萌は、不審な物音に2階に上がると、そこで仮面を被った男と出会い、両親と姉が何者かに誘拐されたことを知った。その両親と姉は、長野の山荘で一組の男女によって監禁され、自宅に残る杜萌の安全を人質に、身代金を脅し取られようとしていた。

 やがて杜萌は仮面の男といっしょに長野へと向かい、そこで解放されて家族と出会った。だが残されたバンに、1組の男女の射殺された姿を見つけ、誘拐事件は一気に殺人事件へと発展してしまった。仲間割れによる犯行なのか、それとも別の4番目の人間による犯行なのか。事件の合間で消えてしった兄の素生から、「探さないで」との不審な電話が入るに至って、事件はますます複雑な様相を呈して来た。

 友人が巻き込まれた不思議な事件に、普通だったら呼ばれなくてもやって来てはかき回すだけかき回し、最後に蒼平のご来臨を賜ってすべて解決の萌絵だったが、この時ばかりは例の奇術師の事件と大学院への入試試験に追われて、友人の窮地に駆けつけることが出来ない。せいぜいが杜萌の祖父に当たる大物政治家が、死去した葬儀に叔母で県知事夫人の睦子と出向くくらいで、その時もおせっかいなど一切せずに、睦子に連れられて若手事業家と無理矢理見合いをさせられてしまう。

 「もっと世間を見なさい。もっと周りを見なくちゃだめよ。時間とか、社会とか、常識とか」。そう投げかける睦子の言葉には、自分の思いに猪突猛進な萌絵に世間を見せ、蒼平との関係にしても策謀を巡らせてうまく事を運べといったニュアンスがうかがえる。そんな叔母の態度に、萌絵は「人生ってどうして、どうしてこんなに屈折しているのだろう」と考え、「行き着きたいところが、すぐそこにあるのに、わざわざ回り道をして、まるでその苦労と楽しんでいるようだ」と、世間を見、周りを見ることで時間と社会と常識に縛られてしまう、その煩わしさに思いを巡らす。

 杜萌もまた、深窓を離れて都会での一人暮らしで見知った世間との関わりに悩んでいる。冒頭で語られる8歳年長の恋人と歩むであろう破滅的な将来像を思い描いて苦しみながらも、見知ってしまった世界にからめ取られて逃れられない自分を見つめている。そんな彼女と対称的に、美しくけれども盲目の詩人は、何も見えないが故にすべてを心の目ですべてを純粋に見る。山荘の夜、兄を誘惑したのもその誘惑に答えた兄を血塗れになるまで殴ったのも、己を知り、他者を知り、世間との柵(しがらみ)を増やし、すべてを相対化して生きていかざるを得ない自分の苦しみを、知らずすべてを絶対的な美のなかで見続ける兄への嫉妬が、爆発したからではなかったか。

 終局で、杜萌がたどりついた境地と、そこで萌絵が見た残酷な姿に、知識の、社会の、真実を知ることの苦しさを思い、「世間知らず」への深い憧憬を抱く。知らないことの幸せに思いを巡らせる。それでも人は知らずして生きてはいけない。ただ1人、すべてを知ってなおすべてを達観して生きている、犀川の境地にいつになったらたどり着けるのだろうか。いや、厳しい世間を知った萌絵のことだ、きっと犀川を柵(しがらみ)によって絡め取り、己との関係性の中に引きずり込んでいってしまうのだろう。

森博嗣著作感想リンク

「すべてがFになる」(講談社ノベルズ、880円)
「冷たい密室と博士たち」(講談社ノベルズ、800円)
「笑わない数学者」(講談社、880円)
「詩的私的ジャック」(講談社、880円)
「封印再度」(講談社、900円)
「まどろみ消去」(講談社、760円)
「幻惑の死と使途」(講談社、930円)


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