のばらセックス

 男性が滅亡し、世界が女性だけになって2000年ほど経って突然生まれた、世界でたった1人の男性が、好奇と拒絶の目に怯えながら生きる姿が、阿仁谷ユイジのSFコミック「テンペスト」(講談社、582円)には描かれる。

 女性どうしで生殖は可能で、愛しあう感情を普通に抱けるようになっている未来に、男性という存在はもはや大勢の記憶から遠のいて、どちらかといえば恐怖の対象とすらなっている。そんな世界に生まれてしまったたった1人の男性は、決して受け入れられない自分を悲しみ、地下へと潜ったものの、世界に起こる異変が彼の存在を、大きくクローズアップしていくことになった。

 果たして世界に男性は必要なのか。女性だけでは人類は存在不可能なのか。そんな主題が繰り広げられるだろう「テンペスト」とは反対に、日日日が書いた「のばらセックス」(講談社、1600円)で繰り出されたのは、世界に女性は必要なのか、といった主題だった。

 物語の舞台は「テンペスト」とはまったく逆に、女性がいなくなって2000年ほど経った世界。そこに突然、のばら様という女性が生まれ、社会に異性という存在への関心を甦らせた。唯一にして絶対の存在として、誰もがのばら様を奉るようになり、そんなのばら様を妹に持つ兄たちは、ある種の権力を得て繁栄していった。

 のばら様はやがて子を産むようになったが、なぜかほとんどが男性。やはりのばら様は奇跡だったのかと思われたところにひとりだけ、おちばという名の少女が生まれてきた。普通だったら貴重な存在として囲われ、おちば様と同様に崇拝の対象となるところを、なぜかおちばは嫌がって、社会のなかに身を置きつつ、それでも襲われる可能性があるからと、男装して学校に通い、その傍らで多発する猟奇的な性犯罪を取り締まる仕事に就いていた。

 「テンペスト」のように、男性の存在が一部ながら知らされても、それに興奮するどころか、逆に嫌悪感を女性が抱いたのとは対照的にに、「のばらセックス」の世界では、のばら様の登場が男性の眠っていた何かを刺激して、猟奇的な事件を起こすようになっていた。

 この差異が、研究の結果導き出された性差の違いを反映したものなのか、描き手の感覚に頼ったものかは不明ながらも、女性は女性だけで完結できる一方で、男性はどこかに女性を追い続ける本能めいたものが、あるということを表しているようで興味深い。

 物語では、おちばという少女は突然、兄であり夫でもある男から、寿命が尽きかけたのばら様の代わりになって、女の子を産むようにと強要され、捉えられ押し込められ陵辱される。けれどもそんな境遇から、おちばは自分を解放し、兄であり夫でもある男の陰謀を暴き立てて、世界をもうひとつ進んだ段階へと導いていく。

 奇病が蔓延して滅びに向かう世界で、人の体を継ぎ接ぎされて生まれた少女が疾駆する「ビスケット・フランケンシュタイン」(メガミ文庫)が、センス・オブ・ジェンダー賞という、ジェンダーを扱ったSF作品に与える賞を受賞した日日日。それに対し、とくに性を扱ったわけでもないのになぜ? と感じたことから、ならばと性に関する描写をこれでもかと叩き込んで描いたのが、この「のばらセックス」らしい。

 そう自認するだけあって、物語ではエロスとバイオレンスにまみれた表現が、間断なく繰り出されて男性を興奮へと誘う。もっとも、直裁的な性表現とは別に、男性ばかりの世界で女性が、欲望を超えた崇拝の対象となって偶像化され、社会をまとめる構図への言及があって、「ビスケット・フランケンシュタイン」に劣らず、性差というものの意味を問うている。

 果たして世界に女性は必要なのか。最後に繰り出されるビジョンは、形としての女性を求めながらも内実、種族を残し育むために欠くべからざる存在といった、生物としての本能に関わる部分で、必要とはしていないようにも映る。男性にとって女性は快楽で、慰安でしかないということなのか、それとも。考えさせられる。

 萩尾望都が「マージナル」に描いた、極端になってしまった世界が探る、生き残りの方策に通じるビジョンがあり、展開もあってSFファンには興味をそそられる物語。そして、「マージナル」が示した未来像とは違った、未来の有り様を示される物語。世界に女性は必要か。そして男性は必要か? その答えは、「テンペスト」が描き「のばらセックス」が描いた世界の訪れによって明らかになるだろう。


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