kids−fire.com
キッズファイヤー・ドットコム

 「左巻キ式ラストリゾート」が2004年に刊行された当時から、セカイ系でSFでクールでスタイリッシュでアヴァンギャルドなイメージを、多彩な職歴とそれにそぐうビジュアルも含めて醸し出していた海猫沢めろん。ハヤカワ文庫JAから「零式」を出したり、徳間ノベルズEDGEからナカガワヒロユキ名義で「舞−HiME」を出したりして、ライトノベルとSFの中間を突っ走る野尻抱介や小川一水や長谷敏司のような立ち位置に行くかと思ったら、割と方向を文学へと寄せて喧噪の中に生きる人間たちを描くような作家へと移っていった。

 それも決して多作ではなく、短編などを淡々と紡ぎつつエッセイやノンフィクションといった分野でも活動をしながら10余年、そろそろ風貌にも年相応の年輪が刻まれ始めたものかと思ったら、相変わらずに若々しくてイケメンで、おまけにイクメンとなっていた。ホストにヤクザにデザイナーに作家といった職歴から果たしてたどり着けるものなのか、いやいやそれだからこそたどりつけるものなのだ。そんな想像を喚起させられる今の立ち位置。そこから送り出されるに相応しい作品が、「キッズファイヤー・ドットコム」(講談社、1300円)だと言えるだろう。

 どのような話かと言えば、白神神威という名の人気ホストの部屋の前に捨てられていた赤ん坊を、同僚のホストたちがホストクラブでよってたかってウェーイと育てようとする話。そう聞くと、男やもめの人情ロマンめいた雰囲気が浮かぶけれども、中身はまるで反対。ノリは軽くて思いは真っ直ぐ。母親探しとかせず保育所探しに苦労もせず、自分で育てるのが当たり前と引き取り、なおかつホストクラブでクラウドファンディングを立ちあげては、赤ん坊を育て見守る権利を売って資金を集めようとする。

 それは非道なことなのか? 違う、そうじゃないと、過去にホストクラブで働いていた経験もあって、今はIT企業で大もうけしている三國孔明という男も巻き込んで、ロジックで固め反論して世間を納得させる。世界にある可愛そうなこどもたちに支援することどう違う? そんな理論も入れつつ、批判をかわしてスタートさせたその事業。名付ける権利や誕生日を祝う権利、ランドセルを買い与える権利等々、様々な権利を子に縁遠い人たちが買って育てるクラウドファンディングが行われる。どこかインチキくさい。でもあって悪くない。そうポジティブに思わせるのは、関わるホストたちがだれも明るさ真っ直ぐだからなのかもしれない。

 自分ひとりでは育てられない子供なら、社会が面倒を見れば良い、けれども物理的に手は貸せない、ならばネットを介して資金だけでも、といった現代ならではの子育ての仕組みはひとつのナイスな提案で、政治ができないこと、やろうとしないことをホストが行い、そして私たちが行うためにはどんなシステムとどんな理屈が必要かが、小説として示されている。読めばなるほど、これを政策にしたいと思う政治家も出てくるかもしれない。といった話は、後日譚的な「キャッチャー・イン・ザ・トゥルース」へと続くけれど、ともかく表題作はあまり難しく考えず、あっけらかんと社会的困難を突破していく奴らのウェーイなスタイルにボトル1本入れるノリで読んでいきたい。

 さて「キャッチャー・イン・ザ・トゥルース」。白鳥神威らに見守られて支えられて育った赤ん坊が6歳になった時に起こっている社会の変化、そして6歳の少年が抱く考えが、ノリと勢いで突っ走っていたウェーイの時代の熱情がちょっぴり冷めた社会を刺す。ほとんどの権利を売られ、衆人環視の中にあって生きる元赤ん坊に選べる道はほとんどない。そんな日々が、果たしてこれで良かったのかと気持ちを立ち返らせる。けれども、誰のものでもない自分という存在の死を意識して少年は思う。冒険はまだ続けられる。そんな可能性を示唆してくれる。

 クラウドファンディングというアイディアが子育てを変える可能性、衆人環視の中で生きる息苦しさを当然と受け入れた先に自分自身をつかみ貫く必要性、そんなものが得られる「キッズファイヤー・ドットコム」という単行本。作家の希望もあるようで、これがEXILE出演によるドラマ化となったら、大勢が格好良さに憧れ子育てをする男たちの姿に憧れ、クラウドファンディングによって社会で子育てをするような空気が生まれて来るかもしれない。実現するか否か。それはやはり作品の人気次第か。賞、取らないかなあ。


積ん読パラダイスへ戻る