吉井勇 ■吉井勇
(よしいいさむ)

 歌人で劇作家の吉井勇(1886-1960)は、1945年(昭和20)10月から1948年(昭和23)8月まで、孝子夫人と八幡市八幡月夜田の宝青庵(通称紅葉寺)で暮らしました。この間、吉井勇は松花堂で谷崎潤一郎や志賀直哉、梅原龍三郎などと親交を深めていました。
 吉井勇は1886年(明治19)、東京に生まれました。1905年(明治38)、「明星」に歌を発表。後に北原白秋らと「パンの会」を結成し、耽美派文学の一翼として多彩な活動を展開します。1909年(明治42)には森鴎外監修のもと、石川啄木らと「スバル」を創刊し、第一歌集「酒ほがひ」で歌壇的な地位を得ました。また、歌業を中核として、戯曲、小説、随筆、歌謡と幅広いジャンルにわたった活動を続け、多くの著作を残しました。
八幡市に居を構えた吉井勇は、八幡の風物や暮らしを詠んだ歌500首が収められた歌集「残夢」、八幡音頭の作詞、そして男山吉井の地名に彼の八幡における足跡が今も鮮やかに残っています。吉井勇は1960年(昭和35)74歳で亡くなりました。

【吉井勇が八幡の風物を詠んだ歌】

昭乗といへる隠者の住みし蘆 近くにあるをうれしみて寝る
松花堂好みの露地幾うねり 郁子の雨にも濡れにけるかも
しばらくは石の燈篭の八幡形 ながめてありきわれを忘れて
八幡なる泉之坊につたはれる この襖絵の幽玄を見む
女郎花塚のあたり雲雀鳴き 夕日のなかを雲水の来る
蘆を刈るころ越路よりうつり来て すでに六月の月夜田の里
安居橋はおもしろき橋太鼓橋 人のわたればとどと鳴る橋
霜しろき圓福寺道をかへりゆく 僧の痩肩寒げなるかな
包み背に水月庵の老尼がゆく 夕道やすでに凍てたる
石清水八幡みちを往くときは 雄ごころ起る何か知らねど
聴くほどに心かそけし松花堂 すむしあたりの松風の音
盆をどり今日は都々城か太鼓の音 遠く聞こえて蟋蟀(こおろぎ)の声
あはれなる女身を投げ死にきとよ 放生川のいにしへあはれ


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