松花堂昭乗 ■松花堂昭乗
(しょうかどうしょうじょう)
天正12年(1584)
〜寛永16年(1639)9月18日


●松花堂昭乗

松花堂昭乗は、慶長5年(1600)石清水八幡宮の社僧となり、次いで瀧本坊の住職となりました。昭乗は、書道、絵画、茶道の奥義を極め、近衛信尹、本阿弥光悦とともに寛永の三筆と称せられました。

●昭乗の出生・素性は謎

 松花堂昭乗は摂津国堺で生まれ、幼名を辰之助と言いました。兄の喜多川与作が12歳の時、その聡明さを見込まれて興福寺別当一乗院門跡の坊官であった中沼家に迎えられ、この兄に従って奈良に移りました。しかし、その昭乗の出生、素性については、実ははっきりしていません。昭乗と親しかった佐川田昌俊が記した「不二山黙々寺記」によると天正12年(1584)に生まれたとしていますが、「中沼家譜」によれば天正10年(1582)に生まれたことになります。また、昭乗が父母について語ったことがないと伝えられ、昭乗の師であった実乗は、昭乗のことを「捨て子であったものを拾い上げて育てた」と言っています。このとき、すでに昭乗は9歳。少し疑問が残ります。このため、昭乗は豊臣秀次の子であったともいわれています。

●青年期の昭乗

慶長5年(1600)、昭乗17歳の時、石清水八幡宮瀧本坊実乗のもとで剃髪をして社僧となり、このとき名を昭乗と改めました。特に青蓮院流を学びましたが、慶長7年(1602)、昭乗20歳のとき、四天王寺に参詣して弘法大師の巻物を拝観し、いたく感動、その後大師流を学び、空海を慕って唐風をを祖述したといわれます。そして昭乗は後に松花堂流とも言うべき書風を確立しました。

昭乗の作品「茄子」 ●昭乗の交友

昭乗は、書道のほか、歌道、絵画にもすぐれ、茶道にもその才能を発揮しました。絵画では狩野山楽、山雪について大和絵を学びました。山楽が大坂落城後、昭乗を頼って八幡に来たとき、昭乗は「山楽は絵師で会って武士にあらず」と言い張って、徳川の追求から護ったと伝えられています。また、茶道を通じて大徳寺の玉室・沢庵・江月などの禅僧や小堀遠州・金森宗和などの大名茶人と交友を深めました。
また、昭乗の茶会記には、豪商淀屋个庵の名も見えます。このときの淀屋は2代目言當でした。
寛永3年(1626)6月11日、前将軍秀忠並びに将軍家光が入洛のため江戸を出発したという状況のなかで、伏見城内で催された茶会では、先に入洛していた尾張中納言徳川義直を席主として、当時伏見奉行の任にあった小堀遠州とともに関白近衛信尋を招待し、義直と信尋の接近を図り、公家と武士の間の斡旋に尽力しています。
昭乗は若い頃、近衛信尹に仕えて以来、近衛家とはきわめて深い関係にありました。信尹が嗣子がなかったため、妹前子が入内して後陽成天皇との間に生まれた皇子を近衛家に迎え、これが信尋でしたが、この信尋とも昭乗は親密な関係にありました。また、尾張徳川家の祖義直は、石清水八幡宮の社務田中家の分家にあたる志水宗清の娘である亀女が徳川家康に嫁ぎ、その間にもうけた子であったから、義直とも特別な関係にあったことから両者の斡旋にあたるにはもっともふさわしい位置にあったといえます。

草堂「松花堂」 ●晩年の昭乗

寛永4年(1627)に師実乗の遷化にともない、瀧本坊の住職となりました。このとき昭乗45歳。数年後、火災により、瀧本坊が焼失してからは、兄元知の子で弟子の乗淳に住職を譲り、自らは「惺々」と号して風雅の境地を築きました。
昭乗が人生の晩年に幽栖するために寛永14年(1637)に男山中腹の泉坊のそばに作った草堂が「松花堂」といわれるもので、たった二畳の広さの中に茶室と水屋、く土、持仏堂を備えた珍しい建物です。ここに詩仙堂の石川丈山や小堀遠州、木下長嘯子、江月、沢庵など、多くの文人墨客が訪れ、さながら文化サロンの風だったと伝えられています。
 松花堂の軒にかかる小さな扁額には「松花堂」と隷書で彫られ、「惺惺翁」の落款が見えます。「老いてなお、心は冴え冴え」というもので、昭乗の心が偲ばれます。

●昭乗の入寂

寛永16年(1639)、このころから昭乗の背中に腫れ物ができ、昭乗は痛みをこらえる日々が続いたようです。実は昭乗の師であった実乗、また実乗の師の乗裕も背中にはれものができて、それが原因で亡くなっています。このことから、昭乗はこのとき自分の死期を悟ったようです。伏見奉行だった小堀遠州は、昭乗を伏見に呼び、名医による治療を受けさせましたが効果はありませんでした。近衛信尋も病気見舞いに訪れるなど、多くの人たちに愛されながら同年9月18日、55歳の生涯を閉じました。本阿弥光悦の80歳など「寛永の三筆」の中では短命でした。昭乗の墓は、八幡市八幡平谷にある泰勝寺にあります。また、昭乗が晩年に過ごした「松花堂」は今は八幡女郎花の松花堂庭園内に再現されています。

松花堂弁当 ●昭乗と松花堂弁当

松花堂といえば、松花堂弁当が有名です。しかし、松花堂昭乗が弁当を考案したのではありません。昭乗は農家が作物の種などを入れるために使った田の字の形に仕切った箱をいくつも手許に置き、絵の具箱に用いたり、薬を入れたりタネを入れたりして、満悦だったと伝えられています。
昭和の初め、この昭乗遺愛の箱を見て、これに料理を盛りつけてはと考えたのが、大阪の料亭吉兆の主人、湯木貞一さんでした。これがうけて松花堂弁当は全国に広がりました。その松花堂弁当を、創作した吉兆が松花堂庭園内で提供しており、今日における新名所となっています。


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