1796年5月10日
ロディ





ロディ橋の強行突破


「ぶどう月(ヴァンデミエール)にせよまたモンテノッテすら、わたしに卓越した男という自信をつけさせるまでにはいたらなかった。自分がけっきょくはわが国の政治舞台で決定的な役者になれると思いいたったのは、ローディのあとにすぎない。あのとき、大きな野心の最初のきらめきが生まれたのだ」
長塚隆二「ナポレオン(上)」p168

 ナポレオンの有名なこの言葉は、ラス=カーズの本に掲載されているものだ(Memoirs of the Life, Exile, and Conversations of the Emperor Napoleon, Vol.I p96)。日付は1815年9月1−6日。セント=ヘレナにはまだ到着しておらず、船の上で語ったものだと思われる。また、彼は別の時期にも同様の話をラス=カーズに向かって言及している。

「1816年10月18日(中略)
 彼[ナポレオン]は軍事的初舞台を、最初の成功によって獲得した突然の支配力と彼の気持ちを動かした野心について最初に彼に気づかせた出来事であるツーロンまで遡った。彼は『それでもなお私は自分自身を高く評価するには至らなかった。ロディの戦い後になって初めて私は高貴な野心を抱き、エジプトにおけるピラミッドでの勝利とその後のカイロの取得によって確証を得た』と話した。『そして私は進んで自らを全ての輝かしい夢に委ねた』」
Memoirs of the Life, Exile, and Conversations of the Emperor Napoleon, Vol.IV p4

 ラス=カーズの本を読むと、ナポレオンがロディの戦いを人生における重要な転機と見なしていたように思われる。では、ロディで彼はどんな経験をしたのだろうか。一般向けの本には、以下のような話がしばしば紹介されている。

「ボナパルトは思わず手で顔を覆った。ブリエンヌで刻苦勉励したことも、ツーロンやぶどう月の功績も、いままでの生涯とともに一挙に崩れ落ちる音を聞いたような気がした。つぎの瞬間、旗手から軍旗をひったくるなり、無意識のうちに橋に向かって駆け出していた。マッセナをはじめベルティエ、マルモン、またデーゴの戦闘で獅子奮迅の働きをして少佐から大佐に二階級特進したランヌがそのあとにつづく」
長塚隆二「ナポレオン(上)」p167
(注:長塚はマルモンが橋の上の突撃に参加したように書いているが、マルモン自身の回想録にはそうした話は一切存在しない。またランヌはデゴの戦いよりずっと以前から大佐になっている)

「正面30人未満の縦隊が姿を現したところ、彼らはオーストリア軍砲兵の集中した砲撃に晒され、橋を半分渡ったところで前進を阻止された。しかしボナパルト自身とマセナが前方へ突進し、兵の勇気を甦らせ、そして何人かが橋から飛び下りて浅瀬を前進しようとしている間に、残りは敵を強襲し、砲列を突破し歩兵を駆逐した」
Encyclopedia Britannica "French Revolutionary Wars"

 上に紹介したのはほんの一部に過ぎない。また、一般向けというより多少マニア向けな本の中にも、ナポレオン自身が先頭集団に入ってロディの橋を突破したと書いている例はある。

「ランヌは[ロディの橋を]渡った最初の人間であり、2番手がボナパルトだった」
Napoleonic Literature Joel Tyler Headley "Napoleon and His Marshals" Vol.I, Chapter VI

「ボナパルトと彼の幕僚は重要な時であることを感じた。縦隊は新たな兵によって増員され、ボナパルトと6人の将軍(ベルティエ、マセナ、セルヴォニ、ダルマーニュ、ランヌ大佐、デュパ少佐)は自ら縦隊の先頭に立った」
Brent Nosworthy "With Musket, Cannon and Sword" p5

 この話は昔から知られていたものでもある。例えば明治27年に出版された本には以下のようにある。

「是に至りて渠等ハ再び人間として耐ゆ可らざる射撃を受け、流石に武き佛軍も稍たぢろきて見えたりき、之を觀る、拿破崙ハ直ちに自ら軍旗を打ち振りランヌ、マッセナ、ベルチエーの諸將を隨へ、身を跳らして陣頭に立ち現はれ、白光一閃叫て曰く『汝らの將帥に隨ひ來れ』と暗々蒙々晝猶ほ夜の如き硝煙を冐し鐵蹄砂を蹴立てヽ驅け進む」
野々村金五郎「拿破侖戦史」p53
近代デジタルライブラリー

 ナポレオンはロディの戦いにおいて、軍旗を掴み自ら隊列の先頭に立って突撃した。そしてその戦いの後で、彼は自分が「卓越した男」であると考え、かつてない野心を抱くようになった。専門的ではない本に書かれた俗流の解説ではそのようになる。典型的なナポレオン伝説と言っていい。

 では俗流解説本ではなく、専門家が記した本にはどう書いているのだろうか。以下にいくつかの例を示そう。

「すぐに前進の試みが再開され、マセナ、ダルマーニュ、セルヴォニ、ベルティエを含む多くの高級将校たちが自ら縦隊の戦闘に立ち、共和国万歳! の叫びとともに、兵たちは大混乱の中へと群れを成して前進した」
Chandler "Campaigns" p83

「縦隊はたじろいだ。だがベルティエが軍旗を掴んで前進した。マセナ、ランヌ、ダルマーニュ――士官と兵士たちが入り乱れて――後を追った」
Esposito & Elting "Atlas" map10

「彼[ボナパルト]は士官たちを再編し、その士官たちは決然とした勇敢な混乱の中で橋の上を突進し、兵たちは渋々とその背後をよろめいていた。マセナ、ダルマーニュ、セルヴォニ、ランヌ、そして彼の本来の得意分野からは明らかに外れていたが参謀長のアレクサンドル・ベルティエまでが橋を渡りクロアチア兵を散り散りにさせた」
Margaret Scott Chrisawn "The Emperor's Friend" p20-22

「オーストリア軍の散弾に一掃され、戦闘の中隊がたじろぎ立ち止まる恐れが生じたその時、一度前進が阻止されれば全てが失われると見て取ったマセナ、ダルマーニュ、セルヴォニ、そしてベルティエが自ら、既にランヌがそこにいた筈の縦隊に身を投じ、『共和国万歳』と叫びながら彼らを引っ張っていった」
Ramsay Weston Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume IV" p36

「この時、かつて襲撃部隊を率いた士官集団の中で最も注目に値するものの一つが、自ら前方へ身を投じ、叫び、なだめ、鼓舞しながら兵たちを再び攻撃に戻らせた。その中にはマセナ、ベルティエ、ランヌ、セルヴォニ、ダルマーニュ、そしてデュパがいた」
Martin Boycott-Brown "The Road to Rivoli" p314

 兵たちを率いた士官たちの名として出てくるのは(研究者によって多少の異同はあるが)ベルティエ、マセナ、ダルマーニュ、セルヴォニ、ランヌ、デュパといった面々であり、ボナパルトの名は一つも出てこない。ここに上げた研究者たちは、誰一人としてボナパルトが軍旗を持って突撃に参加したと認識していないのである。
 なぜか。証拠が無いからだ。真っ当な研究者なら、一次史料の裏付けがない話をほいほいと書いたりはしない。そして、ボナパルトが軍旗を持って縦隊の先頭に立ったということを裏付ける一次史料は見つからないのである。
 まずナポレオンがロディの戦い後に記した報告書を見てみよう。そこには「縦隊の先頭は躊躇ったように見えました。一瞬、全てが失われたように思われました。ベルティエ、マセナ、セルヴォニ、ダルマーニュ将軍とランヌ大佐、デュパ少佐はその危険を感じ、隊列の先頭に駆けつけて運命を決めました」と書いている。隊列の先頭に立った士官の名として記されている6人は、真っ当な研究者たちが上げた名と一致しており、彼らがこうした一次史料をきちんと調べた上で書いていることが窺える。
 この報告書だけではない。ナポレオンはその後もセント=ヘレナなどでロディの戦いに言及することがあったが、その時も自分が軍旗を持って先頭に立ったと述べてはいない。例えばモントロンに対してロディの戦いを解説した時には、次のような話をしている。

「縦隊の先頭は左に旋回するだけで橋に到達し、そこを駆け足で数秒渡ったところですぐさま敵の砲撃を受けた。縦隊が敵の砲撃に晒されたのは橋を渡るため左旋回をした時だけだった。結果、縦隊はあっという間に顕著な損害もなく対岸に到達し、敵戦線に襲い掛かり、それを打ち破って大混乱のうちにクレモナへと退却させ、大砲といくつかの軍旗と2500人の捕虜を得た」
Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol.III p177

 どこにもナポレオンが先頭に立ったとは書かれていない。それどころかベルティエ以下の士官たちが突進に加わったことすら述べていない。淡々と兵士たちの活躍を指摘しているだけだ。
 そして何より決定的なのが、ナポレオン自身がロディで先頭に立ったことを否定している発言があること。セント=ヘレナで英国人のオメーラから質問を受けた皇帝は、以下のような話をしている。

「1817年4月21日(中略)
 軍旗を掴んで敵兵の中に向かって自ら突進したのはロディか、それともアルコラなのかを皇帝に尋ねた。彼は答えた。『ロディではなくアルコラだ。アルコラで私は僅かながら負傷した。しかし、ロディではそうしたことは起こらなかった。なぜそんなことを聞く? 私を臆病者だと思っているのか?』と笑いながら彼は言った」
Napoleon in Exile, Vol.II p2

 また、以下のような話もある。

「ベルトラン夫人が本の中の一冊を手に取り、たまたま以下の一節を開いて大きな声で読み上げた。『ボナパルトによる最初の戦いはロディ橋を巡るものである。彼は大いに勇気を示し、彼の後に橋を渡ったランヌ将軍に完璧に支援されていた』。――前だ! と皇帝は叫んだ。私の前だ! ランヌは最初に橋を渡り、私は単に彼についていったに過ぎない。それはすぐに修正しなければ」
Recueil de pieces authentiques sur le captif de Sainte-Helene p375

 ランヌが最初に橋を渡り、ナポレオンはそれについていっただけ。Headleyはこれを読んでナポレオンがランヌの次の二番手で渡ったと勝手に解釈したようだが、よく読めば分かる通りナポレオンはランヌより後に渡ったとしか述べていない。この記録は、二番手が軍旗を持ったナポレオンであることの証拠にはならないのである。

 ナポレオン本人だけでなく、現場に居合わせた他の人間も同じような話をしている。一つは第32半旅団の擲弾兵の証言だが、その中にはナポレオンが先頭に立ったという記述が一切ない。

「ブオナパルテ将軍がやって来て、擲弾兵とカービン銃兵に前衛部隊を組織させ、全大隊に小隊ごとに縦列編成を組ませた。突撃命令が下った。縦隊は敵砲列に向かって突進した。敵砲兵隊に二発目を発砲させる余裕を与えなかったが、一回目の砲撃で我が方にかなりの死傷者が出た。橋を渡った前衛は攻撃を続行し、大砲を奪い、これを奪取した。敵歩兵戦線は勇猛果敢な我が前衛に恐れをなし、部署を放棄した」
フランソワ・ヴィゴ=ルシヨン「ナポレオン戦線従軍記」p43

 マルモンが戦いの数日後に母親に出した手紙でも、ナポレオンの名前に一切触れていない総裁政府への報告書が正確だと太鼓判を押している。

「1796年5月14日、クレモナ(中略)
 戦闘の詳細な経緯については記しません。公報のいくつかで読めるであろう報告は極めて正確で、真実を完全に明らかにしてくれるでしょう。あなたはそこに私の名を読んで喜んでくれるものと私は信じています」
Memoires du Marechal Marmont duc de Raguse, Tome Premier p320

 マルモンはさらに、アルコレの戦いについて記した部分で以下のような指摘もしている。

「単なる小競り合いだったこの突撃は何ももたらさなかった。私が見た中で、ボナパルト将軍が本当に個人的な危険に大いに身を晒したのは、イタリア戦役を通じてこの時が唯一だった」
Memoires du Marechal Marmont Duc de Raguse, Tome Premier p238

 アルコレが「ボナパルト将軍が本当に個人的な危険に大いに身を晒した」唯一の時だったということは、即ちロディで彼は危険に身を晒していなかったということである。これはナポレオン本人のセント=ヘレナでの証言と一致しているし、ヴィゴ=ルシヨンが橋上の突撃に関してナポレオンの存在に触れなかったこととも矛盾しない。
 ナポレオンから報告を受けた総裁政府も、彼自身が部隊の先頭に立って突撃したとの認識は持っていなかった。ロディの勝利を知ってカルノーが寄越した返事は以下のようなものである。

「パリ、共和国暦4年花月26日(1796年5月18日)
(中略)
 ロディの征服者に不滅の栄光を! 町の門に大胆な攻撃を目論み、フランスの戦士たちの戦列に混じって自身的の殺人的な砲火に身を晒し、敵の敗北を確実にするためにあらゆる布陣を行った指揮官に名誉を! 敵を打ち破り屈服させた不屈で恐るべき共和国の縦隊の先頭へと突進した果敢なベルティエに名誉を! マセナ、セルヴォニ、ダルマーニュ将軍、サリュース、デュパ、スニ准将、第3擲弾兵大隊の大隊副官トワレに名誉を! 勇敢な第2カービン銃兵大隊、この日の運命を決めた勝利を得た擲弾兵たちに名誉を! オージュロー将軍率いる勇敢な師団とその指揮官に名誉を! 政府の派遣議員、サリセッティに名誉を!」
Correspondance inedite officielle et confidentielle de Napoleon Bonaparte, Tome Premier p195

 「縦隊の先頭へと突進した果敢」な人物のところに入っている名前は、ナポレオンではなく彼の参謀長であるベルティエだ。ナポレオン自身が「殺人的な砲火に身を晒し」たと書いてはいるが、これはロディ橋攻撃のためナポレオンが自ら砲列を布陣させたことを意味していると考える方が妥当だろう。要するに、フランス軍がロディ橋上を突進した時、その隊列の先頭にナポレオンはいなかったのである。

 ではラス=カーズが紹介しているナポレオンの証言はどう考えればいいのか。ロディの戦いは、ナポレオンの人生にとって画期となる出来事ではなかったのか。そう思う人もいるかもしれないが、もう一度ラス=カーズの文章を良く見てほしい。彼が記録したナポレオンの証言によると「大きな野心の最初のきらめきが生まれた」のはロディの戦いの「あと」である。
 ロディの戦いの後というのは、具体的にどのくらい後なのか。ラス=カーズは記していないが、ベルトランの記録を読めばそれがはっきりと分かる。それはロディの戦いから数日後、彼がミラノに入城したタイミングで訪れたのだ。ベルトランの記録を読んでみよう。

「彼[ナポレオン]はそれまでに実現した何事であれ――砲兵を指揮したトゥーロン攻囲も、イタリア方面軍への赴任も、サオルジオの紛争も、ラオノの会戦も、ヴァンデミエール13日と国内軍の指揮も、イタリア方面軍を指揮した初期についても、ミレシモもモンテノッテの戦いも、トルトナの奪取も、ポー河の渡河も、ロディの戦いも――自身が他者に優越すると感じさせるものではなかったと言明した。
『私[ナポレオン]が他の人間と私の間に存在する差に気づき、フランスの混乱を収めるために運命に招かれたという事実を察したのは、ロディの戦いの数日後であった。
『私は既にクレマとメレニャーノから戻り、市の鍵を私に差し出す[降伏する]ためメルツィがミラノからの代表団と伴に到着していたので、ミラノに入っていた。私はちょうど総裁政府から、軍の一部と伴にナポリへ進軍し、イタリアの指揮権をケレルマン将軍へ引き渡せとの命令を受け取ったばかりだった。
『私はこの手紙について熟考していた。この無分別な命令によってイタリア方面軍が敗北することを想像し、一人の劣悪な将軍の方が二人の優秀な将軍より価値があると述べた手紙を作成した。この手紙は私の書簡集の中にある。その時、私は部屋の角にある暖炉の傍に座っていた。天候は穏やかだったが、火はつけられていた。どうやら雨が降っていたらしい。私が考えにふけっている時、メルツィの到着が告げられた。
『まさにこの時から、私自身の優越性に関する理解が始まった。私にはもっと多くの価値があり、このような命令を下す程度の政府よりもずっと強力である。彼らより私の方が統治するにふさわしい。政府は無能なだけではなく、究極的にはフランスを危険に晒すほど重要な問題を判断する能力も欠いている。私はフランスを救うべく運命づけられているのだ。この時から、私は自らの目的地を垣間見て、一直線に進んでいった』」
Henri-Gratien Bertrand "Napoleon at St. Helena" p91-92

 ロディの戦いは、ナポレオンが「他者に優越すると感じさせるものではなかった」。ナポレオンが「フランスを救うべく運命づけられている」と感じたのは、ミラノ降伏の交渉にやって来た人物と出会う直前であり、総裁政府がケレルマンに指揮権を譲れと書いて寄越した後であり、ロディの戦いからはかなり時間が経過したタイミングだったのだ。ナポレオンがロディの橋で部隊の先頭に立ったことの傍証としてラス=カーズの記録を取り上げるのは、むしろ不適切だろう。

 ではなぜ、本人も現場に居合わせた人間も主張していない「ナポレオンが軍旗を握って先頭に立った説」が広まっているのか。おそらくこの「伝説」がもの凄く古く、もしかしたら事実(史実)が伝わるよりも早く伝えられたことが、その背景にあるのではなかろうか。
 私の調べた限り、最も古い「伝説」は何とロディの戦いの翌月、つまり1796年6月にはもう存在していた。それも、なぜか英国の雑誌に。The Scots magazineの1796年6月号(p420)と、The Universal Magazineの同じ6月号(p448)に、ボナパルトのロディ伝説が掲載されている。どちらの文章も内容は基本的に同じだ。

「総裁政府はその後、以下の重要なニュースを受け取った。
 ボーリューは再び戦いにその運命を委ねようと試みた。しかしながら彼は花月22日[5月11日、ママ]にロディで完璧に敗北し、その地から追われた。彼はアッダ川を渡り、1万の騎兵及び歩兵と伴に守りを敷いた。ブオナパルテは自ら散弾の雨を突いて行軍し、4000人の擲弾兵の先頭に立って攻撃し銃剣突撃で橋を奪った。ブオナパルテの部隊は3000人のオーストリア兵を殺すか捕虜にした。彼はまた20門の大砲、400頭の馬匹を奪った。残るオーストリア軍は夜闇によって助けられた」
The Universal Magazine for June, 1796. p448


 ブオナパルテが「擲弾兵の先頭に立って(中略)橋を奪った」と明確に書かれている。どうやら英国に届いた第一報の時点で、この話は史実からかけ離れてしまっていたと見なすべきだろう。
 それにしてもなぜこんな話が伝わったのか。このような誤解を生む元になった文献がフランス側にあったためなのか。そう思って色々と調べてみたのだが、どうもそれらしいものが見当たらない。もちろん完璧に調べた訳ではないので絶対に存在しないとは言えないのだが、少なくともモニトゥール紙にはないようだ。The Universal Magazineではパルマ公との休戦協定の後に上記のニュースが書かれているのだが、Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Vingt-Huitième.で休戦協定(p275)の後に載っているロディの第一報を見ると、以下のような文章になっている。

「追記。総裁政府は昨日[花月29日、5月18日]夕、これまでの勝利よりも素晴らしい新たなイタリア方面軍の勝利に関するニュースを受け取った。戦列を敷いたボーリュー軍の正面でアッダ渡河が実行された。ロディの街は奪取され、20門の大砲と多くの弾薬を奪われた。3000人が戦死するか捕虜となった。
 ボーリュー軍の残党は勝者の追撃を避けるため、100人から200人の群れに分かれてヴェネツィア領に逃げ込んだ。ヴェネツィアの街々はその城門を閉ざした。この時点で我々の兵がミラノに入城したことは確かだ」
Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Vingt-Huitième. p278


 ボナパルトが「散弾の雨を突いて行軍」した話も、「擲弾兵の先頭に立って」突撃した話もない。司令官がどうしたではなく、フランス軍が勝利したことを報告する内容だ。この文章を翻訳してもThe Universal Magazineに載っているような内容にはならないだろう。英語伝説の元になるフランス語文献があったとしても、それはモニトゥール紙ではなさそう。ではどの文献なのか、そもそも本当にそんな文献があるのかどうか、そのあたりは分からない。

 さて、上記の最も古い「伝説」の特徴として、軍旗が登場しないことが挙げられる。伝説に軍旗が出てくるのは1797年になってから。The Monthly Magazineの1797年5月号に「著名な人物に関する独自の挿話と評価」(p373)というコーナーがあり、そこでボナパルトを含むフランスのイタリア方面軍将軍たちが紹介されている。その中に、ロディで「ブオナパルテは尉官から軍旗をひったくり、同じ状況でカエサルがしたように自ら先頭に立ち、その行動と身振りで兵たちを鼓舞した」(p376)という話が載っているのだ。
 これと同じフランス語文献はあるのか。ある。ただし、出版年はThe Monthly Magazineの翌年、つまり1798年だ。Recueil d'anecdotesのp227にThe Monthly Magazineのフランス語訳といっていい文章が載っている。軍旗に関する「伝説」は、どうも英語圏の方がフランス語圏より先行しているように思える。
 どうやら「ロディ伝説」は英語文献から、もしくは英語文献を通して広まった可能性があるようだだ。そう考えるとセント=ヘレナでオミーラがナポレオンに向かって「ロディでこうやった筈だ」と強硬に主張したのも分かる気がする。英語圏でよく知られていた伝説だったからこそ、英語圏の人間であるオミーラが熱心に問い質したと考えられるのではなかろうか。ナポレオン自身がこの伝説に対して鈍い反応を示すことに、彼は苛立っていたように思える。

 いずれにせよ、この伝説はナポレオン本人の否定にもかかわらず、根強く生き残り広がった。そして200年以上経過した今もなおしぶとく言及されている。おそらく、史実より伝説の方が話として面白いからだろう。人間は事実を信用するのではない。自分が信じたい話を信用する生き物である。そういう人間たちにとっては、ナポレオンが軍旗を持って先頭に立ったという話の方が言い伝えるにふさわしい「物語」だったのであろう。

――大陸軍 その虚像と実像――