ロディ
ボナパルトの報告



 総裁政府宛て

 ロディの司令部、共和暦4年花月22日(1796年5月11日)

 私はこの戦役でポー河の渡河が最も大胆な作戦であり、ミレシモの戦いが最も激しい戦闘だったと考えております。ですが、ここで私はロディの戦いに関する報告を送ります。
 司令部はカザルに21日午前3時に到着しました。9時、我々の前衛部隊はロディへの接近路を守っている敵と接触しました。私はすぐに全騎兵に対し、ピアチェンツァの貴族たちの馬によって運ばれ到着したばかりの4門の軽砲とともに騎乗するよう命じました。ボルゲットーで宿営したオージュロー将軍の師団と、カザルで宿営したマセナ将軍の師団もすぐに移動を始めました。その間、前衛部隊は敵の全陣地を破り大砲1門を奪いました。我々は敵を追ってロディに入りましたが、彼らは既にアッダ川の橋を渡っていました。ボーリューはその全軍を戦闘隊形に並べ、30門の重砲が橋梁を守っていました。私は我が全砲兵を配置につけました。数時間にわたってとても激しい砲撃が行われました。軍は到着するや否や密集した縦隊を組み、第2カラビニエ大隊を先頭に、その後に全擲弾兵大隊が続き、駆け足で『共和国万歳!』と叫びながら長さ100トワーズの橋に到達しました。敵は恐ろしい砲撃を浴びせてきました。縦隊の先頭は躊躇ったように見えました。一瞬、全てが失われたように思われました。ベルティエ、マセナ、セルヴォニ、ダルマーニュ将軍とランヌ大佐(chef de brigade)、デュパ少佐(chef de bataillon)はその危険を感じ、隊列の先頭に駆けつけて運命を決めました。
 この恐るべき縦隊は対峙するあらゆるものを撃退しました。[敵の]全大砲はすぐに奪われ、ボーリューの戦線は崩れました。部隊はあらゆるところに恐怖と逃走と死をばら撒きました。一瞬のうちに敵軍は散り散りになりました。リュスカ、オージュロー、ベラン将軍が師団とともに到着して橋を渡り、勝利を決定的にしました。騎兵はアッダ川を浅瀬で渡りましたが、この渡渉はとても困難なものだったため彼らは大いに遅れ、敵に襲い掛かることができませんでした。
 敵騎兵は歩兵の退却を援護するため我々の兵に突撃を試みましたが、我々の兵を脅かすのは簡単ではありませんでした。夜の到来と、一部は日中に10マイル以上行軍していた兵たちの非常な疲労のため、敵を追撃することはなりませんでした。敵は20門の大砲、2000から3000人の死傷者と捕虜を出しました。我々の死傷者はたった150人でした。マセナ将軍の副官である市民ラトゥール大尉はサーベルによる切り傷をいくつか負いました。この勇敢な士官のために少佐の地位を希望します。私の副官である市民マルモン少佐は乗馬を傷つけられました。私の副官である市民ルマロワ大尉は銃弾のため軍服に穴が開きました。この若き士官の勇気はその行動に匹敵するものです。
 この尋常ならざる日に勇名を馳せた全ての兵士たちの名を上げるとしたら、私は前衛部隊の全カービン銃兵と擲弾兵及び幕僚士官ほぼ全員の名を記さなければならないでしょう。しかしながら中でも忘れてはならないのは大胆なベルティエで、この日の彼は砲兵でありかつ騎兵、擲弾兵でもありました。砲兵を率いていたスニー大佐も非常によく指揮していました。
 ボーリューは軍の生き残りとともに逃げました。既に全ロンバルディアは共和国のものと見なせます。敵はこの瞬間、ヴェネツィア共和国領内を通過していますが、その都市は彼に対して門を閉ざしています。私はすぐにミラノとパヴィアの鍵を送ることができるものと思います。
 戦役開始以来、我々はとても激しく、共和国軍が勇敢さを発揮する必要に迫られた戦いを経験してきましたが、そのいずれも恐ろしいロディ橋渡河には及びませんでした。
 我々の損害が限られていたとすれば、それは敏速な行動と、この大胆な縦隊の密集と恐るべき射撃が生み出した敵軍に対する奇襲効果によるものでしょう。
 私は、最新の戦闘には参加しませんでしたが、有能な市民モンニエの参謀副官の地位を確定することを依頼します。また、勇敢なマセナの副官である市民レイユと、第3擲弾兵大隊の立派な大隊副官である市民トワルに大尉の地位を求めます。我々はこの場所に2日間とどまるつもりですので、この有名な日に名を馳せたものたちに関する報告をあなたがたに送ります。
 政府の派遣委員はいつも私のそばにいました。軍は真に彼に恩義を感じています。

 ボナパルト

 google book "Correspondance de Napoleon Ier, Tome Premier" p260-262

 (注)adjudant-généralの和訳については「ネイ元帥」サイトのシェヘラザード氏から指摘を受けた。深く感謝の意を表したい。


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