1815年6月16日
ブリー村





リニーの戦いにおけるプロイセン軍


[グルーシー元帥に対する1815年6月16日付命令書の抜粋]「既に述べた通り、私は10時か11時にはフルーリュスに到着する。分かったことについては全て報告を送れ。フルーリュスへの進路を空けておくように。私が得たデータ全てを見る限り、プロイセン軍は4万人以上の兵力で我々に対峙することはない――ナポレオン」
"Napoleon's Correspondence No.22059" War Time Journal


 ナポレオンの北方軍(l'Armée du Nord)が国境を越えた。この知らせを受けたブリュッヒャーのプロイセン軍は急ぎ部隊をソンブルフへと集結させた。6月16日、プロイセン軍のうち連絡が遅れたビューローの第4軍団は間に合わなかったが、残る3個軍団はフランス軍に対抗する準備を整えた。
 一方のナポレオンは、部隊を大きく3つに分けてベルギーの内奥へと進んでいた。右翼を委ねられたグルーシー元帥はフルーリュスへ、左翼のネイ元帥はキャトル=ブラへ、そしてナポレオン自身が指揮する中央の予備部隊はシャルルロワに待機して左右どちらかを必要に応じて支援する計画だった。16日、プロイセン軍の動きを見たナポレオンは、予備部隊である親衛隊を率いてフルーリュスへ向かうことを決断した。1815年戦役最初の本格的戦闘が近づいていた。
 ソンブルフ南西にある丘の上に司令部を構えたプロイセン軍にとって、同盟軍であるイギリス連合軍の動向は極めて重要な意味を持っていた。5月のティールモンでの合意に従うのならば、プロイセン軍とイギリス連合軍は互いに協力してフランス軍と戦うことになっていた。同盟軍はどこにいるのか。目の前に続々と集結しつつあるフランス軍を見ながらやきもきするプロイセン軍首脳部の前にウェリントンが現れたのは午後1時頃だった。

 ウェリントンはこの日の朝にブリュッセルを出立。午前10時頃にまず自軍が展開しているキャトル=ブラに到着し、この方面に展開しているフランス軍の兵力が少数であることを確認したうえで同盟軍の下へ向かった。ブリー村近くにあるビュシーの風車付近で合流した連合軍首脳部は、そこで相互協力について改めて話しあった。この場面について、Chandlerの「戦役」は以下のように記している。

「『私はハーディンジ[ブリュッヒャーの司令部に派遣されていたイギリスの連絡将校]のいる前でプロイセンの将校たちに対し、私の判断ではプロイセン軍の前衛部隊と砲撃のために備えている全軍が敵の砲撃の目標になるかのように自らを晒しているのは慎重なやり方だとは思えない、と話した。小川の両岸が湿地帯となっているため彼らはそこを渡ってフランス軍を攻撃することができない。一方で確かにフランス軍も直接の攻撃はできないが、砲撃によってプロイセン軍を一方的に打ち破ったうえで川沿いの村にある橋を通って彼らに襲いかかることは可能だ。私は、もし私がブリュッヒャーの布陣した場所にイギリス兵と一緒にいるのなら、前方に散らばっている全部隊を後退させたうえで、多くの兵を丘陵の背後に隠すだろう、と話した。しかし、彼らは自分たちこそが正しいと思っているようだったので、私はすぐに話し合いを終えて引き上げた』。ブリュッヒャーはウェリントンの忠告に従い、近くにある丘の背後を大いに利用すべきだったのだろう。しかし、誇り高いプロイセン人たちは兵たちに敵の姿をはっきり見せることがより重要だと信じていた。『よろしい。もし私自身が攻撃を受けることがなければ、私はここに応援にやって来よう』というのが、[ウェリントン]公が会見の場から立ち去る時の言葉だった」
Chandler "Campaigns" p1039-1040


 さらに、同じChandlerの"Waterloo: The Hundred Days"からも紹介しておこう。

「彼[ウェリントン]は、彼の仲間[プロイセン軍]がを地形を利用してもっと多くの兵隠せば優位に立てることを指摘したが、グナイゼナウがプロイセンの兵はその敵をはっきりと見ることを好むのだと反論した。そしてウェリントンは、キャトル=ブラへ引き上げる前に『…もし私自身が攻撃を受けなければ』少なくとも彼の軍の一部をリニーへ連れてくると約束した」
David Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p90


 Chandlerによれば、この会見で話し合われた課題は2点ある。一つはプロイセン軍の配置についてで、ウェリントンの忠告をプロイセン側は無視した。もう一つはリニーで戦うプロイセン軍に対するイギリス連合軍による支援問題で、ここではウェリントンは「私自身が攻撃を受けなければ」という条件付きで支援を約束している。
 この見方は多くの(英語圏の)研究者に共通している。Chandlerと同じことを記している著作ならいくらでも紹介できるほどだ。

「ウェリントンはブリュッヒャーに随行していたハーディンジに対し、プロイセン軍は『起伏のある土地の背後に』退くべきであり、そうしなければフランス軍砲兵によって『酷く痛めつけられる』だろうと予言した。彼は『私自身が攻撃を受けなければ』リニーに彼の軍を率いてくることを約束して訪問を終えた」
Andrew Roberts "Napoleon & Wellington" p154

「ウェリントンはプロイセン軍の配置と計画についていくつかの質問をした。彼は礼節を保ちながら、多くの兵が――予備に置かれた部隊ですら――敵の砲撃に晒されていることに対して懸念を述べ、兵を丘陵の背後に布陣すべきだと提案した。プロイセン側は、兵たちに敵の姿を見せることが重要だと信じていることを説明した。ウェリントンはプロイセン軍が選んだ場所を保持し続ける可能性について深刻な疑問を覚え、ブリュッヒャーの司令部に派遣されていた連絡将校であるヘンリー・ハーディンジ中佐に『もしここで戦うのなら、彼らは酷く痛めつけられるだろう』と打ち明けた。
 にもかかわらず、さらに少し話し合ったうえで公は『よろしい。もし私自身が攻撃を受けることがなければ、私はここに応援にやって来よう』と言った。数分後、彼はその場を去った」
Albert A. Nofi "The Waterloo Campaign" p80-81

「ウェリントンがブリュッヒャーと午後1時過ぎに会見したのは、プロイセン軍戦線のすぐ背後にあるブリーの村落とビュシーの風車付近だった。彼は自身の軍の配置を説明する一方、ナポレオン自身の姿が敵陣に見えると指摘した。プロイセン軍は極端に敵に姿を晒しており、広く散らばりすぎていた。ウェリントンはいつもの率直な態度で、フランス軍は『敵を砲撃し四散させるだけの力を持って』おり、一方でプロイセン軍は敵味方を分ける広い湿地のために前進してフランス軍を攻撃するのが困難だと言った。『もし私がブリュッヒャーの布陣した場所にイギリス兵と一緒にいるのなら、前方に散らばっている全部隊を後退させたうえで、多くの兵を丘陵の背後に隠すだろう、と私は話した。しかし、彼らは自分たちこそが正しいと思っているようだったので、私はすぐに話し合いを終えて引き上げた』とウェリントンは後に憤慨して語っている。しかし、午後2時頃に彼が出立する直前、プロイセン側は彼に対し軍を率いてソンブルフまで増援に来るよう求めた。公は鞍に跨りながら『よろしい。もし私自身が攻撃を受けることがなければ、私はここに応援にやって来よう』と返事をした」
Alan Schom "One Hundred Days" p260


 ウェリントンがプロイセン軍の配置について忠告したという話はウェリントン自身の証言が元になっている。ド=ロス男爵がウェリントンとの会話として記録したもので、その会話は1836年から40年の間のいずれかの時期になされた(Peter Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p239)。さらに1837年10月26日にはハーディンジもウェリントンが同席する場で同様の話をしており、それをスタンホープ伯爵が記録している。

「『あなた(ウェリントン)はプロイセン軍の配置を吟味していたときに、それに不満を覚えて私に“もしここで戦うのなら、彼らは酷く痛めつけられるだろう”と言いましたね』。[ウェリントン]公はそれに付け加えて『彼らは全部隊を丘の斜面に点在させていた。あれでは飛んできた砲弾全てが有効弾となっていただろう』と指摘した」
Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p242


 ただ、この証言は疑わしいというのがHofschröerの見解だ。ウェリントンとブリュッヒャーの会談に参加した者のうち、プロイセン軍の配置について話し合いが行われた主張しているのは、実はウェリントンとハーディンジの二人しかいない。会談に参加したのはイギリス連合軍側がウェリントン、ハーディンジ、デルンベルク(ハノーヴァーの将軍)、フィッツロイ=ソマーセット(ウェリントンの事務官)など、プロイセン軍側がブリュッヒャー、グナイゼナウ、ライヒェ(第1軍団参謀長)、クラウゼヴィッツ(第3軍団参謀長)、ノスティッツ(ブリュッヒャーの副官)、グロルマン(ブリュッヒャーの参謀)、そしてバイエルンの観戦将校であるトゥルン=ウント=タクシスなどだ(Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p235)。これだけ大勢いる中で、プロイセン軍の配置を巡る会話があったと証言しているのはたった二人なのである。
 ウェリントンもハーディンジも会談に参加した当事者であり、その発言は一次史料と見なされるべきだろう。しかし、どちらの証言も少なくとも戦闘が終わってから20年以上が経過した後になってなされたものであるうえ、他の当事者が残した日記や回想録にある証言と矛盾している。プロイセン兵を丘の背後に隠すべきだとの発言はこの二人だけが言及したもので、一方(後に詳しく説明するが)他の参加者全てが触れているウェリントンのプロイセン軍支援の約束に関してこの二人は口をつぐんでいるのだ。
 ウェリントンの発言に沿った本を書いたPhilip J. Haythornthwaiteは、「このプロイセン軍の戦術に対する批判は、一般的に事件が起きてからずっと後に記録された回想に基づいており、しかも老齢のウェリントンが行った発言が証拠となっている。しかし、この挿話が事件からまだ20年経過しない時期に既に知れ渡っていたことは間違いない」(Haythornthwaite "Waterloo Men" p20)と主張している。だが、Haythornthwaiteの指摘はウェリントンやハーディンジの発言を裏付ける証拠とはならない。世間に広く知れ渡った情報が事実である保証などどこにもないからだ。史実を探りたいのなら当事者の発言に耳を傾けるべきだし、その場合も一方の当事者(この場合はイギリス軍)の発言だけを取り上げるのは避けるべきである。
 そもそもウェリントンによるこの批判なるものが的外れだという指摘すらある。Hofschröerは「見晴らしの利くリニー墓地にいてプロイセン軍の配置を見ていたナポレオンは、しばらくの間、正面にいるプロイセン軍がたった1個軍団だけだと思っていた」(Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p242)と記しており、プロイセン軍の大半がナポレオンの視界にすら入らないほど巧妙に隠れていたのだと主張している。「敵の砲撃の目標になるかのように自らを晒している」プロイセン部隊など、ほとんど存在しなかったのだ。

 では、Chandlerらの本に出てくる後半部の話はどうだろうか。ウェリントンが「よろしい。もし私自身が攻撃を受けることがなければ、私はここに応援にやって来よう」と発言したというこの挿話は、元はミュフリングの記した回想録に由来している。だが、実際にこの回想録に目を通してみると、Chandlerらの本に書かれている話とはかなり印象が異なっていることが分かる筈だ。ミュフリングの回想録により忠実に記した本としては、以下のようなものがある。

「ウェリントンはキャトル=ブラに兵力を集めるという彼自身の計画と、フランス軍はそこで彼を攻撃するであろうとの見通しを手早く説明した。グナイゼナウはウェリントンに対し、リニーのプロイセン軍を増援するため兵力の一部を分遣するようはっきりと求めた。ウェリントンは彼の軍を分割することは拒否したが、代わりにフランス軍の左側面と背後を攻撃する考えを持ち出した。プロイセン側はこの行動には時間がかかりすぎると判断し、あくまで[ウェリントン]公が彼らの支援に来ることを望んだ。彼はとうとう、『私が攻撃を受けなければ』使える全部隊を率いてニヴェール―ナミュール道路を通りキャトル=ブラからソンブルフへ来援することを約束した」
Jac Weller "Wellington at Waterloo" p51

「グナイゼナウはイギリス=オランダ連合軍は東方へ移動し、プロイセン兵の後方に予備部隊として配置すべきだと提案した。しかし、ウェリントンの分散した軍はこの機動を16日中に実施することは不可能だった。幸運なことにミュフリングが[ウェリントン]公に同行しており、彼に助け舟を出した。ミュフリングはイギリス=オランダ連合軍がキャトル=ブラ前面に集結し、そこから前進したうえで左へ旋回して、ブリュッヒャー軍の右翼で今にも起きようとしている戦闘に協力することを提案した。ブリュッセルへの進路を守りつづけることができるという利点ゆえにウェリントンはこの申し出に飛びついた。
 (中略)グナイゼナウはミュフリングの提案に従おうとはせず、彼の元の計画に固執した。(中略)プロイセン軍の連絡将校[ミュフリング]は、ウェリントンの現実の状況と公が兵を集結させる際に犯した計算間違い、及びイギリス=オランダ連合軍のブリーへの到着に関するグナイゼナウの誤った見込みについて巧妙にまとめてみせた。しかしグナイゼナウはこの申し出を拒絶した。彼は[ミュフリングが提案した]その方法は時間がかかりすぎるうえに確実でないと言った。[ウェリントン]公はきっぱりと返事をした。『よろしい。もし私自身が攻撃を受けることがなければ、私はここに応援にやって来よう』。この条件付の約束によって討論は終わった。ウェリントンは幕僚と護衛をつれてブリュッヒャーの下を去り、キャトル=ブラへと戻った」
Archibald Frank Becke "Napoleon and Waterloo" p69


 最初に紹介した著者たちは、いずれもこのウェリントンによる来援の約束が会談の終わりしなに慌しくなされたかのように記していた。だが、WellerやBeckeの記述を見れば分かる通り、ミュフリングの記録にはもっと詳細な話し合いが行われたと書いてあるのだ。より詳細にミュフリングの回想録を見れば、そこにはウェリントンがまずグナイゼナウに対して「私は何をすればいいのか」と問いかけたことが記されている。続いてグナイゼナウの案(イギリス連合軍が直接戦場へ来援する)とミュフリングの対案(イギリス連合軍はフランス軍の左翼と後方を攻撃する)を巡る議論が行われ、ウェリントンはミュフリング案について「では正面のフラーヌにいる敵を一掃し、ゴッサリーへ前進するとしよう」と自らの考えを述べている。それでもなおグナイゼナウが反対したため、ようやく彼は「よろしい。もし私自身が攻撃を受けることがなければ、私はここに応援にやって来よう」と言ったのだ(Carl von Müffling "The Memoirs of Baron von Müffling" p233-237)。
 どうしてChandlerを始めとした著者たちはミュフリングの回想録からほんの一部だけしか引用しなかったのだろうか。紙面の制限という理由もあるのかもしれないが、彼らの引用方法を見るとウェリントンにとって都合のいい部分のみを引っ張ってきた印象は強い。リニーの戦いにおいてウェリントンがプロイセン軍を来援しなかったのはれっきとした事実だ。もし、ウェリントンが無条件での来援を約束していたのなら、彼は約束を破ったことになる。ウェリントンの名誉を守りたければ、彼にとって都合のいい部分だけを抜き出して掲載するのが簡単なやり方だろう。ミュフリングは回想録の中でウェリントンが「兵を集結させる際に計算間違い」を犯したと指摘しているのだが、そういう部分までは引用しない著者が多い。
 もちろん、全ての著者がそうしたいい加減な本を出している訳ではない。少なくともWellerやBeckeはきちんとミュフリングの回想録を詳細に紹介している。また、Charles Chesneyのようにミュフリングの回想に基づいて議論を展開しながら、一方で「明らかにこの失敗は、戦役の初期段階における[ウェリントン]公の全ての対応に見られる慎重もしくは極度に注意深い戦略がもたらした必然の結果である」(Chesney "Waterloo Lectures" p122)とウェリントン側の問題点も指摘している著者もいる。しかし、実はそうした著者たちも、同じ会談に参加していた他の多くの参加者が残した記録については、これを無視しているのだ。

 この会談を巡る最大の問題は、多くの(英語圏の)書物がウェリントンとハーディンジ、そしてミュフリングという3人の証言しか採用していない点にある。会談にはもっとも大勢の軍人が参加していたし、その中には回想録や日記を残した者も多数存在する。なのに、上にあげた3人以外の証言は大半の本で全く取り扱われていない。無視された彼らは、果たしてどのような記録を残しているのか。Hofschröerが調べ上げた結果を紹介しよう。

「デルンベルク
 (中略)少しばかり話した後で公はグナイゼナウ将軍に『私が何をすべきか、君の意見を聞かせてほしい』と言った。グナイゼナウは地図を手にとり、『キャトル=ブラ前面にいる敵を追い払って迅速に前進すれば、あなたの軍はフランス軍の後方へと移動できる場所を占めることが可能になるでしょう。しかしこの方面には狭い道路しかありません。むしろあなたの軍と対峙している敵を拘束しながら残る軍を率いて左翼側へ移動することで、我が軍の右翼に来援しフランス軍を左翼から攻撃できるようにする方が安全でしょう』と言った。公は『君の推論は正しいだろう。我が軍に対している敵の様子を見て、その上で行動するとしよう』と答えたが、どのような決断を下したかにには触れなかったし、何の約束もしなかった」
Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p236

「[ライヒェ]
 彼(ウェリントン)は、敵軍の大半はキャトル=ブラではなく我々[プロイセン軍]の方へ迫っており、もはや敵の意図は明白であることを確信したと述べた。(中略)十分な支援と救助を約束し、ウェリントンは午後1時半に彼の軍へと引き上げた」
p236

「[クラウゼヴィッツ]
 公は[ブリュッヒャー]元帥に対し、今この瞬間に彼の軍はキャトル=ブラに集結中であり、数時間以内には救援に来ることができるだろうと話した。立ち去る時、彼は『午後4時には私はここに戻ってくるでしょう』と言い残した」
p236-237

「[トゥルン=ウント=タクシス]
 公は午後3時に彼の軍から2万人を送ると約束し、戦闘を行うことを合意したうえでキャトル=ブラへと引き上げた」
p237

「ノスティッツ
 (中略)彼[ウェリントン]とグナイゼナウ将軍、グロルマンの間で長時間議論が行われ、その中で公は十分な支援を約束すると繰り返した。午後3時頃(実際は2時頃)、公は兵に前進を命令するためと称して引き上げた」
p237

「グロルマン
 (中略)ウェリントン公がブリュッヒャー公のところへ来て最後の会話を交わしたのはこの時だった。彼らはその際に互いに支援することで合意した。[ウェリントン]公は全軍ではないにせよ可能な部隊を率いて午後4時までにはフラーヌを経由してゴッサリーへ向かう移動を終え、敵の側面と後方を突くことになっていた。
 午後5時以降については戦闘の状況を見た上で機動することになっていたが、おそらく直接介入する方が遠方で攻勢に出るより有利だと見られていた。プロイセン軍の右側面に対する直接支援の実施は[ウェリントン]公が状況を見て判断し決定することになっていた。
 その間、フランス軍はフルーリュス経由で前進を続けていた。これを見た[ウェリントン]公はナポレオンが彼の軍の大半をプロイセン軍に向かって移動させていることを認めたようだ。彼はフランス軍が配置を完全に終える午後1時45分まで待ち、それからようやく彼の軍へと引き上げた。
 支援を約束した時、ウェリントン公はこう言った。『午後2時には十分な兵を集められるので、その直後から我が軍は攻勢に出られると確信している』。
 この明白な確約を得てプロイセン側は最終的に戦闘を行うことを決定した」
p237

「[フィッツロイ=ソマーセット]
 プロイセン兵はサン=タマンとリニー村を占拠しているほか、その後方の丘に密集縦隊で待機していた。プロイセン軍の左翼はソンブルフの向こうまで伸びていた。
 [ウェリントン]公とブリュッヒャーはフランスの大軍がプロイセン軍へ向かって進んでいるのを見た。公はブリュッヒャーに対し、すぐに攻撃を受けるだろうと言った。
 騎兵とオラニエ公の軍団の残り、そして近衛隊とアルテンの師団が午後2時にはキャトル=ブラに到着するだろうと期待していた公は、ブリュッヒャーに全力を挙げて支援すると話し、そしてキャトル=ブラへと引き上げた。彼はそこに午後2時半に到着した」
p239


 以上、7人の当事者はそれぞれに異なる記録を残している。このうちデルンベルク、クラウゼヴィッツ、ライヒェの3人(及びミュフリング)はいずれも実際の会合が行われた時からずっと後に書かれた回想録の中での証言となる。一方、ノスティッツとトゥルン=ウント=タクシスの記録は日記であり、より信頼性は高いであろう。各人の立場について見るのなら、プロイセン軍所属のライヒェ、クラウゼヴィッツ、ノスティッツ、グロルマンはプロイセン軍寄りの証言をする可能性が高いし、フィッツロイ=ソマーセットはイギリス軍の一員である。イギリスと同君連合を形成していたハノーヴァーのデルンベルクもイギリス寄りの証言をすることが考えられるだろう。バイエルンのトゥルン=ウント=タクシスはバイアスのかかりにくい立場であるが、この当時の国際政治情勢を見ればイギリス寄りではないかというのがHofschröerの見方だ(Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p237-238)。
 ただ、彼らの証言を見るといずれもウェリントンによるプロイセン軍への支援こそが会談の主題であったという点では一致している。この部分で他の関係者と異なる証言をしているのはウェリントンとハーディンジだけだ。同じイギリスのフィッツロイ=ソマーセットですら、ウェリントンが「全力を挙げて支援する」と話したことを記録している以上、この会談では連合軍間の支援について話し合われたのはほぼ間違いないだろう。
 問題は、ウェリントンがどのような支援を約束したか、である。ライヒェ、クラウゼヴィッツ、ノスティッツ、トゥルン=ウント=タクシスは十分な支援が約束されたとしているし、ミュフリングは条件付の約束だったと述べている。このあたりははっきりと断言することはできない。だが、ウェリントンが何らかの支援をすることがこの会談で決められたことは間違いないだろう。そして、そうした主張をしている人物はHofschröer以外にもいる。

「こうしたことから[ウェリントン]公はナポレオンが軍の主力をブリュッヒャーに対して振り向けていると結論した。彼はすぐに、十分な部隊を集めたうえでまずフラーヌとゴッサリーへ前進し敵の左翼と後方へ向けて作戦を行うという支援策を[ブリュッヒャー]公に示した。プロイセン軍の右翼は最も弱く最も敵に晒されているうえ、ナポレオンの移動目的を想定するなら最も敵が攻撃を仕掛けてきそうな場所でもあるため、この支援策はプロイセン軍を有利にするための強力な陽動になる。しかし、この作戦を実行するのに必要な時間と作戦実施前にブリュッヒャーが敗北する可能性について検討したところ、むしろ可能ならウェリントンはナミュール道路を経由してプロイセン軍の右翼を支援するべきだとの結論が出た。しかし、こうした類の直接支援ができるかどうかは状況にかかっているうえ、[ウェリントン]公の裁量次第という面もあった。ウェリントンは期待されている支援を行うことが可能だとの見通しと、短時間のうちに攻勢に出られるだけの十分な兵力を集められるとの確信を述べ、キャトル=ブラへと引き上げた」
William Siborne "History of the Waterloo Campaign" p64


 ウェリントンは支援を約束した。その際に彼は十分な兵力をキャトル=ブラに集結できると述べた可能性もある。だが、実はそんなことは不可能だった。イギリス連合軍約9万2000人の集結は極めて遅れており、この日のうちにキャトル=ブラに集められたのはせいぜい3万5000人に過ぎなかったのだ。そもそもウェリントンはどう頑張ってもプロイセン軍を支援できる状況にはなかった。ウェリントンの約束は、最初から「空手形」だったのである。
 果たして彼は自分の約束が履行不能であることを知っていたのだろうか。知らなかった、と主張しているのがJohn Codman Ropesである。

「午後の早い時間に軍の大半がキャトル=ブラに集結できることは確実であるとウェリントンが述べたことは疑いない。ブリュッヒャー元帥に対する彼の口頭での発言は、彼の手紙に書かれていたものと同じ効果を及ぼした。我々は既に彼がこの件についてどれほど間違えていたのか、どうして間違えるに至ったかを見てきた。しかし、彼は自身の書いたこと及び述べたことについて、何の疑いも抱いていなかったのだ。そして彼は、フランス軍の大半を相手に間もなく行われる戦闘においてブリュッヒャー元帥がイギリス=オランダ連合軍から支援を受けることについて、何らかの確約を与えた」
Ropes "The Campaign of Waterloo" p144


 文中にあるウェリントンの手紙とは、一般に"Frasnes Letter"と呼ばれているものだ。その内容は以下の通り。

「フラーヌ背後の丘にて
 1815年6月16日(午前)10時30分
 親愛なる[ブリュッヒャー]公爵殿
 我が軍は以下のような状況にある。オラニエ公の軍団は1個師団をこことキャトル=ブラに配置しており、残りはニヴェールにある。予備軍団はワーテルローからジュナップへ行軍中であり、正午にはジュナップに到着するであろう。同じ時刻にイギリス騎兵もニヴェールに着く予定だ。ヒル卿の軍団はブレーヌ=ル=コントにいる(後略)」
Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p232


 ウェリントンがブリュッヒャーに宛てたこの手紙の中に書かれているイギリス軍の配置は、実は事実と極めてかけ離れたものだった。"Frasnes Letter"の通りなら、イギリス軍はヒルの第2軍団を除く大半の部隊が正午時点でキャトル=ブラのすぐ近くに集まっていたことになる。第2軍団も16日中にはキャトル=ブラへ到達できる計算だ。しかし、実際にキャトル=ブラへやって来られたのは、オラニエ公の第1軍団(1個師団欠)と予備軍団のうちの1個師団半に過ぎない。騎兵の大半は日没後にようやくたどり着いており、第2軍団はまったくキャトル=ブラには届かなかった。このウェリントンによる手紙もやはり「空手形」だったのだ。
 なぜこの手紙が書かれたのか。Ropesはウェリントンの参謀長であったド=ランシーの残した「6月16日午前7時時点のイギリス軍の配置」という史料が、ウェリントンの誤解を生み出した要因だと指摘している。この参謀長が書いた「配置メモ」によれば、イギリス軍は順調にキャトル=ブラへと集結しつつあることになっていた。だが、現実のイギリス連合軍の行動はこの「配置メモ」よりはるかに遅れていた。「彼の参謀長[ド=ランシー]が彼のために書いた文章によって、[ウェリントン]公自身が欺かれた」(Ropes "The Campaign of Waterloo" p110)。参謀長の「配置メモ」を信じたウェリントンは、実はそれが不可能であることに気づかないままブリュッヒャーに支援を約束していた、というのがRopesの主張だ。

 しかし、Hofschröerはこれにも反対している。実は16日の午前5時から10時の間に、ウェリントンの指示でド=ランシーはいくつかの部隊に命令を出しているのだが、その命令はRopesが取り上げた「配置メモ」の内容とは明確に異なっているのだ。命令文の中では「配置メモ」と異なり、イギリス連合軍が実際にいた場所を間違いなく指摘している。ド=ランシーもウェリントンも、本当はイギリス連合軍が極めて分散した状態にあり、16日のうちにキャトル=ブラに集結できないことは知っていた、というのがHofschröerの見方だ。
 それだけではない。Hofschröerはそもそもこのド=ランシーの「配置メモ」なるものは、戦闘が終わった後になってでっち上げられたものではないかとも指摘している(Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p336)。実はド=ランシーはワーテルローの戦いで戦死している。「配置メモ」を誰かがでっち上げたとしても「死人に口なし」という訳だ。
 誰がでっち上げたのかは不明だが、この「配置メモ」の存在によって利益を得られる人物の中にウェリントンがいることは間違いない。「配置メモ」があれば、ウェリントンが"Frasnes Letter"やブリュッヒャーとの会見で「空手形」を乱発したことも説明がつくからだ。しかし、もしこの「配置メモ」がでっち上げに過ぎないとしたら、ウェリントンはそれが「空手形」であることを知りながらプロイセン軍に対して支援を約束したことになる。Hofschröerが主張しているのは、まさにそういうことだ。

 なぜウェリントンは「空手形」であることを知りながら支援を約束したのか。ウェリントンが嘘と知りつつプロイセン軍を騙したのは何のためか。ここでようやく「1815年6月15日 ブリュッセル」で提示した疑問と話がつながってくる。ウェリントンはなぜフランス軍の侵攻開始についての情報を得た時間について、15日の午後遅くだったと主張しているのか。実際には15日の朝のうちに連絡が到着していたことを窺わせる史料があるのに、彼がそれを正面から否定したのはなぜか。
 ウェリントンはフランス軍の動きを読みそこねた。彼はシャルルロワへの攻撃は陽動に過ぎないと思っており、急いでイギリス連合軍を集結させる必要はないと判断した。ジョゼフ・フーシェからの連絡が来なかったことも理由の一つかもしれない。ナポレオンの下で警察大臣に就任していたフーシェは同時に王党派とも気脈を通じており、いわば二股をかけていた。おそらくどちらに対しても言い訳できるようにするため、彼は戦役が始まった時に以下のような行動を取っている。

「ナポレオンが[前線に向けてパリを]出発する日、私はD夫人に戦役計画を暗号化したメッセージを持たせて送り出した。同時に私は彼女が国境を越えなければならないであろう場所にいくつもの障害を用意しておき、全てが終わった後に彼女がウェリントンの司令部に到着するようにした。多くの人を驚かせ、様々な推量を呼び起こした指揮官[ウェリントン]の不可解な躊躇いはこれで説明できる」
"Mémoires de Joseph Fouché" Deuxième partie, p342-343
Gallica

 ウェリントンがようやくフランス軍の侵攻に対応して麾下の各部隊に初めて命令を出したのは15日の午後6時から7時の間。しかも、この時点で各部隊に命じられたのは行軍準備のために集結することだけだ。午後10時にはさらなる追加命令が出たが、この時点でもフランス軍に脅かされていたキャトル=ブラの交差点に部隊を送る指令は存在しなかった(Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p211-213)。おそらく本当に事態が深刻だと認識したのは15日の真夜中、リッチモンド公爵夫人がブリュッセルで開いた舞踏会に出席している最中にフランス軍がキャトル=ブラに前進しているという情報を受け取った時だろう。
 ウェリントンにとって最大の懸念は、集結の終わっていないイギリス連合軍がナポレオンの主力による攻撃を受けることだ。「ナポレオンは彼の攻撃の重点をプロイセン軍からウェリントンへ変更し、その分散した部隊を簡単に蹂躙して、おそらく6月16日夕にはブリュッセルの門へたどり着いていただろう」(Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p346)。このような事態を避けるためには、とにかくプロイセン軍がリニーに踏み止まってフランス軍と戦うように仕向けなければならない。そのためには、自分の初動段階での失敗を正直にブリュッヒャーに打ち明けるか、あるいは支援できると嘘を言ってプロイセン軍に戦闘を決断させるしかない。ウェリントンは後者を選んだ。
 中にはもっと過激な説もある。Ernest F. Hendersonは"Blücher"の中で「[ウェリントン]公はブリュッヒャーが現実の状況を知り、ソンブルフで戦うのを控えるのではないかと恐れていた。そうなれば戦争はロシア軍やオーストリア軍が到着するまで終わらず、そしてロシア皇帝はルイ18世を王位に戻そうとするイギリスの政治家の計画に不満を抱くかもしれない」(Henderson "Blücher" p290-291)と述べている。イギリスにとって有利な戦後処理を実現するために、ウェリントンは嘘をついたというのだ。
 戦役初期段階での対応ミスを隠す道を選んだウェリントンにとって、15日の朝のうちにフランス軍の進軍について連絡が到着していたという事実は、できれば隠しておきたい話である。もし午前中のうちに情報を得ていたのなら、ウェリントンの対応が極端に遅れた理由が彼の判断ミスにあることは明白になってしまうからだ。情報の到着が遅れていたと言えば、初動の遅れについての責任を情報をもたらした側に押し付けることができる。そのため、ウェリントンは15日の情報入手時刻についても嘘をついた。以上がHofschröerの考えだ。

 もっともこの説が成り立つためには、プロイセン軍がリニーでの戦闘を決断したのがウェリントンが来援を約束した後でなければならない。この点については複数の説がある。例えばRopesはプロイセン軍が正午までには戦闘に向けた部隊配置を終えたことを指摘。「正午になるまでウェリントンが『フラーヌ後方の丘、午前10時30分』に記した手紙は到着しなかった。午後1時になるまで公自身はブリュッヒャー元帥と会わなかった」(Ropes "The Campaign of Waterloo" p144)と述べて、プロイセン軍が戦闘を決断したのはウェリントンが来援を約束する前だと主張している。
 これに対しHofschröerは、上に紹介したグロルマンの「この明白な確約を得てプロイセン側は最終的に戦闘を行うことを決定した」という証言を引用し、部隊配置が終わった後でもゆっくりと退却戦をすることは可能だったと主張している(Hofschröer "1815: the Waterloo Campaign, Wellington, his German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p238)。さらに第1軍団所属の砲兵将校ロイター大尉が「[ブリュッヒャー]公が戦闘をすることを決断したことを示す合図として」会談の最中に大砲を一発撃つことを命じられたという記録を残していることも紹介している(p238-239)。
 Andrew Uffindellによればこれを裏付ける史料は他にもあるという。グナイゼナウが記した公式記録には「ウェリントン卿が既に軍の強力な師団で支援すべく動いている(中略)ため、ブリュッヒャー元帥は会戦を行うことを決意した」とあるうえ、ミュフリングの記録にも「彼[ウェリントン]の部隊の大半が集結すれば、攻撃地点に向けてそれを動かすつもりだと確約した。その結果、ブリュッヒャーの方は会戦を決意した」と記されている(Uffindell "The Eagle's Last Triumph" p82)。
 いずれが正解かは一概に断言できない。ただ、Hofschröerの本が出版されて以来、彼の説は次第に影響力を広げているようだ。その一つがEsposito & Eltingの「アトラス」だ。

「グナイゼナウはウェリントンの軍勢の一部をブリーへ動かすよう求め、また後になってウェリントンは午後2時にナポレオンの左側面を攻撃することを約束したとも主張した。イギリスの伝統では、ウェリントンは単にブリーからル=ポン=ド=ジュールにかけて延びる尾根の前面に展開していたブリュッヒャーの布陣について不賛成との見解を示しただけ、となっている」
Esposito & Elting "Atlas" map159


 ここでは他の多くの本と異なり、グナイゼナウの発言がきちんと紹介されている。そして、次のようなことを書く本も出てきた。

「ブリュッヒャーがリニーでの戦闘を決意したのには3つの理由がある。まず彼はナポレオンのブリュッセルへの前進を遅らせ、鈍らせ、可能なら止めようとしていた。第2に彼は同盟軍であるウェリントンが分散した部隊を集結できるように時間を稼ごうとした。第3に、後に楽観的過ぎたことが明らかになるのだが、ウェリントンが6月16日午後のうちに軍の大半をリニー北西6マイルにあるキャトル=ブラに集めると約束したことも理由になった。ウェリントンは兵を集めた後でフランス軍の左翼を圧倒し、リニーでナポレオン軍の大半と対峙しているブリュッヒャーに合流するつもりだった」
Andrew Uffindell & Michael Corum "On the Fields of Glory" p24


 この本でもウェリントンによる来援の約束が記されている。Hofschröerの言うようにウェリントンが意図的にブリュッヒャーを騙したかどうかまでは分からないが、ウェリントンがブリュッヒャーに対して16日中に支援にやって来ると約束したことまでは多くの研究者が認めているようだ。

――大陸軍 その虚像と実像――