1815年6月15日
ブリュッセル





ウェリントンとイギリス兵


 1815年3月、ナポレオンがエルバ島からフランスへ戻ってきた。「百日天下」の始まりだ。一発の銃弾も撃つことなくブルボン王朝から政権を奪い返したナポレオンだったが、欧州諸列強は第七次対仏大同盟を形成し徹底して彼と戦う姿勢を示す。ナポレオンはフランスの再軍備を進め、連合軍の隙を窺っていた。彼が狙いを定めていたのは、ベルギーに展開するイギリス連合軍とプロイセン軍だった。
 そのイギリス連合軍とプロイセン軍はナポレオンとの戦争を控えて協力関係を模索していた。イギリスやオランダ、ドイツ諸領邦の寄せ集め部隊を指揮するウェリントン公と、新兵の多いプロイセン軍の指揮官であるブリュッヒャーは、5月上旬にティールモンで会合を持ち、今後の対応について話し合った。そして、ナポレオンが攻めてきたら互いに協力してこれに対応することで合意した。
 ブリュッセルへ向かうフランス軍を迎え撃つため、プロイセン軍はナポレオンの攻撃が始まったらすぐにソンブルフに集結する。一方のイギリス連合軍はフランス軍の進路に応じて集結場所を変更する。フランス軍が西寄りの進路を取れば、集結場所はアト、ブレーヌ=ル=コント、ニヴェールなど。もしナポレオンがシャルルロワで国境を越えたのなら、イギリス連合軍はキャトル=ブラに集まりプロイセン軍を支援する計画になっていた(Peter Hofschröerの"1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p123)。
 1815年6月15日早朝。ナポレオンの北方軍(l'Armée du Nord)はシャルルロワで国境を越えブリュッセルへの進軍を始めた。この時、ウェリントン公はシャルルロワから32マイル離れたブリュッセルに、ブリュッヒャーは24マイル離れたナミュールにいた。

 シャルルロワ近辺の守備に当たっていたプロイセン軍がフランス軍と最初に銃火を交えたのは午前4時ごろだった。この地域を担当していたプロイセン第1軍団のツィーテン将軍は、すぐにフランス軍の攻撃が始まったことをブリュッヒャーとウェリントン公に伝えた。
 ここで問題になるのが、ウェリントン公がこの連絡を受け取った時間である。まずChandlerの「戦役」を見てみよう。

「14日には噂以上の情報は彼(ウェリントン)の下には届かなかった。ウェリントンがテューアン(シャルルロワ南西8マイル)近くのプロイセン軍前哨線が深刻な攻撃に晒されているというはっきりとした情報を得たのは、実に15日の午後3時――ナポレオンの攻撃が始まって既に9時間が経過していた――であった。その時になっても、ブリュッヒャーからの公式の情報は何もなかった。この同盟軍からの連絡欠落に加え、ブリュッセルからモンスを通って英仏海峡へ至る彼自身の連絡線に対する過剰な配慮から、ウェリントンは、『ボニー』は彼がよく行う戦略的迂回を試みてイギリス軍を英仏海峡から遮断しようとしている、との結論に安易に飛びついてしまった」
Chandler "Campaigns" p1028


 明け方から戦闘が始まっていたにもかかわらず、ウェリントンがその情報を得たのは午後になってからだった。この話は同じChandlerが書いた"Waterloo: The Hundred Days"にも出てくる。

「翌日[14日]は噂以外の何も連合軍の耳には届かなかった――そして、フランス軍の攻撃が始まった15日になっても、国境付近で明確な動きが出てから9時間も経過した午後3時になってようやくウェリントンはツィーテンがテューアン近くで攻撃されたことを知るといった具合だった」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p79


 ウェリントンがナポレオンの攻撃開始をいつ知ったかについては、これが最も広く知られている説だ。実際、Chandlerと同じような話を載せている本はいくらでもある。

「サンブル河へ向かうフランス軍の動きをウェリントンが知ったのは随分遅く、6月15日の午後になってからだった」
Albert A. Nofi "The Waterloo Campaign" p62

「ウェリントンは6月15日の午後3時になるまでシャルルロワの南方でプロイセン軍の前哨線が攻撃されたことを聞かなかった。夜明けからのナポレオンの攻勢が始まって既に9時間が経過していた」
Andrew Roberts "Napoleon and Wellington" p152

「ウェリントンがいつ前線のプロイセン軍担当地域における戦闘の規模についての情報を受け取ったのか、正確には記録されていない。しかし、それはおそらく15日の午後遅い時間だったと思われる」
Philip J. Haythornthwaite "Waterloo Men" p17

「この対決と結末はまもなく現実になろうとしていたが、ウェリントンがナポレオンの進撃について最初に受け取った情報は迅速さに欠け、不正確なばかりか、矛盾したものもあった。ナポレオンがベルギーへの進撃を開始したのは六月十五日の夜明けだったが、ウェリントンにその第一報が入ったのはすでに午後、それも三時ごろであった。ツィーテン将軍の率いるプロイセン軍の第一軍団がシャルルロワの近郊トゥインで襲撃されたというのである」
ジョン・ストローソン「公爵と皇帝」p273


 この情報は複数のルートからもたらされたという。もっとも、具体的にどのルートからどのような順番で情報が来たかについては作品によって異同がある。

「午後3時から4時の間までブリュッセルは平穏だった。しかし、やがて3つの報告が立て続けにもたらされた。シャルルロワのツィーテンとナミュールのブリュッヒャー、そしてオラニエ公の送ってきた目撃情報だ。どれも古いうえに不完全な情報だったが、その全てがシャルルロワ近辺のプロイセン第1軍団が攻撃されたという点で一致していた」
Jac Weller "Wellington at Waterloo" p45

「6月15日のブリュッセルは全てがいつも通りで、ほとんど動きがなかった。しかし、午後3時を過ぎた瞬間、その平和は3つの異なった方角からやって来た3人の伝令が立てる馬蹄の響きによって突如破られた。彼らはウェリントンの司令部の前で鋭く手綱を引いて馬を止めると、偉大な将軍自身に面会したいと強く主張した。最初の報告はナミュールのブリュッヒャーから送られてきたもので、シャルルロワに対するフランス軍の攻撃が行われたこととプロイセン軍司令部をソンブルフへ移動させていることを伝えていた。次の伝令はオラニエ公によるブレーヌ=ル=コントの司令部からの情報をもたらした。それによるとオラニエ公麾下の部隊はまだ攻撃されていないが、シャルルロワ方面からは砲声が聞こえており、さらに偵察部隊の一部はローマ道路沿いにあるビンシュ(シャルルロワ西方数マイル)でフランス軍の前衛部隊と接触したという。最後の報告はツィーテンが送り出したもので、ブリュッヒャーと同じ情報を繰り返していた。ツィーテンからの報告は攻撃が始まってから11時間後に到着したことになる」
Alan Schom "One Hundred Days" p254

「フランス軍の侵攻に関するニュースが最初にブリュッセルのウェリントンへ届いたのは15日の午後3時頃だった。イギリス・オランダ連合軍の前哨線からやって来たオラニエ公が、フランス軍がテューアンのプロイセン軍を攻撃したと報告したのだ。直後にプロイセン側随行員として[ウェリントン]公の幕僚に同行していたミュフリング将軍が到着し、テューアンが攻撃されたことを確認した」
Archibald Frank Becke "Napoleon and Waterloo" p49-50

「しかしその時点より前、具体的には午後3時かその前に、極めて漠然としているが大意として敵がテューアン近くのプロイセン軍前哨線を攻撃したという報告を[オラニエ]公自身が到着して報告した。これは[ウェリントン]公が戦争の勃発について初めて受け取った情報だった。ほぼ同時刻、ツィーテンがミュフリングに送った伝令も到着し、シャルルロワ前面で攻撃を受けていることを知らせた」
John Codman Ropes "The Campaign of Waterloo" p77


 誰が最初に連絡をもたらしたにせよ、戦闘開始時刻から見るとかなり遅れた連絡であったことは間違いない。特に攻撃を受けた当事者であるツィーテンからの情報がここまで大きく遅れたのは実に不可解だ。ワーテルローについて記した著者たちの中には、このあたりについて説明を試みた者も多い。その大半はツィーテンらプロイセン軍側に責任があると説明している。

「ウェリントンとブリュッヒャーの間には完全な協力関係があり、さらにブリュッヒャーの代理人としてブリュッセルにいたミュフリング男爵、そしてウェリントンの部下としてプロイセン軍司令部にいたヘンリー・ハーディンジ中佐という双方の連絡将校が実に機敏な人物であったにもかかわらず、ツィーテンのような男がよく練られた計画を台無しにすることができた」
Schom "One Hundred Days" p254

「この重要な情報を携えた士官がミュフリングの下に午後3時になるまで到着しなかったことから見ても、彼[ツィーテン]の幕僚たちが上手く業務をこなせなかったのは間違いない。移動に11時間もかけたことになるが、それだけかければ徒歩の旅行者ですらたどり着けたであろう」
Charles Chesney "Waterloo Lectures" p78

「シャルルロワからブリュッセルの間はよく整備された道路を経由して僅か32マイルしかなく、有能な伝令がいい馬を使えば3時間で踏破できる距離だ。もしツィーテンが命令に従えば、そして/あるいは送られた伝令が任務を適切に遂行していれば、ウェリントンはブリュッヒャーと同様に遅くとも午前9時前にはフランス軍の攻撃が始まったことを知っていた筈だ」
Weller "Wellington at Waterloo" p46


 Wellerはさらに"Wellington at Waterloo"p45の脚注で、Herbert Maxwellの"The Life of Wellington"から「ツィーテンの伝令は『プロイセン軍の中で最も太った男』であり、そのため必要な距離を移動するのに11時間も要した」という話を紹介している(註)
 もちろん、全ての作者がプロイセン軍を批判してこと足れりとしている訳ではない。Beckeは"Napoleon and Waterloo"の中で以下のような指摘をしている。

「もし[ウェリントン]公がモンスかニヴェールにいたのであれば、ツィーテンの大幅に遅れた伝令が司令部に到着するはるか前に彼は砲声を聞いていただろう」
Becke "Napoleon and Waterloo" p49-50


 ウェリントンが司令部を前線から遠く離れたブリュッセルに置いたこと自体が問題だというのがBeckeの見方。ただ、Beckeもツィーテンの伝令が遅れたこと自体は否定していない。何があったか詳細は不明だが、プロイセン軍側のミスによりツィーテンの伝令は午後遅くなるまでウェリントンの司令部に到着しなかった。これが広く見られる説だ。

 だが、中には全く異なる説明をする研究者もいる。ウェリントンは最初の情報を午後遅くではなく、午前中に受け取っていた。ツィーテンの伝令は朝のうちにブリュッセルの司令部にたどり着いていたのだ。この説は、少数ではあるが古くから唱えられている。その代表例が"History of the Waterloo Campaign"を書いたWilliam Siborneだろう。

「ウェリントン公が15日に受け取った戦闘開始を示す最初の兆候は、既に言及しているがツィーテン将軍が午前5時少し前に送り出してブリュッセルに9時にたどり着いた報告によってもたらされた。しかし、その報告は、フランス軍がその方面[シャルルロワ]に本格的な攻撃を意図しているとの見解を公に抱かせるような内容のものではなかった」
W. Siborne "History of the Waterloo Campaign" p52


 情報は午前9時にはブリュッセルのウェリントン司令部に到着していた。これがSiborneの説だ。同じ説は(Ropesの"The Campaign of Waterloo"によると)Charrasが"Histoire de la Campagne de 1815: Waterloo"の中で唱えているという。そして、最近になってこの説を蒸し返したのがHofschröerだ。以下では彼の本の記述を参考にしながら話を進める。

 多くのワーテルロー本の作者たちが情報の到着を15日午後としていたのは、ウェリントン自身の証言と、それを裏付けるようなミュフリングの回想録があったためだ。ウェリントンが1842年に書いた"Memorandum on the Battle of Waterloo"の一節と、ミュフリングの"Passages from my Life and Writings"から引用しよう。

「しかしその報告はブリュッセルでは午後3時まで受け取らなかった」
Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p194

「ツィーテン将軍は6月15日にシャルルロワの前面で戦争の始まりとなった攻撃を受けた際に私に士官を派遣した。その士官は3時にブリュッセルに到着した」
Carl von Müffling "The Memoirs of Baron von Müffling" p228


 だが、一方でツィーテン自身は早朝のうちに伝令を送り出したという証言を残している。

「私はベッドから跳ね起き、服をまとって全将校を起こし、輜重隊長メリンスキ、フェルデン大尉、そしてヴェストファル少佐にすぐ私の下へ来るよう命じた。戦闘が始まったという手紙を一つはドイツ語で、一つはフランス語で口述し、ドイツ語の手紙をヴェストファルに持たせてナミュールにいるブリュッヒャー元帥の下へ、フランス語の手紙をメリンスキに持たせてブリュッセルのウェリントン公へと送り出した」
Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p170


 彼が伝令を送り出したのは遅くとも午前5時だと見られる。ナミュールやブリュッセルへの距離を考えるのなら、この伝令はブリュッヒャーのところには午前8時半ごろに、ウェリントンの下には午前9時ごろに到着した可能性が高い。そして、実際にツィーテンの主張を支持するような発言が、イギリス軍側にも多数見られる。

「ウェリントンの幕僚だったベイジル・ジャクソン中尉は、『1815年6月15日早朝、我々はフランス軍がシャルルロワで国境を越えたのを知った』と回想している。ウェリントンの下で軍事通信部門の長であったスコヴェル中佐の回想もこの見解を支持している。スコヴェルは"Memorandum of Service at the Battle of Waterloo"の中で『15日午後3時頃には、この件についてもはや何の疑いもなくなった』と記しており、これはウェリントンはもっと早い時間に情報を受け取っていたが、午後3時まではその重要性に疑いを抱いていたことを意味している」
Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p194


 そして、ウェリントン自身も、実は早朝のうちに情報が到着したことを認めるような発言をしている。

「[6月15日]午後10時にフェルトル公に書いた手紙の中で、彼[ウェリントン]はこの情報を当日午前9時頃に聞いたことをほのめかしている。しかし、6月19日にバサーストへの報告書を記した際には、彼は『15日夕方までこうした事件については聞かなかった』と宣言している。[ウェリントン]公の崇拝者であり仲間でもあったグレイグは、おそらくウェリントン自身から教えてもらった情報として『シャルルロワからの情報は朝7時に来た(略)ロベ(ママ)とテューアンにある前哨線がその朝攻撃を受けたという内容だった。しかし、その後新しい情報は届かず、当然ながら公はこれが他の地域における本格的な作戦を隠蔽するための陽動だと推測した』と説明している」
Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: Wellington, His German Allies and the Battles of Ligny and Quatre Bras" p193-194

「ウェリントンはその日の夕方、ヘントにいるフェルトル公宛てに送った手紙の中でその[ツィーテンからの連絡の]到着を裏付けており、出版された[ウェリントン]書簡集の第12巻の中でも『敵が今朝方サンブル河沿いのテューアンで攻撃をしかけシャルルロワを脅かしているようだとの情報を私は得た。午前9時以降、私はシャルルロワからの連絡を受けていない』と述べている」
Hofschröer "Wellington's Smallest Victory" p218-219


 もしHofschröerの指摘が正しいのであれば、ウェリントンは情報が到着した時間について嘘をついており、ミュフリングもそれに歩調を合わせたか、少なくとも最初に到着した手紙についてウェリントンから何も知らされなかったことになる。これは「ウェリントンの全人生とその性格」を根拠に情報が早朝に到着したことを否定したWeller("Wellington at Waterloo"のp46)などには到底受け入れられない結論だろう。

 どちらの見方が正しいのか、判断は難しい。ただ、英語文献の多くがイギリス人の身贔屓によって歪んでいる可能性は否定できない。それが証拠にフランス人であるHenry Houssayeは19世紀後半に書いた本の中で(おそらくはSiborneを参考にしながら)以下のように記している。

「ウェリントンは15日の早くも朝8時にはツィーテンの手紙を通じて夜明けにプロイセン軍の前哨線が攻撃を受けていたと知らされていたにもかかわらず、同日午後3時に至っても一つの命令すら発していなかった」
Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p81


 そして、最近は英語圏でもHofschröerの書物を読んで見解を変えた人が出てきた。「アトラス」の作者であるEltingもその一人だ。最初の出版は1964年だった「アトラス」だが、現在販売されているのは1999年から出ている第二版。参考文献にはHofschröerの本が掲載されており、Eltingが彼の書物を参考にして内容を修正したことは明らかである。問題となっている部分は以下のように記されている。

「午前4時半に激しい砲撃で目覚めたツィーテンはようやくフルーリュスへの集結を部下に命じると同時に、伝令をブリュッヒャーとウェリントンに送った。(中略)ウェリントンは相次ぐ警告を軽視したためであろう、午後6時に至るまでフランス軍は彼自身の右翼を前進してくると主張していた。その後になって、彼は麾下の師団に対して、それぞれの地域で集結するよう命じた」
Esposito & Elting "Atlas" map158


 明確に何時に情報が到達したかについては記載されていないが、ウェリントンに対する批判的な記述の部分にHofschröerの影響が見られる。

 それにしてもなぜウェリントンはフランス軍の攻撃開始を知った時間について嘘をついたのだろうか。これについては「1815年6月16日 ブリー村」を参照されたい。

 [追記]

 以上、Hofschröerの主張を中心に紹介してきたが、最近になって彼に対する反論がナポレオニック関連雑誌"First Empire"に掲載された。Gregory W. Pedlowの"Back to the Sources: General Zieten's Message to the Duke of Wellington on 15 June 1815"がそうだ。原文はFirst Empireのサイトに掲載されている。
 Pedlowが問題にしているのは、題名の通りツィーテンが15日朝にウェリントン宛てに出したと言われる手紙の件だ。Hofschröerはツィーテン自身の証言に基づき、この日早朝に彼がウェリントンに伝令を出したと指摘しているが、Pedlowはまずこの証言の原典を探している。

「不幸なことにオリジナルの原稿は第二次大戦を生き残ることができなかったようだが、1890年代にDietrich Hafnerが『1815年戦役における王立プロイセン軍第1軍団日誌』と『元帥ツィーテン伯爵の人生から』というツィーテンの自叙伝を含んだツィーテン将軍関連書類を調べている」
Pedlow "Back to the Sources" First Empire Issue 82, p30


 このうち「日誌」は、プロイセン軍がフランスを占領している時期にツィーテンの幕僚によって書かれたものであり、もう一つの「自叙伝」は戦役から20年以上後の1839年に70歳のツィーテンが記したものだという。当然ながら史料としては前者の信頼性がかなり高いのに対し、後者はかなり怪しい。Pedlowはその例として自叙伝の中からツィーテン第1軍団がワーテルローで戦った場面を紹介しているが、そこではツィーテンが司令部の命令ではなく自分の判断でワーテルローへ行軍していたり、「フランス老親衛隊の大軍が我々[プロイセン軍]に向かって前進」(Pedlow "Back to the Sources" First Empire Issue 82, p31)したりしている。
 それを踏まえたうえで15日早朝時点の話を調べると、実は意外なことが判明する。

「1815年6月15日朝に関する情報についてHafnerの記事を詳しく見ると、『日誌』には極めて簡単な記述しかなかったことが分かる。『6月15日夜明け、砲声と最前線からの報告で強力な攻撃があったことが判明した』。そこにはツィーテンの個人的行動についての言及はない――個別の士官や伝令についての名も、書かれてブリュッヒャーやウェリントンに送られた伝言についても――ただ軍団の日誌によくあるような、各部隊の移動と戦闘に関する記述があるだけだ。6月15日朝のツィーテン自身の行動に関する記述は(中略)Hafnerがはっきりと言明しているようにツィーテンの極めて信頼ならない自叙伝に含まれているものなのだ」
Pedlow "Back to the Sources" First Empire Issue 82, p31


 Hofschröerの紹介したツィーテンの証言は戦役直後に残されたものではなく、それから四半世紀も後になって書かれたものだった。この自叙伝は他の箇所を見ても分かるように信頼性に乏しく、従ってその記述をそのまま信用するのは拙い。ただ、ツィーテンの証言はそれだけではない。彼は他にも15日朝の行動について記録を残している。戦役当時プロイセン軍司令部の幕僚だったグロルマンが1819年1月19日に送った質問に対するツィーテンの回答がそれだ。

「ウェリントン公への書簡はフランス語で書かれる必要があったが、1815年当時に文章を書けるだけフランス語に熟達した士官がいなかったため、私はウェリントン公に対する書簡全てを自分で書かなければならなかった。1815年6月15日午前3時45分に私がブリュッセルへ送った報告(伝令の名は忘れてしまったが)の写しが残っていないのは、それが理由である」
Pedlow "Back to the Sources" First Empire Issue 82, p32


 この件に関して詳しく調べたのが20世紀初頭のドイツ人研究家、Julius von Pflugk-Harttungだそうだ。Pflugk-Harttungはまずこの朝にツィーテンがブリュッヒャーの司令部に出した最初の報告書を調べた。

「午前4時半以降、我が軍の右翼側面から多くの砲声とマスケット銃の銃声が聞こえています。私[ツィーテン]は何の報告も受けておりません。報告が届き次第、間違いなくそれを閣下にお伝えします。私はシャルルロワの全部隊に配置につくよう命令を出しており、必要ならフルーリュスへの集結を図ります」
Pedlow "Back to the Sources" First Empire Issue 82, p32


 ここにはフランス軍の行動に関する具体的な記述はほとんどない。最前線からの報告が来ていなかったのが理由だろう。彼がようやくフランス軍の具体的行動を記した報告をブリュッヒャーに出したのは、午前8時15分の第2報。ここで彼はテューアンが奪われたことを記し、さらに「私はこの件について全てウェリントン公に伝え、昨日ミュフリング将軍から受けた連絡に従いニヴェールに集結するよう彼[ウェリントン]に要請しました」(Pedlow "Back to the Sources" First Empire Issue 82, p32)と書いている。つまり、ツィーテンがウェリントン宛ての最初の伝令を出したのはブリュッヒャーに第1報を送った午前5時頃ではなく、それより後の午前8時15分前後だった可能性があるのだ。
 おまけに「ツィーテン自身を含めたあらゆる史料によれば1815年6月15日にウェリントンへ送られた伝令は一つだけだったとPflugk-Harttungは指摘している」(Pedlow "Back to the Sources" First Empire Issue 82, p32)。そしてPflugk-Harttungは、ツィーテンがウェリントン宛ての伝令を出したのはおそらくブリュッヒャー宛て第2報より後の午前9時頃であり、その伝令はブリュッセルに午後6時か7時頃まで到着しなかったと結論づけており、Pedlowもその見解を支持している。ミュフリングがプロイセン軍の将軍ゲオルグ・フォン=ホフマンに対して、ツィーテンが伝令を送ったのは午前9時だと言明している事例もあるそうだ。

 ただ、Hofschröerはツィーテンの証言以外にもいくつか証拠を示している。その一つが15日午後10時にウェリントンがフェルトル公に宛てて書いた短い書簡だ。そこで彼は「敵が今朝方サンブル河沿いのテューアンでプロイセン軍前哨線に攻撃をしかけシャルルロワを脅かしているようだとの情報を私は得た。午前9時以降、私はシャルルロワからの連絡を受けていない」(War Times Journal "Wellington's Dispatches")と記している。
 Hofschröerによればこれはツィーテンからの連絡が午前9時に到着したことを裏付ける史料ということになる。だがPedlowはこの文章は曖昧であり、「最後の文面は『午前9時に到着した情報以降』と『午前9時に出された情報以降』のどちらにも読める」(Pedlow "Back to the Sources" First Empire Issue 82, p33)と指摘して、実際にはこれは午前9時に「出された」伝令を示していると解釈する。ウェリントンが書簡の中でテューアンに触れていることもその理由の一つ。ツィーテンがテューアン陥落の情報を得たのは早朝午前5時ではなくもっと遅い時間(午前8時15分に書かれたブリュッヒャー宛て第2報の少し前あたり)であり、ツィーテンはその情報を受けて初めてウェリントンに伝令を送ったことを示している、というのだ。
 Ropesも同様の指摘をしている。彼はCharrasがフェルトル公の手紙を元にウェリントンへの伝令は午前9時にブリュッセルに到着していると書いていることについて誤りだと述べ、「Hooperの著作83ページが指摘するように、Charrasが結論を導き出す基盤とした記述は実際にはシャルルロワから情報が発せられた時刻を意味している」(Ropes "The Campaign of Waterloo" p77)としている。イギリスの研究者たちだけでなく、ドイツ(Pflugk-Harttung)やアメリカ(Ropes)の研究者の中にもウェリントンを擁護する人はいるという訳だ。

 Pedlowは最終的にHofschröerに対して厳しく批判を浴びせている。特にPflugk-Harttungが実際に主張したのと全く逆のことを言っていたかのように自著で記している点を問題視しているようだ。確かにHofschröerは「ウェリントンはツィーテンの伝令を午前9時に受け取りながら他の情報によってこの内容が確認されるまで反応しなかった、と彼[Pflugk-Harttung]は結論付けている」(Hofschröer "1815 The Waterloo Campaign: The German Victory" p334)と記している。もしPedlowの指摘が正しいのならHofschröerは史料の引用に際して不誠実なやり方をしていることになるし、それは彼の著書に対する信頼性を失わせる要因になる。
 ただ、Hofschröerが自説主張のために掲げたのはツィーテンの自伝とウェリントンの手紙だけではない。ベイジル・ジャクソンやスコヴェルの発言をどう解釈するかという問題は残されている。また、ツィーテンの伝令が早い時間に到着しなかったとしても、それで16日のウェリントンの行動が全て公明正大で疑うものはないことが証明されるわけでもない。この件に関しては、まだまだ論争が続くと見た方がよさそうだ。



(註)この「太った男伝説」の元ネタになっているのは、1891年にHerbert Taylor Siborneの編集で出版された"Waterloo Letters"に掲載されているWilliam Napierの手紙のようだ。同書には以下のようにある。

「彼[ウェリントン]は司令部に行き、そこでブリュッヒャーの下からニュースを携えてきたミュフリングに会った。彼はもっと早い時間に到着していてしかるべきであった。[ウェリントン]公は私に『断言できないが、ブリュッヒャーは至急の情報を送るのに軍の中で最も太った男を選び、そいつは30マイルを移動するのに30時間もかけたのではなかろうか』と話した」
H. T. Siborne "Waterloo Letters" p2


 Hofschröerによるとこの最も太った男とはミュフリング自身のことだという。もちろんこのNapierの話は何の根拠もないヨタ話に過ぎない。

「ミュフリングの回想録を読んだ者なら分かる通り、彼は自身のメッセージを自由に運ばせることができる多くの伝令を配下に置いていた。さらに、彼自身はこうした事態が進展している間ずっとブリュッセルにとどまっていたため、シャルルロワのツィーテンからブリュッセルのウェリントンに宛てた連絡を運ぶことはできない。何よりミュフリングは少将であり、ベルギーのあちこちを馬に乗ってうろつきまわりながら時間を費やすには余りにも階級が高すぎる」
Hofschröer "The Memoirs of Baron von Müffling, introduction" xii


 だが、このNapierの手紙はかなり多くの人から人気を集めているようだ。歴史関係の本だけでなく、フィクションの中でもしばしば引用されている。バーナード・コーンウェルの小説「炎の英雄シャープ ワーテルロー」にもこの「太った男」は登場している(階級はなぜか少佐だが)。そして、1971年に作られたSergei Bondarchuk監督の映画"Waterloo"にも、やはり太ったミュフリングがどたばたと駆け込んでくる場面がある。

 なお、伝令の移動時間に関してAndrew Uffindellは「[時速3.7マイル弱は]このような距離[シャルルロワ―ブリュッセル間]の場合、異常な遅さではない」(Uffindell "The Eagle's Last Triumph" p80)と指摘している。30時間で30マイルはともかく、伝令の速度は机上の計算ほど速くならないとの主張だ。

――大陸軍 その虚像と実像――