・最後の攻勢
イタリアではバッサノ付近にいるアルヴィンツィ麾下のオーストリア軍が4万5000人にまで増強されていた。ボナパルト麾下のフランス軍は5万5000人を擁していたが、うちほぼ半数は各地の守備隊やマントヴァ包囲に割かれていた。フランス軍はガルダ湖両岸とヴェローナ、そしてアディジェ下流で配置についていた。アルヴィンツィは新年早々から3つの部隊で攻撃開始。6000人をヴェローナへ送り、プロヴェラの9000人がアディジェ河下流からマントヴァを目指し、彼自身は2万8000人を率いてアディジェ上流にいたジュベールの部隊1万人(9000人の説もある)に向かった。プロヴェラは1月8日にオージュローの前衛部隊をレニャーゴへ追いやり、そのニュースを聞いたボナパルトは11日にヴェローナへ到着する。かれは13日まで判断を先延ばししたが、アルヴィンツィの狙いが判明すると3000人の兵をヴェローナ守備に残し、リヴォリに防衛線を敷くジュベールを救援すべく北上した。・リヴォリの戦い(1797年1月14−15日)
アルヴィンツィは6個縦隊でフランス軍を全方向から包囲するべくゆっくりと動いていたが、ボナパルトはマセナ師団を戦闘に14日未明には戦場に到達。リヴォリ北方の丘に防衛線を敷き夜明けとともに正面に集まりつつあったオーストリア軍へ攻撃をしかけた。ジュベールのオーストリア軍左翼に対する攻撃は最初は成功したが、やがてオーストリア軍の攻撃が本格化したためボナパルトは予備部隊を戦線の反対側に投入せざるを得なくなった。ジュベールはクォスダノヴィッチの部隊に迂回され、午前11時にはサン=マルコ村がオーストリア軍の手に落ちた。マセナの増援を得たボナパルトはジュベールの部隊を東方に振り向けてオーストリア軍に反撃。ラサールとルクレールの騎兵が突撃してオーストリア軍左翼を打ち破った。さらにフランス軍はオーストリア軍の中央と右翼を攻撃して高地を取り返した。圧倒されたアルヴィンツィは夜の間に打ちのめされた部隊の再編を図り、ボナパルトはマセナを引き連れて戦場を去りヴェローナへ向かった。翌15日、ジュベールが攻撃を再開した。オーストリア軍の3個縦隊は全面退却に転じラ=コロナへと下がっていった。ヴィアルとミュラによる追撃部隊に退路を断たれ、彼らはさらに5000人の損害を出した。2日間の戦闘でフランス軍は2万2000人、オーストリア軍は2万8000人が参加し、損害はフランス軍5000人(3200人の説もある)、オーストリア軍1万4000人(1万2000人の説もある)でうち1万1000人が捕虜(8000人の説もある)。・フリウル戦役
北イタリアを失おうとしていたオーストリア軍は、カール大公を新たな指揮官としてフリウルとティロルに5万人(4万人の説もある)の兵力を集めた。ボナパルトは教皇領へ進撃していたためすぐに攻勢に出ることはなかった。2月5日(3日の説も)のセニオ川(カステル=ボロネーゼ)の戦いで9000人のフランス軍に7000人の教皇軍(3000−4000人の説もある)は敗北。損害はフランス100人、教皇軍2000人だった。教皇は19日にフランスとトレンティーノ条約を結び講和した。これでオーストリア軍に対応できるようになったボナパルトの下には、サンブル=エ=ミューズ軍などから増援も到着し、2月下旬にその兵力は6万人(6万6000人の説もある)に達した。一方、オーストリア側はラインから来るはずの3万−4万人の増援の出発が2月6日まで遅れたため、この部隊はその後の戦役では何の役にも立たなかった