・ボナパルト司令官
イタリアではシェレールがクビになり、総裁政府は3月2日にボナパルトを指揮官として任命した。ラインでのジュールダンとモローの攻撃が中心になる予定だったため、当初ボナパルトはピエモンテに対する二次的攻撃をするよう命じられたが、彼はアクイとチェヴァに対するより野心的な作戦を実施する許可を得た。3月27日、ボナパルトがニースのイタリア軍司令部に合流。フランス軍はニースからサヴォナまで分散しており食糧と補給が不足していた。兵力は3万7000人(4万人の説もある)で大砲は60門。一方、連合軍は大きく3つの部隊に分かれており、ボーリューのオーストリア軍3万人(2万5000人の説もある)はアクイ周辺に、コッリの2万人(1万5000人、2万5000人の説もある、多くはピエモンテ軍)はクネオとコッセリアの間に、そしてコリガン将軍の2万人(1万5000人の説もある)はトリノの西にあってケレルマンのアルプス軍2万人と向き合っていた。ボナパルトは4月9日にサヴォナに到着。カルカレでボーリューとコッリの部隊を断ち切ろうとした彼の作戦は、10日にオーストリア軍の攻撃で先手を打たれた。ヴォルトリ近辺にいるフランス軍右翼への攻撃は巧妙な退却戦によって妨害され、同時に行われるはずのアルジェントーによるサヴォナ攻撃は遅れていた。・モンテノッテとデゴ
ボナパルトは15日からを予定していた攻撃を早め、モンテノッテ付近にいるアルジェントーの6800人(6000人や9000人の説もある)に目標を定めて11日からカルカレへ移動を開始。12日朝早くにラ=アルプ将軍の師団がモンテノッテに到着してすぐに正面攻撃を開始し、マセナは1個旅団を率いて丘を抜けオーストリア軍右翼を脅かした。アルジェントーは側面の危機に気づくのが遅く、マセナの攻撃でオーストリア軍は壊走した。フランス軍1万4000人(9000人の説もある)の損害は800人で、オーストリア軍は2500人の損害を蒙り1000挺のマスケット銃を奪われた。・ピエモンテ降伏
ボナパルトは連絡線をより安全なルートに変更し、マセナ師団を呼び寄せて21日にコッリへの攻撃を再開しようとした。コッリは最後の瞬間に退却し、モンドヴィで部隊を再集結しようとした。追撃に当たったセリュリエ師団はヴィコフォルテでピエモンテ軍後衛部隊を攻撃してこれを壊走させた。ただ、200人の竜騎兵を率いて前進したシュテンゲル将軍はピエモンテ軍の反撃にあって戦死した。豊かな物資を持つモンドヴィの町は同日中(22日の説もある)にフランス軍に降伏した。モンドヴィ付近の戦闘にはフランス軍1万5000人、ピエモンテ軍1万1000人が参加。フランス軍は豊かなロンバルディアの平原についにたどり着いた。ボナパルトは23日からトリノへ向けての前進を開始。コッリは同日中に休戦を申し出たが、ボナパルトはそれを無視して前進し25日にケラスコとアルバを占領した。そこで彼はピエモンテ領内の要塞使用と軍の通過を認めることを条件に前進を止めた。28日にはトリノにいるピエモンテ王ヴィクトール・アマデウスが休戦に合意し、ミュラ大佐がその条文を運んでパリへ向かった。ピエモンテとの講和については前年から総裁政府が行っていた外交交渉の影響が大きいとの見方もある。4月上旬からの一連の作戦によるフランス軍の損害は計6000人に達したが、連合軍は損害1万人、捕虜1万5000人を出した。・ロディの戦い(1796年5月10日)
オーストリア軍はゼボッテンドルフ将軍配下の後衛部隊1万人(9500人の説もある)がロディの橋を確保していた。追撃していたフランス軍前衛部隊は5月10日にロディの町を占領するが、東岸に待ち構える1000人の兵と12門の大砲を相手にてこずっていた。フランス軍は擲弾兵3500人を集めて橋への突撃を行い、二度目の試みで橋を奪った。ゼボッテンドルフの反撃はマセナ、オージュロー師団の到着によって遮られ、上流で浅瀬を渡ったフランス軍騎兵部隊が側面にきたのを見てゼボッテンドルフは退却した。フランス軍の参加戦力は1万7500人で、損害はフランス軍900人(2000人の説もある)、オーストリア軍2000人(900人の説もある)。ボナパルトは追撃を中止し、マセナを送り込んで無防備なミラノを13日に占領した。ボナパルトは15日にミラノに入城した。・カスティリオーネの戦い(1796年8月5日)
6月18日にライン方面を離れたヴルムゼルのオーストリア軍2万5000人(2万人の説もある)は、29日にティロルのトレントの到着した。新たな指揮官となったヴルムゼルは7月上旬から5万人の兵を率いて南下。ヴルムゼルはガルダ湖東岸を、クォスダノヴィッチが西岸を進んだ。7月29日、ヴルムゼルの2万2000人はリヴォリからマセナの部隊1万人を追い払った。損害はフランス軍2800人、オーストリア軍800人だった。フランス軍の連絡線を脅かす役割を負っていたクォスダノヴィッチは29日にサロを、30日にブレシアを奪う。この状況に対応するためボナパルトは30日にヴェローナから撤退。部隊を率いて西進し8月1日にはオージュロー師団がブレシアを奪い返した。クォスダノヴィッチの部隊とフランス軍のマセナ師団、ソール師団、デスピノワ旅団などは4日までサロ、ロナート、デゼンツァーノ周辺で数度に渡る混戦を繰り広げる。クォスダノヴィッチの兵力は1万8000人(1万5000人の説もある)、フランス軍は2万人で、損害はフランス軍2000人、オーストリア軍3000人。退路を断たれる可能性を恐れたクォスダノヴィッチは最後に退却を決意し、ガルダ湖西岸の危険は去った。一方、ガルダ湖東岸を南下したヴルムゼルはクォスダノヴィッチとの合流を急ごうとはせず、マントヴァの即時解放が必要かどうか情報を得るために7月31日にヴァレッジオで停止した。その後、ヴルムゼルは大きく南方を迂回してクォスダノヴィッチのいる方角に行進するルートを選び、結果として彼の部隊はクォスダノヴィッチとボナパルトの戦闘に間に合わなかった。ヴルムゼルの前衛部隊がカスティリオーネに接近した時、その前方にはオージュローの部隊が展開していた。・バッサノ
ボナパルトは総裁政府の命令に従い、ようやく始まったライン方面での攻勢を支援するため8月下旬から(9月2日からの説もある)アディジェ川をトレントへ遡る攻撃を行った。兵力は3万3000人。すでに7月以来1万7000人の損害を蒙っていたヴルムゼルだが、増援を得て再びマントヴァ解放に向かおうとしていた。ボナパルトの動きに気付いた彼はトレントを守るためダヴィドヴィッチに2万5000人の兵を預け、自らは2万人を率いてブレンタ河を下りボナパルトの背後を突こうとした。ダヴィドヴィッチはトレントの南50キロメートルにあるロヴェレードの交差点とマルコ村を結ぶ線に1万4000人の兵(1万人の説もある)を配置。そこにマセナの部隊1万人(1万200人、2万人の説もある)が9月4日に攻撃をしかけた。1個旅団が側面を脅かしている間にマセナは正面から攻撃して勝利。フランス軍の損害200人(750人の説もある)に対してオーストリア軍は6000人が捕虜(3000人の説もある)となった。ダヴィドヴィッチはティロルへ退却し、フランス軍は翌日トレントを占領した。・アルヴィンツィの前進
ドイツでのフランス軍敗北により、オーストリア軍はイタリアに兵力を集中できるようになった。ボナパルトは4万2000人の兵を保持していたが、うち3分の1は病気で9000人はマントヴァ包囲に充当されていた。オーストリア軍の新たな指揮官アルヴィンツィの攻撃準備は11月には整っていた。オーストリアは再び部隊を2つに分けて前進を図った。アルヴィンツィの2万8000人はブレンタ河を下ってバッサノへ、ダヴィドヴィッチの1万8000人はトレントへ向かった。オーストリア軍のニセ情報に騙されたボナパルトはヴォーボワに対しトレント北方にいる小規模な部隊を叩くよう命じ、アルヴィンツィを攻撃すべくヴェローナに部隊の集結を始めた。11月4日、トレントの北でヴォーボワがダヴィドヴィッチに敗北したためボナパルトの攻撃計画は破綻。6日にはバッサノでマセナがオーストリア軍の前進阻止に失敗した。この戦闘にはフランス軍1万9500人、オーストリア軍2万8000人が参加し、損害はフランス軍3500人、オーストリア軍2800人だった。ボナパルトは部隊をアディジェ川の線まで下げた。・アルコレの戦い(1796年11月15−17日)
マントヴァ包囲の兵を引き抜きたくなかったボナパルトはヴォーボワが1万3000人の部隊でダヴィドヴィッチを牽制している間にアルヴィンツィを迂回し、ヴィラ=ノヴァでオーストリア軍の退路を遮断する計画を立てた。オーストリア軍が数の優位を生かせない湿地帯での戦闘に巻き込もうとしたのだ。11月14日、アルヴィンツィがヴェローナへ接近。ボナパルトはヴォーボワから引き抜いた3000人にヴェローナの守備を任せ、1万8000人を率いて11月15日朝に30キロメートル東南にあるロンコでアディジェ川を渡った。アルヴィンツィはその動きに気づいていなかったが、オーストリアの側面守備部隊は素早く対応。マセナは西翼の安全を素早く確保したが、オージュローによるアルポン川の渡河点アルコレに対する攻撃は2000人のクロアチア兵によって止められた。ボナパルトがさらに南方のアルバレドでアディジェ川を渡るべく3000人の部隊を送り出している間に、オーストリアの増援がアルコレとマセナのいる方面へ到着した。ヴォーボワに対するオーストリア軍の移動が再開されたとの情報を心配したボナパルトは、必要なら北上できるよう部隊をアディジェ西岸に引き上げた。その後になってアルバレドを経由した部隊がアルコレの占領に成功したが、彼らはそこから引き上げてしまった。翌16日、ヴォーボワからの連絡を受けなかったボナパルトは攻撃を再開。再びロンコでアディジェを渡り、アルコレとベルフィオーレのオーストリア軍を攻撃した。正面からの攻撃でベルフィオーレは奪回できたが、アルコレはオーストリア軍が確保し、アルポン川をもっと南で渡ろうとした別働隊はオーストリア軍の妨害を受けた。ボナパルトは夜になると前衛部隊のみを残して再びアディジェ川西岸へ引き上げた。アルヴィンツィの蒙った損害も大きかった。オーストリア軍はヴィラ=ノヴァ西方にいる6000人の部隊と、アルヴィンツィ自らが率いるヴィラ=ノヴァとアルコレの間でアルポン川東岸に布陣している1万2000人の部隊に分かれていた。ボナパルトは夜の間にマントヴァから3000人の増援を得て翌17日朝攻撃を再開した。マセナ麾下の8000人はロンコで激しい抵抗にあいながら渡河し、さらにアルコレの守備隊を騙してこれを待ち伏せし、逆襲してアルコレの一部を確保した。オージュローは部隊の一部をさらに南方へ送ってレニャーゴ近くでアディジェ川を渡河させ、ついにアルバレドを占領したが、オーストリア軍の抵抗は続いていた。ボナパルトはギドの一部を敵に気付かれないようにアルポン川を渡し、オーストリア軍の背後から大声で突撃させた。オーストリア軍はついに北へ退却を始め、オージュローとマセナはアルコレで合流した。オーストリア軍はその夜のうちにヴィチェンツァへ退却。フランス軍は翌18日にヴェローナへ戻った。アルコレの戦いにはフランス軍2万人、オーストリア軍1万8500人が参加したとの説もある。損害はフランス軍4500人(3500人の説もある)、オーストリア軍7000人(6200人の説もある)だった。