1796年―イタリア戦線



・ボナパルト司令官

 イタリアではシェレールがクビになり、総裁政府は3月2日にボナパルトを指揮官として任命した。ラインでのジュールダンとモローの攻撃が中心になる予定だったため、当初ボナパルトはピエモンテに対する二次的攻撃をするよう命じられたが、彼はアクイとチェヴァに対するより野心的な作戦を実施する許可を得た。3月27日、ボナパルトがニースのイタリア軍司令部に合流。フランス軍はニースからサヴォナまで分散しており食糧と補給が不足していた。兵力は3万7000人(4万人の説もある)で大砲は60門。一方、連合軍は大きく3つの部隊に分かれており、ボーリューのオーストリア軍3万人(2万5000人の説もある)はアクイ周辺に、コッリの2万人(1万5000人、2万5000人の説もある、多くはピエモンテ軍)はクネオとコッセリアの間に、そしてコリガン将軍の2万人(1万5000人の説もある)はトリノの西にあってケレルマンのアルプス軍2万人と向き合っていた。ボナパルトは4月9日にサヴォナに到着。カルカレでボーリューとコッリの部隊を断ち切ろうとした彼の作戦は、10日にオーストリア軍の攻撃で先手を打たれた。ヴォルトリ近辺にいるフランス軍右翼への攻撃は巧妙な退却戦によって妨害され、同時に行われるはずのアルジェントーによるサヴォナ攻撃は遅れていた。

・モンテノッテとデゴ

 ボナパルトは15日からを予定していた攻撃を早め、モンテノッテ付近にいるアルジェントーの6800人(6000人や9000人の説もある)に目標を定めて11日からカルカレへ移動を開始。12日朝早くにラ=アルプ将軍の師団がモンテノッテに到着してすぐに正面攻撃を開始し、マセナは1個旅団を率いて丘を抜けオーストリア軍右翼を脅かした。アルジェントーは側面の危機に気づくのが遅く、マセナの攻撃でオーストリア軍は壊走した。フランス軍1万4000人(9000人の説もある)の損害は800人で、オーストリア軍は2500人の損害を蒙り1000挺のマスケット銃を奪われた。

 モンテノッテの勝利後、ボナパルトはボーリューの介入を防ぐためにマセナの8500人(1万2000人の説もある)をデゴ周辺に残し、自らは孤立したコッリのピエモンテ軍前線部隊1万3000人へ向かうべく西へ進んだ。マセナはデゴに5000人のオーストリア軍(5700人の説もある)がいるのを発見したが、フランス軍主力9000人がプロヴェラ率いるコッセリアのピエモンテ守備隊900人(1000人の説もある)を蹂躙しようとした13日の間はデゴへの攻撃を禁じられた(マセナの方が攻撃を控えたとの説もある)。コッセリアは一晩持ちこたえ、マセナは14日朝にデゴへの攻撃許可を得る。正午ごろフランス軍はデゴを強襲し、4000人の捕虜(3000人の説もある)を得た。だが、その後マセナの部隊は略奪行為に没頭してしまい、部隊の規律は失われた。

 一方、オーストリア軍はヴュカソヴィッチ将軍率いる部隊5000人(3500人の説もある)が14日午前6時にはデゴに近いジュスヴァラに到着。しかし彼は翌朝デゴに前進せよとの命令に従い、デゴのオーストリア軍がマセナと戦っているのを知りながら何もしなかった。彼の部隊は予定通り翌朝デゴに到着。分散して略奪に熱中していたフランス軍から村を奪回しマセナの砲を全て奪った。ボナパルトはラ=アルプ師団8000人を東へ急行させ、15日の遅い時間にデゴを再度攻撃した。フランス軍の兵力は1万5000人との説もあり、1000人の損害(900人の説もある)を出しながらヴュカソヴィッチに1700人の損害を与えて壊走させた。この間、オーストリア軍のボーリュー将軍は部隊をアクイに集結するよう命じており、友軍であるコッリから遠ざかるように移動していた。

 ボナパルトは再びコッリを叩くべく2万4000人の兵を率いて西に向った。コッリの1万3000人はチェヴァへ退却。16日に行われたオージュロー師団の攻撃は失敗し、ピエモンテ軍はさらに17日にはオージュローとセリュリエ双方の攻撃を持ちこたえた。コッリは夜の間に後退してサン=ミケーレ村を中心としたより強力な位置を占めた。18日はオージュローによる側面機動がタナーロ川のために難渋し、セリュリエの正面攻撃は失敗に終わった。さらに翌19日の攻撃でセリュリエの部隊はサン=ミケーレ村への突入に成功したが、空腹を抱えた兵はすぐに略奪に夢中となり、連合軍の反撃で追い散らされた。ボナパルトは部隊再編のため攻撃を中断した。

・ピエモンテ降伏

 ボナパルトは連絡線をより安全なルートに変更し、マセナ師団を呼び寄せて21日にコッリへの攻撃を再開しようとした。コッリは最後の瞬間に退却し、モンドヴィで部隊を再集結しようとした。追撃に当たったセリュリエ師団はヴィコフォルテでピエモンテ軍後衛部隊を攻撃してこれを壊走させた。ただ、200人の竜騎兵を率いて前進したシュテンゲル将軍はピエモンテ軍の反撃にあって戦死した。豊かな物資を持つモンドヴィの町は同日中(22日の説もある)にフランス軍に降伏した。モンドヴィ付近の戦闘にはフランス軍1万5000人、ピエモンテ軍1万1000人が参加。フランス軍は豊かなロンバルディアの平原についにたどり着いた。ボナパルトは23日からトリノへ向けての前進を開始。コッリは同日中に休戦を申し出たが、ボナパルトはそれを無視して前進し25日にケラスコとアルバを占領した。そこで彼はピエモンテ領内の要塞使用と軍の通過を認めることを条件に前進を止めた。28日にはトリノにいるピエモンテ王ヴィクトール・アマデウスが休戦に合意し、ミュラ大佐がその条文を運んでパリへ向かった。ピエモンテとの講和については前年から総裁政府が行っていた外交交渉の影響が大きいとの見方もある。4月上旬からの一連の作戦によるフランス軍の損害は計6000人に達したが、連合軍は損害1万人、捕虜1万5000人を出した。

 ボナパルトはいったん動きを止め、各地に分派していた部隊を呼び戻した。オーストリア軍はラ=アルプの追撃をかわしながら増援に近づくべく後退。ヴァレッジョ付近でアジョノ河を東へ渡り、4月30日にはフランス軍がポー河をヴァレンツァかパヴィアで渡河する場合には対応できるように4万人の兵を布陣した。ボナパルトは4万人の軍を集めてポー河南岸に兵力を集めたが、連合軍を奇襲するためずっと東方のピアチェンツァでの渡河を決めた。マセナとセリュリエがヴァレンツァ付近で陽動している間にダレマーニュが3600人のエリート歩兵と2500人の騎兵を率いて5月7日朝にピアチェンツァに到着。ボーリューはフランス軍の動きに対応してリプタイ師団を4日にパヴィア防衛のために派遣しており、その2日後には全軍をティチノ河東岸へ後退させていた。フランス軍渡河の知らせを聞いたボーリューは敵の前進を止めるようリプタイに命じ、7日遅くには全部隊をピアチェンツァに向けた。船橋のないままダレマーニュとラ=アルプは午後半ばには河を渡ってリプタイの前衛部隊をフォンビオ村へ追い返した。オージュローの部隊はさらに西方で渡河し、ナポレオンの全軍は陽動を終えて東へ向かう。8日朝にダレマーニュとラ=アルプはフォンビオを強襲し、ここを一掃してコドーニョでボーリューの前衛部隊と接触した。夜戦が起こりラ=アルプが味方の誤射で戦死したが、オーストリア軍は最終的に退却した。損害は双方数十人。ボーリューは全面後退を命じ、9日には3万5000人のオーストリア軍はアッダ河東岸へ退却した。ボナパルトは9日には部隊の集結を終え、アッダ河を渡るため部隊をロディへ急がせた。

・ロディの戦い(1796年5月10日)

 オーストリア軍はゼボッテンドルフ将軍配下の後衛部隊1万人(9500人の説もある)がロディの橋を確保していた。追撃していたフランス軍前衛部隊は5月10日にロディの町を占領するが、東岸に待ち構える1000人の兵と12門の大砲を相手にてこずっていた。フランス軍は擲弾兵3500人を集めて橋への突撃を行い、二度目の試みで橋を奪った。ゼボッテンドルフの反撃はマセナ、オージュロー師団の到着によって遮られ、上流で浅瀬を渡ったフランス軍騎兵部隊が側面にきたのを見てゼボッテンドルフは退却した。フランス軍の参加戦力は1万7500人で、損害はフランス軍900人(2000人の説もある)、オーストリア軍2000人(900人の説もある)。ボナパルトは追撃を中止し、マセナを送り込んで無防備なミラノを13日に占領した。ボナパルトは15日にミラノに入城した。

 総裁政府はケレルマンとボナパルトでイタリア軍の指揮権を分けるよう命じてきたがボナパルトはこれを拒否。結局、ボナパルトはケレルマンのアルプス軍から1万人の増援を得てマントヴァ周辺に集結しているオーストリア軍への攻撃準備にとりかかる。5月21日にケラスコの休戦合意を認める総裁政府からの連絡が到着して後方の不安がなくなったボナパルトは、要塞に残っていたオーストリア守備隊を包囲する部隊5000人を残し、22日に3万人の兵を率いてミラノを出発した。一方、ボーリューのオーストリア軍2万8000人のうち、3分の2はミンチオ河沿いにガルダ湖からマントヴァまで分散して配置されていた。ボナパルトはオーストリア軍の中央を攻撃するため、5月26日にブレシア周辺に集めていたフランス軍2万8000人に合流した。5月30日(29日の説もある)、ロディと同様にエリート部隊がボルゲットーの橋を強行突破し(橋の中央が破壊されていたため浅瀬を渡河したとの説もある)、フランス軍はそこを渡ってボーリューの背後へなだれ込んだ。分散した部隊をまとめることができず、ボーリューはアディジェ河東岸へと退却。彼の部隊の大半はリヴォリを通ってトレントへ退却し、南方で孤立した4500人の兵はマントヴァへ追いやられ、そこの守備隊7500人と合流した。ボルゲットーの戦いにはフランス軍2万7000人、オーストリア軍6000人が参加し、損害はフランス軍500人、オーストリア軍600人だった。6月1日、前哨線にいたボナパルトが捕虜になりかける場面があり、これがギドの設立につながった(革命戦争中は各軍指揮官がギドを持っていたとの説もある)。  決定的な勝利を得られなかったボナパルトはここで防勢に転じることを決意。ロンバルディア各地で生じた反乱鎮圧に努めると同時に部隊を南方へ派出。オージュロー師団は6月18日にボローニャへ進出し、ヴォーボワ師団はリヴォルノへ向かってイギリス海軍をその地から追い払った。ボナパルトはトスカナ公国やローマ教皇領に圧力をかけた。

・カスティリオーネの戦い(1796年8月5日)

 6月18日にライン方面を離れたヴルムゼルのオーストリア軍2万5000人(2万人の説もある)は、29日にティロルのトレントの到着した。新たな指揮官となったヴルムゼルは7月上旬から5万人の兵を率いて南下。ヴルムゼルはガルダ湖東岸を、クォスダノヴィッチが西岸を進んだ。7月29日、ヴルムゼルの2万2000人はリヴォリからマセナの部隊1万人を追い払った。損害はフランス軍2800人、オーストリア軍800人だった。フランス軍の連絡線を脅かす役割を負っていたクォスダノヴィッチは29日にサロを、30日にブレシアを奪う。この状況に対応するためボナパルトは30日にヴェローナから撤退。部隊を率いて西進し8月1日にはオージュロー師団がブレシアを奪い返した。クォスダノヴィッチの部隊とフランス軍のマセナ師団、ソール師団、デスピノワ旅団などは4日までサロ、ロナート、デゼンツァーノ周辺で数度に渡る混戦を繰り広げる。クォスダノヴィッチの兵力は1万8000人(1万5000人の説もある)、フランス軍は2万人で、損害はフランス軍2000人、オーストリア軍3000人。退路を断たれる可能性を恐れたクォスダノヴィッチは最後に退却を決意し、ガルダ湖西岸の危険は去った。一方、ガルダ湖東岸を南下したヴルムゼルはクォスダノヴィッチとの合流を急ごうとはせず、マントヴァの即時解放が必要かどうか情報を得るために7月31日にヴァレッジオで停止した。その後、ヴルムゼルは大きく南方を迂回してクォスダノヴィッチのいる方角に行進するルートを選び、結果として彼の部隊はクォスダノヴィッチとボナパルトの戦闘に間に合わなかった。ヴルムゼルの前衛部隊がカスティリオーネに接近した時、その前方にはオージュローの部隊が展開していた。

 ボナパルトは7月31日に(8月1日の説もある)マントヴァを包囲していたセリュリエに包囲を中断させていた。ロナートなどで勝利を得たボナパルトは、オージュローと8月3日から戦闘を交えていたヴルムゼルに対して部隊を転じ、カスティリオーネ東南にある高地に2万1000人の部隊を4日に配置した。さらにブレシアとマントヴァから9500人の増援を呼んだ。正面攻撃で敵をひきつけておき、マントヴァからきた部隊がその側面を攻撃するという計画だったが、5日早朝から始まった作戦はフィオレラ将軍(セリュリエの代理として指揮を取っていた)の攻撃開始が早すぎたため、ヴルムゼルは予備をこれの対応に回すことができた。ヴルムゼルは午前の遅い時間までその位置を持ちこたえ、ボナパルトの最後の増援である2500人がオーストリア軍右翼を攻撃し始めた時には全面後退を始めた。彼はペシェーラの方角に向かい、そこにいた5000人の部隊がオーストリア軍の退却をカバーした。カスティリオーネの戦いに参加した兵力はフランス軍3万人(3万5000人の説もある)、オーストリア軍2万5000人(1万5500人の説もある)で、損害はフランス1500人(1100人の説もある)、オーストリア3000人だった。この勝利によりヴルムゼルの攻勢は頓挫。彼はマントヴァに増援と物資を送り込んだうえでティロルへと後退し、マントヴァは8月27日から再びフランス軍の包囲下に入った。

・バッサノ

 ボナパルトは総裁政府の命令に従い、ようやく始まったライン方面での攻勢を支援するため8月下旬から(9月2日からの説もある)アディジェ川をトレントへ遡る攻撃を行った。兵力は3万3000人。すでに7月以来1万7000人の損害を蒙っていたヴルムゼルだが、増援を得て再びマントヴァ解放に向かおうとしていた。ボナパルトの動きに気付いた彼はトレントを守るためダヴィドヴィッチに2万5000人の兵を預け、自らは2万人を率いてブレンタ河を下りボナパルトの背後を突こうとした。ダヴィドヴィッチはトレントの南50キロメートルにあるロヴェレードの交差点とマルコ村を結ぶ線に1万4000人の兵(1万人の説もある)を配置。そこにマセナの部隊1万人(1万200人、2万人の説もある)が9月4日に攻撃をしかけた。1個旅団が側面を脅かしている間にマセナは正面から攻撃して勝利。フランス軍の損害200人(750人の説もある)に対してオーストリア軍は6000人が捕虜(3000人の説もある)となった。ダヴィドヴィッチはティロルへ退却し、フランス軍は翌日トレントを占領した。

 ヴルムゼルがブレンタ河を下っているのを知ったボナパルトは、退却する代わりにヴルムゼルを背後から追撃することを決意した。ヴォーボワの1万人を残し、ボナパルトは2万2000人を率いて9月6日にトレントを出発。7日にオーストリア軍後衛部隊をプリモラーノで攻撃。フランス軍は8200人、オーストリア軍は4000人が戦闘に参加し、オーストリア軍1500人が捕虜となった。フランス軍は50キロメートルを移動し7日夜にはバッサノへ近づいた。ヴルムゼルはバッサノに2個師団を配置して防衛線を敷き、ボナパルトは翌8日朝から攻撃を始めた。オージュローは東から、マセナは西から敵の側面へ向かい、ランヌ大佐のエリート部隊が中央を攻撃してオーストリア軍を粉砕した。戦闘に参加したのはフランス軍2万人、オーストリア軍1万1000人。オーストリア軍は4000人の捕虜(2000人、3000人の説もある)を出した。逃げ出したオーストリア軍のうち3500人(3000人の説もある)はトリエステへ向かったが、残る1万2000人はヴルムゼル自らが率いてマントヴァへ前進。最終的にヴルムゼルは1万6000人のオーストリア軍を集めて12日にマントヴァへ到達したが、15日に行われた突破作戦はマセナ前衛部隊の到着によって遮られた。この戦闘にはフランス軍1万7000人、オーストリア軍1万4000人が参加し、フランス軍1500人、オーストリア軍2500人の損害を出した。ヴルムゼルはマントヴァでフランスの包囲下に置かれた。

・アルヴィンツィの前進

 ドイツでのフランス軍敗北により、オーストリア軍はイタリアに兵力を集中できるようになった。ボナパルトは4万2000人の兵を保持していたが、うち3分の1は病気で9000人はマントヴァ包囲に充当されていた。オーストリア軍の新たな指揮官アルヴィンツィの攻撃準備は11月には整っていた。オーストリアは再び部隊を2つに分けて前進を図った。アルヴィンツィの2万8000人はブレンタ河を下ってバッサノへ、ダヴィドヴィッチの1万8000人はトレントへ向かった。オーストリア軍のニセ情報に騙されたボナパルトはヴォーボワに対しトレント北方にいる小規模な部隊を叩くよう命じ、アルヴィンツィを攻撃すべくヴェローナに部隊の集結を始めた。11月4日、トレントの北でヴォーボワがダヴィドヴィッチに敗北したためボナパルトの攻撃計画は破綻。6日にはバッサノでマセナがオーストリア軍の前進阻止に失敗した。この戦闘にはフランス軍1万9500人、オーストリア軍2万8000人が参加し、損害はフランス軍3500人、オーストリア軍2800人だった。ボナパルトは部隊をアディジェ川の線まで下げた。

 ダヴィドヴィッチは主力部隊との連絡待ちのため動きを止め、アルヴィンツィはヴェローナ付近にいる筈のダヴィドヴィッチに合流するため1万7000人を率いて前進した。11月11日にフランス軍後衛を一掃した後、彼はカルディエロ付近に8000人の前衛部隊を配置。一方、ボナパルトはマセナ配下に1万2000人の兵を集めてその町を攻撃しようとした。天候不順のため攻撃は12日朝まで延期。その時点でアルヴィンツィは彼の全部隊を集めており、その予備部隊に迂回されマセナの攻撃は失敗した。参加兵力についてはフランス軍2万4000人、オーストリア軍1万2000人の説もある。損害はフランス2000人(1800人の説もある)、オーストリア軍1300人だった。マセナはアディジェ川西岸へと下がり、ボナパルトはわずか2万1000人の部隊で2つのオーストリア軍と対峙していた。

・アルコレの戦い(1796年11月15−17日)

 マントヴァ包囲の兵を引き抜きたくなかったボナパルトはヴォーボワが1万3000人の部隊でダヴィドヴィッチを牽制している間にアルヴィンツィを迂回し、ヴィラ=ノヴァでオーストリア軍の退路を遮断する計画を立てた。オーストリア軍が数の優位を生かせない湿地帯での戦闘に巻き込もうとしたのだ。11月14日、アルヴィンツィがヴェローナへ接近。ボナパルトはヴォーボワから引き抜いた3000人にヴェローナの守備を任せ、1万8000人を率いて11月15日朝に30キロメートル東南にあるロンコでアディジェ川を渡った。アルヴィンツィはその動きに気づいていなかったが、オーストリアの側面守備部隊は素早く対応。マセナは西翼の安全を素早く確保したが、オージュローによるアルポン川の渡河点アルコレに対する攻撃は2000人のクロアチア兵によって止められた。ボナパルトがさらに南方のアルバレドでアディジェ川を渡るべく3000人の部隊を送り出している間に、オーストリアの増援がアルコレとマセナのいる方面へ到着した。ヴォーボワに対するオーストリア軍の移動が再開されたとの情報を心配したボナパルトは、必要なら北上できるよう部隊をアディジェ西岸に引き上げた。その後になってアルバレドを経由した部隊がアルコレの占領に成功したが、彼らはそこから引き上げてしまった。翌16日、ヴォーボワからの連絡を受けなかったボナパルトは攻撃を再開。再びロンコでアディジェを渡り、アルコレとベルフィオーレのオーストリア軍を攻撃した。正面からの攻撃でベルフィオーレは奪回できたが、アルコレはオーストリア軍が確保し、アルポン川をもっと南で渡ろうとした別働隊はオーストリア軍の妨害を受けた。ボナパルトは夜になると前衛部隊のみを残して再びアディジェ川西岸へ引き上げた。アルヴィンツィの蒙った損害も大きかった。オーストリア軍はヴィラ=ノヴァ西方にいる6000人の部隊と、アルヴィンツィ自らが率いるヴィラ=ノヴァとアルコレの間でアルポン川東岸に布陣している1万2000人の部隊に分かれていた。ボナパルトは夜の間にマントヴァから3000人の増援を得て翌17日朝攻撃を再開した。マセナ麾下の8000人はロンコで激しい抵抗にあいながら渡河し、さらにアルコレの守備隊を騙してこれを待ち伏せし、逆襲してアルコレの一部を確保した。オージュローは部隊の一部をさらに南方へ送ってレニャーゴ近くでアディジェ川を渡河させ、ついにアルバレドを占領したが、オーストリア軍の抵抗は続いていた。ボナパルトはギドの一部を敵に気付かれないようにアルポン川を渡し、オーストリア軍の背後から大声で突撃させた。オーストリア軍はついに北へ退却を始め、オージュローとマセナはアルコレで合流した。オーストリア軍はその夜のうちにヴィチェンツァへ退却。フランス軍は翌18日にヴェローナへ戻った。アルコレの戦いにはフランス軍2万人、オーストリア軍1万8500人が参加したとの説もある。損害はフランス軍4500人(3500人の説もある)、オーストリア軍7000人(6200人の説もある)だった。

 ボナパルトはすぐにダヴィドヴィッチの部隊に注意を振り向けた。ダヴィドヴィッチは包囲される危険を避けるため19日には退却した。アルヴィンツィは20日に再び前進を始めたが、ダヴィドヴィッチから支援は不可能との連絡を受けて最終的に引き上げた。11月下旬の総裁政府によるオーストリアとの講和の試みは、オーストリアがマントヴァへの補給を要求したため失敗に終わった。両軍は再度の戦闘に向けて部隊再編を進めた。


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