1795年―オランダ戦線



・イギリス軍撤退

 オランダでは1月2日にオランダ軍が守っていたゴルカムが陥落し、1月6−7日には連合軍の指揮官ヴァルモーデンがレッヒ(ネーデルライン)河を渡って北へと後退した。フランス軍の攻撃でオーストリア軍との連絡が難しくなったイギリス軍とハノーヴァー軍1万8000人は、ついにオランダ軍とも分かれ、アーンエム経由で北方イーゼル河へ退却した。彼らは17日にかけてミュンスターへと退却したが、厳しい気候とフランス軍の追撃によって6000人が殺された。同日、オランダ州総督オラニエ公は国外へ逃げた。1月20日にはピシュグリュが無防備都市となったアムステルダムに入城しオランダでの戦争を事実上終わらせた。王党派オランダ人は安全な場所を求めてヘルデルの港へ向かっており、フランス軍騎兵がそれを追った。ヘルデルの対岸にあるテクセル島にはオランダ艦隊主力が存在したが、折からの寒波によって海峡で氷づけになっていた。1月30日、王党派の追撃に当たったフランス竜騎兵隊は凍った海水の上を突撃し、オランダの全艦隊を捕獲するのに成功した。ただしオランダの歴史家の中には、フランス騎兵の突撃はなく、オランダ艦隊はあくまで話し合いのうえでフランス軍に投降したのだという説を唱える者もいる。

 フランス軍は2月24日にヴァルモーデンの追撃を再開。洪水に苦しみながらもイギリス軍の生き残りをリンゲンとエムデンに追い払った。3月8日、イギリス軍はプロイセン軍と任務を交代。彼らはブレーメンに向かい、3月25日に本国への帰途についた。やがてこの方面の戦闘はプロイセンの単独講和によって終わりを告げた。


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