団報「ビカボシロ」40周年記念号

ボーイスカウト渋谷5団
1997.12.01発行
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渋谷5団のホームページ

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私をあなたの平和の道具としてお使いください

憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところに許しを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のところに希望を
闇に光を悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを私が求めますように

私たちは与えるから受け、許すから許され
自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから

      −聖フランシスコの平和の祈り


40年の歩み

渋谷教会主任司祭 ジラール

ボーイスカウト渋谷5団は去る八月十五日の団ボリーで四十周年記念を祝ったのです。渋谷教会の皆さんとわたしの名によって、あらためて申し上げます。ボーイスカウトの皆さん、おめでとうございます。

この間、ある家族の祝宴に参加しました。歓談をしているうちに、“一期一会”という言葉が出ました。これを聞くと、何となく“一日一善”というボーイスカウトのモットーが頭に浮かんで来ました。“一期一会”と“一日一善”は別に関係がありませんが、わたしはその二つを結び合わせたのです。なぜでしょう。これは、ただ両方とも簡潔の表現で偉大なことを見事にまとめる、という理由からかもしれません。

“スカウトの創立者”ベーデンパウエル氏は、なるべく宗教から独立した運動をつくろうとしました。しかし、キリスト者の彼が示した“一日一善”にはイエスの精神を一目で見いだすことが出来ます。イエスは言われた。「口先だけで“主よ、主よ”と言う者が、天の国に入るわけではない。むしろ、神の御心を行う者こそ御顔を見る。」一日一善によって御心を行うこと、これはスカウトが歩むことを約束した道です。

ボーイスカウトの皆さん、この“一日一善”をモットーにして40年間歩み続けて来たことを喜びたいと思います。池尻時代に始まったこの長い歩みの中に喜びがあれば、悲しみもありました。喜びとは、その運動の規律を忠実に守ったため、年の流れの中でカブ、シニア、ローバー、ビーバーの諸隊が徐々に発足して、今は約200人の団となりました。また、洗礼を受ける恵みに満たされた何人かのリーダーがいますから、なお一層渋谷教会には喜ばしいことです。同じ希望を抱いている者が少なくはない、とわたしは思います。悲しい出来事とは、特に数人の団員が帰天したことを考えずにはいられません。しかし、彼らがきっと天国からたえず5団のスカウトを見守っていることでしょう。

スカウトと仕える人は等しいことです。スカウトは、一日一善によって神と人に仕える者です。夜になって、5分だけでも反省して、「今日、わたしが“一日一善”をどのような形で果たしたか」と考えることは、本人を初め、団全体にとって有益です。これが50年記念を迎える力になるからです。おめでとうございます。


40周年を迎えて

冨崎之夫

私どもの団が発足してから既に40年がたちました。40年前(昭和32年)の暮れ近く、池尻にあった教会の幼稚園の講堂でボーイ隊のみで発隊式を行った隊が、その後数え切れない人々の力により、カブ隊、シニア隊、ローバー隊、ビーバー隊を次々に発隊させて、今年40周年を迎えることが出来ました。この間、本当に多くの人々に助けられて続けて来られたことを心より感謝いたします。

かつての第2次世界大戦時にこの国を覆った戦時体制のような独裁的な体制に逆戻りすることなく、平和が続いたことがこの団がとぎれずに続いた最も基本的な要因です。しかしただ平和が続いたことだけで40年間も一つの団体が続くものではありません。同じボーイスカウトの仲間でも消えそうな隊、団は沢山あります。この団が営々と続けられたのは渋谷カトリック教会と常に一体であったからではないでしょうか。ゆるぎない教会という岩の上に建てられたからではないでしょうか。この岩から外されそうになった事がありました。しかしこの岩の上に我々のスカウト活動を置かなければいけないと考え、大変な苦労をされた先輩が沢山おられたことをこの40周年を機に皆様に伝えておきたいと思います。

渋谷区内でなくても、基本的には渋谷教会から余り遠くない地域からの子供で5団は構成されていますが、遠くから通ってくる子供もいます。自分が育ったこの5団に子供を入れたいという人が、皆渋谷の近くに住んでいるわけではありませんので、許されるべきだと思います。もう3代目のお子さんがスカウトとして参加している家族もあります。そして昔リーダーをしていた人が自分のお子さんと一緒に戻ってきたりもします。親が子供に伝えたいことはその親にとっても極めて大事なことではないでしょうか。そういう良い伝統を5団は持っているのです。これからも今のスカウトが親になった時、その子を入団させたいと思うような団を目指してほしいと思います。そのためにはあまり大きくする必要はないでしょう。必要なことは原則に出来るだけ忠実なスカウティングではないでしょうか。我々にとって原則とは、「キリストならどのようにされるか」と、常に自分に問い掛けながら、スカウティングをすることではないでしょうか。


東京138団創設のころ

初代団委員長 竹内能忠

東京138団が出来た頃は、今の渋谷教会は池尻にあって、もとの陸軍の馬小屋を改造したバラックが聖堂に使われていました。当時の主任司祭は今、学生の家におられるリシャール神父様でした。神父様から、ボーイスカウトのことで御相談を受けたのは秋の初め頃でした。

函館の宮前町教会を育成団体とする函館第一隊の団委員長をしていた私は、ボーイスカウトが中学生になった信者の少年の身体と心の発達に大変に役に立つことが良く判っていましたので、すぐにお手伝いすることを承知しました。

その時、ボーイスカウトの今の渋谷地区と世田谷地区は一つの地区で山手地区となっていました。地区委員長の小城先生、組織拡張委員長の守尾先生、地区コミッショナーの石川先生の御指導と、河原隊長の努力と神父様の御助力や教会委員の暖かいお手伝いのおかげで団創設の審査も通り、発隊式が行われたのは、その年も終わりに近いクリスマスの頃でした。小城先生が何年ぶりかでフランス語が話せると、喜んでリシャール神父様とフランス語で話し出したのを覚えています。

隊費は出来るだけ少なく、教会からの経済的な援助はなるべく受けないでという方針で出発しましたから、実にささやかな隊でした。ボーイの数も最小の12名の小さなもの、もちろん少年隊しかありませんでした。

それでも、池尻の教会は聖堂は小さいバラックでしたが、敷地が広く、土の庭や、たくさんの樹木もあって、ここでキャンプが出来たのは生まれたばかりの隊にとっては好都合でした。ネッカ・チーフなどもなるべく安くというので、青とクリーム色の布を買って来て、婦人会やマリア会の方々に縫っていただきました。

それでも2年くらいすると隊の方もだんだんと設備もそろい、ボーイの訓練もすすんで、琵琶湖で開かれた1959年の日本ジャンボリーには参加できるようになりました。多くの古い歴史のある隊の中にまじって全く負い目のない隊にまで成長していました。

このジャンボリーの時に台風にあいました。毎日、天気図をラジオの気象通報でボーイが書いていたので、早くから台風の来ることが私には予想されました。午後の自由時間に、われわれの隊だけでも排水溝を深くし、天幕のロープを増し掛けして荒天の準備をしておくように隊長に頼みました。

他の隊では散歩や訪問を楽しんでいるのに、自分達だけ作業をしているのは、ボーイにとってはあまり楽しいことではなかったでしょう。でも一同は一生懸命に荒天の備えに力を合わせました。

その夜、10時頃に台風警報がジャンボリー本部から伝えられ、他の隊では暗い中を大騒ぎで溝を深くしたり、ロープを増したり、その間、われわれの隊のボーイ達はゆっくりと眠っていることが出来ました。夜が明けて台風が過ぎ去った時、他では天幕の中に水が流れ込んだとか、天幕が吹き飛ばされたとか、大騒ぎ。明るいうちに準備を整えたわれわれの隊は無事に台風をしのいだのでボーイ達も大変に得意そうでした。

「そなえよ、つねに」

ドミニコ小学校の男の子を中心にして、カブ隊が出来たのも同じ年のことと覚えています。入隊の志望者も増えて、だんだんと隊の基礎も固まり始めました。

ボーイスカウトの始まりの頃の第一の困難は隊の指導者、特に直接ボーイに接する隊長や副長がなかなか得られないことにあります。一つの隊が、隊員として育ったボーイが副長、隊長となるようになると隊の基礎も固まって来るといわれています。

東京138団が今日、15周年を祝えるのも、創設の頃から指導者に若くて、真面目な隊長、副長が奉仕されたことと、それを継ぐボーイから指導者が次々と生まれて来たことが大きな力となっていることと思います。

1961年には、私はパリのユネスコに勤めることになって、思い出深い東京第138団から離れました。そのときは団委員会もしっかりと出来、隊長、副長、デンマザーにも立派な人達がいるし、ボーイの質も数もそろっていましたし、育成会長の主任司祭のリュドゥク神父様もボーイスカウトの出身で親身になって助けてくださっていましたので私は何の心配もなく東京を離れました。

私がフランスにいる間に、東京138団はすっかり成長して、今では日本でも指折りの団となっていることを、日本に帰って知りました。団委員長、団委員、リーダー達、そしてボーイ諸君の精進と、渋谷教会の御援助がこのめざましい発展をもたらしたことを心からお喜び申し上げます。

(「15周年記念団報」より転載。竹内氏は既に帰天されておられます)


ボーイスカウトとの合同活動

ガールスカウト87団

保田喜子

ボーイスカウト渋谷5団の発団40周年おめでとうございます。

渋谷教会にガールスカウトが発団しましたのは14年程あとですが、その頃のボーイスカウトのご父兄が教会にガールスカウトもあったら良いとのお考えが基にあったと伺っております。発団以来スカウト活動をすすめるのにあたって何かにつけてお力を貸して下さってこの永い年月が過ごせましたことを深く感謝しております。

年の始めのお餅つきに始まる合同行事は、寒い季節の朝早くから、かまどでお米を蒸すための火おこしから、つくことの指導、最後のせいろうや臼杵を洗うこと、大講堂のお掃除までお世話になっております。

9月の第3日曜のカトリックスカウトの日は、ご一緒のミサのあとハイキングや公園に出かけてするゲーム大会等合同でするプログラムを準備する段階からご一緒させていただけるので、沢山の資料の中から選んで作ることができるとリーダーや大きいスカウト達の勉強や励みになっております。スカウト達もいつもの集会よりスケールの大きい場所で大人数でするゲームは一段と楽しく大変楽しみにしております。12月に行われる合同のおたのしみ会は、それぞれの持ち味を生かした出し物でガールスカウトだけしかない団より活発なのではないかと思います。10月に行う赤い羽根の募金活動もボーイ・ガールの混った班で致しますので、お願いする声も大きくお互いに頑張っていつも多額の募金を短時間でも集めており、子供達が経験を通して少しづつ成長して行くのが見られ、リーダーの励みになっております。ボーイの姉妹で入団なさるスカウトが増え、スカウトの減少を嘆いておられる団が多い中、大勢で楽しい集会が続けられることを感謝し、これからもボーイスカウトと共に教会の良いスカウトでありたいと願っております。


ボーイスカウト活動と雪中キャンプ

シニア隊副長 鈴木衡一

何事も初めての経験は、思い出深い。私がボーイスカウト活動に参加するきっかけになったのは、私の息子 衡太朗がビーバースカウトに入った時から始まります。

80年代後半は、バブルの絶頂期を迎え、私のいる金融業界は、節度、常識の中心が見えなくなっていた時期です。そんな時息子のスカウト活動を見て感動をしました。何に感動したかといえば、純粋な気持ちで指導しているリーダーの姿にです。金、金、金・・という時代にボランティア精神で自分の時間を割き、お金にならない活動をすることは、私の精神構造では考えられない時期でした。そんな折り、松本シニア隊隊長から声がかかりました、「鈴木さん、学生時代、山岳部に居たのならシニア隊の手伝いをしてもらえませんか?」という誘いでした。私が「はい」と言ってからのスピードには驚きました。アッという間に制服が届き、活動のスケジュールが入り、いつのまにかリーダー研修に参加していました。その後の私の思い出深いものは、やはり雪中キャンプです。

初めての雪中キャンプの場所は、福島県「安達太良山」でした。この山は私が一年中行った自信の持てる所で、どんなアクシデントに遭っても対処出来たからです。本来はスカウトに場所の選定を委ねるのでしょうが、このころはリーダー達もスカウトも雪中キャンプに馴れていませんでした。私といえば冬山登山には馴れていましたがシニア隊のキャンプはまったくの経験不足、そんなちぐはぐな構成でスタートしました。

リーダーの一人として提案した雪中でのメニューは、冬山で経験した面白いこと、ためになったことで、一つの例がザイルワークです。ザイルの存在あるいは結び方は知っているが使い方を知らない。なぜか?使う場所、練習する場所が無いからです。雪の上は安全にしかも面白く練習できる場所です。

いろいろ考えましたが一番わからなかったことは、スカウトの力量でした。過去夏のキャンプでどのくらい出来たのか、どの位体力があるのか、指導経験の少ない新米副長には判りませんでした。しかし実際のキャンプが始まるとそんなことも忘れ、スカウトから学ぶことの多さに感激しました、それは何かといえば笑いの多さです。とかく我々大人は、難しい顔をして仕事をしたり生活をしたりしています、そんな中スカウト達の笑いをみると、世の中にはこんなに笑いがあったと思い出させてくれました。安達太良山のフィールドは一度だけでその後から数年、土樽の白いコテージ裏の林間にフィールドが変わりました。そして今年(1997年)は、また新しいフィールド、大源太キャニオンになりました。

年としによりスカウトの力量、人数は変わりました。またフィールドも変わりました。寒い年、雪の多い年もありました。しかし変わらないのは、若いスカウトの持つエネルギーであり、笑い声です。これが私を駆り立て支えてきたと思います。スカウトに感謝、そして渋谷5団の益々の発展を祈っております。


ビーバー隊発足の頃

山崎 昭彦

平成元年度にスタートした渋谷5団ビーバー隊。発足当初に関わることができたのは、今振り返ると、大変ありがたいことだと感じています。

ビーバースカウトを始めるにあたっては、団内で何度も議論が繰り返されていたようでした。当時も5団カブ隊は隆盛で、スカウト募集の観点からはビーバー隊発足の必然性がなかった時代。「スカウトらしさ」を常に問い続ける5団リーダーの気風からは、「幼な子にスカウト活動をさせるなんて」という声もあったと聞いています。しかし、団の経営をたゆまず考えてくださる団委員会の励ましをいただいて、リーダー陣も決心したようです。いずれにしろ、熱心に研究し、広く話し合った上で慎重に判断していった経緯は、今も変わらぬ5団の良さだと思います。

ティーパーティー形式の質素な発隊式を手始めに、手探りの活動が始まりました。とにかく、隊が増えたのに団全体のリーダー数は同じですから、大変手薄な体制のままでの見切り発車でありました。しかし、中谷副長というベテラン(日本連盟の中で指導者を指導してくださる方)がご参加くださり、ビーバー隊に求められる方向性を確認しながら進めることができたので、発足時の混乱を最小限に押さえられたと思っています。カブ隊からは社会人女子リーダーの中で日曜日に活動できる方々にご無理をお願いし、また元ローバー隊長吉田さんにもお願いしました。さらに、松本シニア隊長のフィアンセ千恵子さんにお願いし、また翌年にはボーイ隊から森山副長という若い力を得て、その後のビーバーの基礎を築いていただきました。

小さな子どもたちですから、あまり負担がかからないようにと、活動は月2回程度、各2時間で完結するプログラムを基本としました。また、集会するたび、ゲームの準備などを保護者の方にご協力いただきました。今思えば、大変図々しいお願いをしていたわけですが、おかげさまで少ないリーダーでも運営できました。

野外活動では保護者の方、特にお父様にできる限りご参加いただきました。私たちリーダーの四苦八苦するようすを見て不憫に思われたのか、その後何人ものお父様がリーダーになってくださり、今の5団の大きな支えになってくださっています。そのうちのお一人、小林茂夫さんは、例えばクラフトがテーマの集会があれば徹夜をしてでも事前に試作するなど、大変お忙しい中にあって、常に私たちの先頭に立って活動してくださいました。帰天の報に接したときの悲しみは、今でも同じようによみがえってきます。

キャンプ地選びには苦労しましたが、島村副長のご紹介で凸版印刷の研修所をお借りしたときには、キャンプファイアーの時に管理人さんにも「王様」役でご参加いただいたりと、楽しい思い出がたくさんあります。じっと座っていることができず、輪の中を歩き回るソングリーダーの後をとことこついていってしまうスカウト、宴たけなわのときに眠り始めてしまうスカウト。カブ隊とのあまりに大きな違いに戸惑いながら、しかし大変貴重なリーダー経験をさせてもらいました。

発足してから、まもなく満10年になります。団ボリーの折、ビーバー1期生の西垣君、河井君がシニア隊員として活躍している姿を見て、じんと胸に迫るものがありました。また、今も引き続きご協力くださるお父様リーダー、そして陰で支えてくださるお母様方の働きに、頭が下がる思いです。共に歩んでくださったことに心から感謝しております。


ビーバー隊発足から

西垣和代

渋谷5団40周年、ビーバー隊発足10周年をお祝い申し上げます。ビーバー隊の発足当時は、ビッグビーバーは息子だけでしたが、年下のビーバー君たちが10人近くそろって入隊し、間もなく河井君が入隊してくれたので心細さを感じることはありませんでした。

個人的な思い出ですが、森政晴リーダーの御家族から紹介いただき、ドミニコ教会でのビーバースカウトの面接におもむいた日、よい子しか入れていただけないかなと心配でした。昌徳はアメリカから帰国後集団になじめず、言葉はおろか、恐怖心までもっており、お手上げ状態の中、わらをもすがる場所を必要としておりました。紳士のお手本のような駒月団委員長、もっと若かった山崎ビーバー隊隊長、すごく立派で大きかった中谷リーダー、今思えば5団の個性の代表のような方々の面接をうけ心配も吹きとび、息子は安心できる自分の居場所がみつけられた様子でした。

米国では、大人の男性はあたり前に頼もしく、子供に心底やさしいのですが、息子は体で、皆様の大人のふんいきを感じていたと思います。私はと申しますと、始めの心配をよそに、いずれは夫までも参加させていただき、頼もしいお父さんにしてもらいたいとひそかに願いました。ビーバー隊では、スカウトの数よりも多い、若々しい男子・女子リーダーの方々が、きっとまだ遊びたいお年頃にもかかわらずに献身的にお世話下さいました。

ドミニコ学園の場をお借りしての一泊は、初めての大きいプログラムでした。手伝いの親はスカウトに気づかれぬように食事の用意をしたので活動の中身をのぞけませんでしたが、写真を見ると、ロウソクの下で、神父様の御ミサまでしていただきました。楽しい遊びに歌、歌、歌で興奮した夜は、ねむられなくてご迷惑をおかけしたと思います。集会では必ず国旗があり、この年頃から国旗に親しみ、徐々に母国を愛する心が育てば、国際的視野に立ったときに、他の国の人の立場を認められると思います。6〜8才といえば精神面ではまだ甘えを許される年頃ですが、ビーバー隊の世界では、すでに節度が養われるように配慮されたプログラムがあり、活動の大切さを認識しました。一方で大きいお体の中谷さんが腰までもないスカウトを相手に大汗をかきながら、いつもかがみがちのスタイルで遊んで下さり、見学している親は感謝しながら、どうしても目立つお尻が印象的でした。

スカウトにとって、山崎隊長の“何かを訴えかけられる目”でジッーとみつめられると、さすがのやんちゃスカウトも皆殺しにあい、大人しくなりました。私もダメでした。思いっきり甘えられる女子リーダーは、ビーバースカウトにとっては救い主、お父さんのにおいとはぜったいに違う男子リーダーは、たよりになる彼らのあこがれでした。

にくい程にバランスよく構成された集団の中でスカウト一人一人が、皆から大事にされていることを体で感じることができた幸せな日々でした。当時カブ隊におられたお母様から、山崎隊長を中心にとても楽しそうでうらやましかったというお話をうかがいました。

カブ隊からはいよいよボーイスカウトの本流という中で集団生活のきゅうくつさから息子も含めて足の重くなるスカウトが多くなりました。自然のスケールの大きさときびしさを体験できるチャンスですし、タフな社会性はカブ隊で培われ、ボーイ隊で養われるかと思います。ここでは親がふんばって、あきらめずに息子をバックアップして通わせました。この間にも、隊の皆様が常にはげまし、見守りエールを送って下さいました。「こんなにしていただいて、ありがとうございます。」と申しましたら、「いえ、僕もしてもらったから、御恩返しです。」とさらりと、すごいことをおっしゃいました。すてきですね。父母の皆様はもちろんご存じかと思いますが、ボーイスカウトは一般のクラブやサークル活動とは全く質を異にしており、競争社会でもなく、ましてや託児所でもありません。世界に通用するボーイスカウト精神を、まずもっと親が知り、納得して、当時まだあったデンマザー制度の中で、活動に参加させていただこうという気持ちが強くなりました。おかげ様で不屈のボーイスカウト精神はほとんど泥だらけの中から生まれ育つのだということが悟れましたし、大垣恵美子リーダー(大垣母さん)のおかげで、頼もしい母親達も育てていただけたと感謝いたしております。

ビーバー隊、カブ隊の頃にお世話になった若きリーダーの皆様は、すてきな伴侶を得られて、しぶさが加わる頼もしいリーダーに成長されました。いつまでもご一緒させて下さい。おめでとうございました。


海外から見た渋谷5団

曽田洋一

小学6年生から東京138団に入り、リーダーもさせていただき、海外にいるということから、「海外から見た渋谷5団」について何か書いてほしいとのお手紙を頂戴したのですが、実は悶々として寄稿期限ぎりぎりになってしまいました。というのも、スペインにきて早くも5年が過ぎ、渋谷5団が今日どの様に成長し活躍なさっているかが実はまったく分からないからです。これだけ通信が発達してきたのに分からないとは何事かとお叱りを受けそうですがお許し下さい。

さて、海外から日本を見ておりますとおもしろいことに気がつきます。海外旅行こそ最近では当たり前の時代になってきて見聞を広めることができるようになったわけですが、海外旅行に出る人達は買い物が精一杯で欧米の人達の旅行とは違っています。日本の家庭でテレビのスイッチを入れてチャンネルを回しても日本人が日本人的発想で作り上げた番組、ニュースのみで、今世界では何が起き、世界はどの様な方向に進みつつあるのか自分自身で判断できる番組を提供するチャンネルはありません。変な言い方かもしれませんが日本人は日本のマスコミに洗脳されているとも言えるのではないでしょうか。日経新聞に「2020年からの警鐘」という特集が始まって久しいですが、今、日本人がその考え方、行動様式、教育制度等々を変えないと本当に日本は沈没してしまうのではないかと危惧する毎日です。

そうした重要な時代(新たな時代と旧い時代の交差点−終末?)に生きる我々にとって大きな指針となるのが「ちかい」と「おきて」ではないでしょうか。「神と国とに誠を尽くし・・・」。輝かしい40周年を機会に渋谷5団のスカウト、リーダー、ご父兄の方々一人一人が今改めて「ちかい」と「おきて」を読み返し、自分の胸に問いかけ、実践を継続していけば世界に胸を張れる真の国際人そして更に輝く渋谷5団になるのではないでしょうか。

日本には残念ながら「ちかい」と「おきて」を本当に実践する人をバカにする風潮が蔓延しています。しかし今本当に神様が願われているのは「ちかい」と「おきて」を実践する日本そして日本人なのではないのでしょうか。渋谷5団の小さな輪を世界に広げて行こうではありませんか。

「弥栄」「弥栄」「弥栄」


渋谷地区二十五周年キャンポリーの思い出

河井宏文

昭和六十三年八月十日〜八月十五日にかけて静岡県の朝霧高原で第一回「渋谷地区キャンポリー」が催されました。

この地区キャンポリーは、地区のBS・SSの指導者が集まる円卓会を中心に計画が練られ、お祭り的な要素を極力少なくして、各隊の訓練キャンプを合同でするという基本姿勢で行われました。私はこの時、地区コミッショナーとして地区委員会と円卓会の連絡調整を中心に活動しましたが、とても楽しい思い出の多いキャンポリーでした。

地区としては「開会式」と「閉会式」、中日(なかび)に「リーダー懇親会」のみで、その他は各隊で独自の活動がなされました。この様な中で、それぞれの隊を訪問し活動を見学すると、同じ訓練キャンプでも、リーダー・スカウト共々キャンプを楽しんでいる隊、厳しい訓練に悲壮感が全体に漂っている隊、厳しい中にも暖かさが感じられる隊など様々で、隊が所属する各団の特色や性格がとてもよくつかめ私自身大変勉強になりました。何年か毎にこのようなキャンポリーが行われることは指導者相互の研修としても大変有意義なことだとつくづく思いました。

私自身の失敗もあり、今では笑って過ごせる思い出ですが、当時は本当にビックリした事が起こりました。地区十五個団が渋谷の東邦生命ビル横からバスで揃って出発する事になり、自分の荷物は五団のバスに乗せ、他の団の出発の世話をしている間に五団のバスが出てしまうというハプニングが起こりました。あわてて十団のバスに空身で乗せてもらいましたが、途中のドライブインまでは地区コミッショナーという役目がらとはいえ、身の置きどころの無い肩身の狭い複雑な思いをしたのが思い出されます。

また、地区の役員もすべて隊から離れた独自のキャンプ生活でしたが、今は亡き古俣地区委員長がご夫妻で全期間参加され、共に地区キャンポリーを楽しんだのも楽しい思い出の一つですし、また、私にとっては、地区の勢いが感じられるとても楽しい一時期でした。

現在、五団の団委員としてご奉仕させて戴いて居ますが、指導者の層の厚さと質の高さは、教会からの物心両面に渡るご援助と歴代の団委員長、ご父兄、そしてOBの方々の支えによって成り得たとの思いを強く感じます。

かってのリーダーやスカウトたちの子息、孫が次々と入団されるのを見ると、40年の歴史の重みを感じると共に、益々の発展を祈念する思いで一杯です。


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