楠公精神 大楠公史蹟

 

楠木正成生誕地

大阪府南河内郡千早赤阪村

楠木正成生誕地

 

  

楠木正成生誕地

 

  

皇太子殿下御手植楠樹                                 楠公父子石像  

 

  

伏見宮博義王殿下御手植楠                              北白川永久王殿下御手植楠

 

朝護孫子寺

奈良県生駒郡平群町

信貴山

 

  

.   .    朝護孫子寺本堂                           信貴山に奉納された楠木正成所用とされる兜

幼名 多聞丸

楠木正成は河内国赤坂村上ノ井に楠木正遠の長男として生まれたと伝えられる。

正遠には長く子が出来なかった事から、信貴山朝護孫子寺に百日間詣でて願を掛け、正成が夢のお告げにて

生まれたとの伝説がある。

楠木正成は幼名を多聞丸と名付けられた。信貴山朝護孫子寺の御本尊毘沙門天(別名多聞天)に由来する。

 

一乗寺下り松

京都府京都市左京区

大楠公戦陣蹟

碑文

建武三年正月足利尊氏兵八十万を率ゐて来寇す 官軍之を邀へ廿七日を期して京に決戦せむとす

乃ち前宵楠木結城伯耆の諸将其勢三千餘騎叡山を西に降りて下松に陣し 明くる遅しと進み撃ち一

挙にして賊徒を西海に却け了んぬ これ多くは楠公神策の然らしめし所太平記の著者も楠木は元来

勇気無双の上智謀第一と讃歎せり しかれとも我か国悠久三千年必すしも文武智勇の人に乏しかり

きとせず しかも楠公に貴き所以は其智勇常に天皇に帰一し奉りしに在り かゝる楠公精神こそ以て

新に樹立すへき産業日本の指針たるへく又以て永く興隆すへき平和日本の標幟たるへし 即ち新に

陪碑して公の徳を謳はむとする所以なり

建武3年正月、楠木正成と足利尊氏がこの地で対陣し、正成が足利軍勢を追撃したとされる。

 

桜井駅跡

大阪府三島郡島本町

  

「滅私奉公」碑 楠公父子像(旧像)                   「滅私奉公」碑 楠公父子像 (新像)

桜井の別れ

楠木正成は勅命により兵庫・湊川へと出陣、死を決意しての悲愴な出陣だった。

『太平記』には、その子正行との永遠の別れの情景が述べられている。

今度の合戦、天下の安否と思う間、今生にて汝が顔を見んこと、これを限りと思うなり。

正成すでに討死すとききなば、天下は必ず将軍(尊氏)の代になりぬと心得べし。

然りといえども、いったん身命を助からんるに、多年の忠烈を失いて隣人に出ずること

有るべからず

 

    

乃木希典揮毫 楠公父子訣別の地碑                    東郷平八郎揮毫 明治天皇御製碑

 

会下山公園

兵庫県神戸市兵庫区

大楠公湊川陣之遺蹟

湊川の戦いで楠木正成が陣を置いた地

 

湊川神社

兵庫県神戸市中央区

  

楠木正成墓所

天皇への忠勤を果たすため、自ら肉壁となって兵庫湊川に散華したのは、桜井の駅で正行と別れてから

十日後の延元元年(1336)5月25日。正成 43歳。

 

観心寺

大阪府河内長野市

  

大楠公学問所

観心寺は楠木正成が8歳から15歳まで学問に励んだ地であり、元弘元年(1331)の後醍醐天皇の蜂起、

楠木正成の挙兵は河内の地、とりわけ観心寺を政治の荒波の中に巻きこんでいった。

 

  

大楠公 建掛の塔(左)

建掛塔は楠木正成の発願により建立が開始されたが、正成が湊川で戦死したために一層の建築だけで

中止されたとの言い伝えが残る。

 

大楠公首塚

 

  

大楠公首塚

楠木正成の首級は、敵将足利尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、大楠公首塚として今に残る。

戒名「忠徳院殿大圓義龍大居士」は後醍醐天皇より賜わったものである。

 

金剛山

大阪府南河内郡千早赤阪村

写真提供 弁秀坊 様

楠木正儀(正成の三男)墓碑

地元では首塚さんと呼ばれ正成の供養塔との伝承が有る。

 

楠妣庵観音寺

大阪府富田林市

  

楠妣庵

大楠公夫人が大楠公の湊川戦死、小楠公の四条畷討死の後に出家し、草庵を結んで一族の菩提を弔いつつ余生を過ごした。

 

大楠公夫人墓所                   大楠公夫人供養塔

 

  

大楠公石像                              大楠公夫人・小楠公像

 

  

昭和天皇御手植くすの木                            秩父宮殿下御手植くすの木

 

  

非理法権天の額                                    菊水の手水鉢

 

南木神社

大阪府南河内郡千早赤阪村

南木神社

 

  

南木神社

由緒

大楠公を祀る。楠木正成が湊川で討死すに対するる後醍醐天皇の悼惜限りなく、延元2(1337)年に正成と縁深き

建水分神社境内に祀り、その忠誠を無窮に伝えしめ給うた。

後醍醐天皇の皇子・後村上天皇より「南木明神(なぎみょうじん)」の神号を賜った。「南木」とは「楠」を二つに分けた

と命名と云う。

 

奉献塔楠公六百年記念塔

大阪府南河内郡千早赤阪村

奉建塔(楠公六百年記念塔)

由来

楠木正成の没後六百年を記念して、昭和15年に全国の児童学生や教職員等の募金により建てられた記念塔。

正成討死の年齢43歳に因み約43尺(約13m)の高さに作られた。

楠木正成家紋の菊水紋と旗印の「非理法権天」の文字が刻まれている。

 

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更新日:2009/04/26