鹿 屋

 

略史

昭和11年 4月 1日 開設

昭和12年 7月11日 第一連合航空隊に編入、陸攻機を配備

昭和12年 8月12日 台湾に前進、中支方面作戦に参加

昭和12年12月 4日 海南島三亜基地・サイゴン基地に進出、上海・華南方面を爆撃

昭和13年12月 3日 鹿屋基地に帰還、連合艦隊に復帰

昭和14年  月  日 漢口に進出、重慶・成都・西安・蘭州等を爆撃

昭和15年  月  日 零式艦上戦闘機を配備

昭和16年 1月15日 漢口に進出、重慶爆撃

昭和15年12月 8日 真珠湾攻撃

昭和17年10月 1日 第751航空隊と改称、ラバウル・カビエン・ブカに進出

             艦爆・艦攻搭乗員練成教育を担当

昭和18年 4月15日 第21航空戦隊 テニアンに進出

昭和18年 9月 1日 第751航空隊 ラバウルに進出

昭和19年 1月 1日 艦爆・艦攻搭乗員練成教育を廃止

昭和19年 2月 1日 練習航空隊に指定、陸攻搭乗員教育を担当

昭和19年  月  日 第751航空隊 テニアンに転進

昭和19年 7月10日 鹿屋海軍航空隊 廃止(豊橋に移動)

昭和20年  月  日 第5航空艦隊司令部 設置

             神風特攻隊の出撃基地となり828名が出撃

昭和20年 8月15日 終戦

 

小塚丘公園

鹿児島県鹿屋市

特攻隊戦没者慰霊塔

碑文

今日もまた黒潮おどる海洋に 飛びたち行きし友はかえらず

太平洋戦中鹿屋航空基地より 飛びたち肉弾となって散った 千有余の特攻隊員

御霊よ安かれ 必ずや平和の礎たらん

 

建立の由来

第二次世界大戦における沖縄の戦闘は、戦史にも類例がないほど熾烈なものであった。

ときに戦局は、ようやく我軍に不利となり、ここに退勢挽回の秘策を試みるに至った。即ち敵国海空軍兵力の

全滅を期して企てた特攻攻撃である。ときまさに昭和20年春であった。

そして、この壮烈なる特攻攻撃発進の地こそ、当鹿屋であって、以来82日間の戦闘は苛烈を極め、日々若人

達は黒潮おどる沖縄へと飛び立った。

あたら青春に富む尊い生命を、祖国のために敢然と捧げたこれら若人達・・・・・世上ともすれば敗戦のかげに

このような尊い犠牲を忘れがちである。

こんにち、ことの結果はどうであったにしても、これら身を挺して祖国の難に殉じた人々の祖国愛は称賛される

べきであり、これら若人の至情至純の精神は、その御霊とともにとこしえに祭られ史実とともに後世に誤りなく

伝えられなければならない。

その最もゆかりの深い地として、また本土最南端海軍航空基地として、多くの特攻隊員(908名)が飛び立って

再び帰ることがなかった最後の地この「鹿屋」に、その御霊を祭る慰霊塔を建立すべく、昭和32年10月鹿屋

長を会長とする「旧鹿屋航空基地特攻隊戦没者慰霊塔建立期成会」が結成され、全国に協力を呼びかけ

たところ、市内はもとより、ひろく各方面から多くの浄財が寄せられた。

これに基づき、航空隊を眼前に眺望する小塚丘に、その神霊をとこしえに平和の礎として祭る慰霊の碑を、昭

和33年3月20日建立したものである。

鹿屋市

 

  

   遺族一同植樹                                   第四御盾隊増岡輝彦

 

野里小学校跡

鹿児島県鹿屋市

桜花 別盃之地

 

海上自衛隊 鹿屋航空基地

鹿児島県鹿屋市

海軍 攻撃第二五四飛行隊 天山艦攻隊

碑文

攻撃第二五四飛行隊は航空母艦の攻撃部隊で ハワイ海戦以来の伝統に輝く精鋭部隊である

昭和二十年二月 第二御盾特攻隊の艦上攻撃機として硫黄島沖で米空母ビスマルク、サラトガ

を撃沈破し 同年三月末より沖縄戦において串良基地に一部兵力を派遣し 夜間雷撃部隊とし

て出撃 多大の戦果を挙げたが戦友の多くは護國の神と散華した

戦後四十年を記念して生存者有志一同相計り 飛行隊の栄誉を讃えここに艦隊基地 旧鹿屋

海軍航空隊跡に碑を建立してものである

 

特攻隊戦没者の遺影と兵士像

 

二式大型飛行艇12型

 

二機の残骸(下記参照)から復元された零戦

 

  

平成4年 垂水市まさかり海岸から引き揚げられた零戦              平成4年 加世田市吹上浜から引き揚げられた零戦

 

神風特攻隊

更新日:2009/12/12