海軍軍医学校

 

 

沿革


明治 6年 8月  日 海軍病院付属学舎開設(築地)

明治 7年 8月  日 海軍軍医寮学舎と改称

明治 9年 8月  日 海軍軍医学舎と改称

明治13年 2月  日 廃校

明治15年 8月  日 海軍医務局学舎として再興(芝)

明治17年12月  日 海軍軍医学舎と改称

明治19年 4月  日 海軍医学校として設立

明治22年 4月  日 海軍軍医学校と改称

明治41年 3月  日 校舎を築地へ移転

大正12年 9月  日 関東大震災により北里研究所別館へ移転

昭和 4年12月  日 築地五丁目へ新築移転

昭和19年 7月  日 戸塚分校を開校

 

軍医学生の教育

軍医学校の教育は純粋な医術教育だったが、学生には医者である以前に海軍士官と

しての素養が求められ、入校後まず海軍砲術学校で一ヶ月の基礎訓練が行われた。

部隊に任官後の軍医は、平時においては「暇であることが優秀な証拠」と言われ、のん

びりした勤務であったが、大東亜戦争開戦とともに文字通り血みどろの勤務となった。

 

 海軍医事史上の功績

軍医学校では軍医教育の他に、被服、糧食などの研究も行われた。明治15年当時、

海軍では毎年多数の水兵が脚気で死亡していた。高木軍医大監は原因が食事にある

として、兵食を麦飯にするという食事改革を始めた。これに対して白米優先主義を唱え

る陸軍軍医総監から徹底した反撃を受けたが、明治19年には脚気による死亡者を撲

滅した。

 

国立がんセンター

東京都中央区築地

海軍軍医学校跡の碑(右)

 

某釣具店/駐車場

神奈川県横浜市戸塚区

情報+写真提供:山田俊也氏(中堅物流企業勤務)

「海軍軍医学校戸塚分校跡」碑

碑文

昭和十九年、この地(数万坪)に海軍軍医学校戸塚分校が新設され、全国から

殉国の念に燃え海軍に憧れ志願合格した繰上げ卒業前の医系(医歯薬)学生

が同年七月入校、厳寒酷暑万事不足の悪条件下、猛訓練に耐えた六ヶ月の士

官教育は凝縮された青春として忘れ難く跡地在住の方々に一隅への建碑の許

しを乞うも旧軍の故に拒まれし中、○○氏の共感提供を得て、実現せるもの也。

猶、側方に戦死三十六柱を初め、教官を含む千六十三名の名板を埋入した。

 

術科学校

更新日:2001/12/16