神戸大空襲

 

神戸とその周辺地域は昭和20年1月3日から終戦までの間に、128回の空襲を受けた。

中でも3月17日の空襲では約34,000発の焼夷弾が投下され、神戸市西部の約65,000棟が全半焼、

,598人が犠牲になった。

また6月5日の空襲で計3,000トンの焼夷弾が投下され、神戸市域の死者は3,453人とされる。

被害状況に関する公式記録は存在せず具体的な数字は滑胃だが、神戸周辺都市部の21%が罹災、

延べ65万人が家屋に被害を受け、焼失家屋は15万戸、負傷者15万人、8,841名の市民が犠牲となっ

た。 人口及び面積から換算した被害率では、当時の五大都市の中で最悪の数字であった。

 

月日 機種 機数 弾種 トン数 第一目標
2月 4日 B29 69 焼夷弾、破砕弾 172.8 神戸市街地
3月17日 B29 307 焼夷弾、破砕弾 2328.1  
5月11日 B29 92 爆弾 459.5 川西航空機深江製作所
6月 5日 B29 474 焼夷弾、破砕弾 3079.1  
8月 6日 B29 250 焼夷弾、破砕弾 2003.9 阪神地域

 

本庄墓地

兵庫県神戸市東灘区

旧本庄村 空襲犠牲者慰霊碑

碑文

昭和二十年五月十一日、六月五日、八月六日の大空襲で郷土防衛の村民四三六名の生命を奪われました

私たちは三十三回目の記念日に碑を建て、尊い犠牲者の冥福を祈り平和を誓います

昭和五十二年五月十一日 本庄共有墓地管理委員會 本庄地区有志

 

大和田橋

兵庫県神戸市兵庫区

大和田橋

 

大和田橋戦災・震災復旧モニュメント

碑文

平清盛公ゆかりの地名にちなむこの大和田橋は、1924年の竣工以来二度の大きな災害に遭っています。

1945年3月17日の神戸大空襲では、水を求めこの橋に避難した多数の市民が炎にまかれ犠牲になりました。

橋にはその時の炎で黒く焼け焦げた跡が、今も残っています。

そして50年後の1995年1月17日の阪神・淡路大震災により、この橋自体の親柱が崩れ落ちる被害を受け

ました。

ここに戦災と震災を経験した「生き証人」でもある親柱をモニュメントとして再構築し、その時節の冬の星座を

かたどった照明によって、私たちの記憶に永くとどめるとともに、鎮魂の意を示すものです。

1998年10月  神戸市

 

 

戦災殉難者慰霊碑

碑文

大東亜戦争末期昭和二十年三月十七日 アメリカ合衆国B29爆撃機の大空襲に遭った此の地、大和田橋下

暗渠内で多数の方々が被爆死されました。あの悲惨な状態、猛火のもと恐怖と悔しさの地獄図は日本人とし

て未来永劫、忘れる事はないでしょう。生き残った町住者が、尊い生命を失われた人々に深く心から冥福を

お 祈りすると共に この悲運を永く後世に伝える為、出在家町協議会の手で、此の地に慰霊碑を建立しまし

た。

協議会は恒例行事として、ご命日には町住者による慰霊祭を施行しております。殉難死された方々の安らけ

き事を只管祈り続けん。

昭和二十二年九月建之 出在家町協議会 平成八年十月再建

 

薬仙寺

兵庫県神戸市兵庫区

大和田橋戦災・震災復旧モニュメント

碑文

平清盛公ゆかりの地名にちなむこの大和田橋は、1924年の竣工以来二度の大きな災害に遭っています。

1945年3月17日の神戸大空襲では、水を求めこの橋に避難した多数の市民が炎にまかれ犠牲になりました。

橋にはその時の炎で黒く焼け焦げた跡が、今も残っています。

そして50年後の1995年1月17日の阪神・淡路大震災により、この橋自体の親柱が崩れ落ちる被害を受け

ました。

ここに戦災と震災を経験した「生き証人」でもある親柱をモニュメントとして再構築し、その時節の冬の星座を

かたどった照明によって、私たちの記憶に永くとどめるとともに、鎮魂の意を示すものです。

1998年10月  神戸市

 

一九四五年三月十七日 神戸空襲戦歿者慰霊碑

碑文

今時大戦中神戸は空襲により大被害をうけた。なかでも昭和二十年三月十七日・六月五日の大空襲被害は大きく、

市街の大半を焼却し多くの尊い生命をうばった。私達市民は二度と戦争の惨禍をおこさない決意をあらたにし、あ

わせてその犠牲者約一万名の霊の安らかならんことを心から祈念し、遺族市民から寄せられた浄財によってこの碑

を建立した。

除幕 昭和五十年三月十六日 施主神戸空襲を記録する会

 

福原地区空襲被災者供養塔

碑文

南無阿弥陀佛 爲福原地区空襲被災者 有縁無縁各霊位追善増進菩提宝塔也

南無阿弥陀佛 偈日六字名號一遍法 十界依正一遍体 萬行離念一遍證 人中上々妙好華

南無阿弥陀佛 経日 神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難

南無阿弥陀佛 維持 平成元年三月十七日 施主福原柳筋振興会建之

 

説明文

福原・新開地は神戸随一の繁華街であった。神戸大空襲ではこの街にはたらく女性たちも市民とともに炎の犠牲

となった。永らく当時境内に卒塔婆を建て供養してきたが、ここに新たにこの碑を建立し、とわに被災者の霊を

慰めるものである。

除幕 平成元年三月十日  施主 福原柳筋新興会

 

妙法華院

兵庫県神戸市兵庫区

神戸空襲犠牲者之霊供養塔

平和の塔(戦争犠牲者供養塔)

一九四五年(昭和二〇年)敗戦までのアジア太平洋戦争の犠牲者は二千万人といわれる。

神戸空襲(一九四五年)による戦災死者は六千人を超え、当山付近の遺体は、この境内に高く積みあげられ火葬され

たと伝える。

以後、境内に木塔を建て万国戦争犠牲者はじめ法界万霊を供養し平和を祈りつづけ、一九九三年三月一七日永久的な

石塔に改築した。

一九八八年当山に分火された広島長崎原爆の火を塔内に常燈し、浄水が湧き清風が通る地水火風空の五輪の塔をかた

どった主塔に、四支塔を螺旋状に配する。設計は新間智照住職。施工渡辺石材店。志主は塔に刻記四名の他八八名。

 

柳原天神社

兵庫県神戸市兵庫区

五人の乙女の慰霊碑

碑文

昭和20年3月17日未明の空襲により、この地において職に殉じた神戸中央電話局兵庫分局職員の霊を

まつる。

なお、このレリーフは神戸中央電話局兵庫分局の壁面に取付けられていたもので大正11年頃、当時の分離派

建築会の作といわれており大正ロマンチシズムの薫りを今に伝えている。

建立 平成2年8月 日本電信電話株式会社

 

小野八幡神社

兵庫県神戸市中央区

慰霊

碑文

昭和20年3月17日未明の空襲により この地において職に殉じた神戸中央電話局葺合分局職員の霊

をまつる

日本電信電話公社 総裁 米澤 滋書

 

須磨寺

兵庫県神戸市須磨区

徳風地蔵尊

碑文

為 難時昭和二十年六月 戦災死者百十二霊 菩提

 

都市空襲

更新日:2012/09/16