半田空襲

 

昭和19年12月 7日、東海地方を東南海地震が襲い、半田市では震度6以上を観測し

188名が死亡した。中島飛行機半田製作所では山方工場・葭野工場が倒壊し大きな被害

を受けた。

さらに翌昭和20年 1月13日には三河地震が追い撃ちをかけ12名が死亡した。

二度の大地震と名古屋市で始まった空襲による恐怖に疲弊した半田市へ、7月から本格的

な空襲が始まった。

 

昭和20年 7月15日

硫黄島から進発して来た小型機P51十数機によって銃撃が行われた。

 

昭和20年 7月24日

中島飛行機をB29重爆撃機78機が爆撃した。

第一波は半田市の康衛町・中島の山方工場・本工場・乙川住宅地に2千発の250キロ爆弾

が投下された。数波に分かれて飛来したB29の爆撃の直後から小型機多数が来襲し、機銃

掃射を浴びせて死傷者を増大させ、救援活動を妨害した。

「半田空襲と戦争を記録する会」の調査によれば264人以上の死者が確認されている。

中島飛行機半田製作所は、本工場へ81発、山方工場へ35発の爆弾を投下され、壊滅的な

打撃を受けた。

中島飛行機半田製作所は昭和18年に発足、従業員数は最盛期で約2万6千名だったが、う

ち正規従業員は9千名のみで、約1万7千名は国家総動員法に基いて動員された徴用工・動

員学徒・女子挺身隊等だった。

 

雁宿公園

愛知県半田市

半田・戦災犠牲者追悼 平和祈念碑

平和を願って

半世紀前、太平洋戦争がありました。

その戦争のため、この半田でも、子ども・老人・市民・労働者、地元をはじめ、全国各地か

ら軍需工場に動員されていた学徒・女子挺身隊・徴用の人びと四三二人以上の貴い生命が失

われました。

とくに、当時、日本の植民地とされていた朝鮮の北部から連行された、青年四九人以上がこ

の中に含まれることは、まことにいたましいことです。

戦災は天災ではありません。わたしたちは、半田における戦争の惨禍の記録をここに刻み、

アジア諸国をはじめとする、すべての戦災犠牲者を追悼します。そして、この事実を後世に

伝え再び戦争を起こさせない決意をこめて平和を祈念するものであります。

一九九五年七月二四日  半田・戦災犠牲者追悼平和祈念碑建立実行委員会

 

半田の戦災 半田空襲

一九四五(昭和二十)年七月十五日小型機数機が来襲、機銃掃射により、市民八人が死亡。

七月二四日午前十時五八分、アメリカの爆撃機B−29 七八機が中島飛行機と周辺住宅地を

爆撃 従業員・市民の二六四人以上が死亡

 

半田・戦災犠牲者追悼 平和祈念碑

 

都市空襲

更新日:2013/12/23