甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会

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会報「總員起こし」  第31号/平成15年

久保 吉輝

奈良空−回天 (光)−轟隊(伊363)−回天多聞隊(伊363)

「 天地の恵みは広大無辺@ タダ(無料)の有難さ」

 

昭和二十年五月二十八日朝、回天特別攻撃隊轟隊の三番艦として、全基地隊員の歓呼の声に送られて光基地を、

死闘の続く沖縄作戦として敵補給路を攻撃すべく、電探マストに掲げた軍艦旗をなびかせて勇躍出航していった。

隊長上山春平中尉、副隊長和田 稔少尉、石橋輝好一飛曹(土浦)、西沢(小林)一飛曹(土浦)、久保吉輝一飛曹(奈良)の

五人の隊員は、上甲板の回天に整備員と共に仁王立ちして、艦と併走する十数隻の内火艇や魚雷艇で声援をくれる隊員たちに、

手にした花束を打ち振り応答していたが、艦の増速と共に見送りも艦尾に小さくなり、上空を旋回していた水上偵察機も

基地に帰っていった。

懐かしい風景も視界から消え、故国ともオサラバである。

数回の潜航テストの後、海底に沈座して要所の最終点検、艦長木原 栄少佐より作戦計画と訓示、注意等があり、

豊後水道を南下、いよいよ〇度ヨーソロ、一戦速で一路作戦海域を目指した。

海軍記念日の昨日、髪と爪の少々を半紙に包み、遺書(戦後廃棄、色紙(防衛研究所に現存)、聯合艦隊司令長官より

下賜された短刀(現在も所持)等を、兄の親友橋本少尉に託してきた。

いずれその箱を受け取るであろう父母の事を思うと、何とも相済まない思いが込み上げて、頬をつたう一筋は、

なかなか止まらない。

昼は潜航、蓄電池で直流電動機二基にょり水中航行、夜はディーゼル機関で水上航行、

但し一基の機関で電動機を逆回転させ電池を充電し、明日の水中航行と冷房・通風等の諸機械の電源を確保しながら

一路、沖縄−サイパンの敵輸送路の中間点へと南下、太陽を全く見ない航海が続いた。

 

本艦は、ガ島の戦訓により輸送用として建造された三〇〇型十数隻の一艦であり、百トン余の物資と後甲板に大発艇を一隻

積載する千八百トンの中型潜水艦である。

通称「マル通」水上十八、水中五ノット、発射管二本しかない、文字どうり輸送潜水艦である。

十九年夏に竣工した時には戦況も大きく変わり、トラック島、メレヨン島等の輸送作戦の後、攻撃型の不足を補うため、

洋上回天作戦用として、回天五基を搭載する母艦に改装され、聯合艦隊が壊滅した当時としては、鈍足ながら唯一の

攻撃部隊となったのである。

物資揚陸用のエスカレータを撤去し艦中央部の貨物室に蓄電池室が増設され、艦首から機関室まで唯一本の通路の間に

下士官搭乗員三名、整備員五名の居住区がある。

長方形のパイプにケンパスを張った棚が二段、天井からぶら下ったチェーンに固定された通路から丸見えの寝台で

生活することになった。

出航日の昼食にでた尾頭付きの鯛以来缶詰以外の魚介・肉類とは縁が切れ、禁酒・禁煙(夜一時間以外)の艦内の食生活の

紹介をする。

先ず烹炊所は居住区の壁一枚隣で、小型ドラム缶状の電気釜二個、家庭用程度の流し台、その他が一坪弱の室に天井まで

所狭しと並んでいる。

二人も入れば身動きならない。

塚田利太郎一主曹の他一名で、回天十名、乗組員八十名の食事を担当している。

しかも、ほとんどの兵員は見張りや回天発進作業、その他の要員など二役も三役も受け持っている。

トップバッター五号艇の小生の発進係(回天を固縛してある鎖を艦内からハンドルを回して切り離し、発進さす係)、

云うならば俺をあの世に送る役目を兼ねているのが、江戸っ子で巻き舌の主計長の塚田主計兵曹である。

話を元に戻して、主食はゴム袋に入った真っ白い無洗米を水と電気釜に入れてスイッチON。

副食は、朝は釜の湯に洗面器程の缶詰のダシ入り味噌をドボン、乾燥ワカメか麩をパラパラで上り、

缶詰のタクアンかビン詰の福神漬かラツキョで終りである。

昼は、通路に二段に積んである木箱の牛肉大和煮缶詰と白菜の水煮を混ぜたオカズであり、

夕食は缶詰のハム・ソーセージと茄でた夏大根や玉ネギのサラダでマヨネーズがたっぷりかけてある。

少量で高カロリーが主眼である。

横須賀籍の艦で東北の兵隊ばかりで、湯飲みのお茶で濯いで食べている。

幸い都会育ちの小生は天下の珍味とばかり、バクバク食っていたが、何故か急激に食欲が減退してきた。

来る日も来る目も、南に向かって航海は続く、海水温度の上昇と艦内の機器の熱、汗臭い人間の熱で艦内温度は体温を超え、

湿度は百%に近い。

潜航時間は一目の三分の二以上の穴蔵住まいで、空気は汚れ酸欠状態の毎日である。

午後八時半やっと浮上、艦橋のハッチが解かれ主機関が起動すると、オゾンを含んだ夜の海風が一気に流れ込んでくる。

「生き返った」とは、正にこのことであろう。金魚の気持ちが良く解かる。

待ち兼ねた様に発令所に非番の者が集まる。

ブリキ缶が出される、約一時間、充電が始まるまでが愛煙家待望の喫煙タイムであり、ストレス解消時間である。

やがて夜食が出る。

缶詰のぜんざいや直径三十センチもある大型缶詰の餅を切って、茄で、黄な粉をまぶしたアベカワや海苔巻は、

一番の人気メニューである。

夜食の美味なのは、むしろ新鮮な海風のお陰であろう。

会敵予想海域到着の前夜、艦長の指示により搭乗員は一人ずつ交代で見張りをかねて、支給されたチョコレート(覚醒剤入りであった)

を舐めながら、初めて艦橋上部の見張り台に上り、「アッ!」と声を上げ目をみはった。

何んと三六〇度水平線まで、降るような満天の星空に息を呑んだ。

小学五年の頃、大阪市四ツ橋に新設された電気科学館屋上の東洋唯一のプラネタリュームで見た星座の数百倍の迫力である。

若干残光の残る水平線上空に南十字星が傾いて浮かんでいる。

艦首に当たる波涛は幾千万の夜光虫を発光させ、まるで豆電球の海をかきわけて進んでいるようだ。

一瞬新聞でも読めそうである。

見張りの役も忘れてロマンチックな光景にウットリ浸っていた。

是が戦場なのだろうか。死地に向かう自分が不思議に思える。

海風を精一杯吸い込み、煙草を一服、ホツとした途端「ジャーン」ベルの音と共に「潜航急げ」の口言下でハット我に返り、

ハッチに跳び込み、垂直のラッタルを滑り降り艦内に入る。

「アー矢っ張りここは戦場なのだ」。

電探が敵機を発見したのだった。

 

翌々日早朝「敵発見、回天戦、魚雷戦用意」で発令所に集合。

「タービン音にディーゼル音も混じる。感二!」

正に敵機動部隊だ、獲物に不足はない。続いて

「感三、左四十度、近ずく!」

カン高い声が聴音室から聞こえる。絶好の位置だ。

「搭乗員乗艇、発進用音急げ」

交通筒の入口で冷えたサイダー瓶を受け取り、塚田兵曹に「お世話になりました、行ってきまっさ」と二言云って乗艇、

発進準備をしてくれた整備の小島兵曹は「成功を祈ります」と言って下部ハッチを閉鎖した。

やがて「ザー」と、やけに大きな音と共に交通筒に注水された。

「アーこれで俺は、この世と縁が切れた」と少し淋しい気がして来た。

敵速、敵針、方位角等のデーターを電話で艦長より受け、発動桿を力一杯押すと、機関は快調に回転し始めた。

調圧(速)、調深のハンドルを握って、「発進」の命令を今や遅しと待っていたが、中々命令がない。

「まだか、まだか」と催促するも「暫く待て」の連発である。

サイダーを末期の水だと飲み、瞑想して逸る気持ちを押さえている内に、「荒天波浪のため観測困難、作戦中止、

搭乗員は艦内に戻れ」、体中の気力が一編に抜けてしまった。

発動桿を引いて機関を止め、排水された交通筒を逆戻り、タラップを降りた途端「よかったなぁ⊥と塚田兵曹が手を握った。

「何が良い事あるか」と思い、「又、行かしてもらいます、サイダーたのみます」と言ったが、

彼は「二度とやるもんか」と大きな声で言った。

彼と私は、その時全く反対の事を考え、言っていたのである。

戦後彼と会った時、「あのハンドルは何としても廻したくなかった。この手で一人の命を奪うと思ったら、如何に命令とはいえ、

廻さずに済ませたかった」と、しみじみ言っていた。

その思いは艦長自身も同様だったと、艦長夫人より戦後お聞きした。

尚、その六月四日は、一ケ月前に特別休暇で最後の別れとなった祖母が亡くなった目でもある。

あの世に行こうとした私の身代わりになってくれたものと思っている。

 

数日後の夜、五十隻ほどの敵輸送船団と遭遇した。艦長に今度こそ発進させてくれと申し入れたが、

「夜間でもあり、貨物船位に君達を死なせたくない、もっと大物の時はお願いする」と頑として聞き入れなかった。

そして通常魚雷を発射した。

幸い観測距離が大分違っていたが命中、バンザイと歓声が挙がった。

お返しが大変で、敵機敵艦の二百発以上の爆雷攻撃を受け、何度か「反撃するから出して呉れ」といったが断られた。

無音潜航、自動懸垂、半潜潜航等死力を尽くして操艦する艦長以下乗組員の努力に頭が下がった。

また直上を通過する敵駆逐艦の機関音、スクリュー音、爆雷の破裂音に頭を抱えた恐怖の瞬間や

艦が受けた振動、動揺、電灯の明滅、浸水応急作業などの苦い経験は、今も忘れることは出来ない。

その後、会敵の機会も無く、数日後、遂に帰投命令がでた。

期待を一身に負って「俺はヤルゾ」と光基地を出港したあの目の事を思うと、何とも気が重く、ニガイ思いを同僚とぶつけあった。

乗組員のウキウキした顔を見ると、ますます落ち込んでしまった。

 

六月二十六日無事?隣の平生基地に入港、回天を陸揚し入浴、呉に向け出港、

何のことは無い、今日は俺の十九歳の誕生日だったのだ。

この約一ケ月の航海中は、水の中で生活しながら洗面、入浴、洗濯は一切不可、防暑服の半パンツか褌一つの裸暮らしで、

自分の腕や脚を擦っているうちにアカ団子が数個出来上がった。

皆が同じ条件なので臭いとも臭うとも思はない、真に不潔極まりない生活であったが、不思議とノミもシラミも一匹もいない。

さすがの害虫も棲息し得ない程の高温多湿の劣悪極まる環境のお陰である。

洗腔剤と表示のあるガムを噛み、ビタミンCの錠剤を毎食とり、飲料水には強制的にみかんジュースが入っている。

一日中点けっぱなしの照明は、殆んどガラス管(蛍光灯)で、当時はかなり高価な品物のようであった。

これは電力消費と発熱の削減の為だとのことであった。

又、艦内の冷房や冷蔵庫のガスは米国製のフレオン(フロン・当時は国産できなかった様である)アンモニアは使えない。

空気の消費を節約する為、非番の者には「寝とけ」と再三言われた。

以上のような状況は、極端な物資欠乏の当時、缶詰とはいえ毎食のように肉類を食べ、ごろ寝とは、怠け者天国である。

しかし、肝心の太陽・窒・水のタダ同然の基本物質の不足では、如何なる生物も生きては行けないのではなかろうか。

これは、体験した者のみが理解できる「天地の広大無辺のおメグミ」であり、痛いほどタダの有難さを身をもって教えられた。

これは、生涯忘れられない貴重な経験であった。

 

主計長の塚田主計兵曹(右)

 

久保 吉輝

更新日:2007/10/13