回天特別攻撃隊 顕彰

関連慰霊碑

 

東郷神社

東京都渋谷区

  

潜水艦殉國碑

碑文

潜水艦勇士に捧ぐ

太平洋戦争中、百二十余隻の潜水艦と共に戦没された一万余人の乗員諸君。特殊潜航艇及び回天決死

隊諸君。また諸公試、演練に殉難された諸君。諸君の遺骨は海底深く沈んで之を回収する途がない。

しかし、それは国難に赴いた諸君の忠誠が、そのまま其戦場に在ることを意味する。民族の急を救うべく

戦った犠牲の精神は永えに其処に活きている。

残された潜水艦関係の吾等は、個人と法人と併せて幾千、常に諸君の英霊の坐する海底を見つめている。

願わくは日本国民の全部も、ありし日の諸君の勇姿と、奮戦激闘の光景と、護国の屍となった戦場とを緬想

して、敬弔の誠を伸ぶると共に、祖国再興の心の糧とすることを祈願して巳まない。

茲に曽ての戦友、潜水艦建造関係者外有志一同相計り、小碑を東郷神社の霊域に建立して諸君不滅の忠

魂に捧ぐ。

昭和三十三年五月二十五日

 

橿原神宮 若桜友苑

奈良県橿原市

  

第十三期海軍甲種飛行予科練習生 殉國之碑

碑文

海軍甲種飛行予科練習生とは、海軍航空戦力の増強を目的として、航空幹部を育成するため、昭和十二年

以来終戦まで、旧制中学高学年よりの志願者について選抜されし者にして、第一期生より十六期生まで、そ

の数十四万八千百十五名なり。

選抜されし練習生は、まず飛行予科練習生教程に於いて一般学と軍事学を修め、将来海軍航空士官として

の躾を第一とした。心身の練磨をはかり、次いで飛行技術習得のため飛行術練習生教程へと進み、しかる

後第一線実施部隊へと配属され、作戦航空部隊の一員として活躍せしものなり。

されど甲飛第十三期生二万八千百十一名は第二次世界大戦において、戦い我に利あらざる国家存亡の秋

学業をなげうちて土浦、三重、奈良、美保、松山、鹿児島の各航空隊に入隊し、落日迫る終戦時における

日米海軍のあらゆる配置の主幹要員たりき。

即ち、九三式中間練習機の特攻訓練を終えて出撃寸前にある者、人間爆弾「桜花」、ジェット特別機「橘花」

ロケット戦闘機「秋水」の搭乗員として出撃せし者。また、沖縄決戦において、「神風特別攻撃隊」(「第一第三

草薙隊」「第一魁隊」「第一第二八幡勤皇隊」「八幡尽忠隊」「八幡振武隊」「皇花隊」「白鷺赤忠隊」、「第一第

二勤皇白鷺隊」「第三正気隊」「琴平水心隊」「第四御楯隊」「一次〜五次白菊隊」「白鷺揚部隊」「十二航戦

水偵隊」「神雷部隊」)として活躍せし者等なり。

かくて、ある者は索敵中に、ある者は訓練中に、またある者は転進中に、あるいは病魔に蝕まれ壮進半ばに

して護国の神として散華せり。また想いを空に馳せつつ、あるいは人間魚雷「回天」(神潮特別攻撃隊、千早

隊、多聞隊、多々良隊、天武隊、金剛隊、白竜隊、轟隊、振武隊)として、あるいは特殊潜航艇「蛟竜」「海竜」

として、またあるいは水上特攻艇「震洋」(特別攻撃隊第二十、第二十二、第二十五、第三十四、第三十五、

第三十七、第三十八、第三十九、第百一震洋隊)として出撃し、華々しく体当りの末南海の底深く散華せり。

かくのごとく大空、水上、水中あるいは陸上と、各面からの特別攻撃に日本最後の国防戦力として奮戦し、不

滅の功績を残せり。

而してその戦没殉国者の数、甲飛予科練出身者六千数百名中、一千五名を数う。まさに甲飛予科連のうち、

最大の英霊たり。

修験発祥大峯山の麓、奈良県吉野郡天川村洞川の清流にありし青石を採石し、神武建国の地畝傍の森、橿

原神宮の聖域に、永遠の世界平和を念じつつ、散華せし戦友の氏名を録し、英魂の万古に安らかならんこと

を祈念しつつ、十三期生存者一同これを建つ。

昭和四十八年十一月十八日    松谷清逸謹書

 

大浦崎公園

広島県安芸郡音戸町

  

特攻基地大浦崎(P基地)の碑                                倉橋湾 .

碑文

昭和17年10月極秘裏に工場の建設が始められ、翌18年3月創業開始これが特殊潜航艇(甲標的)製作

専門の呉海軍工廠分工場であった。また時を同じうして搭乗員の養成が始められ、受講者は艇長、艇付、

合わせて2600名、内戦死者は439柱に及んだ。

当基地の任務は甲標的の生産、搭乗員の養成、特攻兵器の研究開発で、昭和20年になると甲標的丁型

(蛟龍)の完成をみ、一方回天(人間魚雷)も実用段階に達して、来るべき本土決戦に備えたが、同年8月

15日終戦を迎えて基地は廃止され、現在では平和な公園、町民いこいの場所となっている。

平成4年2月 建立

 

波多見八幡山神社

広島県安芸郡音戸町

  

嗚呼特殊潜航艇之碑                                 境内より倉橋湾

碑文

昭和十六年十二月太平洋に戦端開くや長躯してハワイ軍港に潜入 米艦隊主力を強襲して緒戦を飾れるは

我が特殊潜航艇甲標的なり即ち特別攻撃隊の初とす 次で西にマダガスカル 南はシドニーに遠征 英濠艦

隊を震撼せしめ全軍の士気大いに振う 更にキスカに ソロモンに転戦して戦局を支え 特運筒また前線の

補給に挺身す 時に部隊は基地をここ大浦崎に設け訓練また死生の間に進むも 戦勢ようやく利あらず敵軍

しきりに我が近海を侵す 我隊これを各地に迎え撃ち ミンダナオに 沖縄に蛟龍の戦果見るべきあり 回天

またこの地に発して奮迅し 海龍ともども本土決戦に備う 二十年八月遂に兵を収め戦没並びに殉職の英霊

三百余柱を数う 戦友ここに相計り その勇魂を仰慕し 特殊潜潜航の偉功をたたえて後世に伝う

 

大村湾 小串浦

長崎県東彼杵郡川棚町

  

  特攻殉国の碑                                   大村湾   

碑文

昭和十九年 日々悪化する太平洋戦争の戦局を挽回するため日本海軍は臨時魚雷艇訓練所を横須賀から

この地長崎県川棚町小串郷に移し魚雷艇隊の訓練を行った 

魚雷艇は魚雷攻撃を主とする高速艇で ペリリュー島の攻撃 硫黄島最後の撤収作戦など太平洋 印度洋に

おいて活躍した 更にこの訓練所は急迫した戦局に処して全国から自ら志願して集まった数万の若人を訓練し

て 震洋特別攻撃隊、伏龍特別攻撃隊を編成し また回天、蛟竜などの特攻隊員の練成を行った

震洋特別攻撃隊は爆薬を装着して敵艦に体当りする木造の小型高速艇で七千隻が西太平洋全域に配備され 

比国コレヒドール島沖で米国艦船四隻を撃破したほか 沖縄でも最も困難な状況のもとに敵の厳重なる警戒を

突破して特別攻撃を敢行した 伏竜特別攻撃隊は単身潜水し水中から攻撃する特攻隊で この地で訓練に励

んだ

今日焼土から蘇生した日本の復興と平和の姿を見るとき これひとえに卿等殉国の英霊の加護によるものと我

等は景仰する

ここに戦跡地コレヒドールと沖縄の石を併せて ゆかりのこの地に特攻殉国の碑を建立し 遠く南海の果に若き

生命を惜しみなく捧げられた卿等の崇高なる遺業をとこしえに顕彰する

昭和四十二年五月二十七日  有志一同 元隊員一同

 

江泊山

山口県防府市

  

特攻艦隊留魂碑                                  徳山湾 三田尻沖

碑文

母なる海の記

眼下の三田尻沖は曽て連合艦隊が度繁く終結した、旧海軍ゆかりの泊地である。

第二次大戦末期の昭和二十年四月六日、戦艦「大和」以下十隻からなる「海上特攻隊」は、沖縄に来攻した

連合国軍を迎え撃つべくこの母なる海を抜錨、翌七日奄美徳之島北方海域において五百余機の敵艦上機群

と戦い、第二艦隊司令長官伊藤整一大将以下三千七百二十八名の将兵が壮烈な戦死を遂げた。

この沖合一帯はまた「回天特攻」で戦没あるいは殉職した百三十八名の若人が大津島、光、平生をそれぞれ

基地として、日夜決死の体当り訓練に励んだ聖なる海である。

これらの人々の願いは自らの命に替えて祖国と同胞の恒久の安泰を購うことであった。大廈の傾覆は一木を

以て支うる能はず、戦局の挽回はついに成らなかったが、今日の日本が未曾有の平和と繁栄を築き得た根底

には、このように高貴な犠牲的精神と行動が在ったことを我々は深く心に銘記せねばならない。

平成五年四月

 

回天特攻隊

更新日:2011/12/03