仁科関夫

海軍少佐

略歴

大正12年 4月10日  滋賀県大津市出身

昭和16年12月 8日  ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年11月14日  海軍兵学校卒業(71期)

               戦艦「長門」乗り組み、乗艦実習

昭和18年 1月     航空母艦「瑞鳳」乗り組み

昭和18年 6月     潜水学校普通科学生に採用

昭和18年10月     特殊潜航艇「甲標的」第六期講習員としてP基地に着任

               黒木中尉(当時)らとともに人間魚雷構想を上申

昭和19年 9月 1日  回天大津島基地開隊

昭和19年11月 8日  菊水隊(伊47潜)として出撃/大津島

  

菊水隊出撃  決別の礼(左から二人目)

     菊水隊の寄せ書き

昭和19年11月20日  発進、米油漕艦「ミシシネワ」撃沈、戦没(享年21歳)/ウルシー環礁

  

米油槽艦「ミシシネワ」         及川古志郎軍令部総長より菊水隊に贈られた日本画「富士/横山大観」

 

回天特別攻撃隊 菊水隊

昭和19年11月16日早朝/偵察機「彩雲」報告

「ウルシー環礁の北に敵艦を含む艦艇約三十隻。中央錨地に少なくとも二船団

と思われる輸送船約百隻。南錨地を戦艦、空母を含む機動部隊らしき艦艇

約五十隻在泊。」

 

昭和19年11月19日/仁科中尉の日記

「潜望鏡偵察、午後一時頃接岸の予定なりしもリーフに当る波の音を聴音。

露頂観測せるにリーフまで二八〇〇メートル。ついで十一時露頂、搭乗員

観測。明らかに見えたる敵有力部隊の昼寝。見事轟沈、明朝を期す。」

 

昭和19年11月20日/仁科中尉の日記

「六尺褌で身を固め、日本刀をぶち込み、七生報国の白鉢巻を額に、黒木

少佐の遺影を胸ポケットに、右手には爆発棹、背には可愛い女の子の

り物のふとんを当て、いざ抜き放った日本刀、怒髪天を突き、神州の曙を

胸に、大元帥陛下の万歳を唱えて、全力三〇ノット、大型空母に体当り。」

 

写真提供:マイク・メアー氏(米国海軍歴史資料館所蔵)、情報仲介:小野正実氏

    

炎上するミシシネワ

 

ご遺族の戦後

他の隊員の遺族から「お前の息子があんな物を作ったから、うちの息子が死んだ」

とののしられ、かなり辛い思いで戦後を過ごされた由である。

 

貞祥寺

長野県佐久市

  

回天之碑                                         回天模型

碑文

昭和十九年 太平洋戦争年を重ねて苛烈となり 戦勢ようやく我に利あらざる時 憂国の至情に燃えて黒木

博司少佐  仁科関夫少佐は第一特別基地隊に在りて 前代未聞必死必殺の水中特攻兵器人間魚雷を完成

もって頽勢の挽回を計らんと「回天」と命名 徳山湾大津島に基地を定め 日夜一人一艦必殺の戦法 操縦

訓練に励む 黒木少佐は訓練に殉じたるも同年十一月回天特別攻撃隊菊水隊の先陣に立ちし仁科少佐以下

敵前進基地ウルシー パラオ コッスル水道 ホーランジア グアム アブラ港に また硫黄島 沖縄付近海域 

中西部太平洋上に 大津島 光 平生大神の各基地より出撃し敵艦に体当り攻撃を敢行せり

戦遂に利あらず昭和二十年八月 兵を収むるまで戦没並びに殉職搭乗員の英霊百五十余柱 帰らざる潜水

艦七隻 その乗員八百十余柱を数う 散華せし勇魂を迎慕し回天の偉業を後世に伝えんと 創始者仁科少佐

の出身地佐久に永遠の世界平和を念じつつ 長野県出身者戦没並びに殉職搭乗員 仁科関夫少佐 北村十

二郎少尉 中島健太郎大尉 宮澤一信中尉 の霊安からんことを祈念し 戦友相寄り「回天之碑」これを建つ

昭和五十一年六月六日  長野県回天会

 

※長野県佐久市は仁科少佐のご尊父の故郷

 

前山墓地

長野県佐久市

  

仁科少佐墓碑(右)とご尊父の墓碑                               墓碑背面  

 

回天特攻隊

更新日:2007/05/14