長崎縣護國神社

長崎県長崎市

 

 

 

長崎県傷痍軍人之碑

 

長崎県拓友連合会 旧満州国 拓魂

碑文

昭和初期五族共和国策遂行の先駆者として満洲の地に骨を埋めんと彼の地に渡りし長崎県出身開拓者2150有余名を

数うるも生死不明の者未にその数さだかならず

終戦後現地での無慙極りなき惨状を今こゝに語ずとも 満洲開拓史等の記録に雄弁に綴られ 実録筆舌に盡し難きもの

なり

今茲に生を得し者相語り関係多数の協賛を得て拓魂の碑を建立す

希は在天の御霊来りて之をうけ冥福あらんことを祈念す

昭和53年4月29日 長崎県拓友連合会

 

不二義勇隊開拓団  .

豊春義勇隊開拓団  .

日高義勇隊開拓団  .

山前義勇隊開拓団  .

鏡泊湖義勇隊開拓団 .

万宝義勇隊開拓団  .

八千穂ヶ丘義勇隊開拓団

新千穂義勇隊開拓  .

南英義勇隊開拓団  .

弥進義勇隊開拓団  .

圏泡義勇隊開拓団  .

広根義勇隊開拓団  .

伊和生義勇隊開拓団 .

当山中隊      .

豊里義勇隊開拓団  .

福田中隊      .

大通河開拓団    .

他長崎県出身開拓団 .

 

くらいど丸戦没者慰霊之碑

碑文

(前略)八隻の船団は三隻の海防艦護衛の下に 昭和二十年一月二十日門司港を出向す 途中

敵潜水艦の跳梁を○○ 黄海を経て大陸沿岸を南下せり 船脚の遅々たるなかにも将兵の士気

益々旺盛なり

斯くて台湾海峡を横断し 愈々基隆上陸まで三時間の目前にして上陸準備を整え将に朝食につ

かんとす そのとたんくらいど丸は突如敵潜水艦の魚雷二発の連続直撃を受け 忽ちにして危急

の事態に陥る 時に昭和二十年一月二十九日早暁午前六時三十分

その直撃弾による戦死傷者多数に上る 危ふく船体を離脱したる者は相互に呼応し 且つ負傷者

を激励しつつひたすら救助船を待つも折悪しく激浪逆巻き 五体も凍る寒気のため救助意の如く

ならず 多くの者は痛ましくも海中に没し去り その戦死者及び海没死亡者の合計一、一〇七人

に及ぶ(内船員五七人)

抑々戦闘に身命を賭する軍人として 又船と運命を共にせんと期する船員として 水漬く屍も厭わ

ずと雖も その志半ばにして 敵に一撃だに報ゆるに至らず 身を荒海の底に没す 無念の心情

誠に察するに余りあり

茲に生存の戦友及び有志相図り 各方面の支援を得て くらいど丸遭難戦没者の霊を慰め 同時

にその悲愴なる献身の事跡を顕彰し 世界人類の恒久平和を祈念して 再び斯かる惨事を繰り返

さざらんことを 後世に語り継ぐべくこの碑を建立せり

 

くらいど丸戦没者慰霊碑 建立記念樹

 

くらいど丸戦没者慰霊祭 記念樹

 

くらいど丸戦没者慰霊顕彰会 奉納参道舗装

 

天皇陛下・皇后陛下 御親拝記念碑

 

歌碑

碑文

神にます 父のおもかげ そのままに 悲しみこらえて 子らはのびゆく

 

母の像

 

長崎水交会之碑

碑文

明治五年に発足し、昭和二十年に消滅した栄ある大日本帝国海軍時代の将兵及び海軍生徒により水交会を結成し、

年二回会合して海軍時代の思い出を語り合った。

明治三十八年の日本海海戦の勝利の日から百年目にあたる平成十七年五月末をもって散会した。

帝国海軍の栄高なる精神を永久に伝えるため、本碑を建立するものである。

平成十七年五月二十七日建立

 

 

 

靖國の祈り

更新日:2012/01/15