伊豆山

 

興亜観音

静岡県熱海市

  

興亜観音堂

縁起

昭和12年7月、松井大将は支那事変の勃発に伴い上海派遣軍司令官を命ぜられて出征、呉淞上陸

から南京攻略まで指揮に当られた。

この激戦で日中両軍とも、多くの将兵の命が失われ、夥しい血潮が流された。

昭和15年、松井石根陸軍大将の発願により、支那事変て゜の日中両軍の戦没者平等に弔慰、供養

するために建立された。

しかし松井大将は戦後の軍事裁判でA級戦犯として裁かれ、昭和23年12月23日、巣鴨プリズンに

おいて刑場の露と消えた。

 

  

右:支那事変日本戦没者慰霊碑、左:支那事変中国戦没者慰霊碑              松井石根陸軍大将を祀る祭壇と遺影        

 

  

興亜観音堂内陣

 

      

興亜観音 扁額                                    松井大将の外套   

 

      

    殉国七士 処刑直前の揮毫                              松井大将揮毫 興亜観音

 

露立観音像

  

建立由来

日中戦争で激戦地となった大場鎮、南京の土を取り寄せ作成された。

観世音菩薩のまなざしは、遠く中国・南京の地に向けられている。

 

昭和殉難者の碑

  

大東亜戦争戦没将英霊菩提            大東亜戦殉国殉死一〇六八霊位供養             七士之碑      

七士之碑

A級戦犯として殉国刑死された七士は、横浜の久保山火葬場で荼毘に付された。

そのご遺骨は、地元興禅寺の市川伊雄和尚、東京裁判の弁護人を担当して三文字正平氏らの命がけの尽力で

確保され、密かに興亜観音に運ばれ埋葬された。

昭和34年、興亜観音奉賛会の主導で「七士之碑」建立が発願され、同年の秋に吉田 茂元首相の揮毫になる

碑が完成した。

昭和53年、三文字正平氏ら愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山に「殉国七士墓」を建立、興亜観音のご遺骨から

香盒一個分を分骨し、墓の下に収めた。

 

  

伊豆山から眺める熱海港

 

軍事裁判

更新日:2007/06/30