愛宕山

 

青松寺

東京都港区

肉弾三勇士三霊 …現在は江下武二一等兵(死後伍長)の像のみ残存

 

  

肉弾三勇士三霊

 

  

国体護持 孤忠留魂之碑

碑文

陸軍中佐 椎崎二郎、陸軍少佐 畑中健二、陸軍少佐 古賀秀正、陸軍大尉 上原重太郎

大東亜戦争に際し護るべからざる講和条約即ち国体護持の確認こそ日本国民の果すべき責

務なりと上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し大事然る従容自決す。

これ宮城事件なり。

その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく仰いで茲にこれを継述せんものとする。

 

故 市来・吉住両君の記念碑

 

  

故 市来・吉住両君の記念碑

碑文(表)

市来龍夫君と吉住留五郎君へ

独立は一民族のものならず 全人類のものなり

一九五八年二月十五日 東京にて

スカルノ

碑文(裏)

市来 龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生

吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生

両君は共に青春、恋を抱いてジャワに渡航力学 よくイ語の慈蕾を極め、相次いでインドネシアで

現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄

に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍

に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダン

ペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎

石となって散ず。

 

愛宕神社

東京都港区

殉皇十二烈士女之碑

 

  

   殉皇十二烈士女之碑                              尊攘義軍十烈士 自決の地

碑文

昭和二十年八月廟議降伏に決するや決起して内府木戸邸を襲ふ 転じて愛宕山に篭り所在の同志と呼応

天日を既墜に回さむとする者 即ち尊攘義軍十烈士

しかれども遂に二十二日午後六時 相擁して聖寿万歳とともに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 時俄に黒

風暴雨満山を蔽ふ

二十七日払暁 同じき処に座して二夫人亦従容後を遂ふ

忠霊芳魂 永遠に此処に眠る 遺烈万古尽くる時なからず

天なるや秋のこだまかとこしえに愛宕のやまの雄たけびのこゑ

 

日本赤十字社

東京都港区

  

殉職救護員慰霊碑

碑文

この慰霊碑及び救護婦立像は、日本赤十字社創立以来、戦地或いは災害の現場において救護活動

に従事し、このため殉職された救護員の方々の御霊の安からんことを願い、創立百周年事業の一環

として昭和52年に建立されたものです。

日本赤十字社

 

鎮魂の霊地

更新日:2007/05/08