亜細亜独立 インドネシア

 

インドネシア国際年表

慶長 1年 オランダがジャワに対して艦隊派遣を開始

慶長 7年 オランダがジャワに「東インド会社」を設立、植民地化を推進

天保 1年 オランダがジャワで強制栽培制度を実施

嘉永 2年 オランダがバリ島を植民地化

明治 6年 オランダがスマトラに侵攻

明治37年 オランダがスマトラ島を占領、「蘭領東インド」設立

昭和16年 日本が米英に宣戦布告

昭和17年 日本軍がジャワに侵攻、オランダ全面降伏

昭和18年 日本軍が祖国防衛義勇軍の養成を開始

昭和19年 小磯内閣がインドネシア独立の方針を発表

昭和20年 日本敗戦、インドネシア共和国独立宣言、英蘭と独立戦争が勃発

昭和24年 独立戦争に勝利、インドネシア共和国成立

 

インドネシア独立戦争

大東亜戦争の終戦直後の昭和20年 8月17日、インドネシアは独立を宣言した。イギリス軍の

支援を受けたオランダ軍が再びインドネシアを支配するべく進駐、インドネシアはオランタ軍と果

敢に戦い四年にわたる独立戦争での戦没者は八十万人に及んだ。

昭和24年 1月 9日、東部ジャワ・マラン近郊のタンペット村で、雨のように降り注ぐオランタ軍

の銃弾の前にひるむ戦友の勇気を奪い起すかのように、敵に向って駈け出した一人のインドネシ

ア戦士の頭部を数発の銃弾が貫いた。戦士の名前はアブドル・ラフマン、日本名を

市来龍夫といった

市来はインドネシアの独立を援助すると約束しながら敗北した日本政府に対して、郷里に彼の帰り

を待ち侍びる母と妻を思い切り、日本人を棄てる事で抗議しインドネシアの独立に生命を捧げた。

市来は吉住留五郎と共に東部日本人部隊の指揮官として、敵地工作を主とする謀略戦に当った。

後にスカルノ大統領は、市来龍夫、吉住留五郎を讃える一文を寄せている。

この独立戦争には約二千人の日本人が参加し約一千名が戦死、インドネシア各地の国立英雄基

地には苛烈な独立戦争に功労を立てて戦死した日本人英霊の墓も祀られている。そうした英霊に

対して日本政府からは何の手当ても為されていないが、インドネシア政府からは叙勲や恩給の支

給など丁重な敬意が寄せられている。

かつてスカルノ、スハルト大統領等は、来日のたびに独立戦争に参加した戦士達に面会を求め謝

意を表してきた。スハルトによって制定されたナラリア勲章も六名の日本人に授与されている。
 
  

ナラリア勲章                       カリバタ英雄墓地

 

青松寺

東京都港区

   

  

故 市来・吉住両君の記念碑

碑文(表)

市来龍夫君と吉住留五郎君へ

独立は一民族のものならず 全人類のものなり

一九五八年二月十五日 東京にて

スカルノ

 

碑文(裏)

市来 龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生

吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生

両君は共に青春、恋を抱いてジャワに渡航力学 よくイ語の慈蕾を極め、相次いでインドネシアで

現地の新聞記者となる。爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄追放の厄

に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネシアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍

に投ずるや共に軍参謀、指揮官となり、激闘、転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン・ダン

ペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎

石となって散ず。

 

市来龍夫 略歴

明治39年        熊本県出身

大正 3年        同郷人を頼ってスマトラ島へ渡航

昭和11年        ジャカルタの日蘭商業新聞に勤務

               その後、陸軍の宣伝班員としてジャワ派遣軍に加わる

               この間、オランダ植民地下の民族主義者と交流を深める

昭和20年 8月15日 敗戦、日本軍撤退後もインドネシアにとどまり独立戦争に参加

昭和24年 1月 9日 東部ジャワ・マラン近郊のタンペット村にて戦死(享年42歳)

 

吉住留五郎 略歴

明治44年        山形県出身

               ジャカルタの日蘭商業新聞で市来と知り合う

昭和19年        海軍武官府で民族主義運動工作に従事

昭和20年 8月15日 敗戦、市来とともにインドネシア独立戦争に加わる

昭和23年        戦病死

 

亜細亜独立

更新日:2004/04/24