---えどめぇるまがじん---

〜開かれた秘境への誘い〜
江戸老舗探訪記 その参「塩瀬総本家」(東京・明石町)

<取材・文:福島 朋子>


志ほせ3

 
 饅頭(まんじゅう)の起源には、諸説があるのですが、世がまだ南北朝の1349年(貞和5年)、中国大陸から渡ってきた一人の禅僧が、点心の饅頭(マントウ)をヒントに茶菓子として考案した、というのが最も有力な説のよう。この禅僧「林浄因」を始祖に持ち、650余年饅頭を作り続けているのが東京・明石町にある「塩瀬総本家」。
 今回は、家康に献上した逸品を今も変わらぬ味で伝える饅頭の老舗「塩瀬総本家」さんを訪ねてきました。


英子氏メイン
三十四代目店主 川島英子さん
「皆さん、もう塩瀬の味というと、きちんとしたイメージができてしまっているから。それを壊したり、算盤をはじくようなマネはできません」
新たな挑戦を続けながらも、老舗の味を守り続ける。
 

日本はじめて饅頭!!
 「『材料を落とすな、割り守れ』、父から嫌というほど聞かされましたから、味を変えようがないんですよ」
 と語るのは「塩瀬総本家」会長、三十四代当主の川島英子さん。塩瀬の味のこだわりとして、材料の質を落とすな、商品それぞれの材料の割合を守れという父上からの教えを詠うような口調で伝えてくれた。しかし、そのほがらかな語り口とは反対に三十四代という数字が、並々ならぬ「塩瀬総本家」の歴史の重みを感じさせる。江戸歌舞伎を創設したあの中村屋ですら、現在の中村勘三郎(中村勘九郎の父)でやっと十七代目であるのを考えると、塩瀬の「のれん」がどれほど長い間、時代時代の当主の努力によって守れられてきたかを感じずにはいられない。
 この「塩瀬総本家」の祖「林浄因」は、1349年、京都・建仁寺の禅師「龍山」が宋での修行を終えて帰国した際、弟子として日本に連れてきた人物。当時、東山文化が栄えていた京の都では、建仁寺などの禅寺において、上流階級の社交として「お茶会」が開かれていた。しかし、その頃日本にあった茶菓子は胡桃(くるみ)や栗などの木の実や干し柿といったもの。中国の豊かな食文化に接していた林浄因には、恐らくものたりなく感じられたのだろう。そこで、中国の饅頭(マントウ)をヒントに、本場では豚肉や野菜を詰めていた代わりに小豆(あずき)の餡を入れて売り出したのが、日本初の饅頭(まんじゅう)となったそうだ。
 その後、室町幕府八代将軍 足利義政直筆の「日本第一番 本饅頭所」の看板を授かり、時を経て、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康と時の権力者から愛されてきた。特に家康との関係は深く、家康が江戸に移ると同時に、この「塩瀬総本家」もそれまで店を構えていた京都から、江戸へと移ってきたほどだ。うーん、なんと錚々たる人物に愛されてきた「饅頭」なのだろう。一つの和菓子店の歴史に、これほど多くの大物の名が挙がるとは、圧巻である。

 
本饅頭中 家康に献上したという「本饅頭」
志ほせ餡 現在、一番の売れ筋の「志ほせ饅頭」
紅白中 「紅白薯蕷饅頭」紅饅頭の中身は白餡です
さわり 砂張で皮を練っています。これが職人技!
ヤマトイモ 大和芋をこうして手作業で剥いてゆく
皮には一切水が使われていない!?
 さてさて、家康に献上されたというその饅頭を実際にいただいてみよう。これは「本饅頭」と呼ばれるもので、小豆のこし餡に蜜づけした大納言を入れて、ごく薄い皮で包み、そのまま丁寧に蒸し上げた逸品である。長篠の戦いの折りに献上されたものであり、家康が、本饅頭を兜に盛って軍神に供え、勝利を祈願したという逸話から「兜饅頭」とも呼ばれている。大納言の力強さと小豆の繊細な香りが堪能できるシンプルな味わいだ。
 「ウチで使用する小豆は、小豆屋さんを介すのではなく、北海道から直接取り寄せています。1年おきくらいに、私が北海道に行って直接小豆の様子を見てくるの。小豆もね、お米と同じで、1年もの、2年もの、3年もの……とだんだん香りが減ってゆくの。だから塩瀬では北海道の良い畑で育った、その年にとれた1年ものの小豆しか使っていないんです」
 「材料を落とすな」、という教えが、ここでもしっかりと守られているのだ。
 そして、その心意気、塩瀬ならではの秘伝と職人技が最も色濃く反映されているのが、今や塩瀬の顔となっている「薯蕷(じょうよ)饅頭」である。「薯蕷」というのは、あまり聞き慣れない言葉だが、文字を見るとなんとなく想像がつくように、皮に芋を混ぜ込んだ、なんともいえない風味のある饅頭で、大和芋をすり下ろし、そこに上新粉を加え丹念に皮を練り上げ、中にこし餡を包んで蒸し上げてある。口に運ぶと、ふわっと大和芋の香りと風味が広がり、これが饅頭の皮だろうか? というくらいにモチモチした食感がある。それもそのはず、なんとこの皮には、水が一切使われていないのだ。大和芋の水分のみで上新粉を練りあげているという。しかもその配分はまったくの職人技。大和芋○○グラム、上新粉○○グラム、などという野暮なレシピは存在しない。「砂張(さわり)」と呼ばれる大きな木鉢に上新粉を敷き詰め、そこにすった大和芋をトロンと落とす。それを職人が少しずつ練り上げ、耳たぶより少しやわらかい硬さの皮に完成させてゆく。
 「薯蕷饅頭の秘伝は皮のこね方にあります。大和芋は季節によってねばり気や水気が違います。職人が手のひらでこねながら、感触をみて、その時々の芋を常に変わらぬ塩瀬の皮にしていくの。だから、機械になんかかけられないんですよ。とっても手間がかかるものなの」
 薯蕷饅頭と名を打った商品の中には、芋を粉末にし、水とこねて皮を作るところもあるそうだが、塩瀬ではもちろん、そんなことは考えたこともないという。なにしろ、「材料を落とすな、割り守れ」が今や家訓となって、日々伝えられているのだから。

10年では半人前、20年でやっと一人前の職人技
 この塩瀬饅頭、これまでの歴史を見てもらえばわかるように、上流階級にのみ許された高級菓子であった。今でこそ、有名デパートなどで手に入れられるようになったが、それはごく最近のこと。英子さんの代から始めた試みだったのだ。戦前、英子さんの父上(三十二代目)の代には、宮内庁や宮家、軍隊や官庁といったところからの注文販売が主であり、次の英子さんの母上の代では、法事や結婚式の引き出物としての受注のみ、つまり、小売はほとんど行われていなかった。
 「でもね、私の娘時分から、『宮家からいただいた塩瀬饅頭がおいしかったから』と、のし紙に書かれた住所を頼りに、お買い求めくださる方がいらっしゃったんですよ。だから、どうにか、味を落とさず、皆さんにもう少し広く知ってもらう方法はないかと考えていたんですね」
 そんな英子さんが社長職に就いてほどなく、銀座松屋から、リニューアルを期に出店のオファーが寄せられた。「店ざらしでお菓子は売らない」と父親が頑なに断り続けていたデパートへの出店だったが、悩みつつも一つの条件をつけて英子さんは引き受けることにする。
「私も、無理な注文をつけたもので、父が『饅頭は蒸したてを食べてもらいたい』と常々言っておりましたので、売り場に饅頭をふかすブースを設けてくれるのなら、と無理を承知で言ってみたんです。そうしたら、松屋さんが作ってくれちゃって」
 後に引けなくなった英子さんはこうして、初のデパート出店を行うことになった。
「もうね、大変な出費でした。その場で作ってふかすわけですから、半端なアルバイトにやらせるわけにはいかないでしょう。一人前の職人を一人、デパートに取られちゃうんだから(笑)」
 塩瀬の職人は、10年ではまだ半人前。20年でやっと一人前と認めてもらえるほど、高い技術が要求される。その職人をデパート出店のために突然、拘束されてしまうのだから、当時としては大変なことだったろう。それでも、味を落とさず、新たな挑戦をするためには、そのこだわりが必要だったのだ。

英子氏

技術を通して、心を伝える
 「時代に即した新しいこともしていかなければ、のれんは続かない。でも、新しいことをやるにしても、新しい商品を作るにしても、思いつきや、その場しのぎでは絶対にだめなんです。私たちには、技術を伝えていかなければならない責任があるのよ。
 日本の和菓子は、やっぱり、外国にはない独特のものじゃないですか。淡い味わい、四季を表現する色合い、そして形。それを作り上げる技術は一朝一夕でできるものじゃないでしょう。だから、技術を絶やしてしまったらいけないんです。私たちは技術を通して、心を伝えているんでしょうからね」
 塩瀬総本家の本店の奥には「浄心庵」と名付けられた「又隠(ゆういん)うつし」の茶室がある。菓子を求めにきたお客さんに、ちょっと腰をかけゆったりしてもらえる空間を提供したかったからだという。
 塩瀬の饅頭には、これまで上流階級の嗜好品として支持されてきた歴史がある。しかしそれは、決してブランドのみが求められていたのではないはずだ。しっかりとした本物の味を守り抜いてきたこと。そして、何よりも本物を守ろうとするその心意気が人々に届き、650年余りの長きにわたり、のれんを繋いでこられたのではないだろうか。
 今度、塩瀬のお饅頭を手に入れたら、友人が焼いてくれたとっておきの小皿に載せてみようと思う。普段、飲むことのない抹茶を見よう見まねでたててみようと思う。部屋もとんでもなく綺麗に掃除してしまったり、ちょっと窓の外を眺めて春の日差しを楽しんだりして。
 老舗の味の凄みというのは、もしかしたら、そんなちょっとした心豊かなひとときを与えてくれることにあるのかもしれない。



本饅頭2 薯蕷饅頭 夏すがた
本饅頭
 (250円【1ヶ】)
七代目「林宗二」が創案した本饅頭。またの名を「兜饅頭」とも呼ばれる。徳川家康に献上されたという饅頭がこちら。
薯蕷饅頭
 (志ほせ饅頭850円【9ヶ入り】
 /紅白薯蕷饅頭350円【1ヶ】)

「志ほせ」という焼き印が入った「志ほせ饅頭」は、三十二代が、現代人のニーズに合わせて大きさを小ぶりにして売り出したもの。もともとは紅白の薯蕷饅頭の大きさだったとか。きっと江戸の時代に将軍が口にしたのはこちらでしょう。ただし、素材はすべて同じ。大きい分、紅白薯蕷饅頭のほうが餡の味が強く出ている気がする。ちなみに、紅薯蕷饅頭の中身は白餡(いんげん豆)になっている。
夏すがた
 (300円/【1ヶ】)
英子さん考案の和菓子の風情を活かした涼しげなゼリー。実はこのゼリー、和菓子特有の寒天や葛(くず)といった素材を使用せず、ゼラチンを用いている。和菓子屋としては初の試みだったとか。中に金魚や紅葉などの色鮮やかなゼリーが浮かび、上から見ると、絵のような美しさ。この金魚や紅葉が沈まず美しく浮かぶように仕上げるには、2年もの試行錯誤があったらしい。ここにも、職人のこだわりが発揮されている。

店舗
 
「塩瀬総本家」
創業六百五十余年、日本初の饅頭屋として、古くは室町時代から、時の将軍、また宮家などに愛され続けてきた。
住所:東京都中央区明石町7-14
営業時間:午前10時〜午後7時(日曜・祝日休業)
電話番号:03-3541-0776(代)

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